23-1 : 2人旅
がらり。と、灰になった薪が音を立てて崩れ、ゆらりと揺れた焚き火に混じって赤い火の粉がふわりと舞った。
遠くに、小川の流れる水音が微かに聞こえ、夜の水辺に集まった虫たちが無数の声で鳴いている。
“宵の国”を数日覆っていた厚い雨雲は嘘のように流れ消え、見上げる夜空には星明かりが満ちていた。
原生林を抜けた先は、それまでとは打って変わって背の低い木々がまばらに生えるだけの広大な平野だった。
地平の向こうから吹いてくるそよ風は夜の冷気を含んでひんやりとしていて、肩に何か羽織っていなければ肌寒いほどだった。
パチリと小さく爆ぜた火の粉が、灰色の瞳に映り込む。
膝を寄せて布に包まっているエレンローズが、無意識に“運命剣リーム”を抱き寄せた。焚き火と彼女の体温とが移って、その剣の鞘は人肌の熱を帯びている。彼女は甲冑を身につけておらず、代わりに麻で編まれた袖の長いシャツとズボンという出で立ちだった。
目が覚めてからしばらくの時間が経っていたが、エレンローズはその間片時も運命剣から手を離さなかった。正確に言えば、その剣が収まった鞘を肌身離さず抱き締めていた。
柄には、触れることができなかった。その剣を手放してはならないという強迫観念と、身体の芯に染み着いてしまった拒絶反応との間に挟まれて、エレンローズはただそうしていることしかできないでいた。
がらり。再び、燃え尽きた薪の1本が崩れ落ちる音がして、焚き火の炎がゆらりと揺れた。
不規則に揺れる炎の陰影に本来意味などなかったが、エレンローズの記憶と無意識がそこに幻影を浮かび上がらせる。
――カカカカッ! カカカカカカカッ!
炎の影に白骨化した頭骨が浮かび上がり、それが空虚な顎を打ち鳴らし、何もない眼窩の底から虚無そのものが覗き込んでくる。
――ひはははっ! ひははははっ!
悪魔のようにグニャリと歪んだ顔が、闘争と殺戮を求めて嗤いかけてくる。
――カカカカッ! 小娘ぇ……。
――ひははっ! エレンん……。
……。
身体が、震える。
――抜けい。
――抜けよぉ。
……。
呼吸が、できなかった。
――……抜かぬのか?
――……抜かねぇのかよぉ?
……。
頭からサァっと血の気が引いて、全身からヘタリと力が抜ける。
――ならば……。
――それならよぉ……。
……
……。
……。
――何も為さず、何にも成らず、ここでこのまま、無様に死ね。
……。
……。
……。
「――おい」
……。
「おい」
……。
「おい、どうした?」
エレンローズがその声を聞いてはっと我に返ると、その傍らには夜そのもののような黒い甲冑を纏った騎士の姿があった。
「酷い顔色をしているが……気分が悪いか?」
暗黒騎士“魔剣のゴーダ”のその言葉に、エレンローズが口を開く。
「…………」
そこまできて、エレンローズは口を噤み、ふるふると首を振った。
「……。そうか。なら、いい」
座り込んでいるエレンローズの顔を見下ろしていた視線を上げて、ゴーダが焚き火を挟んだ向かい側に腰を下ろす。
「ふぅっ。食糧の現地調達など、えらく久し振りでな。少々、手間取ってしまった」
そう言うゴーダの足下には、エレンローズの両手を広げたほどの大きさの川魚が何匹か、大きな葉の上に並べられていた。魚は採ったその場で処理されてきたらしく、腹が開かれ内臓が抜かれていた。
「生憎、調味料は持ち合わせていないが、すぐそこに香草が生えていた。まぁ、ないよりはましだろう」
焚き火の灯りの下で、ゴーダが処理した川魚に調達してきた手頃な木の枝を器用に刺し、香草を詰め、それを炎の前に並べて焼き始める。魚の身から湯気が立ち上り、川魚特有の泥臭い香りが漂いだして、やがて焼け目のついた皮の下に溜まった脂の弾けるパチパチという音が聞こえるようになる。
「……その様子では、まだ上手く喋ることができないようだな」
並べた魚の身が焦げ付かないよう、刺した枝をくるくると回しながら、ゴーダが落ち着いた調子で尋ねた。
「…………」
エレンローズは灯りをじっと見つめながら膝を堅く抱え込むばかりで、その問いに無言を返した。
「……。まぁ、経緯を詳しく聞こうとは思わんよ。そういう病があると聞いたことはある。黙秘している訳ではないということぐらいなら、私の目から見ても分かるからな――食うか?」
ほどよく火の通った1串を手にとって、ゴーダがエレンローズに向かってそれを勧めた。
「…………」
が、エレンローズは首を何度か横に振って、“いらない”と意思表示した。
「……ふむ。なら、私は勝手に頂くとしよう」
エレンローズの手の届く位置に魚を刺した枝をぶすりと突き立てて、両手の空いたゴーダが自分の顔に手をやり、それを持ち上げて兜を脱いだ。
「…………」
自分の分の焼き魚を手にしたゴーダが、ばくりとそれにかぶりつく。
「…………」
特に何か喋るというわけでもなく、もくもくと食糧を口に運んでいたゴーダだったが、焚き火を挟んだ向かいからこちらをじっと見ているエレンローズの視線が気にならないと言えば、それは嘘だった。
「……どうかしたか?」
「…………」
ゴーダの言葉に、返ってくる声はなかった。
――グゥゥ。
エレンローズの腹の鳴る音が、虫の鳴き声と焚き火の爆ぜる音しかない静寂の中で、やけに大きく聞こえた。
それを聞いたゴーダが口許をふっと緩めたのを見て、エレンローズは驚いたように目を丸くした。
「食え」
エレンローズに差し出して1度は拒否された魚をもう1度手にとって、ゴーダが腕を伸ばした。
「…………」
エレンローズの目が、迷ったように左右にきょろきょろと行き来する。
「食え、ほら」
魚の刺さった木の枝を掴んだ拳をずいと突き出し、ゴーダがそれをエレンローズの腕の中に押しつける。そこまできてようやく、彼女はおずおずと差し出された食べ物を受け取った。
「毒など入ってはおらんよ。今は無理にでも食っておけ。いらん世話かもしれんがな」
3匹目の焼き魚を口にしながら、ゴーダが素っ気ない口調で言った。
「ふむ……あと3、4匹多く採っておくべきだったな。今日はやたらと腹が減る」
そういうゴーダの左腕には、紫色の血が滲んだ包帯が巻かれていた。
「…………」
――東の四大主でも、そんな怪我、するんだ……。
手元の焼き魚に目をやりながら、エレンローズは何とはなしにそんなことを思っていた。
「…………」
恐る恐る、エレンローズが小口を開いて魚の肉を囓り取った。
食べるという行為を思い出すように、何度も何度も咀嚼する。喉は石が詰まりでもしたかのように食べ物を通さず、たったひと切れの肉片を飲み込むだけでも酷く時間がかかった。空っぽだった胃が捻れてキリキリと痛んだが、吐き出すことだけはやめようとエレンローズは口許を押さえてその吐き気を抑え込んだ。
「旨いか?」
ゆっくりと魚の身を口に入れるエレンローズを見やりながら、自分の分を食べ終えたゴーダが尋ねた。
「…………」
エレンローズが、ゆっくりと首を横に振った。
「だろうな。私も、不味いと思っていた」
焚き火の向こう側で、ゴーダが肩をすくめて見せた。
塩気のない、泥臭いだけの魚の肉だったが、それは“明けの国”でも何度か食べたことのある魚の味と同じだった。




