19-10 : 水音
……。
集落の住人のほとんどが身を寄せている集会施設の中で、怯えた声の集まりが5、6個の小さな集団となってひそひそと互いを呼び合っていた。
「外がとても騒がしい……」
「何かあったのかもしれない……」
「逃げた方がいいのではないでしょうか……」
「ここよりも安全な場所なんて、どこに向かえと言うのです……」
「少し、外の様子を見てきた方がよいのでは……」
魔族の女子供は凍えるように身を寄せ合い、青年たちは気が急いて浮き足立っていた。集団をまとめる立場の男たちの多くは自警団として“人間”の警戒に当たっていたため、彼らはその場にじっと留まり息を潜める以外に、大きな選択に踏み出すことができないでいた。
……。
ふと、不安に駆られた集団の注意が、室内の一角へと向けられた。
……。
「……」
その集団の視線が向かう先には、“人間”の手から逃れてきたという、隣里出の耳飾りの男の姿があった。
「……」
耳飾りの男は、幾らか前に見たときと同じように、毛布を頭の上からすっぽりと被り、何かから隠れようとするかのように身を縮こまらせて、ぶるぶると震えていた。
その悲愴な様子に、周囲は終始同情と恐怖を覚えて、誰も耳飾りの男に近づこうとはしていなかったが、ここにきてただじっと身を隠していることに耐えきれなくなった集団の中から、1人の魔族の青年が立ち上がった。
「……もし」
大勢の魔族が1か所に集まっているとは思えない不気味な静けさの中、木の床を軋ませ、魔族の青年が耳飾りの男に言葉を投げかける。
「耳飾りのお方、教えていただきたい……“人間”とは、どのようなものだったのです――」
「……ア、アア……ウグ、ヴ……」
魔族の青年が言い終わらない内に、耳飾りの男が両手で頭を抱え込み、全身をガタガタと震わせて、何かに怯えるように呻き声を漏らし始めた。その突然の奇声と奇行に、周囲に座っていた住民たちが戸惑いの表情を浮かべて、さっと半歩分、男から離れる気配があった。
「もし……! どうされたのですか?!」
耳飾りの男が何かの発作のように身体をくねらせる様子にぎょっと目を見開いた青年が、慌てて男の両肩を掴んで、その顔色を窺おうと頭を覆う毛布の陰を覗き込んだとき――。
コロン。と、何か小さく硬い物が床の上に落ちて転がる音がした。
「……?」
灯りを落とし、窓から差し込む夜の星明かりだけでうっすらと照らされている室内に、住民たちの輪郭と、闇の中に伸ばした自分の手の形だけが辛うじて浮かび上がっている。
魔族の青年は耳飾りの男の肩に手をやったまま、小さな物音のした方へと目を向けた。が、そこに落ちた筈の“それ”は、どこかへ転がっていってしまったようで、音の正体が何なのかは分からなかった。
「……ア……グ……グル……」
耳飾りの男は物音に関心を示していない様子で、依然としてぶるぶると身体を震わせ、喉を鳴らして言葉にならない声を漏らしている。
――コロン。
先ほど聞こえたのと同じ、小さく硬い物が転がる音がした。
――コロン。コロン。
そして同じ音が、2回、3回と続く。
「……あ……!」
コロン。と、5回目の音がしたとき、魔族の青年の視界に、音を立てていた“それ”の正体が映った。それを目にした途端、青年は訳も分からず肌が粟立ち、思わず強く息を吐き出し、その拍子に声が漏れ、喉が詰まり、絶句した。
それは、歯だった。臼歯、犬歯、前歯……様々な種類・形の白い歯が、耳飾りの男の口内から抜け落ちて、それが床の上のあちこちに転がり散らばっていた。
「……っ……?!」
何が起きているのか理解できず、魔族の青年が唖然としている目の前で、更に2本の歯が耳飾りの男の口から抜け落ちる。
コロン……コロン……。……。……。……ボトリ。
次々に抜け落ちていく歯の転がる音に混じって、質感の異なる音がした。今度は少し大振りで、軟らかい物……水分を含んだ物体が、自重と落下の衝撃で潰れるような……。
「……ア……ア゛……ア゛……」
耳飾りの男は掠れた声で呻くばかりで、何も意思を表していなかったが、その震える手だけが木の床の上をゴソゴソと這い回った。それはまるで、自分が落としてしまった物たちを虚しく拾い集めようとでもしているかのようだった。
「……ア゛……オ……ウ……」
耳飾りの男の肩を握る魔族の青年の手に、無意識の内にぐっと力がこもる。
「はぁっ……はぁっ・・…!」
そして魔族の青年は、星明かりを受けて鈍く濁った光を反射する、床の上に転がった耳飾りの男の眼球と、目が合った。
……。
……。
……。
早鐘を打つ心臓の脈動が、体内の血液を猛烈な勢いで循環させ、その乱暴な脈動が脳髄の底をガツンガツンと突き上げる。こめかみと耳の間でドコドコと血管が脈打ち、耳鳴りがして、軽い目眩と吐き気がやってくる。
――ズチャリ。
嫌な臭いのする汗が全身に噴き出すのを感じながら、床に散らばった歯と、落ちて潰れかけている眼球に視線が釘付けとなっている魔族の青年の耳に、その水音が聞こえた。
――ズチャリ。
それは、何かがのたうち蠢き回っている音だった。
――ズチャリ。
それは、耳飾りの男の口許から聞こえてきているようだった。
――ズチャリ。
床を見やって頭を下げていた魔族の青年の身体が、金縛りに遭ったように凍り付く。
――ズチャリ。
先ほどまで聞こえていた耳飾りの男の呻き声は消えていて、代わりにその不気味な水音が何度も何度も魔族の青年の視界の外で鳴いていた。その音はまるで、青年に「こっちを見ろ」と呼びかけてきているようだった。
耳飾りの男の肩にやっている手を離そうと試みたが、魔族の青年の身体はその不気味な水音に絡め取られてしまったかのように、思うように動かすことができなかった。
――ズチャリ。
絶対に顔を上げてはならないということは、明らかだった。
――ズチャリ。
しかし、目と意識と精神を閉じて、その水音に背を向け続けることもまた、顔を上げることと同等か、あるいはそれ以上の戦慄だった。
――ズチャリ。
“それ”が、「顔を上げろ」、「こっちを向け」と呼びかけてくる。
――ズチャリ。
「ハッ……ハッ……」
やがてその喚び声に耐えきれなくなった魔族の青年が、ガサガサに渇いた喉から息を切れ切れに漏らしながら、ゆっくりと顔と視線を上げていく。
耳飾りの男のズボンの縁に、抜け落ちた歯が数本引っかかっているのが見えた。
男の上衣の胸元には、歯のなくなった口から垂れ流れた涎がボタボタと染みを作っていた。
そして、水音の聞こえてくる男の顔を見上げた瞬間――。
……。
……。
……。
ズチャリ。
そこに耳飾りの男の顔はなく、星明かりが差し込んでくる窓辺に、無秩序にブヨブヨと膨れあがった真っ赤なゼリー状の塊が浮かんでいた。
「あ、あ……っ」
……。
……。
……。
「――あぁぁあああぁぁぁあぁああぁっ!!!」
集会施設の中から響いた叫び声が、正にそこへと向かうアランゲイルの耳にも、はっきりと聞こえた。
……。
……。
……。




