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夕食を食べ終わった後、兄はまだ氏子さん達へ就任の挨拶回りが終わっていないらしく、その準備に早々に父と別室へ行き、後片付けが終わった母はお風呂の支度をしに行って、居間には私だけだ。
付けっ放しのテレビから音がしていたけど、私はぼーっとその画面を見ていた。
働く女性のドキュメンタリー番組のようで、子供を持つ母親が職場や生活で困ること等を話している。
子供どころか結婚もまだずっと先の話だと思っている私は、正直なところ、どんな社会なのか想像もつかないけど……。
外の世界かー。
なんちゃって巫女は一応アルバイト扱いでお小遣い貰ってたけど、それは「社会」とは言わないだろうし、私が友達とかの学校関係者以外と話すのは、主に氏子さんだけだ。あと、たまに参拝者。
そうしてみると、世界というか、世間が狭いと言われると否定はできないな。
お茶をすすって溜息をつく。
…………大学を卒業してすぐ家の手伝いは勿体ない、か。
母が家の中に居るのがごく普通のことだからあまり考えたことなかったけど、両親が結婚する前、母は働いていて職場で父に知り合ったって聞いた。今でもお世話になっている会計事務所さんの事務員だったのだ。
昔は女の人は結婚したら会社を辞めて家に入るのが普通だったけど、父と結婚した段階で母は、例え働きたくても専業主婦の道を選ばざるを得なかった筈だ。
宮司の妻っていうのは厳密に言うと専業主婦じゃないかもしれないし、身に着けた簿記の知識をちゃんと生かしているから、母の中では納得済みのことなんだろうけれど、そうやって自分の中での選択肢を多くできたのは、それまでの経験があったからこそなんだろう。
私がそのまま家の手伝いをしたら……結婚したら状況が変わるかもしれないけど、家の手伝い以外の事をやりたくなったとしても、余程何かない限りずっとそのままだと思う。
自由に色々やれるのは、学生のうち、独身のうちなのは分かってたけど、あんまりちゃんと考えなかった。
「……今更、かなあ?」
こうやって考えるのも、無駄? 最終的に狭い所に納まってしまうなら、別に楽な方に流されてもいい?
「うーん」
社会経験が足りないせいで判断が付かないなら、今だけでも外に触れるのも、良いかもしれない。三年が始まったばかりなら、まだのんびり構えていられるだろうから。
……そう言えば和泉君も資産運用だけで、アルバイトはしていないって言ってたよね。
ちょっと考えて『唐突だけど、アルバイトやったことある?』ってメールを送ってみた。
そんなに時間が開かずに帰ってきたメールは、失礼千万な事に、よからぬことを考えていないか的な不審を前面に出した内容で、最後に、
『今やっているバイトは土方だ』
と書いてあった。
……聞いてないよ! それに、何で土方? なんとなくお金が困った人がやるアルバイトのイメージなんだけど、和泉君お金に困ってないって言ってなかった??
慌てて『なんで土方よ?』と送ると、
『建築で食べていくつもりなら、現場を見るのは勉強になると複数の人に言われたから。アルバイトだと大した事はさせてもらえないが、休憩中に監督や先輩に話しを聞いてる』
と返ってきた。
……和泉君も就職に向けて動いてるんだ。なんか私一人だけ置いて行かれた気分だー。
これ以上落ち込みたくなくて思考停止すると、早々に不貞寝をする事にした。
次の日、私は落ち込んだ気分を、更に奈落の底に突き落とされた。
ゼミが決定したその後の初めての顔合わせの日だったんだけど、谷さんから朗らかな笑みと共に、
「私、公務員試験を受けようと思ってるんだよ」
と、聞かされたからだ。
「……水森さん、大丈夫?」
テンション激落ちな私の様子を見咎めて、首を傾げる谷さん。ああ、なんかその優しげな微笑みが、眩しくて見られない。
「だ、だいじょばない……いえ、うん、大丈夫。…………それにしても、谷さん。就職のこと、ちゃんと考えているんだねー」
顔色が悪い私を気にしつつも、谷さんは私の質問答えてくれた。
「公務員試験って申込みが四月だから、嫌でも早く準備しないといけないでしょ」
経理系の最高峰といえば、よく映画やドラマになる国税局査察官だろうけど、流石にそこはいきなり入れるような部署じゃないし、自分の性分にも合っていないのは分かっているから、普通の税務職員を目指すんだそうだ。
で。会計事務所に勤めるにしても、税務職員になるにしても、簿記の知識は必須なので、今年中に簿記一級を取得するのが当座の目的。合格したら今度は公務員試験に向けての勉強をするんだって。
「公務員試験に落ちたとしても、簿記一級を持っていればどこかに引っかかるんじゃないかなって思うから、とにかくこれからはそっちの勉強をしようと思っているよ」
「……そう」
実は、私も簿記の三級は持ってる。……でもね。
多分、ウチの学校の人なら試験勉強しなくても普通に受かるくらいの難易度なので、持っていないよりは持っていた方が多少有利になるかな? って程度なのだ。
車の運転免許なんて、大抵持っているでしょ? 履歴書の資格欄を空白にしておくよりは、書くことがあるよ! って感じのアレと同じ。実際、任意で受ける人を募集しているので、お試し受験して持っている人は結構いると思う。
「水森さんはどうするの?」
「……う、うん。ちょっとまだ考え中なんだー……」
何も考えてなかったなんて、とても言えなかった。
その日一日中ローテンションで過ごし、家に帰りついた私は、何をしたと言う訳でもないのに疲れきっていた。
「なんだ、その顔」
「……べーつーにー」
家の玄関で出くわした兄に一瞬で顔色を見咎められ、突っ込まれる。対応するのが面倒くさくて適当に返事しながら靴を脱いだのだけど、通り道を塞ぐように兄が立っているので中に入れない。嫌がらせか。
「お前、また変なこと考えてるな?」
「変なこと? どんなこと? 」
ごまかす様に問いに問いで答える。けど、察しのいい……というか、サトリの域に入っているんじゃないかと思う兄は、その返事だけで確信に至ったらしい。どういう思考回路をしているのか、本当に謎だ。
「置いて行かれるようで嫌なんだったら、自分でも動いてみるか?」
「……」
「じっと蹲って埒もないことをうだうだ考えているより、建設的だろ。動いている間は、それに集中していればいいし、また見えてくるものがあるかもしれない。……どうだ?」
「……どうも、こうも……本当に何言っているか分かんないよ」
「じゃあ、説明するからちょっと来い」
強制的に居間に連行されて事情を説明されたところによると、母が兄の事を私に話した後、私がおかしな事を考えている様な気がするので、気をつけて欲しいという指令が兄に発せられていたらしい。
自分の将来のことを真剣に考えるのはいいことだけれど、和歌子の場合、四十二度くらい発想が人よりずれているので、変な結論に行くようだったら、その前に阻止してほしい、と。
「なんで四十二度」
「四十五度だと普通っぽい感じだけど、そこから微妙にずれているからだろ」
……うん、反論しきれないかもしれない。
それで私の様子を気に掛けていた兄は、私がテレビをぼーっと見ている所や、メールをどこかに送っているのも見ていたそうだ。
「え、見てたの?」
「お前は全く気が付いてなかったが、こっそりとじゃなく堂々と見てたな」
明らかに様子がおかしいので、メールの相手が和泉君だと当たりをつけ、内容を確認聞いた上で私が何を考えたか推論して現在に至るらしい。
「井の中の蛙が小さな世界で満足してたら、見ぬふりをしていた大海の入り口を思いがけず意識してしまって、どうしようか悩んでいるんだろ」
……それで推論できる兄がつくづく変態だと思う。
「いや、お前が鈍くて顔にすぐ出るから分かるだけだ。……それで、どうする? それこそ外でアルバイトでもしてみるか? 確かに狭い場所に居ると、どうしようか悩む事もあるだろうさ」
「……そう言えば兄はアルバイトもやったことないみたいだけど、後継ぎって事に不満はなかったの?」
「親父みたいに男兄弟がいた訳じゃないし、女の宮司は全くいない訳もないが、男の俺が居て、お前が後を継ぐ選択肢はないも同然だったのは認める。ただ、自分の中で納得して出した答えだ。後悔はないさ。それに、やりがいのある仕事だしな」
昔から手伝いをしていたから割とスムーズに後継ぎの顔繋ぎも進んでいるけれど、氏子さんの中には旧家の少々うるさい……というか、めんどくさい人もいるので、身内以外が後継だったら大変だったと思う、と兄は笑った。老獪と言っていい相手を向こうに回して、うまく事を運ぶのは中々楽しいらしい。
「……そう」
……なんか、腹黒のタヌキの集団とやり合う、やっぱり腹黒タヌキの様相だと感じるのは気のせいだろうか。いや、兄がいいなら私も否やはないんだけど。
「だから、晶の家の事もどう認めさせようか計画を二人で練っているところだから、余計な心配はするなよ? 俺よりも晶が怒っていて、どうやって止めようか苦心しているところだから」
ああ、晶さんが怒ると怖そうだよね。和泉君がされたように淡々と、理論武装で完膚なきまでに叩きのめされそうな所とか。
「……で、お前はどうするんだ? 口を利いてくれそうな氏子さんは何人も心当たりがあるぞ」
因みに建築系、不動産系が多いそうな。建築系は地鎮祭で良く呼ばれるらしい。不動産系は……なんでだろう?
「あとは、葛西さんの所の会社だな」
「アルバイトやるとしても、あそこはちょっと……」
浮気騒動の会社じゃない。流石にどんな顔して行ったらいいか分かんないよ。いや、私が一方的に気まずく思っているだけかもしれないけどさ。
「まあ……とにかく、声をかけてくるからちょっと待ってろ」
そんなこんなでとんとん拍子に話しは進み、不動産屋さんにアルバイトしに行くことになった。
期間は一カ月。経理と言うよりも雑用その他のことをやってほしいので、最低でも週に三回行くという、私にとっては実に都合の良い労働条件だった。
その辺りの事をもう少し突っ込んでみた方が良かったのではないか、とずっと後になってから思った。




