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「…………」

「…………」


 部屋の中に入っても、和泉君の顔が見れないままだ。和泉君は和泉君で、私の手を掴んだままこちらを黙って見ている。視線は痛いほど感じるけど、どんな表情をしているか分からないから見たくない。どうやって誤魔化そうかなんて思っているようだったら、見たくもないし。


「……あいつとは高校の時、ごく短い間付き合っていた事がある」

 やっぱりそうなのか。鈍い痛みが胸を突く。


「何か上手く行かない事があると、前の彼氏に会いに行って引っ掻き回す性質の悪い癖があって、今回も同じように何かやらかして俺の所に来たようだ」

 私が来たのかと勘違いして、確認しないで扉を開けたら向こうが無理やり入って来た。そのタイミングで私が来た、と和泉君は言った。

「……高校の時付き合っていただけ?」

「そうだ」

「何で今ここに和泉君が住んでいるのを知っているの?」

「前にも来た事があるからだ。その時も似たような理由で、住んでいる場所はどこから漏れたかよく分からないが、高校が同じだったんだ。どっかから聞き出したんだと思う。勿論、その時もすぐ追い返した」

「……服装が乱れていたのは?」

「摘みだそうとした時に揉み合ったせいだろうな。……洗濯してたって言っただろう?上半身裸だったから、追い出す前に慌てて上に着た。追い返した時に誰かに見られていらん事言われるのが嫌だったんだが、お前に見られるとは思っても見なかった」


「…………」

「……信じてくれないのか?」

 固まったままの私に向かってぽつりと呟いた和泉君の言葉。耳に届いたと同時に、どこかでぶちんと何かがはじけた音が聞こえた。

 顔を上げると、苦い顔をした和泉君がこちらを見ている。なんで信じてくれないのかと、非難するような……そんな眼差し。


 なんで私が信じない事を責めるの?私がいけないの?そりゃあ本当にやっていないことで責められるのは迷惑なのかもしれないけど、少なくとも私が納得するまで説明する義務があるんじゃないの?自分の事を棚に上げているようにしか聞こえなないその言葉を、態度を、盲目的に信じろっていうの?



 ──私は、和泉君の何?



 頭の中で考える前に、黒くて苦い思いが言葉になって溢れだした。

「じゃあ聞くけど、私が同じ事をしたら、信じてくれた?私の部屋に知らない男が来ていて、相手は少し着崩れた格好をして、元彼だっていう。その後に私が乱れた格好で出て来ても、何もなかったって信じてくれるの?」


「それは……」

 一瞬の躊躇を感じて私は続けた。

「信じてくれたとしても隙があるからとか、脇が甘いとかって言わない?私だって責める権利がある。……それとも、男と女じゃ違うって言うの?男は良くても女はいけないって、馬鹿みたいなことを思っている訳?それとも、ただの言い訳で、本当はもっと違う事をしていたの?」


 反射的に何か言おうとした様に和泉君が口を開いて──そのタイミングで、私のスマホが鳴った。


 メールではなくて着信で、静まり返った部屋の中に場違いなほど明るい着信音が鳴り響いた。

 気勢を殺がれた様に和泉君は横を向いて、私はそんな様子を目の端に入れながら、手元のスマホに視線を落とした。……相手は環で、頭の中のどこかが凍りついたまま、電話に出る。

 さっきの今でこの着信はあまりいい予感には思わなかったけど、和泉君の言葉を聞きたくなかった私としては、本当に丁度良かった。

 ……案の定、泣いている環の声に相槌を打ちながら、すぐにそっちに行くと伝えた。


「悪いけど帰る。……頭冷やしたいし」

 今これ以上話し合っても、非難の言葉しか出て来ないし。ここにはもう居たくない。

 言わなくてもいい事まで口にしそうな予感もあった。


 おつまみの入ったビニール袋を和泉君に押し付けて、引き止めようとした手を避ける。


「黒崎君が浮気したらしいって環が泣いてるから、行くね」


 牽制するように言って、返事も待たずに部屋を出て走ったけど──和泉君は追ってこなかった。





 環とは大学近くのカフェで待ち合わせしていた。


 私の方が早く着くかと思ったら環の方が早く、店の隅でぐったりと力なくうずくまるようにしている姿は、普段の活発な環の様子を知っているだけ、落ち込み具合が分かってしまった。


「約束してたんでしょうに、ごめんね」


 泣きはらしたと丸分かりな目をしているのに、咄嗟のなぐさめの言葉も浮かばないで、ついぎゅっと抱きついてしまった。なんだか泣けて来て、涙がこぼれたら止まらなくて……人目も気にせずに二人で抱き合って泣いた。



 後で二人して我に返って、ものすごく恥ずかしくなったんだけど、その時はお互い心の余裕がなくって、かなり後になってから視線が痛いのに気付いて、慌ててコーヒーをテイクアウトして外に出た。

 また違うお店に入るのもなんだし、周りに誰もいないところというのがなくて、私たちは学校の中を散歩することにして、ふらふらと歩き始めた。


 環は黒崎君に会いに行って、谷さんと一緒にいるところを見たんだけど、なんで?と本当にストレートに聞いたんだって。この辺は変な細工とか嫌いな環らしい。


 そうしたら、黒崎君は顔色を変えて環に詰め寄ってきた。「話の内容も聞いていたの?」と。


「聞いてないけど……でも、進路の話って事だったのに、なんで谷さんと……」

「……進路の話、だよ。少し相談に乗ってもらっている事があるんだ」

「……どんな事?」

「──俺の進路で俺が決めなきゃいけない事だから、環には関係ない」

「っ……なにそれ。関係ないって……」


「決まったら、連絡する。それまでは会いに来ないで」

「────」


 引き止める間もなく黒崎君は歩いて行ってしまって、環は追いかけられなかった。そりゃあ冷たい眼差しで冷たい言葉を面と向かって言われたら、ショックで動く気力もなくなる。

 関係ないって、彼女なのに心配することも煩わしいってこと?それとも彼女じゃなくなるから、関係なくなるってこと?って、私でも思うもの。それも会いに来ないで、って、いくらなんでも酷すぎ。


 私の中の黒崎君の株大暴落中だけど、ふと気になったことを環に聞いた。

「ねえ、進路の話って言ってたけど、具体的に黒崎君はどんな方向に行こうとしていたの?」


 現在、大学二年生。例えば弁護士になるとかパイロットになるとかだと、専門の勉強をするための大学受験が二年であるから、入学した段階で計画的に勉強しなきゃいけないだろうけど、黒崎君の学科は私たちと同じ経済学科で、どっちもちょっと方向性が違うと思う。

 とすると、進路についての悩みと言えば、三年生に上がる時のゼミくらいしか思い浮かばない。ゼミは卒業するまで変わらないからね。人気教授のゼミなんかは希望が通らなくて、最悪抽選って聞いたことがある。


「教えてもらいたい教授がいるとは聞いていたんだけど、その他は教えてもらえなかった。だから、黒崎君の話したことが嘘なのか本当なのか分からないし、本当だとして、どうして谷さんに相談したのかも分からない。話の内容を谷さんに聞いてみたい気もするけど、今の状況じゃちょっと……ね」

「そうだね……」

 知りたいことは分かるかもしれないけど、きっと黒崎君は約束を破ったと怒るだろう。


 大きなため息を付いて、環は空を見上げた。

「私、ちょっと黒崎君と距離を開けて考えてみる。悩んでいるのは本当みたいだってことは分かったから、一人で勝手に悩んで、私を関係ないの一言で蚊帳の外に置く人と一緒に居られるかどうかも含めて、ゆっくり考えてみる」

「そう。分かった。会っても黒崎君に会っても何も言わないし、訊かないようにする。……環を泣かしたなーって殴るのは、少なくとも環が手を下してからにするよ。どういう理由にしろ、女の子を泣かしていいはずがないでしょ」

 私がそう言うと、環は深く頷いた。

「そうね。あんたが先に殴るくらいなら、どうせなら私が先にやりたい。それか代わりに和泉君に泣かされた時に、先に殴る権利を貰おうかな」


 空気を明るくするための冗談だったのは分かっていたんだけど、体が震えるのが抑えられなかった。顔色も多分変わっていたんだろう。ケンカしてきたのはつい先刻だし、内容は同じ浮気疑惑で、はっきり言って和泉君の状況の方が黒に近い灰色(グレー)だと思うから、余計に反応してしまったんだと思う。


「和泉君と何かあったの?……その顔は、あったのね」

 直ぐに断言されて隠すつもりもなく、気力もなく、環に和泉君の所に行った時にあったことをごく端的に説明する事にした。




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