20-1 : “狐目のサリシス”
――“明けの国”。王都。法務院。
とっぷりと陽の暮れた執務室の中で、ぎしりと椅子の軋む音があった。
「……うぅむ……」
背もたれに身体を預け、背中を反らせて筋を伸ばしながら椅子に座っている人影が、天井を見上げながら目元を押さえる仕草をする。
手狭な執務室の中には部屋の小ささに対して不釣り合いに大きな書棚が据えられていて、無数の製本された書物と巻物、綴じられていない羊皮紙の積み上がった山がそこから溢れ出てきていた。
「こんな日暮れ時に灯りも灯さず、よくも仕事なんかやれるものだね」
ふと、わずかでも疲労を取ろうと、しばしの間 眼を閉じていた人影の耳に、そんな声が届いた。
「そんなことだから、万年身体を懲り固めてしまうんだよ、君は」
「……サリシス。ここに来るときはノックをするようにと、毎度言っているではないか」
「ん? ああ、これは失礼――これでいいかい?」
開け放した扉に肩からもたれかかりながら、サリシスと呼ばれた男が蜥蜴の彫刻の叩き金に指を掛け、それをコンコンと打ち鳴らしながら悪戯っぽく言った。
「やあ、こんばんは、ボルキノフ」
サリシスは鮮やかな発色の青いローブを着ていて、女性のように長く伸ばされた髪の毛は青みがかった白髪をしていた。歳は30を越えているにも関わらず、その顔には幼い子供のような気配が時折垣間見える。それは恐らく、血色の良い肌と、掴み所のない砕けた口調と、相手に真意を読み取らせない細い糸目のせいだった。
「そういうことではないのだが……まぁ、よしとしよう……」
ボルキノフと呼び返された男が、わずかに確保された机の上の作業空間に両肘を突いて、うぅむと頭を抱えるように低く呟いた。
サリシスよりも幾らか歳を重ねているボルキノフは、きっちりと着込まれた文官の装束を着ており、灰色の髪の毛に整髪油を塗りつけて、それを頭の後ろに向けて寝かしつけている。眉間の皺と無意識に口から零れる溜め息、そして疲れた表情のせいで年齢以上に貫禄を帯びていることが、サリシスとは正反対だった。
「今は仕事中なのだ……勤務中にここに来ることについては、もう少し気を遣ってくれるとありがたいのだが」
「そうかい? なるほど、善処するよ」
ボルキノフが苦言を漏らすと、サリシスは飄々とそれを受け流すように言った。
「いやはや、しかし……また書類の山が増えたんじゃないかい? もっと広い部屋に移らないと、紙束で溺れてしまいそうだ」
半分は感心するように、もう半分は呆れるように、書物と羊皮紙の山で埋め尽くされた執務室の中を見渡しながらサリシスが呟いた。
「新たな王城も法務院も、建設の真っ最中だからな……どこも幾ら人手があっても足りておらんのだよ。ここは古くは宰相に就いた者の書斎として使われていたこともあったらしい。臨時にあてがわれたとはいえ、他と比べてれば寧ろ広い方だ。私には勿体ないぐらいだよ」
うぅむと溜め息を漏らしながら、ボルキノフがサリシスの目線を追いながら言った。
「なるほど、優秀な文官殿はこうして由緒ある密室に押し込められ、自分の吐き出す紙の山に埋まっていく訳だ。まるで蚕か何かみたいだね。それならそこから宰相が羽化するのかな?」
「何を馬鹿なことを」
「おや? 僕は割と真面目な話をしているつもりだけれどね」
サリシスがどこまで本気なのか分からない口調で首を傾げてみせ、細い糸目に隠れた瞳で執務机に腰掛けるボルキノフをじっと見た。
「お前が真面目な話? それこそ何かの冗談だろう」
肩を上げているサリシスを見返しながら、ボルキノフが困ったように口許を緩める。
「あんまりにもお前が周りを煙に巻くものだから、一部の人間はお前のことを“狐目のサリシス”と呼んでいるぞ」
「おやおや、僕にもとうとう二つ名がついたのか、これは光栄だね。知ってるかい? 狐って奴はね、人に化ける魔法が使えるそうだよ。そうやって人里に降りてきて、悪戯をしてコンコン笑うんだそうだ」
そう言ってサリシスは、はぐらかすようににこりと笑った。
「全くお前という奴は……“魔法院第6室長”の肩書きが泣いているぞ」
「そんなものは泣かせておけばいいのさ。虫除けぐらいにはなるだろ?」
「本当に口が減らないな……」
「でないと上の連中が面倒な昇進をまた押しつけてくるからね。僕はそんなに御立派な地位だの名誉だのに興味はないんだ。だから何というか、こうしてることが僕にとっての保身なわけだ、コンコン」
謹厳実直という言葉を体現しているかのようなボルキノフと、ゆらゆらと長い尾を風の吹くままに揺らす狐のように何を考えているのか分からないサリシス。一見相容れないような性格をした2人の間には、しかし他人が入り込むことのできない互いへの理解と信頼が漂っていた。
サリシスのペースに飲まれて、とりとめのない会話に没頭してしまっている自分に気がついたボルキノフが、うぅむと何度目かの深い溜め息をついて背筋を伸ばした。
「……それで? 私の“仕事部屋”に何の用かね、サリシス?」
“仕事部屋”という部分を強調させながら、サリシスの術中に嵌まるまいと、ボルキノフが自らを律するように硬い口調で言った。
「おっと、そうだったそうだった」
サリシスがわざとらしく、何かを思い出したというふうに手を叩いて、開け放たれた執務室の扉の外に向かって、そこにいる誰かに向けて口を開いた。
「すまないね、ついつい長話になってしまった。君の父上はとてもからかい甲斐のある人だからね。さあ、そんなところに立ってないで、こっちにおいで」
ボルキノフの視界に、扉の外にいる人物を手招きしているサリシスの姿が映る。
そしてボルキノフには、目の前にいるサリシスの姿よりも遙かに鮮明に、扉の外にいるのであろうまだ見ぬその人影の容姿を脳裏に思い浮かべることができた。
息の詰まりそうな書類仕事で硬い棘のようになっていた心が、ゆっくりとほぐれていく感覚があった。
……。
……。
……。
「お父様」
か弱い小動物のような、ともすると怯えているようにも聞こえる柔らかい声が聞こえた。それと同時に、その声の主がサリシスに導かれるように、執務室の中へと足を踏み入れる。
控えめな色合いの緑のローブに、緩やかに波打つ癖のついた栗色の髪。そして父親譲りと分かる、縁のない眼鏡の掛けられた、アメシストのような淡い紫色をした瞳――。
「――ユミーリア」
“明けの国”に仕える文官の顔から、父親の顔に変わったボルキノフが、穏やかな声で、16歳の誕生日を迎えたばかりの娘の名を呼んだ。
「彼女がどうしても、君の所へ連れて行けと言って聞かなくてね。“第8室”が誇る才媛、ユミーリア女史の頼みとあっては、このサリシス、“第6室長”の名誉に賭けて、たとえ火の中水の中、お連れしないわけにはいかないというものだよ」
サリシスが訳知り顔で、糸目と口許を緩めてニコニコと笑いながら言った。
「サ、サリシス様っ……! 私、そんな無理なお願いなんてしてません……!」
サリシスの言葉に慌てて目を丸くして、ユミーリアが恥ずかしそうに顔の前で手を振って否定の仕草をとった。
「何を言ってるんだい。“それ”を見せつけられながら目の前でオドオドされることほど強烈なお願いのされ方なんて、そうそうないよ」
ユミーリアの手元を指差しながら笑うサリシスの顔は、まるで無垢な少年のようだった。
「か、からかわないで下さいっ。サリシス様」
ぷくりと頬を膨らませて、ユミーリアが言い返す。
「サリシス、余りからかわないでやってくれ。娘も多忙なのだから――」
「全く、君らという奴らは……」
ユミーリアとボルキノフの親娘に挟まれる形でその場に立っていたサリシスが、両者の言葉に被せて口を開いた。
サリシスが、ボルキノフの顔をびしりと指さす。
「ボルキノフ、君、最後に陽が沈むより早く自分の家に帰ったのはいつのことだ?」
反対方向に向き直ったサリシスが、問いかけるようにユミーリアの目を覗き込む。
「ユミーリア君、君が研究室に寝泊まりしだしてから、今日で何日目だい?」
そして親娘の間に立っているサリシスが、わざとらしく頭上に手を伸ばし、舞台役者のように振る舞い始める。
「おお、何ということだ。1つ屋根の下に暮らす親娘とあろうものが、これではまるですれ違いじゃないか。君ら、自分たちの共通の友人である僕がその間に挟まれて、一体どれだけそれを気に病んでいるか分かっているのかい?」
三文芝居のように大げさに目元を手で覆う仕草をしつつ、サリシスが続ける。
「ボルキノフ、ユミーリア君はね、文官の職務に忙殺されている君が不摂生をしているのではないかと心配して、寝る間を惜しんでお弁当なんてものを作ってきたのだよ! しかもだ、そこまでやっておきながら、父親の邪魔はしたくないと手渡すのを迷っていたのだ! 私の目の前で! そんなものを見せつけられて、私にどうしろというんだい? そうさ、ボルキノフ、君の仕事部屋にユミーリア君をしょっ引いてくる以外に、選択肢なんてあり得ないじゃないか……さぁ」
さあ私の役目は果たしたぞと言わんばかりに、サリシスが深くお辞儀をして、その上で親娘の目が合った。
……。
……。
……。
「……お、お父様っ」
“魔法院第6室長”にそこまでお膳立てをされてはもう引き返せないと意を決して、ユミーリアが沈黙を破る。
「えぇと……お昼時に持って行こうと思っていて……その……わ、渡しそびれてしまって……ど、どうぞっ」
眼鏡の奥で恥ずかしそうに硬く目を閉じたユミーリアがずいっと差し出した両手には、小ぶりな四角いバスケットが乗っていた。
「ユミーリア……私の為に……?」
ボルキノフの声音は普段のものと違いがなかったが、その文官の目元が思わず緩んでいるのをサリシスは見逃さなかった。
「……」
娘の差し出したバスケットを、父親がそっと無言で受け取る。
「ありがとう、ユミーリア……とても嬉しいよ」
そしてそれから一拍の間を置いて上げられたユミーリアの顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「はい……っ」
――。
――。
――。
「いやはや、ユミーリア君は本当に、父親思いの良い娘さんじゃないか」
満ち足りた笑顔で去っていったユミーリアの気配を追うように、執務室の扉を見つめながらサリシスが零した。
「家庭を顧みない私のような人間を父に持ちながら、よく曲がることなく素直に育ってくれたと思う……」
サリシスの背後で、ボルキノフが噛み締めるように言うのが聞こえた。
ユミーリアから手渡されたバスケットの中身――麦のパンに肉と卵を挟んだ愛娘手製の料理を、ボルキノフがむしゃりと口に運ぶ気配があった。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……ただ」
「何だい?」
一口囓ったパンと肉と卵がゴクリと胃に下るのを待ってから、ボルキノフが沈黙を破る。
「ただ、娘は……ユミーリアは……魔法以外のことが、てんで不得手でな……。どうやら、塩と砂糖……それに香味油を何かと間違えて……うぅむ、何だこれは……まさか、香水……?」
娘から孝行を受けたばかりの父親は、そうしてどんな顔をすればいいのだろうかと、頭を抱えているのだった。
「ふぅん、どれどれ」
その一口目で手を止め、ぎゅっと目を瞑り、眉間に皺を寄せてうぅむと悩ましげに唸っているボルキノフの手から、サリシスがユミーリアの手料理をひょいと摘まみ上げる。
そしてボルキノフが制止するより早く、サリシスは半分以上食べ残されていたそれを口いっぱいに頬張っていた。
……。
……。
……。
「――うん、旨いじゃないか」
瞳の隠れた糸目をにこりとさせながら、サリシスが言った。
「……」
ボルキノフはただ唖然となって、ぽかんと口を開けることしかできないでいた。
「ん? どうしたんだい? 食欲がないのなら、残りも僕がもらってしまうよ? 傷んでしまっては勿体ないからね」
執務机の上に置かれたバスケットを手に取りながら、サリシスが悪戯っぽく言う。そしてその中から取り出した2切れ目を口に運び、旨い旨いと呟きながら、ニコニコと笑うのだった。
「……サリシス……」
「ん? 何だい、ボルキノフ?」
「お前という奴は……どこまでが本気で、どこからが嘘なのだ……?」
「はて? 何のことを言っているのかな?」
“魔法院第6室長”のことを、“狐目のサリシス”と呼んでいる人間の気持ちが、そのときのボルキノフには痛いほどよく分かった。




