20-8 : 眠る少女
魔法院、“第6室”。真夜中の人気のない研究室の石床を、カツカツと靴底で踏み叩く音が響く。
「これさえ……これさえあれば、“彼女”を救えるよ……」
“第6室長”サリシスが、両腕の中にまるで赤子を扱うように、小さな小瓶を抱きかかえながら歩いていた。
その後ろで、コツン……コツンとゆっくりとした拍子で、杖の突かれる音が続く。
「ユミーリア……ユミーリア、待っていてくれ……すぐに、届ける……待っていてくれ……」
法務院文官、ボルキノフが杖にもたれかかりながら、片足を引きずってサリシスの後を追っていた。致死量に迫りかねない量の血液を抜き取った脚からは、針の刺し傷に巻かれた包帯に血の染みが広がっている。
暗闇の中を歩く2人の男の足下を照らすのは、サリシスが抱きかかえている小瓶の中で発光する紫色の光だった。その鮮やかな蛍光色の溶液の中には、何の変哲もない小さな黒い塊が浮いていた。
あらゆる損傷と異常を自己修復し、一切の欠陥を含むことなく存在し続ける“石の種”の神秘の力、その核を取り出すことに成功したサリシスとボルキノフは、運ぶ足の1歩1歩を踏みしめながら、“第6室”内の別の個室へと向かっていた。
サリシスが“石の種”の変質実験の為に“第6室”に個人研究室を設置したのが、およそ1年前。当時は“第6室”内に個人使用を目的とした個室はその研究室1つしかなかったが、今はもう1部屋、個人の為の部屋が作られていた。
サリシスとボルキノフが個人研究室を出て、“第6室”内を横切り辿り着いたその先が、目的の“もう1つの個室”だった。
その個室は扉の外観こそサリシスの研究室と同じ作りであったが、そこには何か、息の詰まるような重苦しい空気が染み込んでいるように思えた。
事実、それは錯覚などではなく、初めてそこを訪れた者でも感じられるほどの、はっきりとした重苦しさだった。
その息の詰まる感覚の正体は、匂いだった。
鼻を通る、消毒液の冷たい匂い。喉に染み着く、薬の苦い匂い。
そして、死を連想させる、病人の匂い。
「私が、開けよう……」
“石の種の核”を収めた小瓶を両腕に抱えているサリシスを退けるようにしながら、ボルキノフがふらつく足で前に出て、病室のドアノブに手をかけた。まるでそうすることが、父親の役目だとでも言うように。
――ガチャリ。
開けられた扉の向こうには、病室特有の停滞した空気が満ちていた。まるで流れることを止め、個体のように頑なにその場に留まり続け、入れ替えることもどこかへ吹き流すこともかなわない、それ自体が病そのものであるような、どうすることもできない淀んだ空気が、ベッドの上に横たわる1人の少女に絡みついて離れようとしないのだった。
「あぁ……ユミーリア……」
ボルキノフが、魂の抜けていくような弱々しい声で呟いた。
「娘の……ユミーリアの容態は、どうだろうか……?」
ボルキノフの消え入りそうな声が、病室の一角に据えられた看病人用の椅子に向けられる。
「な、何も……お、お変わりはあ、ありません」
灯りを灯していない病室の片隅で、椅子に腰掛け肩を縮めている小さな人影が、何度も言葉をどもらせながらボソボソと応えた。
フードを目深に被って目元を隠し、びくびくと緊張した様子で喋っているのは、古い魔法書のやりとりで“第8室長”ユミーリアと接することの多かった“第1室”の研究員、そばかすの小男だった。
「ず、ずっとね、眠ってお、おられました……」
暗闇の中にあってさえ、このそばかすの小男が顔を俯けてボルキノフたちから目を逸らしてぶつぶつと話しているのが、2人にははっきりと分かった。
他人から何かを頼まれれば断れず、何かを目撃したとしてもそれを言い触らす人脈もなく、ただ与えられた役目と居場所に根を張って、腐ることも変化することもなく、ただ漫然と同じ日々を繰り返す――そばかすの小男とは、そんな男だった。人畜無害という言葉にそのまま肉を与えたかのような、何もない男だった。
だからこそ、ボルキノフとサリシスは、このそばかすの小男にユミーリアの看病を任せていたのだった。何もせず、何もできず、ただ病に伏した娘の容態に変化がないかということだけを見守り続ける。そんな機械のような役目を果たす存在を、2人は求めたのだった。
これまでの準備を、他の誰の目にも耳にも触れさせない為に。これから起きることを、誰の口からも漏らせない為に。
ボルキノフが病床を覗き込み、眠っているユミーリアの額にかかる長く伸びた前髪をそっとどかした。
月明かりとサリシスの抱えた小瓶の発光に照らし出されるユミーリアの顔はとても穏やかで、それはひっそりと幸福な眠りに就いている少女の寝顔そのものだった。
「本当に……ただ、眠っているようにしか見えないね、ボルキノフ……」
病床の横に膝を突いて、娘の冷たく白い頬を愛おしそうに指先で撫でるボルキノフを背後から見守りながら、サリシスが静かに言った。
「肩を揺すれば、今にも目を開けてくれそうなのに……」
「……妻も……末期はこうだった……。頬も唇も、血色はとても良いのに、ずっと眠り続けて……」
ボルキノフが、眠っているユミーリアの口許にそっと手のひらを近づける。
「少しずつ、呼吸が深く長くなっていって……眠り始めてから1か月後に、こうやってどれだけ次の呼吸を確かめようと待ち続けても、2度と息をしなくなって……」
「……」
「あぁ、大丈夫……まだ、大丈夫だ……とても弱くゆっくりとだが、ユミーリアはまだ息をしている……生きてくれている……」
娘の呼吸を確認したボルキノフが、ほっとするように、泣き崩れそうになりながら、震える声で呟いた。
「今、助けるからな、ユミーリア……目を覚ましてくれ……逝かないでくれ……まだ、母の所には……私を、独りにしないでくれ……置いていかないでくれ……ユミーリア……」
縋れるもの全てに縋り付くように、眠り続ける娘の小さな手を握り締めて、ボルキノフは人目をはばからずに涙を流した。
その背後で、歯を食いしばり抱えた小瓶を強く握って指先を白くしているサリシスがどんな表情を浮かべていたのか、ボルキノフも、そばかすの小男も、誰も気づかなかった。
「 (……独りにされたのは……置いていかれたのは……僕の方だ……) 」
「……? ……サリシス? 何か言ったか……?」
涙を浮かべたボルキノフが振り返ると、そこには“狐目のサリシス”と呼ばれた男の、感情を読ませない顔があった。
「……何でもないよ、ボルキノフ……」
そしてボルキノフの隣に立ち、ユミーリアの静かな寝顔を見やりながら、サリシスがにこりと口許を緩めた。
「さあ、“彼女”に、これを……」
小瓶の封が開けられ、紫色の溶液と供に小さな“石の種の核”がグラスへと注がれる。
「さあ……」
グラスを差し出したサリシスの目をじっと見返して、ボルキノフがこくりと静かに頷いた。
父が、眠り続ける娘の上体を抱き起こす。ユミーリアのふわりとした軽すぎる身体の感触を腕の中に抱いて、ボルキノフは堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「……ユミーリア……」
娘の伸びた髪をよけ、顎先に手をやり、小さな口を開かせる。
「もう1度……」
サリシスから受け取ったグラスを娘の口にやり、ボルキノフが大きく息を吸い込んだ。
「もう、1度……笑っておくれ……愛しい娘よ……」
そして父が、グラスの中身を娘の口の中へゆっくりと傾けていった。
……。
……。
……。
――ゴクリ。
慎重に、ゆっくりと注がれた“石の種の核”が、娘の喉を下っていった。
……。
……。
……。
「……サリシス……」
涙で目を充血させたボルキノフが、“第6室長”を振り返った。
「これで……良いんだな? これで、娘は……ユミーリアは……」
その問いかけに、サリシスは糸目の切れ目から瞳を覗かせて、無言で頷き返すだけだった。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
「……お、とう、さま……?」
……。
……。
……。




