◆8-2 告白
四学年の魔述式演習は、しばらくの間ラフル・サーキスタが受け持つこととなった。
夏期休暇が近く残りの授業回数も限られているため、代行にも問題はないとされたようだ。
休暇明けには演習事故についても落ち着くと考えられているらしい。
ラフルの代行はあくまで一時的なものであり、ドリエルチェは引き続き担当教員を務めるようだ。
神子であるレネアに怪我をさせておきながらその程度の処分で済むあたり、ドリエルチェ家からの寄付金は相当のものなのだろう。
リディアは憤慨していたが、レネアにとっては少しの間でも顔を見ずに済むならそれで十分だった。
アンディ・エルナンドは未だ、欠席している。
彼の取り巻きをやっていた女生徒も、すっかり勢いを無くした。
それどころか、彼女たちはあっさりと別の対象に乗り換えたらしい。
エルナンド一派の中で変わらないのは、イサークだけだ。
淡々と授業を受け、アンディのために課題を持って帰る。
彼はアンディが何をしようと、どうなろうと構わず友人関係でいるつもりらしい。
そんなイサークを見る度に、レネアの脳裏には図書館で顔を合わせた日の言葉が浮かんでいた。
きっと、アンディにも、彼に近しい者しか分からない美点があるのだろう。
レネアにとっては理解したいとも思えないが、イサークの態度は、彼らの間にある友情が本物であることの証明だった。
それにしても、とレネアは思う。
一々笑ってくる人間が居ないだけでも、学校生活というのは随分と快適になるようだ。
その日最後の授業が終わり、レネアは晴れやかな気分で席を立った。
気分に相応しい晴天である。差し込む明かりに誘われるように、彼女の足は校舎南側の中庭に向かった。
放課後の自主学習には複数の人気スポットがあるが、レネアが普段使う場所は、校内でも殆どの生徒が知らないような場所ばかりである。
南側の中庭もその中の一つであり、レネアは自分以外にほとんど利用者を見たことがなかった。
単純に、手入れを放置されているのであまり使い勝手がよくない、というのもある。
「ああ、ルクシュタインさん! 此方に居たんですね」
「えっ、サーキスタ先生?」
なので、レネアは目的地に近づいた頃に声をかけられたことに、素直に驚いた。
人波を外れるようにしてしばらく進み、渡り廊下から雑草だらけの中庭が覗く頃。
後方から、聞き慣れた声がかかった。身を返すと、声の通りにラフル・サーキスタが立っている。
常と変わらず、輝くような美貌に柔らかい笑みを浮かべた彼は、レネアを探しにきたようで、少し足早に距離を詰めた。
「すみません、何か提出間違いでもありましたか?」
「ああ、いえいえ。今回も完璧でしたよ、ご心配なく」
どうやら自分は探されていたらしい。
察したレネアが不安を口にすると、ラフルは軽く首を横に振った。
魔法実技を不得手としているレネアは、実技科目については特例で評価方法を配慮してもらっている。
通常の課題に加えて、幾つかレポートを追加提出している形だ。
担当科目に関わらず、その窓口はラフルが務めることが多かった。
魔法学科で、レネアに対して害意なく対応する教師が彼しかいないためである。
「あれから怪我の具合はどうか、少しに気になりまして。あまり、他の方がいる場所で確認する訳にもいきませんから……」
呟くラフルは、人気の少ない廊下でありながらも周囲に目を向けている。
気にしているのは、ドリエルチェの取り巻きをやっている教員や生徒に見られないか、だろう。
レネアと同じく平民出身である彼にとって、貴族出身の教員に目をつけられるのは避けたい筈だ。
そんな中でも、ラフルはいつもレネアを気にかけてくれている。
「もうすっかり大丈夫です! ありがとうございます」
「それは良かった。残りの授業は、リディアさんとペアにしますから。どうか安心してください。
無理をせず、実技中に気分が悪くなったらすぐに休んでくださいね。四大属性はどれも演習課題に含まれていますし、火属性の魔法を使わなければならない場面も出てくるでしょうから」
「お気遣いありがとうございます。でも、本当に大丈夫なんです。ヘルエス先生が色々と気にかけてくださって、気持ちも大分落ち着きました」
変換機構に異常を抱えているレネアには、通常の治癒魔法による治療はあまり効果が上がらない。
体質上の問題を理由に、彼女がヴァルターの治療を受けていることは、全教員が把握していた。
知られていてもいいのは、そこまでだ。
神子であるレネアが、魔術師であるヴァルターに思いを寄せているなどとは、悟られてはならないのである。
尊敬する先生に、迷惑をかける訳にはいかない。それが好きな人ならば尚更だ。
あいにくと、平気な顔を取り繕うのには慣れている。
レネアはあくまでも、生徒として相応しい態度を心がけつつ、慎ましい笑みを浮かべた。
だが、しっかりと受け答えしたレネアの前で、ラフルはやや歯切れの悪い声で呟いた。
「ヘルエス先生……ですか」
常ならばその美貌に穏やかな笑みを浮かべている筈のラフルは、眉根を寄せてレネアを見下ろしている。
レネアは思わず、縋るようにして教科書を抱きしめる。
ラフルは聡明で察しの良い大人だ。
誤魔化しなど見抜かれてしまっただろうか。
「えっと……先生が、どうかしましたか?」
ヴァルターに過度な好意を持っているとバレるのは、彼のためにもよろしくない。
なるべく平静を装って尋ねると、ラフルは困ったように苦笑した。
「いえ、その……内緒にしてほしいのですが」
ラフルは周囲に人目がないことを幾度も確かめ、少し困った顔で身を屈めると、レネアの耳元で小さく囁いた。
声を抑えるのに加えて、音響を抑えるための魔法まで使用している。
「……実は、私は使い魔というものに憧れがありまして」
「えっ」
思わず顔を上げる。
ラフルは、平民出身でありながら次期学科長だと言われるほどに優れた魔法の使い手だ。
彼の使う魔法は洗練されていて美しく、間違いなく、神に愛されし魔法使いのお手本のような存在である。
そんな彼が、使い魔に憧れを持っていたとは。あまりに意外な話である。
「先生も魔術に興味があるんですか?」
「魔術がどうこう、というよりは、本当に、使い魔が好きなんです」
驚きに目を瞬かせるレネアを前に、ラフルは照れくさそうに笑みを浮かべる。
「……『使い魔』の存在が確立されて以来、魔法使いがペットを飼うのは良しとされないでしょう? 子供の頃は決して許されなくて……ですが、私は特に、兎が好きで」
「兎が」
レネアの頭に浮かぶのは、白黒茶の三匹だ。
ご飯も手入れも愛情もたっぷりと受けた、つやつやにしてふわふわの三匹である。
魔兎には浮遊能力がある。
野生下では、地面の他に空中すら跳ねるように駆けて移動するそうだ。
だが、ヴァルターの使い魔は宙に浮くことはほとんどなく、いつも彼にくっついて甘えている。
頭の上が特にお気に入りで、大抵は、後ろ足を宙に置いて寝そべるように乗っかっている。
特等席は腕の中だ。甘やかされたい時は、腕の中に潜り込む。
魔兎三匹の態度は、そのまま主人であるヴァルターへの信頼と愛情の証だった。
ラフルはそっと目を閉じると、眉を寄せながら苦悩の声を出した。
「私はヘルエス先生が……それはもう、羨ましくて……」
脳裏には魔兎トリオが並んでいるのか、口元は緩むように歪んでいる。
加えて言えば、手元が想像の動物を撫でるように動いていた。
確かに、あの柔らかく温かい毛並みには、なんとも言えない抗い難さがある。
レネアは魔兎トリオの感触を思い出しながら、思わず頷きを返していた。
「多分、先生だったら、頼んだら触らせてもらえると思いますよ」
「いえ、いえ、いけません。魔法使いである私が、魔術師の方にそんな無礼なお願いをする訳には参りません。故に、空想で我慢しているのです。
それに……不用意に親しくしてしまえば、私が彼を庇う言葉は魔法科の先生方には悪意を持って捉えられるでしょう」
レネアは、静かに目を瞬かせた。
対面に立つラフルは、ほんの僅かに顔を曇らせる。
「彼ほどの実力者であれば、私のようなものの助けなど要らないとは思います。
ですが……まだ十六歳の少年が、突然魔術の教師を務めるなどという要らぬ苦労をしているのです。
我が校の魔法教師は、お世辞にも差別に対する意識が高いとは言えません。
私には此処を失えば他に居場所がありませんから、表立って反論などは出来ませんが……少しでも彼の助けになれればと……」
声音は徐々に苦々しいものへと変わっていた。
恐らく、ドリエルチェの顔を思い出しているのだろう。
「先生……」
「ああ、いけません。こんなことを、生徒に話すものではありませんね。レネアさん、どうか内緒にしておいてくださいね」
「それは、勿論です。先生も、無理はしないでくださいね」
ラフルは取り繕ったような笑みを浮かべると、最後にちょっとだけ名残惜しそうに空中を撫でてから去っていった。
* * *
夏季休暇が近づくということは、『双神祭』が近づくということでもある。
双神祭。
太陽神エリルバーンと、月光神レインメイカーに感謝を捧げる為の年に一度の祭りだ。
王都では双神に感謝を示すとして、大通りには華やかな店が出る。
そして、使いである神子は正装で着飾り、神の愛を伝えるために神輿に乗って中央地区の教会を回るのだ。
レネアにとってはあまり、喜ばしいとは言えない季節だ。
けれども、逆に言えば双神祭があるからこそ、レネアはまだ神子としての役目を果たしているとも言える。
だからこそ、どんなに辛くとも勤めを果たす他ないのだ。
無事に試験を終え、夏期休暇を迎えようという、ある日。
就寝準備をするレネアの元に、隣の部屋からリディアが訪ねてきた。
双神祭での神子の務めは、リディアにとってもあまり気が乗らない役目である。
昔のように、気持ちを落ち着けるために共寝を頼みに来たのだろうか。この時期には、よくそういうことがあった。
「……姉さん、私、姉さんに話さないといけないことがある」
「どうしたの、リディ。そんな顔して」
緊張で強ばった顔で扉を閉めるリディアの顔を見ながら、レネアは一先ずベッドの縁に腰掛けた。
隣に座るように促すと、リディアは常よりも重苦しい足取りでやってきた。
「……前に話したと思うんだけど。私、好きな人がいて」
「うん」
イリアルテの子だよね、という言葉は一旦、飲み込んでおく。
「それで、あの、……その、」
「うん」
「こ、告白されたの」
「えっ? こ、告白!?」
「婚約を結ぶことを考えてくれないかって……でも、私、無理だよ……」
「無理って、どうして?」
「だって……!」
顔を上げたリディアは、レネアが心底不思議そうな顔をしているのを見ると、何処か途方に暮れたような顔で唇を引き結んだ。
そうして、そのまま黙り込んでしまう。
対するレネアは、生じた沈黙を割くように、そっと呟きを落とした。
「リディと彼の婚約だったら、神官長様だって何も文句はないと思うんだけどな」
神殿としても、歴史ある騎士の家系であるイリアルテ家の子息ならば文句はないだろう。
リディアは平民出身だが神子であるし、何より精霊であるシルフ様の寵愛を受けている。
イリアルテ家では、ルイスを次期当主として考えているらしい。
彼が次男である以上、長兄を差し置いて家を継ぐならば『神子』を娶ることは政略的にも良縁と言える。
イリアルテ家にとっても利点が多く、わざわざ強く反対されるようなことはないだろう。
「前にも言ったけど、私はイサークには何もされたことはないから、彼がイリアルテでも何も気にならないし。リディが好きになったんだから、きっと素敵な人なんだろうなって想ってるよ。会わせてくれる日が来るのを、とっても楽しみにしてるくらい」
レネアは心の底から、本心を込めて言葉を紡いだ。
愛する妹が、好きな人と結ばれるだなんて、こんなに嬉しいことはない。
どういう訳か、当の愛する妹は何か、世界に絶望でもしたような顔をしているけれど。
「リディは何が心配なの? やっぱり、相手が貴族様だから?」
「違うよ」
「えっと、じゃあ、マリッジブルーみたいな感じ……?」
「それも違うよ! 私は、私が言いたいのは、その、だって、私だけが……」
一瞬、勢いのあまり立ち上がりかけたリディアは、そのまま、声と共に身体からも力を抜いた。
本当は、レネアも彼女が何を心配していたのかは理解している。
リディアは世界中の何よりも、不出来な姉を想ってくれているのだ。
「私は、リディが幸せになってくれるのが、一番嬉しいよ。この世で一番嬉しい。よく、自分のことみたいに、なんて言うけど、多分自分のことよりずっと嬉しいんだ。だから、リディには世界で一番に幸せになってほしい」
だからこそ、レネアはあくまでも明るい声で口にした。
隣に座るリディアの、強く握られた左手に、そっと自分の手を重ねる。
そうでもしないと、彼女は泣き出してしまいそうだったから。
言葉もないままに抱きついてくるリディアの身体を抱き留め、レネアは少しおどけたように続けた。
「そもそも、先生にとっては私はまだまだ子供だって分かったからね。これからもっと頑張って、魅力のある大人の女性にならないと駄目ってことだよ。それってきっと、先の話だろうし……その時には、リディには恋愛の先輩として力を貸してもらおうかな!
だから、恋人だって先に作ってくれたら頼もしいし、婚約だって先にしていいし、結婚だってもちろんだよ! つまり、そんな素敵な話を受けない選択肢はないってこと!」
「…………ありがとう、姉さん」
「私の方こそ、大事な話をしてくれてありがとう。お母さん達にも伝えないとだね。ふふ、驚くだろうなあ」
リディアはまだ、レネアがヴァルターに告白をしたことまでは知らない。
それを話すなら、リディアにも打ち明けたことのない心に触れなければならない気がするから、まだ言える気がしなかった。
あの日、先生に振り向いて貰えるように頑張る、と宣言したレネアに、リディアはいつものように頼もしい笑みで、協力するよ、と言ってくれた。
イリアルテ家の子息ならともかく、魔術師であるヴァルターと結ばれたいと望むことを、神殿は許さないだろう。それはレネアも理解していた。
けれども、そんな理由をつけられた程度で諦められるようなものは恋とも呼べない。
今はまだ、ヴァルターへの好意を、進むべき道の希望とするだけで十分だった。
もちろん、いつかは成就するならば何より嬉しい。でもそれは、もっと先の自分が成すべき恋だ。
大丈夫だ。諦めの悪さにだけは自信がある。
何せ、四年も座学一位を誰にも譲らなかったのだから。
「リディの結婚式かぁ! すっごく綺麗なんだろうな、楽しみ!」
「い、いや、気が早いよ……まだ婚約……だから……」
赤くなるリディアの頬をからかうように突きながら、レネアは嬉しそうに声を上げて笑った。




