19-14 : 憐れな無形
「貴様っ……これは…… 一体……っ」
「まだ抗うか。それとも私の言葉を聞いていなかったか? ならばもう1度だけ命じよう……」
王子が、巨躯の魔族兵の太い首に手を伸ばし、耳元に顔を近づけて、その言葉を再び口にする。
「我が軍門に、下れ。“宵の国”の兵どもよ」
……。
……。
……。
――ズチャリ。
絡みついていた無形の物体が薄い皮膜の形に伸び広がって、腕の骨肉をすりつぶした魔族兵の全身をばくりと包み込んだ。
「モゴッ……! ムグゥッ!」
皮膜に飲み込まれた内側で、魔族兵がもがき叫ぶ気配がする。
「ゴブッ……ムゴッ、ゴボッ……!」
始めの内、魔族兵が暴れ回るのに合わせて皮膜が激しく縦横に伸び変形することが続いたが、それも長くは続かなかった。無形の物体に取り込まれた巨躯の魔族兵はあっという間に衰弱していき、ぱたりと抵抗を止めてから皮膜越しのその輪郭がグズグズに崩れていき、“それ”が甲冑ごと中身を消化して元の大きさに縮むまでに、大した時間はかからなかった。
「この私に、手間をかけさせるな。雑兵風情が……」
巨躯の魔族兵を喰い尽くした無形の物体がズチャリと粘ついた音を立てて下がり、松明の灯りも星の光も届かない闇の中へと姿を消す。その異様な光景を前に、残りの魔族兵たちが1歩後退った。
「理解したか?」
自分の背丈を遙かに超える30人弱の魔族兵たちをずらりと見渡しながら、アランゲイルが感情のない声で言った。
「これは決定事項である。貴様等に拒否権はない。魔族軍よ、我が僕となれ」
三度に亘ってそう命じる王子は、松明と星明かりが注ぐ淡い光の外周部、全てを飲み込む闇夜の境界に立ったまま、その影の中に身を隠すことも、退いた魔族兵たちに歩き迫ることもしなかった。
「私の言葉に、従え……」
……。
……。
……。
そして、服従の礼もなく、拒絶の言葉もなく、ぐっと踏み込まれ大地を蹴る音だけが、全てを物語った。
……。
……。
……。
切り込んだ魔族兵たちの目に映った人の王の子の顔に、ニィっと歪んだ嗤いが浮かんだように見えたのは、わずかな明かりの見せた幻覚だったのか、あるいは――。
ズチャリ。と、再び“それ”の這いずる音がして、一斉に斬りかかった魔族兵たちを迎え撃った。
大半の魔族兵たちは、生暖かく弾力性のある固まった油のような感触に激しく殴打され、全身の勢いを相殺された上に後方へ吹き飛ばされた。
「むぅ……っ! “奴”は1体ではなかったか……抜かった……!」
数人の同胞が“それ”に纏わり付かれ、最初の1人目と同じように餌食とされていくのを見やりながら、魔族兵がギリっと歯噛みした。
「ふん、こんな無様な畜生がそう何匹もいてたまるものか……」
魔族兵の零した言葉を、アランゲイルが否定した。そこには自分に牙を剥いた魔族に対する怒りが当然のようにあったが、それとは別に、背後で這いずり回っている“それ”に対する嫌悪も含まれていた。
……メシリ。
……バキリ。
……ピシッ、バリン。
アランゲイルの背後、夜の闇の中で、木材が軋み折れ、ガラスが割れ散る音がした。その音は1度きりには留まらず、何度も何度も繰り返され、大きな構造物が崩れていく様を容易に想像させた。
「こんな醜いものは、たとえ1体でも我慢ならんというものだ……」
吐き捨てるようにそう言いながら闇の中へと振り返った王子の鼻先で、ボゴンっというくぐもった破裂音とともに砕けた木片とガラス片が飛んでいった。
――ズチャリ。
一際大きな這いずる音が聞こえ、闇の中に潜み続けていた“それ”が星明かりの下に姿を現す。
……。
……。
……。
「なん……だ……これは……」
“それ”の全貌を目の当たりにした巨躯の魔族兵たちが、思わず個々にそう呟いた。
……。
……。
……。
ズチャリ。
それは、醜くブヨブヨに膨れあがった、直径5メートルほどの水母のような物体だった。
骨格を持たない軟体質のみで構成されている“それ”は、自重を支える能力を持たず、肥大した自身の重みでベチャリと潰れ、割れた卵の中身のように半球状に伸びている。
“それ”は水母に似てこそいたが、全体が不透明な組織でできていて、表面の色は真紅をしていた。目を凝らしてよく見ると、“それ”自体が肥え太り原型を失った心臓のようにドクドクと脈動しているのが見て取れた。軟体質の身体は無形ゆえに様々な形状に変形できるようだったが、時折何かを思い出したように、何かの発作を起こしたように触手のようなものをあちこちから伸ばしては縮める動作を繰り返しているだけの“それ”が、知能を持ち合わせているとはとても考えられなかった。
総じてその外見を直視した第一印象は、“憐れ”の一言だった。知性も理性も、恐らくそれ以外の何ものも持ち合わせず、ただただ節操なく喰らい続け、無目的に、無秩序に肥大と変形を繰り返し、ブヨブヨに膨れあがっただけの憐れな存在。餌を与えられなければ、ここまで醜く育つこともなかったろうという、同情のような感情を抱かせる、無様で醜悪な生物。
――餌。そう、餌さえ与えられなければ、“それ”がこんな肥溜めのように膨張することも、なかったはずである。
その段になってようやく、魔族兵たちは思い当たる。醜悪な“それ”が粉砕した構造物が、建築物が、自警団の男たちの言っていた住民の避難先であったことに。
「何処へ行った……? 住民を、“どうした”?」
そう問いかける魔族兵の言葉に、アランゲイルが返答を口にする。が、魔族兵たちは、王子のその言葉を聞くより先に――。
「……何故、そんなことを――“そんな分かりきったことを”、わざわざ訊くのだ?」
――その言葉を聞くより先に、アランゲイルのその口許が三日月形にねじ上がって嗤うのを見た瞬間、一斉に突撃を開始していた。
「分かっているな、“人間”……貴様に安楽な死は来ぬぞ……我らがそれを許さん……断じて……!」
「ふん……」
アランゲイルが、猛進してくる魔族兵たちの怒りの形相を鼻で笑った。
ズチャリ。
耳飾りの魔族の男の体内に潜伏し、紛れ込んだ集会施設の中で住民たちを喰らい尽くし、ブヨブヨに膨れあがった真紅の水母のような“それ”が、這いずり回る音を立てる。
「紫血を啜り肥え太った畜生め……貴様を視界に入れることも、その気色の悪い物音を耳にすることも、うんざりだ……」
……。
……。
……。
「……我が思念に、服従せよ……我が私怨に、畏服せよ……我が“呪い”の器となり、形を成せ……」




