22-2 : まるで氷のような
「あーららぁ、なんつーざまだよぉ、エレンローズぅ……ひははっ」
大木の虚の中で、糸の切れた人形のようにぐったりとしているエレンローズを、目元を半月形に歪めたニールヴェルトが好奇の目で見つめている。
「死んだ魚の方が、まだマシな面してるぜぇ?」
ニールヴェルトの嘲笑う表情と声を間近で聞いても、エレンローズはぼんやりとしたまま全く反応しなかった。
「……あぁ? おぉい、聞こえてるかぁ? せっかく遙々迎えに来てやったんだからよぉ、無視はねぇぜぇ、なぁ?」
だらりと首を俯けたままこちらを見ようともしないエレンローズの様子にわずかに苛立ちながら、ニールヴェルトが女騎士の顎に手をやって顔を上げさせ、目と目を合わせながら言った。
「……?」
エレンローズの顔は、表情筋が弛緩して何の感情も浮かんでいなかったが、その場にいる男が誰なのか判別がついていないということだけは、その目を覗き込んだニールヴェルトにもはっきりと分かった。
「おい……おいおいおいィ、何だぁそりゃあ? 呆けてんじゃねぇぞコラぁ」
女騎士の酷い有様を目にして、ニールヴェルトがつまらなそうにエレンローズの頭を前後に揺らす。
「俺のこと忘れやがったのかぁ? ほら、俺だよぉ、エレンローズぅ……ニールヴェルトだよぉ」
「……ニール、ヴェルト……?」
「そぉだぁ、お前の大っ嫌いなぁ、ニールヴェルトの野郎だぜぇ? 思い出したかぁ? ひははっ」
「……生きて、たんだ……あんた……」
「ひははっ、お前と違ってぇ、この通りピンピンしてるぜぇ? 言っただろぉ? ほら、俺ぇ、強ぇからさぁ、ひはははっ」
愉快そうに嗤いながら捲し立てていたニールヴェルトが、エレンローズの顎をぐいと引き寄せて、鼻先が当たるほどに顔を近づけて、冷たい目と声で囁く。
「今、『死んでればよかったのに』って、思っただろぉ? エレンローズぅ……」
「……。別に……」
ぴくりとも表情を変えず、エレンローズが濁った目でニールヴェルトをじっと見返す。
「……別に……もう、どうでもいいよ、そんなこと……」
「あぁ……?……ちっ……」
感情のない短い反応しか返さないエレンローズを見て、ニールヴェルトが舌打ちをしながら引き寄せていた女騎士の顎から手を離した。半ば突き飛ばされるようになったエレンローズの身体が虚の中に倒れ込み、再びぐったりと脱力して動かなくなる。
「北の四大主に、1番イイとこ持ってかれちまったぁ……。俺ぁよぉ、この戦争で、四大主と殺り合う次に愉しみにしてたんだぜぇ……お前のことをぶっ壊すのをよぉ……。なのによぉ……何勝手に壊れてくれてんだぁ? エレンローズぅ……」
ニールヴェルトの声音には、苛立っている息遣いがあった。ぎょろりと見開かれた目には、獲物を横取りされた飢えた獣のような怒りの感情が浮き出ている。
「……俺はなぁ……エレンローズぅ……」
昂ぶった感情に声を震わせながら、狂騎士が虚の中に踏み入っていく。虚の中は人間2人が肩を並べて座り込めるほど広くはなく、ニールヴェルトがエレンローズを押し倒してその上に覆い被さると、そこは途端に窮屈な空間に変貌した。
「俺ぁよぉ、いつかお前をこうしてみたいと思ってたんだぁ……。全力のお前と1対1でヤりあってぇ、ねじ伏せたくて堪らなかったんだぜぇ……? お前の自信を粉々にへし折ってぇ、消えない傷をつけてやりてぇなぁってよぉ……」
エレンローズを組み伏せたまま、ニールヴェルトの伸ばした指先から、留め具の外れるパチンという音がする。甲冑の胸当てを引き剥がされ、無防備になった首に男の大きな右手が回されても、女騎士は無抵抗だった。
「……だから……これじゃあつまんねぇんだよぉ……!」
「……っ」
ニールヴェルトが右手に力を込めると、エレンローズの首が絞まり気道が塞がる感触があった。
「俺ぁ、自分より弱い奴を狩るのが好きだぁ……。自分が“狩られる側”だって理解して逃げ回る奴を、追いかけ回すのが大好きだぁ……。そういう奴らの“死にたくない”ってツラを見るのが、堪らなく好きだぁ……。だからよぉ、エレンローズぅ……お前みたいにぃ、殺されかけてんのに“もうどうでもいい”って顔をされるとなぁ、萎えんだよぉ……全っ然、興奮しねぇ……」
ギリッと歯噛みの音を立てたのは、ニールヴェルトの方だった。空いていた左手も右手に添えて、両手でエレンローズの首をゆっくりと締め上げていく。女騎士はその段になっても、狂騎士の手を引き剥がそうと爪を立てることはおろか、感情ひとつ顔に出すこともしなかった。
「……エレンん……この腕輪、何だか分かんだろぉ?」
窒息して半開きになった口の端に涎を滲ませながら、エレンローズの目がニールヴェルトの左腕にちらりと向けられる。その先には女騎士の双子の弟の腕輪が、曇天の弱い光を受けて鈍く煌めいていた。
――ああ、ロラン……。
女騎士の曇った瞳に生気が戻り、表情の消えた顔がぴくりと一瞬引き攣った。
――ロラン……死んじゃったんだ……。
エレンローズの弛緩していた右手がゆっくりと持ち上がり、背中に背負った“運命剣リーム”の柄にそれが伸びてゆく。
「ひははっ……そぉだぁ、エレンん……ロランの敵が取りてぇよなぁ? この腕輪、取り返してぇよなぁ?」
押し倒したエレンローズにのし掛かったまま、その様子を見ていたニールヴェルトが期待するような声音で言った。
「俺のことが憎いだろぉ、エレンん? 俺のこと、ぶっ殺したくなってきただろぉ?」
女騎士の首を絞める両手から、わずかに力が抜かれる。それは狩りの相手の反撃を促そうと、狂騎士が意図的にしていることだった。
エレンローズの右手が、運命剣の柄を握り締める。
「来いよぉ……来てくれよぉ……運命剣の力ぁ、俺にも見せてくれよ、なぁ……!」
……。
……。
……。
「……はっ……はっ……!」
女騎士の喉から、掠れた呼吸の大きな音が聞こえた。
「はぁっ……はっ……ふぅっ……ふぅっ……!」
女騎士の額に、脂汗が浮かび上がる。
エレンローズの息が詰まっているのは、ニールヴェルトに首を締め付けられているせいではなく、双子の弟の死を知ったからでもなかった。
「あぁ……?」
エレンローズの顔色がみるみる青くなっていくのを目にして、ニールヴェルトが怪訝な声を漏らす。狂騎士の両手は女騎士の反撃を期待する余り、とっくに気道を塞ぐのを止めていた。
にも拘わらず、エレンローズは呼吸ができず、ひゅーひゅーと空気の抜けるような過呼吸の音を立てている。
その首を締め付け息をできなくしているのは、エレンローズ自身だった。
“運命剣リーム”の柄を握った右手が、ガクガクと病的に震えていた。その剣を抜こうと手のひらが握り締められるたび、まるで氷の冷たさに耐えかねたようにそこから手が離れるということを、エレンローズは繰り返していた。
――ロランが……死んじゃった……死んじゃったよ……。
……。
――私の……たった1人の家族が……いなくなっちゃったよ……。
……。
――あの腕輪は、絶対に……絶対に、取り返さなくちゃ、いけないのに……。
……。
――……いけないのに……。
……。
――……どうしよう……。
……。
――……駄目だよ……。
……。
――……怖い……。
……。
――……私……もう……剣を抜けなく……なっちゃった……。
……。




