17-22 : 世界を侵す歌
「――Λυυυυυ……」
ローマリアの歌は、誰も聞いたことのない言語で構成されていた。“明けの国”の誰にも、“宵の国”の誰にも、解読不能の言語だった。
いや、それをより正確に理解しようと試みるとすれば、それは言語とは定義できないものであり、また歌でさえないのかもしれなかった。それは、人間にとっても魔族にとっても全くの未知の概念が、この世界そのものに干渉することで発生する現象だった。その未知の概念――“第3概念”――による干渉事象を、この世界に生きる者が知覚したとき、まるでそれが歌っているように認識されるというだけのことだった。
元より、その事象を理解しようと試みること自体が、そもそもの間違いであって、“彼ら”に対する冒涜そのものだった。
認識不可能な領域からの“彼ら”の干渉は世界を侵し、魔法の理と、物理法則を歪めていく。
理解不能な復活と再生を遂げたローマリアを照らし出す陽光のスポットライトが、一瞬にして、赤く染まる月光へと変わる。
「……何、だ……? さっきから、何が起きている……?」
生き残った魔法使いの1人が、赤い月光に寒気を覚えながら、それが差し込んでくる天窓を見上げると――。
「……」
魔法使いが見上げた先に、“星海の物見台”の最上層の天窓があったはずの場所に、1つの巨大な瞳が浮かび、魔法使いを見つめ返していた。
「ひっ……?!」
魔法使いが震え上がったのに合わせて、巨大な瞳の中で虹彩が揺れ動いた。
見られている。
「ひっ……ひぃっ……!」
“あれ”が、こっちを見ている。
巨大な瞳の虹彩は、まるで煌めく砂粒を敷き詰めたように無数の小さな輝きを放ち、それらがひとつの巨大な幾何学模様を作り出し、渦を巻き、尾を引いていた。
それは、夜空の遙か彼方に漂う、銀河の形、そのものだった。
そして、魔法使いは触れてしまう。巨大な瞳の中で渦巻く銀河の輝き、その幾千億の煌めく砂粒それぞれが、意志を持っているという事実に。銀河を宿した巨大な“星の瞳”を通じて、“彼ら”が魔法使いを覗き込んでいるという現実に。
「ひっ……きひひっ……あキはハはひははハ……」
意識が飽和して、脳の処理能力をゆうに超えて溢れ出た認識に溺れ、魔法使いが発狂したその瞬間、その1人の人間の姿形は原形を失って、無秩序な変形を何度も何度も重ねていった。後に残ったのは、狂ったように身をくねらせる、実体の存在しない影だけだった。
***
「はっ、はっ……!」
騎士の1人が、本能的な恐怖に似た、これまでに感じたことのない感覚に苛まれていた。生き残った騎士と魔法使いたちが1人、また1人とおかしくなっていく異質な光景と、魔女の歌を遠ざけようと、堅く目を閉じ耳を塞いで、物陰に身体を縮こまらせて座り込んでいる。
「どうなってるんだよぉ……! 魔女は……魔女は死んだはずじゃ……!?」
……。
「――λιιιΛυραααα……」
……。
耳鳴りがするほど堅く塞いでいるはずの耳元に、その歌声が聴こえた。その美しく神秘的な歌声に、騎士は全身が粟立つのを感じた。
「あ゛ー! あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!」
その歌声を掻き消そうと、騎士が子供のように戸惑い叫んだ。
しかし、喉が潰れるほどの大声で叫んでいるはずの自分自身の声が、騎士の耳には全く聞こえなかった。耳が音を失ってくれたのかと、五感を喪失することに歓喜する異常な心理状態の中で――。
「――ραα、υΛααα……」
その歌声だけが、はっきりと聴こえてくるのだった。
そして、こめかみがズキリと痛むほどに閉じられた瞼の裏側に、魔女の姿が浮かび上がった。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!??」
尚も歌を掻き消そうと叫び続ける騎士の声音に、悲鳴の色が混じった。
瞼の裏に写り込んだローマリアが、穏やかな表情のまま顔を上げ、“星の瞳”を向ける。
その瞳が魔女のものではないということが、この世界に本来存在してはならないものであるということが、何も知らない騎士にも理解できた。それは例えるなら、透明なローマリアの瞳越しに、別の何者かが“向こう側”から魔女の眼球と自分の目とを密着させて、“こちら側”を覗き込んでいるような――。
「やめろお゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛っ!!!」
グチャッ。
精神の根幹を侵食されていく恐怖で判断力を欠落させた騎士が、自分の意志で両目を潰した。
「出て行けぇぇぇぇ!! 出て行けよぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!!」
ギヂュッ。
両目に次いで両耳の鼓膜も自ら突き破り、騎士は光と音を失った。
「は……はは……ははははっ……!」
完全な闇と沈黙を手に入れた騎士が、勝ち誇ったように狂おしい笑いを漏らした。
そして完全な闇が、ぱちりと瞬きしたのを知覚したとき、騎士はもう聞こえない自らの声で、狂乱の絶叫を上げた。
光を失ったことで、“彼ら”は更に、騎士へと近づいたのだ。“星の瞳”が、騎士の意識に密着し、見えなくなった目の中で脈動する闇そのものが、認識の中の闇のすべてが、“彼ら”の瞳そのものとなる。
「Υυυυ、ηυμ……」
失った音そのものを、沈黙を自らの声として、魔女の歌が、脳の表面を撫で回した。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
発狂した騎士が最後に自分の意志でとった行動は、固い地面に頭を叩きつけて、自分の脳と意識を破壊することだった。
そして、溶け出た騎士の意識は、思考する自由さえ失いながらも消滅することだけはできず、この世界に干渉する“彼ら”の姿のほんの一部を映し出す鏡となって、どこか認識の及ばぬ領域へと拾い上げられていった。
***
「……これ、が……」
螺旋階段の踊り場に身を横たえたまま、隻眼の騎士が独り言を零した。
「これが……四大主……」
魔女の歌を階下に聞きながら、その独り言には畏怖と、崇拝に似た声色が混ざっていた。
「そういう、ことだったか……“三つ瞳の魔女”は……実力を買われて、たった1人で西方を護ってるわけじゃ、なかったんだな……。魔女は……この塔に……隔離されて、いたんだ……全てを滅ぼすこの歌を……あの得体の知れない“奴ら”を……魔族からも、人間からも……遠ざける、ために……」
それを理解すると同時に、隻眼の騎士は自分の身体が自身の影の中に引きずり込まれていく感覚を覚えた。
「理不尽だよなぁ、ええ……? 勝てるかもしれない、なんてよぉ……少しでも期待させてくれるなよ、魔女様……」
隻眼の騎士の身体はみるみる内に影の中に消え、既に半分以上が消失していた。まるで底なし沼にゆっくりと呑まれていくように、少しずつ少しずつ、溺れていく。
「ηαααα………」
首から上だけを残して、影の中に全身を呑み込まれた隻眼の騎士が、魔女の歌を聴きながら大きな溜め息をついた。
「しっかし……何とも、悲しい歌だな……」
……。
脳裏に直接、穏やかな顔をした魔女の姿が映り込んだ。
「へっ……そうしてりゃ、いい女じゃねぇかよ、魔女様……」
……。
「ははは……ははハは……」
……。
……。
……。
――トプン。
影の中に消失した隻眼の騎士の痕跡は、何処にも、残らなかった。
ズルリ。
隻眼の騎士が消失すると同時に、騎士が横たわっていた踊り場の背面に歪な形をした“影の樹”が逆さに生えた。が、それが果たして隻眼の騎士の成れの果ての姿なのか、それとも“彼ら”がこの世界に干渉して引き起こした理解の及ばぬ現象の片鱗なのか、真実を知る者は、この世のどこにもいない。




