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◇8-1 治療


 演習事故翌日の昼休み。

 ヴァルターは自身の研究室でレネアと向かい合っていた。


 二人が席に着いた卓上には、ヴァルターの弁当と、レネアが持参した購買のパンが並んでいる。

 治療に時間が取られて昼休みが減ってしまうため、研究室で食事を取っていくのが一番都合がいいとなったのだ。


 対面に座るレネアの顔色は、昨日よりはマシとは言え、到底本調子には見えない。

 彼女が持ってきた弁当が購買の小さなパン一つであるのも、食欲が戻らないことを示していた。


 焼けてしまってところを無理に切り揃えたのか、やや不格好に短くなった前髪がヘアピンで留められている。

 右腕をヴァルターに預けるレネアは、何処か落ち着きなくその髪先を弄りながら、小さく呟いた。


「……エルナンド、今日は休んでるみたいなんです」

「まあ、次の日平気な面で来れるメンタルはしてないでしょうね」


 ヴァルターは努めて、普段の授業と変わらないあっさりとした声音で答えた。

 彼女にとってはそれが最も話しやすい空気だと判断したためである。


 レネアはじっと、治癒の効果を受ける自身の腕を見下ろしながら、力の無い呟きを重ねた。


「昨日の今日で顔を合わせたら怖くなってたかもしれないから、それは良いんですけど……」

「けど?」

「あの……、……先生は、あれはエルナンドが故意にやったことだと思いますか?」

「思いませんね」


 素っ気ない声で、それでも間髪入れずに返した。

 あまりに即答だったものだから、問いかけたレネアの方が、反応が遅れて目を瞬かせている。


「エルナンドの実力であれば、【篝火(フエゴ)】を使う振りをして別の魔法を発現すること自体は出来ます。

 けれども、嫌がらせにしたって重傷になりうる炎魔法を、身も守れない相手にぶつける度胸はエルナンドにはありません。

 直接害を成すにしたって、精々が水魔法でしょう」


 度胸、というよりはエルナンドがレネアに抱える感情の問題だが、ヴァルターは意図して省いた。

 説明においてはそれで充分だ。


「じゃあ、やっぱり事故ってことですよね……暴発とか……」

「まあ、そう捉えることも出来なくはないですが。……どうしてそんな確認を?」


 訝しんだヴァルターに、レネアは一瞬戸惑ったように間を置き、唇を軽く噛んだ。

 何か覚悟を決めるように息を吸い、吐息と共に思いを吐き出す。


「このまま……エルナンドが来なくなっちゃったらどうしようかと、思って。

 みんなわざとやったんだ、って怒ってて、学園に正式に訴えるべきだって話にもなってて……でも、私はそう思わなかったから、あれは事故だったんだよってみんなが納得してくれたらと……」


 目を伏せたまま告げられたレネアの言葉に、今度はヴァルターが目を瞬かせた。


「……怪我を負わされたのは事実ですよね。そこまで庇ってやる必要はないのでは?」

「あっ、いや! 違うんです、私……違くて……エルナンドを庇いたいとか、みんなに許してあげてほしいとか、そういうことじゃなくて……」


 せっかく戻り始めていた顔色は、今ではすっかり青ざめていて、事故直後のものに近かった。

 彼女の狼狽は、そのまま視線に現れる。迫り来る恐怖が耐えがたいのか、レネアは鈍色の瞳を閉ざすように瞼を下ろした。


「私のせい──になるのが、怖いだけで」


 治療のために触れている彼女の手は、驚く程に冷たくなってしまっている。

 ヴァルターは治癒とは別に、外部からの温度調節として魔術を行使した。


 俯いたレネアは、もはや冷や汗まで掻きながら、言葉を紡ぐ。

 身の内に抱え切れなくなった感情を、吐き捨てるように。


「だって。私は、その、我慢したのに。これまで我慢したのに……卒業したら離れられるから、頑張って、平気でいようって思ったのに。私の怪我くらいで(・・・・・・)来なくなって、それで、私のせいになる、なんて、おかしいじゃないですか」


 ヴァルターはじっと、宥めるように彼女の手に己の手を添えた。

 震える彼女の手をそのままにしておくのは、あまりに忍びなかったからである。


「なんで、どうして、加害者なのに、被害者みたいな顔でいるんですか? 悪いことをしているのは向こうなのに、まるで私に傷つけられたみたいな顔をしてるんですか? そんなの、おかしいじゃないですか」


 縋るようにヴァルターを見つめて揺れる瞳には、耐え難い程の恐怖が浮かんでいる。

 けれども、潤んだ瞳から雫が零れ落ちることはなかった。


「怖いんです。人間って、自分が被害者だと信じると何をしてもいいって思うじゃないですか。自分は弱い側だから何をしてもいいんだって考えるじゃないですか。

 そのせいで私が恨まれて、私の大切な人が傷つけられたらどうしようって、不安で堪らなくなるんです。だって私には大切な人を守る力はないから。

 ……だから、エルナンドは悪くなくて、事故なんだって、証明したくて」


 そこで、レネアはつっかえるように咳き込んだ。

 涙を堪えたまま喋ったので、変に呼吸が乱れたのだろう。


 今回分の治癒はちょうど終わった。

 ヴァルターはそっと、温めたミルクを注いだカップを渡しながら、静かな声で断言した。


「ルクシュタインさんのせいになることは無いですよ、絶対に」

「……客観的に見ればそうです。でも……主観は違う、と思います」

「ええ、その通りです。人の心だけは確約できませんからね、不安を取り除くには足りないでしょう」


 レネアには材料が足りない。

 『自分が好かれている』という判断材料が。

 自身が、情緒が拗れたカス(エルナンド)の初恋相手である、という情報が。


 だが、そんな情報は彼女にとって、一欠片とて足りる必要はない。


 ヴァルターは、安心させるようににっこりと微笑んだ。


「不安はもちろん当然のものですが、そもそも授業監督がクソッタレのドリエルチェですからね。まず確実に、エルナンドには何ら過失のない『事故』ということになります。

 仮にしたくなかった場合だとしてもそうなります。無罪放免さえ勝ち取れば、あの男のことですから、数日もしたら調子を取り戻しますよ」

「そう、でしょうか」

「それでも不安でしたら、加えて敵を別に用意してやりましょう。たとえば私とかね。慣れてきましたから、今度こそルクシュタインさんには少しも目移りしないように釣り上げてみせますよ」


 やや芝居がかった、おどけた調子で口にする。

 ようやく恐怖が薄れたらしいレネアが、小さく笑みを浮かべた。

 彼女の膝の上にやってきた黒兎(ドライ)を撫でる余裕も出てくる。

 のし、と真ん中に居座ったドライは、そのまま撫でろの主張を続けていた。


 しばらくしている内に、レネアもそれなりに落ち着いたらしい。

 やはり動物との触れ合いは心を休めるのに向いている。


 時間としてもちょうどいいので、そのあたりで昼食にしてしまうことにした。

 あれこれと世間話を混ぜつつ食べ終わる頃には、レネアの顔色は大分良くなっていた。


「……ところで、エルナンドと顔を合わせるのが辛いようでしたら、無理に登校する必要はないのでは? 私の方から屋敷へ治療に伺いましょうか。授業を休んでも、レネアさんであれば成績を鑑みてレポートで許されるでしょうし」

「あっ! えっと、大丈夫です! 授業を受けてる時は私、平気になるんです!」


 レネアの声は至極明るいものだった。

 だからこそ、ヴァルターは明確に、嫌な引っ掛かりを感じて、レネアを見つめた。


 彼が言葉を続けなかったため、しばらくの間、二人は無言で目を合わせることとなる。

 レネアは、ヴァルターの視線の意味がくみ取れないのか、数秒ののちに軽く首を傾げた。


 彼が思い出しているのは、昨日のレネアの様子だ。

 事故直後、治療をしている際のまるで他人事のような態度。


 ヴァルターはそれを見た時、レネアがまだ事故のショックが抜け切れず放心状態にあるのだと考えた。

 校医であるロディリアスも同じ意見であり、彼女は治療を任せる上でヴァルターにいくつかの方針を伝えた。


 冷静になってから記憶がぶり返すことで、改めて心に傷を負うこともある。

 そのため、傷の治療と共に精神状態の観察もしていくこと、気になる点があればロディリアスにも伝達をすること、となっていた。


 今まさに、ヴァルターにとっての『気になる点』が生じた、という訳だ。


 レネアは今、はっきりと『授業を受けてる時は平気になる』と口にした。

 冗談や虚勢ではなく、おそらく、本気で。


 ヴァルターは脳裏に過った記憶を辿りつつ、意図して態度を学園外でのものへと切り替えた。


「……ルクシュタイン。アンタ、先週まで週末熱出してたって聞いたんだけど」

「え? あっ、リディから聞いたんですか? そ、そうなんです、学校がある時は大丈夫なのに、家だと気が抜けて寝込んじゃうみたいで」


 恥ずかしそうに俯くレネアを見つめて、ヴァルターはほんの一瞬、思考を回した。


 まず、踏み込みやすい方向から切り出した方がいいだろう。

 彼女の意識が、己の異常に気づかず済むような。そういう雰囲気を目指すべきだ。


「えーと……そんなにショックだった?」

「え?」

「エスカペルテとのこと。マジで、何もなかったんだけど」


 眉を下げ、機嫌を伺うような微笑みを浮かべる。

 レネアはそこで、自分が熱を出すことになった切っ掛けを思い出したらしい。


「えぁ!! いやっ、そのっ、し、信じてます! 先生のことは! でも体調が、体調はどうにもならなくて……ど、どうしても……!」


 途端に血色が良くなる。

 慌てながら顔の前で手を振るレネアには、嘘をついている様子はない。

 そもそも、嘘を吐く必要などないのだ。

 彼女にとっては純然たる事実でしかないのだから。


 彼女は、学校に来ている間だけは、自身の精神へかかった負荷を無意識下で無視している。

 それは、どの角度から見たとしても、あまり健全な精神状態だとは言えなかった。


「あのさ。やっぱり、放課後の治療は屋敷に行ってもいいか?」

「せ、先生が来るんですか? う、うちに?」

「ちゃんと学園の許可も貰ってから行くし、あんまり文句も言われないと思う。此処に残ってると案外、意味もないのに呼び出されたりとかもあるから」


 別に嘘ではない。

 本当に呼び出されたりはする。

 主にメビウスとか。メビウスとか。メビウスに。


「でも、その、時間外労働になっちゃいませんか」

「それこそ今更じゃないか」


 週末を指して言えば、レネアは先ほどまでの下りも思い出したらしい。

 気恥ずかしさを誤魔化すような照れ臭そうな笑みを浮かべた彼女からは、そう間を空けずに了承の返事が返ってきた。



   *   *   *



 放課後。帰り支度を整えた頃。

 ヴァルターの研究室を、ラトリナが訪ねてきた。


 一応は人目を忍んだ様子である。

 後ろ手に扉を閉めたラトリナは、詰め寄るようにして用件を告げた。


 ごちゃごちゃ喚いていたが、要約すればアンディ・エルナンドが起こした事故の原因を究明しろ、という話である。


「アンディに訪問の手紙を出しても返事が来ないし……相当参ってるみたいなの! あの一件のことなんとかしてよ!」

「放って置いても無罪放免ですよ。現に、会議すら開かれないままに事故扱いで処理されているくらいです」

「それじゃあ権力で押さえ込んだと思われるじゃない! アンディはやってないのに!」

「やってないんだから堂々としてりゃ良いんじゃないですか?」

「そうだけど! そうじゃなくて! アンディの気持ちを考えてよ!」


 何であんな野郎の気持ちを考えねばならんのか。

 そもそもなんで解決のためにヴァルターを頼りに来ているのか。

 やはり重篤なアホなのかもしれない、と心配すらしてしまった。


 だがまあ、此処で延々と喚かれるのも困る。

 何せ、この後はレネアの治療に向かわなければならない。

 身体的な治癒だけではなく、精神に対する早急なケアが必要なのだ。


 急ぎの用があるところに、こんなくだらない案件で足止めを食らう訳にはいかない。


「エルナンドに、近頃手に入れた持ち物があるか聞いてくれ」

「な、なんで?」

「必要だから」

「だからなんで!」


 うるせえなあ、とヴァルターは思った。

 実際ちょっと舌打ちも出た。


 確かにアンディ・エルナンドは故意に怪我を負わせた訳でもなく、犯人でもない。

 好きな子相手に拗らせてカスみたいな態度を取っている、ただの子供だ。


 だが、まるで何の罪もない被害者のように扱われるのは違う。


「俺の予測が正しければ、エルナンドには魔導書やら何やら、読み込むことで作動する暗示の品が渡ってる筈だ。

 まあ、どうせ『何の痕跡も残ってない』だろうが、だからこそ一旦確認しときたい」


 ヴァルターの言葉に、ラトリナは希望を見出したように顔を明るくした。


「そしたら、アンディは何にも悪くないってことになるんだよね?」

「……いや、悪くはあるだろ。どう考えたって」

「なんでよ! アンディは暗示でやらされただけじゃない!」

「授業でも習わなかったか? 現状の暗示魔法には洗脳のような効果はない。起因する感情がなければ行動に作用する程の効力は持たない。

 だから、思い通りに危害を加えたいなら、そういう動機を持つ人間を選ばないとならない。

 アンディ・エルナンドが選ばれたのは、実習授業でいつか必ずレネア・ルクシュタインに不用意に怪我をさせかねない真似をする──と思われていたからだ。

 つまり、エルナンドがしょっちゅう害意だの嗜虐心だのを発散してたと知ってる奴が犯人だろうな」

「それって誰!? はっ、もしやイサーク!?」

「な訳ないだろ。何のメリットがあんだよ」


 ヴァルターが見る限り、イサークはアンディに対し真に友情を感じているほぼ唯一の人間と言えた。

 あんなカス野郎の何処がいいのか、ヴァルターには一欠片も理解出来ないが、どんな人間にも美点はあるものだろう。


「アンディは何の罰も受けないだろうが、罪がない訳じゃないだろ。本人もそれが分かってるから出てこれないんじゃねえの? 張り切って犯人探しするのも良いけど、そんなに大事なら先に本人を何とかしてやれば?」


 ヴァルターの言葉に、ラトリナは確かに返答に窮した。

 アンディが悪いことなど、彼女にも本当は分かっているのだろう。だが、分かりたくない。

 その結果、ラトリナは持ち前の性根で無理矢理にでも反論を捻り出した。


「何よ! 大体、あんな出来損ないのブスがそんなに気に入ってるなら、アンタが守ってやればいいじゃない! 強いんだから! アンディから庇ってやりもしないで、正義面してさ!」


 クソみたいな八つ当たりも良いところだ。

 まともな正論を返すことなんて幾らでも出来た。


 けれども、ヴァルターはただ、自嘲混じりの相槌を打つ。


「まあ、それは確かにそうかもな」


 ヴァルターは親しくなった今も、学園で表立ってレネアを庇うことはない。


 彼女があまりに気にするからだ。

 そうさせることで、『素晴らしい先生』に迷惑をかけてしまわないかと。

 立場を悪くしてしまわないかと。


 私は大丈夫です、と彼女は繰り返す。

 自分のせいでヴァルターに何かあったら、一生後悔してもし切れないから。


 更に言えば、彼女は誰かを害すること自体に強く恐怖を抱く人間だ。

 それがたとえ自分を傷つけた人間であっても。

 追い詰められ恐怖し、責められている人間を見たくないのだ。


 いやなのだ。嫌で嫌で堪らない。

 だから、最初から無かったことにすらして見せる。


 仕返しをしたところで微塵もすっきり出来ない精神構造の持ち主だ。

 そんな人間が、そもそも見たくもない『嫌な人間』を相手にわざわざ何かしたい筈もない。


 たとえば。

 部屋で害虫を見つけたとしよう。


 ヴァルターは仕留める。

 仕留めた上で死骸もきちんと処理する。


 レネアは仕留めないタイプだ。

 『害虫が部屋で死んだ』という事実と、死骸の処理に耐え切れないから。

 いなくなるまで待って、それから侵入経路を断とうと努力する。


 そんな性質の相手のためにわざわざド派手に害虫を潰して、挙げ句の果てに粉砕したそれを見せつけるような真似をしたらどうなるか?


 仕留めた側も恐怖の対象になるのだ。


 ヴァルターにはレネアの感覚が分からない。

 自分に害を加えた相手を許そう、などとは思ったことがないからである。


 彼女にとって何処までが『粉砕した死骸』に当たるのか、ちょっと判断がつかないのだ。


 そして、それがどれだけ相手を助けるためであっても、人間は生理的な恐怖と嫌悪に勝てない。

 ヴァルターはそれを痛いほどに理解している。もう、十年も前に。


 まあ要するに。

 見えない内に始末しろ、という話である。


 ヴァルターは一先ず、溜息と共にラトリナを見下ろした。


「エスカペルテ、お前まだエルナンドのこと好きか?」

「はあ!? 好きに決まってんでしょ!」

「他の三人はとっくに逃げ出したぞ」

「そうよ! 幸運にもね!」

「エルナンドがお前のこと好きじゃなくても好きか」

「好きよ!」

「全くこれっぽっちも幸せな家庭を築けなくても?」


 ラトリナは黙った。

 一瞬、瞳が揺らぐ。

 けれども、それは瞬きの間に決意に変わった。


「ふ、振り向かせてみせるもん……」

「あっそう。せいぜい頑張ってくれ、死ぬまでな」


 乾いた声だった。

 まあ、仕方ないだろう。他人事であるし。


「お前んち錦糸業やってたよな」

「そうだけど。それが何」

「国外支店持たない? ミルーラ国に」

「……は?」


 ぽかん、と口を開けたラトリアが、そのままヴァルターを見上げる。


 彼はあくまでも笑顔だった。

 顔だけは、教師営業中の笑みである。


「没落商家のお坊ちゃんを助ける為に、海の向こうで錦糸業をやろう。そうしようそうしよう」

「は? え? 何? 何何何?」

「大丈夫、すぐに持ち直すから。系列の人に迷惑かかったら駄目だもんな」


 確認だけ取ったヴァルターは、簡単な流れだけ伝えてやった。

 別に難しい話でもない。

 事業というのはどんなに好調であっても、失敗するときは失敗するもんである。


 ラトリナを見送ったあと。

 ヴァルターは二年ぶりに師匠へと手紙を出した。


 使えるものは死体でも使え。

 師匠アフィスティアの教えである。

 


    *   *   *



 そうして、ラトリナと別れて学園を後にしたヴァルターは、屋敷を訪ねた。

 少し遅れてしまったが、治療に必要な時間は確保できる程度の遅れだ。


 訪問に際しては、きちんと『変換機構異常を抱える神子の火傷の治療のため』との保障付きである。

 学園長の許可も得たので、表立って文句を言う輩はいないだろう。裏ではどうかは知らないが。


 魔術師が神子の屋敷を訪ねたために生じる厄介ごとについては、ヴァルターにも容易く予測はつく。

 それでも学外で会うことを選択したのは、偏にレネアの心を思ってのことだ。

 恐らく、このまま現状を放っておけば、レネアの精神が先に壊れてしまう。


 彼女は本当に、心の底から魔法を愛している。だから学園にいる。

 それは事実だ。紛れもなく、疑いようもない。


 けれども、だからこそ無理をして、修復不能な歪みが生じてしまう。

 エルナンドの害を軽んじていた時点で、ヴァルターも同罪である。


 これ以上、彼女に無意識下の無理をさせる訳にはいかない。

 出来る限り、全力で彼女のための力になろう。


 そう決意を固めて、ヴァルターは神子の屋敷を訪ねた。

 のだが。


「こ、こんばんは! えっと、ご、ご足労いただいて、ありがとうございます……!」


 出迎えたレネアは、淡い水色のワンピースに着替えていた。

 帰ってすぐに風呂に入ったのか、石鹸の柔らかい香りがする。


 屋敷を訪ねたのは、彼女の精神的負荷の少ない場所で話を聞きたかったからだ。

 断じてやましい気持ちではない。断じて。


 なんで出迎えに風呂上がりで?

 俺が遅れたせいかな?


 本当にそうか?


「場所、私の部屋でいいですか?」


 いや、そこの応接間でいいんじゃないかな。

 と、ヴァルターは思った。


 だが。

 あんまりにも緊張した面持ちで首まで赤くなった女性を前に、そんな素っ気ないことを言い放つ気にはなれなかった。


 恐らくだが、此処で断ったら、彼女は寝る前に悶え苦しむ羽目になる。

 なんであんなこと言っちゃったんだろう、と恥に呻くことになる。

 下手したら涙も出るかもしれない。


 流石に忍びなかった。


「……じゃあ、そこで」

「あと、えっと、せせ、先生に意見をもらいたいレポートもあって! 魔素の練習、訓練っ?も気になってる点があって、それで、」

「ああ、うん。ついでに少し練習も見ていこうか」

「えっ! いいんですか? 自分の魔素を使おうとするとやっぱり難しい場所があって、気になる部分を書き出してあるんです!」


 魔術練習については素直に嬉しかったのか、随分と溌剌とした滑らかな響きだった。

 その前に口実として並べた時が挙動不審すぎる、というだけだが。


 二階に上がると、部屋が二つ並んでいた。

 レネアの部屋は手前らしく、ネームプレートのかかった扉を開いて中へと通される。


 室内は、白を基調とした家具で揃えられていた。

 歴代の神子が使っている部屋であるため、男女問わず受け入れやすい意匠で揃えてあるのだろう。


「まずは治療ですよね。じゃあ、その、先生、此処で」


 ベッドの端に腰掛けたレネアは、なんともぎこちない手つきで、自身の右隣を軽く叩いた。

 額に汗が滲んでいる。そう暑くもないのに。


 ヴァルターはとりあえず、扉の前に立ったまま、しばらく黙って眺めてみた。

 別に意地悪のつもりはない。

 耐えがたい程に恐ろしい思いをした彼女にとって、その恐怖を忘れるほどの気晴らしがあるのは喜ばしいことだとさえ思う。

 別に、意地悪のつもりではない。


 片眉を上げ、軽く首を傾けつつ観察する。


 十秒。

 レネアがそっと目を逸らす。


 二十秒。

 視線が自身の膝あたりに固定される。


 三十秒。

 耐え切れなくなったらしい。

 助けを求めるような視線が向けられたので、ヴァルターは小さく笑った。


「これ、考えたの誰?」

「……リ、る、リディが……」

「なるほど」

「ご、ごめんなさい……」

「いや、別に謝る必要はないけども」


 笑い混じりに告げて、ヴァルターは特に遠慮することもなく右隣へと腰を下ろした。

 こういうのは、照れた方が負けである。

 ついでに言えば、相手が照れていればいるほど冷静になりやすい。


「下手な相手にやるとマジで洒落になんねえことになるから、気をつけろよ」

「はい……」


 ヴァルターはごく自然な手つきでもって、レネアの腕を取った。

 揺れた肩は見なかったことにする。

 背けられた顔の、耳の赤さも。

 そうでもしないと、どうにも不味いことになりそうだったので。


 俺はね、治療に来てんですよ。治療に。

 ついでにメンタルケアにも来てんですよ。

 どうしろってんだ。


 ラトリナを撥ね除けたというのに、別の生徒を――それも神子様を理由に懲戒免職になっては何の意味も無い。

 助けを求めるヴァルターに答えるように、肩に乗った白兎(アインス)が、たむ、たむ、と一定のリズムで叩いてきた。

 その柔らかで頼もしい感触によって、ヴァルターは教師としての尊厳を失わずに済んだと言っていいだろう。


「おし、終わった。それで? レポートってどれ?」


 十五分後。

 ヴァルターは努めて普段通りの声音で問いかけた。


 レネアが自室でも変わらず恐怖に捕らわれていたなら、精神面での治療にも切り込む予定だった。

 だが、彼女にとって『ヴァルターが私室を訪ねる』ことそのものが精神負荷の軽減に繋がったのなら、既に目的は果たしたことになる。


 ならば、此処からは教会裏で会う時と同じように接するのが一番だろう。

 そう判断しての態度だった。


 けれども。

 ヴァルターが立ち上がると同時に、ベッドに腰掛けるレネアは彼のローブへと手を伸ばした。

 そっと、ローブの端が引かれるように摘ままれる。


 振り返ったヴァルターの視界には、意を決したように此方を見上げるレネアの姿が映った。


「あの。先生」

「何?」

「やっぱり私、その、お、女の子として、魅力、無いですか」


 ヴァルターは思った。

 この人、もしかして俺の理性が鋼鉄で出来てると思ってんのかな、と。


 ヴァルターは小さく深呼吸した。

 何だか良い匂いがしたので、割と頭を抱えたくなった。


 ため息をひとつ。

 次いで、何かしらの感情を散らすかのように、黒髪を雑に掻く。


 いつかは言わなければならないことだと思っていた。

 それを今、ここで言うことになるとは思っていなかっただけだ。


 自身を見上げる鈍色の瞳を真っ直ぐに見つめ返したヴァルターは、出来る限り真摯な響きになるように心がけた上で、思いを吐き出した。


「なあ、ルクシュタイン。一回考えてみてほしいんだけど、アンタのそれってさ、この状況だから生じる、感謝を錯覚したものじゃないかな」

「……錯覚」

「アンタ、可愛いんだからさ。わざわざ俺みたいなやつを選ばなくても、大丈夫だって」


 苦笑交じりに告げられたそれを聞き取ったレネアは、そこに含まれた意味合いをすぐに理解したのだろう。

 ヴァルターの言葉を正しく噛み砕き、受け取ったレネアは、一度、ゆっくりと瞬きをした。


 そうして、そのまま鈍色の瞳をそっと床へと向ける。

 行き場を無くしたかのように落とされた視線は、そのままヴァルターへと戻ることはなかった。


 それでも、ローブの端を摘まんだままの指も、離れることはなかった。

 しばらくして、レネアが顔を上げる。


「…………先生に、聞いてほしいことがあるんです。話してもいいですか」


 少し頬に熱は残っていたものの、彼女は常と同じ落ち着きを取り戻しているようだった。

 その声に宿る真剣な響きに、ヴァルターは彼女の言葉の続きを待つ。


「……これは、……誰にも、リディにも話したことはない、ことなんですけど。

 辛くて悲しくてどうしようもない時に、想像の世界に逃げてみることがあるんです。

 ……今は辛くて大変だけど、もしかしたら私には本当は凄い力があって、いつか、奇跡みたいに魔法が上手になって、全てが上手く行く日が来るんじゃないかなって。


 もしくは、目が覚めたら私は双子じゃなくて、でもリディとは親友になっていて、魔法は下手だけど、尊敬出来る友達と楽しく学園生活を送ってたりしないかなって。


 分かってるんです。そんな馬鹿なことは有り得ないって。

 何を手に入れるにも、自分で踏み出さなきゃ始まらない。私が勇気を出さない限り、結局は何も変わらない。


 ……だから今は、踏み出す為に魔術を学び始めました。

 でも、……私、本当は、魔術を学ぶの怖いんです。だって、魔法が駄目で、魔術に逃げて(・・・)、それでも駄目だったら? やっぱりそこでも出来損ないで、がっかりされたら?」


 もしそうなったら、きっと自分はもう二度と立ち直れない。

 出来損ないの自分が、長い間やっとの思いで積み重ねた自信は、きっと粉々に砕けてしまうだろう。

 レネアが抱える恐怖は、ヴァルターにも十分に伝わった。


「想像するだけで、怖くて堪らないんです。でも……怖いけど、好きだから頑張れます。魔法が好きで、魔術も好きで、先生が好きで。好きを原動力にしていれば、私はきっと進める」


 レネアは膝に置いた手に力を込めるように握りしめると、震えの残った──それでいて何も誤魔化すことのない芯の通った声で続けた。


「先生は、確かに私にとっての希望です。でも、それを力に変えるのは私なんです。

 踏み出すことも怖くて、怯えてばかりで、どうしようもない私が、それでも、自分で自分を救わなきゃならないんです」


 鈍色の瞳が、ヴァルターを見つめる。


「だから、先生を好きになったのは私の意思です。そこにどんな理由があったとしても。

 先生から見れば、取るに足らない錯覚の初恋に思えたとしても、私の気持ちは、私にとっては本物なんです。

 その……先生に好きになってほしい、なんて言わないようにします。でも、好きでいてもいいですか?

 先生を好きでいることを、頑張る理由にすることを、どうか許してもらえませんか」


 駄目だとは、口が裂けても言えなかった。

 ヴァルターは、女の子と言うものをちょっと甘く見ていたのだ。

 もっと言えば、レネア・ルクシュタインを。


 彼女は虐げられるだけの弱い存在でも、希望に魅入られて寄りかかるだけの甘い人間でもない。

 彼女は彼女なりの方法で、ずっと戦ってきたのだから。


「……いいよ。アンタみたいな人に好いてもらえるなんて、俺としても誇らしいね」


 心からの言葉だった。

 ヴァルターは、自分が誰かにここまで好かれるような存在だと思ったことはない。

 今でさえ、レネアがヴァルターの人生の全てを知り得たなら、きっとすぐにでも幻滅して離れるだろう、と思っている。


 だが、それでも、ヴァルターがこうして作り上げた『ヴァルター・ヘルエス』という人間を、一時でも希望だと呼べるほどに好いてもらえるのなら、それは素直に誇らしいことだと思えた。


「良かった……」


 了承を返したヴァルターに、レネアは安堵と喜びを噛み締めるような笑みを浮かべる。

 何かとても大層な宝物でも受け取ったように胸元を押さえる彼女を眩しく思いつつ目を細めたヴァルターは、そこで一度、気持ちを切り替えるように息を吐いた。


「とりあえず、レポートは見ていくから、あー……なんか羽織ってくれ」

「えっ、あっ! はい!」


 それとなく目を逸らしつつ言えば、レネアは慌てた様子でカーディガンを着込んだ。

 話し込んでしまったことで魔術の実践を見る時間までは無い。少しして暇を告げたヴァルターに、レネアは残念そうにしつつも、笑顔で礼を述べた。


「先生、今日はありがとうございます。先生が来てくれたおかげで、辛いことも何も考えずに寝られそうです」


 心の底から安堵した笑みだった。安心し切った顔を見ながら、ヴァルターも笑顔を返す。

 ただ、もう一度思った。


 この人やっぱり俺の理性が鋼鉄で出来てると思ってるな、と。



 レネアの部屋を出て、玄関まで向かう。

 途中、おやつを摘んでいるらしいリディアと目が合った。


「…………こんばんは、先生」

「ああ、こんばんは。早速で悪いが、今度二人で話せないか」

「……お説教でしょうか」


 悪いことした自覚はあるんじゃねーか。

 思わず呆れた目で見下ろしてしまったが、説教をするつもりはない。

 そもそも、神子の屋敷に長く留まるつもりもない。

 ヴァルターは端的に告げた。


「神殿について、幾つか聞きたいことがある」



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