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パシャって耳元で音がして、ぼんやり横を見ると兄が和泉君と元カノの写メを保存しているところだった。
「距離があるから顔がはっきり写らないな」
「──それ、私にもちょうだい」
浮気の証拠だ。問い詰める時に使用しよう。……そう思うけど、何処か現実感がない。あれだけ自分を信じろ的な事を言っておいてのこの仕打ちが、現実だって事がまだ実感できないんだと思う。
信じない方が悪いみたいな扱いをされて怒っていたし、悲しかった。でもあれだけ言ってたんだから、和泉君の本心からの言葉なんだろうなと、少なくとも浮気はしていないだろうと思ってた。
でも、その言葉が今はひどく薄っぺらなものだったんだと、真剣な演技にすっかり騙されちゃったんだなぁと……悲しいよりも信じた自分が馬鹿らしくて虚しい思いがしていた。怒るのも、悲しむのも、すごくエネルギーがいるでしょう?そんな体力気力共に、ショックで根こそぎ持って行かれたというか、もうどーにでもなーれというか、関わりたくないなぁという思いが大きかった。
傷つくばっかりなら、これ以上辛い思いなんてしたくない。
「なんだ、和泉は妹を放置して、他の女と歩いてるのか?浮気だ、浮気」
「放置は正解だろうが、歩いてるだけじゃ、浮気認定にはちょっと弱いだろ。脇が甘いのは確かだけどなぁ」
気が付くと、窓ガラスに鈴なりで全員が下を見ていて、コメントを垂れ流している。本人は呟いているだけかもしれないけど、そこはそれなりに飲んでいたので一人一人の声が大きい。酔っぱらうとなぜ声が大きくなるんだろうね。聞きたくなくてもばっちり聞こえたよ。
……男性の目から見ても、現彼女を放っておいて、それ以外の女性と腕を組んで歩いているのは黒に近いグレー判定らしいですよ、和泉君。
そんなことを思っていたら、適当なことを口にする男衆に晶さんが一喝した。
「腕を組んで歩いているだけで、充分不愉快です!ちょっと黙ってて。……って千尋君、どこにメールしてるの」
「なに……って、あそこ」
にやりと悪辣に笑う兄は、道を通り過ぎて小さくなりつつある二人連れの方を指した。
「あいつと約束してあることがあったし──」
視界の端に、和泉君が歩きながらスマホを取り出したのが見えた。画面を見た途端に、ぴたりと歩みが止まる。
「──それに」
がっと擬音が付きそうな勢いで、和泉君がこちらを振り返った。迷いもなく、こちらを見上げてくる。
それなりの距離があったのに視線が合った、と思った。
「鉄は熱いうちに打てって言うだろ?」
元カノの腕を振り切って逆走して来る和泉君に、元カノが何か言いながらついて来てる。……距離は放されるばかりだけど、元々そんなに遠くないし、振り切る前に店の中に入ったのか視界から消え、それから、さほど時間を空けないうちに、息を切らした和泉君が固い顔をして入って来た。
「よぉ、色男」
私が口を開く前に、兄が一歩前に出る。……私を背に庇うようにして。
「何か言い残すことはあるか?」
そう言った時、後ろから元カノが入って来て、大勢対和泉君の様相にちょっと怯んだ様子を見せたんだけど、大勢の中に私がいる事に目ざとく気づいて、これ見よがしに和泉君に縋り付こうとしたんだけど、すぐに足が止まった。今度は本当に怯えた表情をして、出した手を引っ込める。
和泉君が気配を察して「近寄るな」オーラを出した事と、兄が同じく、「誰だ手前は」オーラを出したせいだと思う。
とりあえず動かなくなった元カノを無視して、視線を外すと兄は和泉君の方に視線を戻した。
「こいつを泣かせばどうするか、言った筈だ」
硬い表情のままの和泉君はともかく……なんか、兄が親切過ぎて気持ち悪い。普段は面白ければよしとばかりに高みの見物してるのに、「可哀想な妹を庇うお兄ちゃんな俺」の図は、一体何だろう。……もしかして、私を庇う振りした方が絵的に面白いとかって思ってない?それとも、和泉君に対する嫌がらせとか。──うん、そっちは有り得そうだ。
その頃になってようやく息切れしなくなった和泉君が、兄ではなく私を見た。
「……誤解させてすまなかった」
どこか他人事だったのが、また気に障る単語を使われて、私は兄を押しのけて和泉君の目の前に立った。都合のいいことばかりを口にする和泉君の態度が嫌だったから、無気力よりも怒りが上回ったのだ。
「まだ誤解だって言うの。さっきはお互乱れた服装で部屋から出てきといて、今またこの状況で?」
またねと意味ありげに笑って出て行った元カノの様子から、二人で待ち合わせをしていたとしか考えられないじゃないの。腕組んで歩いていたくせに。
「部屋からって、和泉のか?」
「じゃねぇの」
「それで、今か。ラブラブって感じで腕組んで?」
「……うむ、有罪だな」
「そうだな、ギルティとしか言えないな」
酔っ払い共が、小さいとは言えない声でギルティギルティと繰り返しているのが聞こえる。
「ほら、第三者の客観的意見からだって、おかしいのはおかしいの。どの面下げて言ってるの」
「──そうだな。今回の件は、完全に俺が悪い。いくら頼まれて駅まで送って行く途中だからって、腕を組んで歩いたのは、本当に悪かった」
そう言って、和泉君は深々と私に頭を下げた。
「…………」
この態度って、取りあえず謝ってうやむやにしようとしてない?人目の多いところでやっておけば、面目は立つから。ここにいるのは弓道部の先輩ばっかりで、特に兄は私の知らない所で本当になんか言っていたかもしれない。で、謝ったんだから許してくれるよなとばかりに、今だけちゃんとやっとこうみたいに思ってない?
微妙な沈黙の中、元カノが鼻で笑って、頭を下げたままの和泉君の服を引っ張った。
「ねぇ、正親。あの子、全然信じてないみたいだし、もういいじゃん、見限っちゃえば」
和泉君はその言葉を完全に無視して、頭を下げ続けている。
「ほら──」
「あなたは、どうしてここにいるの?」
わざとらしく、鼻にかかって甘えたような話し方が耳障りで、私は話を断ち切るように元カノの方を見た。
美人だと思うけど、今はなんだか性格が表情から透けて見えて、醜く見える。
「は?何言ってるの」
前付き合ってたっていう話を聞いたんでしょう?という態度の元カノだけど、今度は私が鼻で笑う番だ。
「昔はどうあれ、今は何の関係ない、ただの赤の他人でしょう?赤の他人が私と私の彼の話し合いに、なんでしゃしゃり出てくるの」
「赤の他人」と「私の彼」を強調すると、元カノ顔が怒りなのか赤く染まる。
「……そうね。私は確かに正親と前付き合っていた女だけど、この先また復活するかもしれないんだから、一概に他人って言えないでしょ。それに、あんただって、同じように赤の他人になるかもしれないんだし」
私と同じように、赤の他人を強調する元カノの台詞を聞いた途端、和泉君が勢いよく頭を上げて何かしようとしたけど、私は身振りでそれを遮った。
「そうかもしれないね。でも、少なくとも関係がはっきり終わるまでは私と付き合ってるんだから、あなたの存在は、尚更うざいの」
うざい、という言葉にまた元カノが体を震わせる。
効果的にこちらを貶めるような言葉を思い浮かべようとしたんだろうけど、頭に血が上ってる時って変に空回りする時があるよね。そんな一瞬を見計らって、私は近くにあった赤ワインのデキャンタを手に取った。
「な、なにするつもり?」
元カノは、赤ワインを武器に使われると思ったらしい。確かに赤ワインを頭からかけたら、色々な意味で被害が大きいだろう。今着ているのは白っぽい服だし、赤ワインのしみがくっきりはっきり出そうだ。……でも、そんな勿体ない事しないよ。
「何って、飲むの。しゃべったら喉乾いちゃった」
面倒くさいから、デキャンタから直接飲んじゃえ。一応、元カノがなんかしてもすぐ動けるように、横目で見ながら半分以上残っていた赤ワインを一気飲みしたら、相手が半歩くらい引いた。
失礼な。暴れたりしないのに。
だって今まで何かやらかした時って、漠然とした記憶しかない時がほとんどだもの。今日はちゃんとまだ意識あるから、理性がちゃんと機能してるって事だもんね。
……怒りがある一定部分を超えて、逆にやたら冷静になっているのかもしれないけど、まあその辺はどうでもいいや。とにかく、イライラするから視界から居なくなって欲しいんだよね。
じーっと元カノを見ながらそんなことを考えていると、さらに相手が一歩引いた。
うん、もう目障り。うざったいから、早く消えてもらう事にしよう。
「……そうね、明日私の携帯に連絡くれるかな?そうしたら、和泉君とすっぱり別れてもいいよ」
「──はあ?」
「え?」
「おい、良いのか?」
色んな人からの突っ込みが入ったけど、私は軽く頷いた。
「いいよ。その代わり、ちゃんと私と話さないとだめだから。着信履歴だけ残しても不可。私に『正親と別れて下さい、お願いします』ということ」
言った内容が内容だったせいか少し茫然としていた元カノだけど、すぐに再起動した。
「そっちこそ、着信拒否するんじゃないわよ。それだったら、電話してあげてもいいわ」
簡単だものねと元カノは嗤うけれど、私はもうどうでもよかった。それよりも、なんとしてでも目の前からいなくなってほしかったから。それこそ一分一秒でも早くに。
「俺は嫌だぞ!」
って、和泉君は叫んだけど、「あなたに、発言権はない」って言いきって、とっととアドレスを交換すると元カノ共々お店から追い出した。
「送って行くっていう約束だったんでしょ?約束は守らないといけないよね?」
と言えば、元は律儀な性格な和泉君だから、かなり不承不承ではあるけど、元カノを連れて行ってくれたのだ。
「これで納得したわけじゃないし、ちゃんと説明を聞いてもらう」
って捨て台詞を吐いていたけど、それに適当に相槌を打ち、先輩方に場の雰囲気を壊してしまったことを詫びて、先に切り上げさせてもらった。これ以上平然とするのも深く考えるのも疲れたから、家に帰って心置きなく夢の中に逃避しよう。……そう思ったから。
私が飲んだのは、ワインボトル四本から五本分くらいだったのかな?いつもだったらだいぶ酔っぱらっていたんだろうけど、最後まで頭はしびれたように冴えたままだった。
兄や環を置いてきぼりにして、家に帰った翌日、起きたのは十時過ぎだった。平日なのに、完全に寝坊だ。誰も起こしに来なかったあたり、兄が母に何か言っておいたのかもしれない。
ぼーっとしたまま枕元のスマホを見ると、何件かのメールと、着信履歴があった。着信履歴は環と和泉君から。メールは……。
元カノからのメールが入っている。……なんで?
いや、ちゃんと昨夜のことは覚えてるよ。和泉君の事で約束したことも、顔を見たくなくてお店を追い出したことも、ちゃんと細かなところまで覚えている。……今回こそお酒飲んだ勢いで忘れたかったけど、残念ながら記憶は鮮明だ。
「電話にしろって言ったのにー」
朝から不快だなと思いながら件名だけ見て、完全に目が覚めた。
見間違い?と思って二度見したけど間違いない。
「私は既婚者と不倫をしたあばずれです」
これが、元カノから来たメールの件名だった。
校正が甘いので、後から書き直しするかもしれません。




