26-2 : 無粋
まるで眼球に張り付いてしまったのではないかと思うほど固く閉じられた瞼がピクピクと震え、うっすらと目を開けたシェルミアの耳に、ゴーダのほっと溜め息を漏らす音が聞こえた。その気配を追いかけるように、地面に仰向けになっていたシェルミアが首と目を向ける。
「……貴公の願い、確かにここに果たしたぞ、シェルミア」
まだ朦朧としているシェルミアの意識に、暗黒騎士のその言葉は意味を結ぶところにまで至らなかったが、それでもその声が安堵をもたらすものであることだけは分かった。
“魔剣のゴーダ”は、岩場に腰を下ろして兜越しにシェルミアの顔に視線を送っている。暗黒色の甲冑には至る所に乾いた紫色の血が大きな染みのようにこびりついていて、それがこの場で起こったのであろう出来事の凄まじさを物語っていた。
全身に倦怠感が岩のようにのしかかり、指先1本動かすのも億劫に感じた。人の身を超越する禁呪を宿して赤く光っていた目からはもうその凶兆は消えていたが、その瞳に戻った碧は以前よりも随分濁っている。視界がぼやけているのは激しい疲労のせいだけではないのだろうと、シェルミアはまるで他人の容態を看るように、醒めた調子で頭の中で呟いた。
「本当に、無茶をするお姫様だ」
再び溜め息を漏らしながら、ゴーダが言葉を続ける。
「説教の1つも垂れたいところだが……今は絶対安静だ」
「……う……」
そういう訳にもいかないと、シェルミアが身体に鞭打ってむくりと上体を起こそうとする。
「――ゴーダの声が聞こえませんこと?」
「っ!?」
それまで“不毛の門”の乾いた岩々と、断崖絶壁に切り出された四角い空しか映っていなかったシェルミアの視界の中に、何の前触れもなく突然、“三つ瞳の魔女ローマリア”の姿があった。驚きで、思わず目が丸くなる。
「それとも、言葉の意味が分かった上で、それは聞けないとでも仰るのかしら?」
鼻先が触れそうなほどにずいと顔を近づけて、ローマリアが翡翠色の左の瞳でシェルミアの濁った碧い目を覗き込んだ。クスクスという嘲笑が目の前で聞こえ、魔女の目許が好奇にグニャリと三日月形に歪む。右の眼帯の下でもその目許が嘲笑うように捻れているのが、透けて見えるようだった。
「……小生意気な女には、躾をつけて差し上げましょうか……うふふっ」
魔女の両の口角が、ニタリと吊り上がる。女の目から見ても美しい顔立ちをしているローマリアの表情が狂的なものに塗り潰れていくのを眼前にして、シェルミアの背筋にゾクリと悪寒が走った。
「よせ、ローマリア」
魔女の背中に、暗黒騎士の静かな声が忠告するように言った。
「……。……ふぅん」
首だけを後ろに回したローマリアが、ゴーダをじっと見つめて気怠げな声を漏らす。魔女の細められた翡翠の瞳は吸い込まれそうなほどに澄んでいて、全てを見透かしているようにも見えた。
「……ええ、いいでしょう……貴方がそう仰るのなら……」
振り返っているローマリアの長い黒髪が首元から垂れ、シェルミアの顔を撫でる。左目だけをぐるりと回して姫騎士を見下ろした魔女の目は、恐ろしく冷たい色をしていた。
「彼がああ言っているように、貴女の身体には貴女が思っている以上に負荷がかかっていてよ? ほぉら……」
シェルミアの方を振り向き直しもせず、じろりと左目で流し見ながら、ローマリアが人差し指の先で姫騎士の額をこつんと突いた。
眼球そのものがぐるぐると回転して、脳が直接揺れているようだった。世界が猛烈な速度で転げ回り、地面に仰向けになっているはずの身体がまるで今にも崩れ落ちそうな岩場に面して危なげにしがみついているような、足元が竦む感覚に陥っていく。手のひらに脂汗が噴き出して、均衡を失った五感に翻弄されて思わずぎゅっと目を瞑る。激しい吐き気に襲われて、息をすることもできなかった。
「うぅ゛……っ!」
自分の呻き声すら頭にガンガンと響き渡り、生きた心地がしなかった。
「よせと言っているだろうに……」
ゴーダが溜め息混じりに、呆れたように言った。
「――せん」
激しい目眩に目を閉じ、腹の中をのたうち回る不快感に歯を食い縛りながら、シェルミアが絞り出すように言葉を口にする。
「シェルミア、もういい――」
「――よく、あり゛ません……!」
「……」
その声にゴーダは口を噤み、ローマリアはいつの間にか暗黒騎士の傍らに転位して面白くなさそうにそっぽを向いていた。
「……言葉が……見つかり、ま゛せん……っ!」
……。
「……何と、言えばいい゛のか……分かりません゛……!!」
……。
言葉がなかった。
喉が潰れてしまったわけでも、考えがまとまらないからでもない。
何と言えばいい。何を差し出せばいい。どんなに言葉を並べても、どんなに対価を考えても、何も思い浮かばなかった。
「1人で……背負ってみせると……覚悟、していたから゛……! もう、生きて帰ることはな゛いと、思っていたから……! ゴーダ卿……貴方が、来てくれるなん゛て……夢にも、見ていな゛かったから……っ!!」
一拍遅れて、胸の奥が熱くなる。“感謝”などという単語では、表現し尽くせなかった。この世のありとあらゆる文字をどう当て嵌めても、今私の中に湧き出ているこの感情に形を与えることはできないだろうと、シェルミアは思う。
胸に灯った熱が目許にせり上がってきて、涙を堪えるだけで精一杯だった。吐き気とは別の理由で喉が詰まったが、それでもシェルミアは声を絞り出し続ける。
「貴方に゛……! 何と言えば、いい゛のですか……っ! 何も……何も゛……! 思いつかな゛い……浮かんで、こない゛……!! 私の、中に゛……! こんなに……こん゛なにっ……伝えなければ、なら゛ない思いが、あるの゛に……!!」
声を上擦らせながら、この感情をどう伝えればいいのかと、シェルミアは悔しそうに拳を固く握りしめた。
「……」
苦しげに言葉を繋ぐシェルミアを見やりながら、腰を下ろしていたゴーダがむくりと立ち上がった。「ふふっ、傷はもうよろしくて?」と、からかうように漏らすローマリアに一瞥を向けながら、1歩2歩と進み出す。
「……そんなに私に言いたいことがあるのなら、もっとましになった身体と頭で整理してから改めて言いに来い……。悪いが貴公にばかり構っている暇はない……私にはまだ、先約があるのでね」
魔女の治療によって傷こそ塞がってはいたものの、暗黒騎士の足取りは重く、わずかにふらつきもしていた。身を翻し、横たわるシェルミアを背に、“不毛の門”の西側、“宵の国”へと続く道をゆくゴーダの遥か眼前から、騎馬の蹄の音が反響してくる。
濡れたように艶やかな毛をした黒馬の上には、1人の騎士の影があった。
ゴーダの姿を認めた黒馬が脚を止め、主を気遣うようにブルルと鼻を鳴らしてみせる。
黒馬に静かに歩み寄ったゴーダが、鞍の上に向けて刃を納めた“運命剣リーム”を片手で突き出した。
「……約束通り……預けていた私の鞘、返してもらうぞ……これと引き換えだ……受け取れ……」
ゴーダがそう言うが早いか、黒馬から飛び降りて右腕1本で抱えていた銘刀“蒼鬼”の鞘と“運命剣リーム”とを交換したエレンローズが、今にも泣き出してしまいそうな顔で暗黒騎士の横を通り過ぎて、シェルミアの下へと駆け寄っていく姿があった。
「……1人で背負ってみせるだと……? 自惚れるな……そんな主君思いの騎士を持ちながら、そんなこと、言ってやるな……」
手綱を持つまでもなくゴーダの隣に付いて歩き始めた黒馬を連れて、ゴーダが2人の人間の騎士と距離を空けていく。
「……うふふっ」
そんなやり取りを、ローマリアが1歩も動かず面白がるように見ていた。
「…………」
歩き去っていくゴーダが、背中に目でもついているように、背後に一瞥も送ることなく手だけを上げて指先で合図した。
「……アはっ」
それを見たローマリアが狂的に笑い、次の瞬間には両脚を揃えてゴーダの方を向いた姿勢で、魔女は黒馬の鞍の上に腰掛けていた。
「……嗚呼、何て不器用な男ですこと、ふふっ」
「黙れ……無粋だ……」
「あら、これでも一応褒めて差し上げていますのよ?」
からかうように、ローマリアがクスクスと笑った。
「……。……ほっとけ」
遠く背後で、誰の声とも分からない大きな泣き声が聞こえたが、それを振り返ろうとする者はどこにもいなかった。




