◆10-2 変化
夏季休暇が明け、新学期。
四学年の教室には、アンディ・エルナンドが姿を現していた。
エルナンドは結局、レネアに怪我を負わせてから夏季休暇に入るまで、一度も登校しなかった。
神子に対し怪我を負わせたのだから、神殿派である学園としても安易に登校を許す訳にはいかなかったのだろう。
だが、双神祭の時点でも、レネアの負傷について神殿から強い言及はなかった。
処罰を求める程の事態ではない、というのが神殿の判断だということだ。年に一度の祭典を無事に終えた今ならば、学園への復帰を認めてもよい、となったのだろう。
相変わらず、神子としては限りなく軽視されている対応だ。リディアはいつも通り憤慨し、正式に抗議するべきだとも言った。
だが、レネアにとっては、むしろ大事にならずに済んでよかったとすら思えていた。
エルナンドはこれまでの学園生活において、ただの一度も反省の態度を示したことなどない。
そんな彼が、あの一件ではひどく憔悴しているように見えた。それほど強い感情が生じた、ということだ。
ただ、レネアから見たアンディ・エルナンドは、その感情を反省や後悔に向けるような人間ではなかった。
己を正当化するためならば、より苛烈な対応をとってもおかしくない、という負の信頼があったのだ。
故に、異常事態とも呼べる彼の様子を見てしまったレネアにとっては、これまで以上の警戒心を抱く羽目になっていた。
だが。
レネアが教室に入って席に向かうまで、エルナンドは一度も此方を見ることはなかった。
気怠げに授業の準備を終え、隣席のイサークに話しかけている姿も、事故以前となんら変わりない。
どうやら、アンディはあの一件を全てなかったことにするつもりらしい。
それはレネアにとっては、もっとも望むべき結末だった。関わらないで済むのならそれが一番いい。
休暇前と変わらぬ振る舞いをするアンディを視界の端に捉えつつ、レネアもまた、極力意識しない素振りに努めた。
そうして。
異変は昼休みの終わりに起こった。
昼休み。レネアは隠れ家のように使っている教室の一つで、片手で食べられるような軽食を手に予習に励んでいた。
午後の一番の授業は魔術学である。近頃は魔術を勉強していると、私室で告白をしてしまったことを思い出すので、あまり人目に触れる場所で予習しづらくなってしまったのだ。
我ながら恥ずかしい理由だったが、恋慕など感情の中でも最も思い通りにならないものなのだから、致し方あるまい。
雑念を振り払いつつ、あくまでも真剣に最終確認の予習を終えたレネアが一息つき、教室を出たその時。
「――――おい、出来損ない。お前に最後のチャンスをやるよ」
突如として現れたアンディに、壁際に追い込むようにして足どめされてしまったのだ。
一瞬で冷や汗が吹き出し、嫌な緊張が走る。後をつけてきたのか、とすぐに悟った。
何のために? もちろん、報復だろう。
やはり、朝の態度は周囲にそう見せているだけで、彼の中では事故の件を流すつもりはなかったということか。
レネアの思考回路はそのように結論を出した。
しばらくは二人で移動しよう、と言ってくれたリディアの言葉を、彼女の神子としての多忙さを理由に断ったのを後悔する。
誰かに助けを求めようにも、わざわざ人がいない場所を選んでいるのだから見つかる筈もない。
せっかく、午後一番の授業は魔術学だからと楽しみにしていたのに。気分は台無しだった。
「……チャンス、って何?」
それにしても、言葉の意図が分からない。
唯一の味方にすがるようにして教科書類を抱きしめたまま問うレネアに、アンディは一瞬眉を寄せ、これみよがしに溜息を吐いた。
わざわざ説明してやらないと理解も出来ないのか、とでも言いたげな態度だ。
「なんで分かり切ってることを一から説明してやらないとなんないんだよ。お前みたいな碌に魅力の無い落第神子なんてな、妹と違って貰い手なんかいる筈ないだろ? そういう出来損ないは、優れた能力を持つ男に守られてるのがお似合いって訳! だから、お前は僕と来い!」
「……? どこに……」
「はあっ? わかんねー奴だな! 黙って頷けばいいんだよ! そしたらあとは僕が全部なんとかしてやるから! 親父だって後で説得してやるし!」
何を言っているのかちっとも分からない。
怖い、と素直に思った。
普段のレネアがエルナンドに抱く感情は、実害と嘲笑に対する不快感だったが、今は不可解さへの恐怖が勝っていた。
神子としての不出来をなじられるのには慣れている。
だが、エルナンドの態度はこれまでのそうしたものとは異なるように思えた。
そして同時に、彼が何かに焦っている、とも感じた。それこそ、筋の通った説明の一つも出来ないくらいには。
「……何の話かも分からないのに同意なんて出来ない。もう行って良い? 私、授業に行かなくちゃ」
魔術を軽んじるエルナンドにとっては欠席しても痛くも痒くもないだろうが、レネアにとっては授業の出席率は何より大事なのだ。実技で結果を出せない分、授業態度に手を抜く訳にはいかない。
それに、先生とは、学内でも顔を合わせられる機会はそう多くはない。貴重な時間を、よりにもよってエルナンドに邪魔されるだなんて、レネアとしても我慢がならなかった。
「は? あんな奴の授業なんてどうでもいいだろ!」
だが、エルナンドを避けて足を進めようとしたレネアの言葉に、対面に立つ彼は派手な舌打ちを響かせた。
進行方向を遮るように立ち位置を変えたエルナンドに、レネアは反射的に眉を顰める。
「エルナンドにとってはそうかもしれないけど。私にとっては大事な授業だから」
「今は僕の話の方が重要に決まってるだろ!」
「だから、その話がよく分からないんだって……」
レネアが本気で理解できないと顔を強張らせているのが分かったのだろう。
唇をひん曲げたエルナンドは、舌打ちを響かせると、壁際に追いやった彼女の顔のすぐ横に手をついた。
身をすくめるレネアが顔を俯けるより前に、エルナンドが顔を寄せる。
端的に言えば、彼は無理に口づけを試みた。
レネアが理解も対処もできない内に。
だが。
「これはひどい。全くもって、口説き文句としては落第もいいところですね」
彼の唇が当たったのはレネアのそれではなく、間に割り込んできた白兎の脇腹だった。
「うぶっ!?」
予想していなかったエルナンドが奇怪な声を上げて固まる。
対面のレネアの鼻先には、ふわふわの毛並みと日向の匂いだけが届いていた。
「あ、アインス……?」
理由もわからず目を白黒させているレネアの前で、空中で停止した白い毛並みが不愉快そうにぶるりと震える。
宙を蹴るように鋭い足音を響かせたアインスの仕草に、エルナンドは弾かれるようにして身を引いた。
ローブの袖で強く唇をこすり、舌打ちを響かせる。
「お前ッ、何しに来やがった!」
「授業時間を過ぎているのに欠席届も出さずに姿を現さない生徒が二人もいるので探しに来ました。エルナンドさんだけならともかく、真面目なルクシュタインさんが姿を見せないとなると、体調不良の恐れもありますからね」
宙を飛んでヴァルターの肩へと戻ったアインスが、ローブに横腹をこすりつけている。
どうやら余程不快だったらしい。なだめるようにして白兎の背を撫でてから、ヴァルターはそれとなく二人の間に割って入り、続けて口にする。
「今日は実習予定でしたからね。皆さん、既に演習場へと移動しています。急いで戻りましょう」
「実習なんかどうでもいいんだよ、もっと大事な話があんだから」
「ルクシュタインさんにとっては貴方との話が授業より大事な用件になりようがないんですよ、分かったらさっさとついてきてくださいね」
状況が飲み込めないまま二人の様子を窺っていたレネアは、そこで一度、ゆっくりと瞬きをした。
ヴァルターはこれまで、エルナンドに対して授業に出席するように強制したことはない。
受けたくないのならば好きなだけ欠席してくれ、というスタンスだった筈だ。
エルナンドも同じように感じたらしい。眉を寄せた彼は、歩き出すヴァルターを追うレネアを見ても、特に足を進める様子はなかった。
十歩ほど進んで、ヴァルターがため息と共に振り返る。
「先程も説明しましたが、今日は実習予定なんです」
「だから? 好きに授業でもなんでもしとけばいいんじゃねえの」
「だから、私の実演のために相手が必要でして。さっさとついてきてください。それとも、また暴発しそうで怖いですか?」
その言葉の意味するところは、きちんとエルナンドにも伝わったらしい。
彼は床を踏み鳴らすように一度踵を打つと、気怠げな足取りで二人の後に続いた。
◆ ◇ ◆
演習場に辿り着いた頃には、授業開始時間を既に十五分も過ぎていた。
三人が足を踏み入れると同時に、待機していた生徒たちの視線が一斉に集まる。
「お待たせしました。申し訳ない、今週の課題は少しレポートの字数を調整しましょう」
エルナンドとレネアがそれぞれ集団の端に混ざるのを確認してから、ヴァルターは何事もなかったかのようにあっさりと授業を開始した。
疑問を口にするのも許さない空気を感じ取ったのか、それとも課題の減量を幸運に思って口を噤んだのか、生徒たちは目配せするのみで素直に頷いた。
この演習場は魔法記述式の実習で使われたものよりもやや小さい。周囲に魔法存在が少ない立地で、魔術初心者には向いている場所だった。
円形の演習場の中央付近で、ヴァルターは整列した生徒を前に説明を続ける。
「さて、本日から実践形式で魔術を学ぶことになる訳ですが。魔法学科では専属の使い魔を持つ必要性がありませんから、基本的には訓練を終えた魔犬をお借りして皆さんに魔術を経験してもらうことになります。
ただ、せっかくの初回の演習ですから、まずは皆さんに興味を持っていただくために、魔術を極めることで可能になる技術の実例をお見せしたいと思います」
生徒全員の顔を見ていったヴァルターは、アンディを視界に納めた瞬間、浮かべている笑みを過度に爽やかなものへと変えた。
「今日は第二火曜日ですから、火属性の魔法成績で一番であるアンディ・エルナンドさんにお相手を願いましょうか。魔法記述式の演習と同じく、対面での実践形式とします。
もちろん、エルナンドさんが使用するのは魔法で構いません」
笑顔のままに告げられた言葉に、事情を生徒たちは一瞬、無言で顔を見合わせた。
生徒を選ぶ際に日付から連想するのは、どの教師もやることである。
だが、第二の火曜日に当てられるのは大抵、教室で二列目の二番目に座るソフィ・アンバーか、日数順の数字が名簿で当てはまるルチナ・フィアットだった。
どう考えても、連想されるべきはアンディ・エルナンドではない。
だが、この場の誰も、わざわざ選出に異を唱えるような真似はしなかった。
指名されたエルナンド自身も、だ。
鼻を鳴らした彼は、休暇前となんら変わらぬ態度で前へと進み出た。
「さぞかし素晴らしい魔術を見せてもらえるんでしょうね、先生?」
「ええ、もちろん。ご期待に沿えるかと思いますよ」
ヴァルターは笑みを崩さぬまま、静かに、自身の肩に乗る使い魔の頭を撫でる。
途端、心得たとばかりに三匹の魔兎は宙を駆けて場を離れた。
少しの間、生徒たちの視線が頭上を駆ける魔兎たちへと逸れる。
「私は先ほど、魔術を極めれば実現可能となる実例をお見せすると言いましたね。これを皆さんにも、もう少し分かりやすくお伝えします」
その視線を、ヴァルターの言葉が引き戻した。
「私は今回、使い魔ではなくレネア・ルクシュタインさんの魔素を使用します」
ヴァルターはもはや、胡散臭いと称すべき程に爽やかな顔で言い放った。
対面で唖然としたエルナンドに遅れて、見学の生徒からも戸惑いの声が上がる。中でもリディアは、一際強い反応を見せた。
ざわめく生徒たち。
だが、この場で何よりも強く驚愕と困惑を抱いたのは、他ならぬレネア自身だった。
「はっ、はい!? 私が!? せ、先生! 一体何を……!」
「皆さんも御存知の通り、ルクシュタインさんは実技にやや苦手意識があります。魔術師がそうした魔法使いに対し、どのような道を示せるかを皆さんに知ってもらえればと思います」
レネアは言葉の意味が理解できなかった訳ではない。
どんな意図があってそんなことを言ったのかと、引き止めるつもりで言ったのだ。
だが、ヴァルターはこの場の驚愕のすべてが見えていないかのように進行を続けた。
「もちろん、ルクシュタインさんが辞退したいというのであれば無理にとは言いません。どうですか?」
レネアはまさに、エルナンドの炎魔法によって火傷を負った。
そんな彼女を再びエルナンドの前に立たせるだなんて、教師としては正しい判断とは呼べないだろう。
それはヴァルター自身理解しているようだった。
自覚した上で、レネアに判断を委ねているのだ。
「わ、私がどうとかの話じゃなくて、そんな、私の魔素なんか使ったら先生に怪我を……」
廊下でエルナンドに詰め寄られた時と同じく、すがるように教科書を抱きしめていたレネアが不安から地面へと目を向ける。
だが、俯きかけたその瞬間、彼女は自身を真っ直ぐに見つめる黄金色の瞳に気づいた。
地に落ちかけた視線が、引き寄せられるようにヴァルターの瞳を見つめ返す。
レネアは、無理だと言おうと思っていた。自分の魔素変換能力が人並外れて酷いことは、自分自身が何より理解している。
初級魔法であれば一定の確率で成功はする。だが、それはエルナンドの魔法に相対するにはあまりに心もとない。自分が火傷を負った時のように、ヴァルターにもあんな思いをさせる訳にはいかない。
心の底からそう考えていた。
だが、口にするはずだった断りの文句は、ヴァルターの瞳と視線を合わせた途端、嘘のように溶けて消えた。
「……お、お願いします」
信じろ、とその目が言っていた。絶対に大丈夫だから、と言葉よりも雄弁にその視線が語っていた。
その自信は、彼が積み上げてきた努力と研鑽への自負によってもたらされたものだ。
そして、レネアは自分の不甲斐なさを思い知っているのと同じくらい、ヴァルターの実力を信じている。
気付いた時には、了承していた。
姉さん、と小さく呼び止めるリディアの声を聞いて、後方へと目を向けつつ、足はヴァルターの元へと向かう。
指名されたエルナンドがレネアに対しこれまでにない程に強い視線を向けていたが、彼女は意図して見ないふりを続けた。
「形式は通常の演習と同じように対面で。発動回数は四学年ならば十回が妥当ですかね」
「十回? ははっ、先生は随分と冗談がお上手なんですね」
レネアの魔素を使ってそんなに持つ訳がないだろう、という意味を含んだ揶揄である。
出来損ないの神子として、繰り返される嘲笑には慣れているつもりだ。だが、不甲斐なさを責められる辛さはずっと変わらない。
そっと目を伏せかけたレネアの隣で、並び立つ生徒たちには聞こえない程度の呟きが落ちた。
「あー、確かに。お前、発動効率悪そうだし、十発も打てないか」
演習相手として前に出ているエルナンドと、その側に立つレネアの耳にしか入らない程度の声量である。ヴァルターも聞かせるつもりはないらしく、表情だけは授業中の笑みのままだ。
だが、しっかりと聞き取ったエルナンドは、その碧眼でヴァルターをきつく睨みつけると低く這うような声で吐き出した。
「調子に乗んのも大概にしろよ、コネで雇ってもらったくせに」
「そちらは親の力で好き放題振る舞っているのに、これからは調子に乗れなくなりそうで困っちゃいますね」
「…………は?」
笑顔のまま告げるヴァルターの言葉の意味は、側に立つレネアにはよく分からなかった。
ただ、エルナンドの顔色が明確に変わった。
小馬鹿にしたような態度から一点、警戒を滲ませてヴァルターを見やる。だが、ヴァルターはその視線に応えることなく、対面の演習形式を取った。
レネアは、対面する二人からは更に距離を置いた立ち位置にいる。
魔素を借りるのには十分な距離のようだった。
そして。
どうぞお好きに、とでも言うように手を差し出して示したヴァルターの合図を皮切りに、エルナンドは勢いよく魔法を発動した。
「【炎熱矢】!」
中級の炎魔法の中では、最も攻撃に適した魔法だ。
その上、火属性はエルナンドの一番の得意である。
四学年生の魔法としては学年上位にも届き得る洗練された攻撃魔法。この年代では一級品の実力だと言えた。
だが。
放たれたその鋭い一撃を、
「【防風】」
ヴァルターはいともたやすくいなして見せた。
眼前に貼られた風の盾が、放たれた炎を矢を散らす。
溶けて消えるように解けてしまった炎の矢を、エルナンドは呆然と見つめた。
「は?」
「え……っ」
いや、エルナンドだけではない。
対面に立つ形になるレネアも、その他の生徒たちも皆、今しがた起こったことへの衝撃を受け止めきれない様子だった。
瞬く間に広がるざわめきに苛立ちを覚えたのか、エルナンドが大ぶりに腕を振った。
「この……ッ、【炎熱矢】!!」
防風は初級魔法だ。
獣害や怪我を防ぐために子供の頃から一番に習得させられる魔法。
本来は、とても中級魔法を防げるような代物ではない。
ならば何が異なるのか。最前で見ているレネアはすぐに理解した。
魔述式の書き方だ。ヴァルターは、記述式を2つ使用している。
前半と後半で、ルード記法とアルデラ記法を切り替えているのだ。
レネアは防御のために一瞬弾ける魔述式の残滓を目に留めながら、恐怖に近い感動を堪えるかのように胸元を押さえていた。
レネアの魔素は非常に不安定で、生成量が少ない。普段はほとんど発動に至らず霧散してしまう。
けれども、勢いを取り戻したエルナンドから次々に放たれる攻撃を弾く防風は、ただの一度も揺らぐことはなかった。
切り替えのタイミングを一瞬でも誤れば、魔術は発動せずに終わるだろう。
しかも、それを火属性魔法に関してはずば抜けた才を持つエルナンドの魔法を弾くために使用している。
最初の一撃を防いだ時点で理解の早い者からは驚愕の声が上がっていたが、それが二、三と繰り返され、十に届く頃には、驚愕には恐怖すら混じり始めていた。
それは対面に立つエルナンドも同じようだった。
動揺を顕にしつつ発動を繰り返し、勢いのままに魔法を撃ち尽くしたエルナンドは、額に汗を滲ませ怒鳴った。
「ふざけんな! どうせそこらの奴からも奪って使ってんだろ! その出来損ないの魔素だけで、こんな真似が出来る訳がない!」
エルナンドの台詞は極めて失礼なものでしかなかったが、当の本人であるレネアですら、その言葉には同意を示す思いだった。
とても、この攻防が自分の魔素を使用して行われたとは思えなかったのだ。たとえ、実際に魔素を使われたという体感を得ていたとしても。
今だけはエルナンドと意見が合う気すらする、と思っていたレネアはそこで、ほんの一瞬、小さな舌打ちを聞いた――気がした。
気のせいかもしれない。この場でそんな音を聞くとしたら、それはヴァルターから発せられたものの筈だからだ。
「先生……?」
レネアは思わず、前方に立つヴァルターの背に問いかけていた。
意識していたよりも不安げな声が出てしまったかもしれない。それは、レネアの魔素が想定よりも使いづらく、迷惑をかけてしまったのでは、という不安からでもあった。
だが、振り返ったヴァルターの顔には、普段の授業中と変わりない、教師としての笑みが浮かんでいた。
「ご協力ありがとうございました、ルクシュタインさん。エルナンドさんも。では、皆さんのためにも振り返りをしましょうか」
「待てよ! もう一度だ! 今度は不正なしでやれよ!」
講義のために整列する生徒たちの方へと戻ろうとするヴァルターを、エルナンドが引き止める。
だが、引き止めたエルナンド自身、口ではそう言っていても、勢いのままに連発したためか、疲労によって足元がふらついていた。
「自信のある魔法を防がれてショックなのは分かりますが、その度に不正を疑われるのは困りますからね。どうしてもというなら、今度サーキスタ先生から魔素観測機を借りて、立ち会いのもとでやりましょう」
機会があれば、ですけど、と付け足しながら話を切り上げたヴァルターに、エルナンドは更に抗議の声を上げようとする。
だが、生徒の列から前に出たラトリナ・エスカペルテが、そんな彼の身体を支えるようにして、それ以上の言葉を止めた。
アンディ、と心からの心配を声音に乗せて呼びかけ、それとなくイサークの元へ連れて行く。振り払いかけていたエルナンドだったが、続けるには場が悪いと判断したのか、比較的素直に従い、生徒の列へと戻った。
その後、何事もなく授業は進んだ。
「この通り、魔術師は他者の魔素の性質を見極める能力に長けています。
これは魔法使いがそうした感覚に劣るということではなく、生来変換機構により身体に魔素を巡らせている魔法使いには、長年共にある自分の魔素のみを感じ取るのが難しいという話です。
魔術師は魔素変換能力を持ち合わせないからこそ、他者の魔力を使用した際に、生成された魔力の性質そのものを感じ取る能力に長けています。それが属性や記法の見極めやすさに繋がる訳ですね」
ちなみに、これは魔術科の生徒が聞けば口を揃えて『それは先生だからです……』と返すような文言だったが、この場にいるのは魔法学科の生徒だけだったので、特に指摘は入らなかった。口には出せなかった、とも言う。
「さて。私は今、ルクシュタインさんの魔素を使用して風魔法を発動させました。これは彼女の魔素が風属性に最も適性があること、そして魔素が拡散しやすい特性であることを見極めて記法を選択した結果です。
しかし、私が示した記述式が最適である――とは言えません。ルクシュタインさんなら、分かりますね?」
目を向けられたレネアが、小さく頷く。
「は、はい。……今の私の技術では、とてもあんな方法で魔法記述式を記すことは出来ません。多分、発動しないか、暴発してしまいます」
「その通りです。最適であることが最善であるとは限らない、というのも記述式の見極めが困難である理由です。魔術師も魔法使いも、魔素の性質と技量の両方で釣り合いが取れた記法を、自ら探求していかなければなりません。
仮にルクシュタインさんが私が示した方法をただ真似たとしても、歪みが生じて成長に害が起こることもあります。私が皆さんに提示できるものは、単に私の技量で再現可能な記法を使った発現に過ぎません。
ただ、皆さんの成長にとって非常に参考になる、とは自負しています」
かつてない熱量で自身に目を向ける生徒たちに視線を返しながら、ヴァルターは淡々と告げた。
「今期の魔術学の成績優秀者に、直々に記法の選定を行います。もちろん、その方が希望すれば、という話ですが」
一拍の間。
ヴァルターの言葉の意味を理解した生徒一同は、その日一番の驚愕の声を上げた。
◇ ◆ ◇
さて。
その後、何が起きたのかと言えば。
「聞いたっ!? 今年度の魔術学さあっ、成績一位取ったら、ヘルエス先生が向いてる記法見極めてくれるんだって!」
「はっ!? なにそれ! そ、それって学科関係あるの? やっぱり魔術科でないと駄目、とか」
「ないよ! 必修科目だけ取ってても、それで一番取ったらいいって!」
「学年も関係なし!?」
「そう! さっき聞いたら、良いですよって!」
新学期早々、廊下を行く生徒の口に上るのは先日のヴァルターの発言だった。
興奮した様子で身を寄せている三学年の女生徒ふたりの隣で、別の女子生徒が小さく鼻を鳴らす。
「魔術師に見てもらうのって、よっぽど技量的に優れた人でないと大した意味ないじゃん。あの人、攻撃魔法は得意みたいだけど、適性も見極め上手いの?」
「上手いに決まってるでしょ! だって、片割れの魔素使ったんだよ?」
「えっ、嘘」
「ほんとだって。先輩に聞いたもん!」
「それでエルナンド先輩の攻撃魔法防いだんだって……!」
冷めた顔をしていた女生徒は、その一言で唖然としたのち、驚愕の声を上げて二人の会話に加わった。
全学年の中でも、特に四学年の興奮は凄まじいものだった。
それはそうだ。
あのレネア・ルクシュタインの魔素を使用して魔術を行使したのだから。
学園に通うものならば、落ちこぼれの神子については当然把握している。
神殿は明言こそしないものの、寵愛のバランスが偏ったことによる不調だと理解されている。だが、原因など彼らにとってはどうでもよい。
重要なのは、この四年間、神子の片割れは魔法の発動に難儀し続けていたという事実だけだ。
不安定で生成量にも乏しい魔素を使い、魔法の才に恵まれたアンディ・エルナンドの攻撃を躱しきったのだ。
それは、下手をすれば、緋龍を屠るよりもよほど尋常ならざる快挙だった。
四学年の魔法科クラスでも、魔術学の報酬についての話題で持ち切りだった。
「で? 結局、ヘルエス先生って何者?」
「だからさぁ~、やっぱり学園長の弟子なんだってば」
手製の昼食を前に語り合うのは、ルチナ・フィアットとアメラ・テアンズだ。
二人共、レネアが怪我した際に真っ先に駆け寄ってきた女子生徒である。
そこに、控えめな声音でソフィ・アンバーが加わった。
「ええと……王族に囲われる前に学園に保護したってことじゃないかな。あれだけの魔術師だと、この国だけじゃなくて四大国全ての有力者が手元に置きたがるだろうし、その前に学園の教員にしておけばオルキデア様が守れるってことかも……」
「……いや、でも、あの規模の人を囲うとか、無理じゃない?」
「ヘルエス先生、誰の魔素でも余裕で使っちゃいそうだもんねー。まあ、アシェット国じゃ学園外でやったら罰金と懲役あるから、そういう意味でやっぱり一番才能が発揮できるのは学園って考えたとか?」
「そもそもあの人、これまで一度も名前聞いたことないんだけどさ……、何処で何やってた人なの……?」
三人娘はそこで一度会話を切り、斜め後ろで購買のパンをかじるレネアへと目を向けた。
「ルクシュタインさん、知ってる?」
突然話を振られたレネアは、一瞬パンを喉に詰まらせかけ、大きく咳き込んだ。
「え? ぜ、全然っ、私も、すごい先生だなあってくらいしか……」
「そうなの? 二人の姿が見えないからってわざわざ探しに行ってくれたくらいだし、神殿にも招待されてもおかしくないくらいの人だから、神子様ともなんか関係あるのかなあって思ってたんだけど」
レネアが授業前にアンディに詰め寄られた一件は、クラスメイトも知らない。
だが、二人が共に現れたことから、いつものようにトラブルがあったことは容易に想像は出来ただろう。
ヴァルターは授業の開始を遅らせてまで様子を見に行ってくれたそうだ。
そして、『不調の神子』のために魔術科の教師がそこまでする様を見るのは、生徒たちにとっては初めてのことだった。
実演によってレネアの魔素が魔術では発動可能だと証明されたこともあり、生徒の中には、彼がレネアのために呼び寄せられた人材なのでは、という予測も立ち始めているようだった。
故に、神子であるレネアはもう少し事情に詳しいのでは、と思われている、らしい。
実際、週末の個人的な魔術講義を含めるのならば、レネアは他の生徒よりはヴァルターの事情に詳しいと言えるだろう。何より、強欲の賢者アフィスティアの弟子であることも知っている。
ただ、そんな関わりは、とてもじゃないが此処では口に出せなかった。
「演習事故で怪我をしてしまった時に、詳しく見てもらったの。その時に少し……エルナンドについても相談に乗ってもらったら、色々と考えてもらえたみたいで……ほら、私、魔法が、とっても苦手だから、馬鹿にされてたでしょ? だから、ああいう方法を取ってくれたんだと思う」
後半に関してはあくまでも軽く聞こえるように、笑い混じりに告げた。
これまでは気まずそうに誤魔化されるばかりだった話題だが、まず初めに、ソフィーがぱっと顔を輝かせた。
「でも、魔術の才能はあるかもしれないんだよね」
「そうそう! そうじゃん!」
ルチナ・フィアットも、明るい声で同調する。
「だってほら、ルクシュタインさん、座学はこれまでずっと学年一位だよ」
「実技含めたって、魔術学ではぶっちぎりで一位じゃない? どうせ他のみんなは大して真面目にやってないし、てか魔術は魔術で別の難しさあるし……。そしたらほら、ヘルエス先生に最適な方法を見極めてもらえるんだから、こっから巻き返せる訳じゃん!」
クラスメイトの声は、レネアが思うよりも余程明るいものだった。
これまで、学園の優秀な魔法使いたちが丁寧に教えたとしても、レネアの不調には手の打ちようがなかった。
だが、ヴァルターはあの演習ではっきりと、レネアの魔素でも戦えるという道まで示してくれた。
あれはあくまでもヴァルターの才あってこその成果であり、レネアにとってはあまりに遠く困難なものではあるが、それでも希望を見せてくれたのだ。信じるに値する希望を。
更には、その希望を、レネアだけではなく皆が信じ始めている。
これまでの不甲斐ない様ばかりのレネアを見てきた彼女たちの中に、そんな風に信頼の芽が生まれたことが、何よりも嬉しい。
「ありがとう、そうなれるように頑張るね」
レネアはその日、教室で初めて、心からの笑みを浮かべた。




