1
「谷さんのお別れ会、嬉しくないけど、かんぱーい」
「かんぱーい」
「……」
「……」
かちん、と音を立ててぶつかる4つのグラス。色とりどりの綺麗な色のカクテルが入ったグラスを目の前に、男二人は意気揚揚と音頭を取って、私と谷さんは形ばかりにグラスを掲げる。
夜も酣って時間でもないのに、何でこの人たちはこんなにテンションが高いんだろう、と私はこっそり溜息をついた。そりゃあ学生にはちょっと敷居の高い、飲み放題メニューなんてなさそうなお洒落なお店だけど。
高そうだからここは嫌だって言ったら、最初は谷さんだけごちそうするって話が「支払いの心配はしないでいいよ」に変わった。学生が使わなそうなお店って、要は邪魔も入りにくいってことだもんね。社会人が来るにはちょっと早い時間なので、お店にお客は私たちだけ。目的は透けて見えるし、なにより禁酒を心に決めてから一か月経ってないんだもの。自分で納得してここにいるものの、溜息の一つや二つ、つきたくなるってもんでしょう。
ほんの少しだけカクテルを口に含むと、柑橘系の酸味とお酒の風味が合わさって、とてもおいしい。おいしいけど……嬉しくない。
「どうしたの水森さん。ちょっと暗いね。……水森さんって呼びにくいな。和歌ちゃんって呼んでいい?」
馴れ馴れしく言ってきたのは、谷さんが入っていたサークルの先輩だという岸田さん。見てくれは良い方なんだろうし、高そうなスーツ着ているんだけど、雰囲気が完全にチャラ男。スーツの中身が浮いて見える。すぐ肩やら腕やらを触ってくる、距離感がつかめていない人でもある。ここに来る羽目になった原因、その一。
「名前呼びするのは同性の親友か、家族だけなんで、名前呼びするなら岸田さんのこと、岸田おじさんって呼んじゃうかも~。私の兄より年上だし」
にっこり笑ってそう言ってやると、ちょっと怯んだみたいだったけど、すぐにまた軽薄な笑い方をして「きっついね~」なんて言ってる。聞いてもいないことをぺらぺらしゃべった所によると、大学3年生だけど2浪して入学したんで、実質3つ年上になるらしい。おじさんですねー。
何がおかしくて笑うのか分からない岸田さんの向こう側で、谷さんが心配そうにこっちを見ていた。いや、谷さん。こっちを心配している場合じゃないでしょ。もう一人、岸田さんとは同類項で括れる人物像の、矢崎さんという原因その二がいるんだから。
安心させる様に視線を合わせて頷いた。
こんな状況では気が張っているから酔えないだろうけど、カクテルの中には口当たりは良いけど度数の高いお酒を使っているものもあるから、おつまみを口にしながらとにかくゆっくりお酒を飲むことにした。
見知らぬ人たちとお酒を飲む羽目になったのは、大学の講義が終わった後、家に帰ろうとしていた私が、あまり見かけない男の人二人に囲まれた谷さんから縋るような眼差しをもらって、とても見捨てられなかったから。飲み会で迷惑かけた件もあったしね。
「どうしたの、谷さん」
と声を掛けたら、谷さんは半分泣きそうなうるうるとしたお目々をしながらも、安堵交じりの微笑を浮かべた。
「あのね……」
痴漢に追いかけられたことが結構堪えていた谷さん。夏はテニス、冬はスキー&スノボのサークルに参加していたものの、飲み会が多く、帰りが遅くなることがしばしばあって、実は帰り道で怖い目に遭ったのも初めてじゃなかったらしい。この間の件がトドメになって、サークルを辞めようと決意。その旨を代表の人に連絡した。
これで話が終わったと思っていた谷さんは、今日になって入っていたサークルの先輩に捕まってしまい、最後のお別れに飲みに行こうと誘われて、少々強引に連れて行かれそうになってる真っ最中だったと言うわけだ。
お金がないと言えばおごってあげると言われ、事情を説明して早く帰りたいのだと訴えても俺達が送って行くよと言われ、飲酒運転?と責めればタクシーだよと笑われて、平日だから3杯付き合ってくれたらいいよと押し切られそうになったその時に、私が通りかかったのだ。
男が二人がかりで嫌がる女の子を連れて行こうとしている時点でアウトだけど、なんかもう見え見えのやり口で笑えるくらい。で、私が何か言う前にあちらが先に私を誘ってきた。
「由香里ちゃんのお友達なら、一緒に行かない?今から由香里ちゃんのお別れ会なんだ」
谷さんの下の名前を読んで親しさアピール?してきたのが、岸田さん。
「これが最後なんだし、付き合ってくれたらもう誘わないって言ってあげてるのに、中々返事してくれないんだよね」
恩着せがましく言ってきたのが、矢崎さん。
気が弱そうで、清楚でかわいい谷さんの友達なら、似たようなタイプだろうと思ったのかもしれない。どんな風に見えているか知らないけど、全然違います。
「どうしよっかなー」
その気は全くないけど、気がある振りしてそんなことを言えば、盛んに誘ってくる。本当は振り切ってでも逃げた方がいいんだろうけど、こういう人ってしつこいからいつかまた捕まってしまうかもしれない。今はたまたま私がいたけど、今度はどうなるか分からない。実際、谷さんがいつも仲良くしている女の子は、今日は風邪でお休みだったし。
言質を取っておいて一回だけ付き合って、きっぱり縁を切ったほうが良いような気がするんだよね。
「友達と約束しているから、連絡取らせてもらってもいい?」
「友達も来たいって言うかもしれないから、お店の名前と場所も教えて?」
そうやって情報を聞き出して、黒崎君とデートな環に簡単に事情説明をしたメールを送って、後で迎えに来てとお願いする。デートを邪魔してごめん、無理なようだったら、ものすごく嫌だけど兄に連絡して欲しいと追加した。
怒られるのは分かっているが、谷さんを一人にしては置けないので、最終的には分かってもらえるだろう。
……因みに、和泉君とはあれ以来会っていない。
あれ、というのは、ホテルでの出来事?を夢で見た後から。
というのも、最初はふて寝していただけだったのが、本当に熱が出てきてしまったのだ。ぐるぐる考えすぎて、知恵熱を起こしたのだと自分でも分かってる。
黒崎君と同様、あの件でメルアドも交換していたので「具合はどうだ?」なんていうメールを貰ったけど、当たり障りのない内容を考えるのも無理で、本人は家の弓道場にいたと思うけど「熱上がった、頭回らない」とだけ返して、朦朧とした頭を抱えて、引きこもったまま眠った。
小さな頃から熱を出すと、誰かが冷たい手で頭を撫でてくれる夢を見ることがあって、不思議とその夢を見た後は一晩で熱が下がる。
今回も同じように頭を撫でて髪を梳いてくれた夢を見て、目覚めた時には熱は下がっていた。
やさしく触れてくる感触が気持ちよくて、一度、兄ではないのかと尋ねたことがあるけど否定された。だから、あの手の感触……男の人の手だと思ったあれが、ただの夢の産物なんだと分かったのだが、そうしてみると、俄かにホテルでの出来事も、忘れていたのを思い出したのか、妄想がはじけたのか段々分からなくなってきた。
なにせ大臀筋の下りを覚えていなかった上に、熱を出した時限定とはいえ、男の人に撫でまわされる妄想をした自分だから、記憶は全く充てにならない。
更に考えてみると、和泉君本人から何か直接言葉を貰った覚えもない。あの夢で見た出来事以外、確たる覚えは何もないのだ。
好きだと言われたわけじゃない、妄想の中で一人恥ずかしがっているだけかもしれない。
そう思った瞬間、冷や水を浴びせられたような気がして、ますます和泉君に合わせる顔がなくなってしまった。
とにかく気持ちが落ち着くまでは、和泉君と会わないことにしよう。
学部が違うから授業で会うことはないし、毎日部活があるから平日に家に来る時間はない。休みの予定は兄に聞けば分かるし、その時に予定を入れてしまえば避けるのは難しくない。
そうやって時間が開けば、益々あの夢が現実ではなかったのだと思えてならなかった。
気まずい気持ちをもてあましているのは自分だけなんだろうな~とか、いいよなー環たちは幸せそうでとか、益体もないことを考えながら、話し掛けてくる相手に適当な相槌を打っているうちに、グラスに入っているカクテルの色が何時の間にか変わっていることに気が付かなかった。




