◆7ー2 演習事故
新学期の始まりから三ヶ月半。
その事件は、『魔述式演習Ⅲ』の授業で起こった。
担当教員はラドリアンヌ・ドルエリチェである。
これは当然の話でしかないが、レネアは教員の中でも特にドリエルチェが苦手だった。
そもそもが、ドリエルチェを得意とする学生など皆無に近い──という話はさておいて。
双生教の敬虔な信徒である彼女は、とにかく出来損ないのレネアに当たりが強い。
神子様であるのにこんなことも出来ないなんて、と大袈裟に騒ぎ立て、執拗にレネアを指名し実演させる。
生来、ドリエルチェが嫌がらせと嫌味に心血を注ぐような性根を持ち合わせていることは間違いがないが、彼女は、神聖な存在である神子にも関わらず神の愛たる魔法を使いこなせないレネアを、正当に罰しているつもりなのだ。
普段はリディアが庇ってくれる場面も多いが、そう何度も教師の決定を覆せるわけでも無い。
神殿は当代の『神子』が両翼揃って居ないことを快く思っていない。『神子』の価値に傷がつくような事態から守るような必要最低限の保証はしてくれるが、それだけだ。
リディアにとってはともかく、レネアにとっては強い後ろ盾とは言えなかった。
ドルエリチェ教授は信心深く、神殿には多額の献金をしている。
あの学園長でさえ、神殿の後押しのあるドリエルチェのことは持て余しているようだ。
顔を見るだけでも憂鬱になってしまうのは無理もない相手だった。
「では二人組で実習に入ります。ペアはこちらで用意していますから、各自準備が出来次第始めなさい!」
ドリエルチェの甲高い声が、演習場に響くのを、レネアは場内の端で聞いていた。
対面に立つのは、アンディ・エルナンドだ。
等間隔に散らされた生徒達の中で、二人は一際隅の方に追いやられている。
まるで、『何が起きても目が届きませんでした』と言い訳出来るような位置だ。
「お前みたいな出来損ないと組まされても、大した練習にならないんだよなぁ」
アンディはわざとらしく髪を掻き上げ、せせら笑う。レネアは緊張と恐怖から、身体が強張るのを感じた。
予想していたことではあるのに、胃が重い。力を抜こうと思っても、手が不格好に固まる。
レネアの魔法は、ただでさえ成功率が低い。
緊張すれば尚更だ。もはや魔述式を正しく記せるかも分からない。
魔法は、己の生成した魔素に対し、最も適切な魔述式を探すことで世界に干渉出来る。
ヒトの魔素は、個人の識別すら可能な複雑なものだ。
魔術・魔法の使い手にとって適切な魔述式は、数万にも及ぶとされている。
もちろん、普遍的に当てはまる記法は存在する。
どんな魔法を使うにも癖がなく、効果は落ちるが発動が容易いとされるパンタノ記法がそれだ。
レネアは神子としての魔法訓練時代から変わらず、この記法を使用している。
あまりにも魔素の生成率と安定性に欠けるので、自分に合った記法を試すにも限界があったのだ。
基本のパンタノ記法以外には、代表的なものが六種。
いずれも大陸の有能な魔法使いが、長い歴史の上で編み出したものだ。
そこから更に各属性ごとに派生し最適化されたものが七種ある。
六系統それぞれに七派生。
その規則正しい発見こそが、神が与えた贈り物だなどとも言われている。
それを更に個人に合わせ発展させていくのが、魔法使いの研鑽だ。
実習では、指定された魔法を異なる魔述式で発動する。
相性の良い型が見つかったものはさらなる発展形へと進んでいく。
レネアは未だに第一段階で躓き続けている訳だが、アンディは第三段階まで進んでいるようなものだ。
「僕は優しいからなあ、お前が成功するまで待ってやるよ」
それはつまり、出来る限り惨めな思いをさせてやろう、と同義だ。
レネアは悪意を前にすると、いつも、怒りよりも嫌悪と恐怖が先に立つ。
震える指先を握りしめ、呼吸を整える。
アンディを視界から僅かに外し、レネアは静かに初級魔法を唱えた。
「【防風】」
これは対戦演習ではない。
互いに魔法を発現し、その発動時間や魔述式の展開、実際の効果などを分析するのが目的だ。
授業時間中、監督教授であるドリエルチェが順に生徒達の間を見て周り、教師としての評価を行う。
後日ペアの相手の分析結果のレポートを提出し、それらを合わせて成績がつく形だ。
成績のためとはいえ、アンディの魔法を分析して評価した上でレポートにまで起こさなければならない。
本来は目も合わせたくはないレネアにとっては、憂鬱極まりないものがあった。
「全く出来損ないは仕方がねえなあ。ほら、手本見せてやるからよく見とけよ!」
その上、授業時間中、ずっとアンディと顔を合わせていなければならない。
何がそんなに楽しいのか、勝ち誇ったように笑うアンディが片手を構える。
「【篝火】!」
それは本来、小規模な炎を出す魔法だった。
分類は中級にあたる。アンディにとっては欠伸が出るほど簡単な魔法だろう。
ただ。
作り出された炎は、大きくうねるようにしてレネアに襲い掛かった。
「────姉さん!」
きっと、授業中ずっとレネアの様子を気にしていたのだろう。
レネア本人が危機に気付くよりも早く、リディアの刺すような声が上がった。
反射的に、顔を腕で覆った。
けれども、弱耐性効果のあるローブですら、与えられた熱は防ぎきれなかったらしい。
「…………ッ!」
熱い。眩しい。痛い。怖い。
あらゆる感情が一気に押し寄せる。
熱風で髪が焼けたのか、嫌な匂いがした。
「ルクシュタインさん!?」
「せっ、先生! 怪我人ですっ!」
遅れて気づいたらしいクラスメイトの、悲鳴に似た声が上がる。
あのドリエルチェですら、惨状には呆然としているようだった。
「姉さんっ、大丈夫!? こんな……っ、酷い、なんてことを……【水球】!」
駆け寄ってきたリディアが、涙目になりながら状態を確かめ、魔法を使う。
幸いなことに、ローブが溶けて焼き付いている様子は無かった。
「だ、大丈夫……熱いだけ……」
ただ、右の前腕が熱でやられている。放っておけばすぐにでも酷いことになるだろう。
リディアは溢れ出る涙を拭うこともせず、ひたすらに水魔法と氷魔法を駆使して服の上から患部を冷やし続けた。
緊張状態で続けているせいか、リディアの息は早々に上がり始めていた。
彼女は、その魔力保有量によって、歴代一の寵愛を受けた神子だと評されている。
だが、彼女自身が自覚している通り、その莫大な魔力量を操る技量にはまだ未熟な点が多かった。
下手をすればリディアの方が倒れてしまいそうな顔色になっている。
レネアは、震えの残る手でそっと妹の肩を押さえた。
「リディ、もう、いいよ、大丈夫だから、保健室、」
「いいから! ねえ、誰か代わって! 魔素が、う、上手く抑えられなくて、どうしよう、姉さん、傷が残ったら、」
「あたしやるよ! 水魔法なら出来るから……!」
駆け寄ってきた女生徒──ルチナ・フィアットが魔法を使う。
パニックを起こして蹲るリディアを、数人の女子生徒が支えていた。
魔法による熱傷は、相殺属性の魔法を当てるのが良い。
治癒が使えるならそれが最善だが、そこまでの魔法を使える生徒など学園に数人だ。
「レネアさん、他は? 他に痛いところない? 早く冷やさないと……」
「だ、大丈夫。髪の毛が、ちょっと焦げちゃっただけ」
「ちょっと!? それが!? ああもう、マジであいつ最悪……!!」
ルチナは悲鳴のような声をあげると、焼けて縮んでしまった髪の一部を心配そうに見やった。
レネアは何処か非現実的な思いで、ぼんやりと目の前の光景を眺めていた。
視界の端で、女生徒の一人がドリエルチェの腕を使わんで引きずっている。
ように見える。
気のせい、かな?
ソフィーに見えるな、とレネアは思った。
「今ソフィーがドリチェ連れてったから! ちゃんとした先生来てくれるから!」
あ、やっぱりソフィーなんだ。
レネアはあまりの意外さに目を瞬かせた。
呆然とし続けている様子のレネアを見て、ルチアは何を思ったのか眉を下げる。
「ごめんね、今更こんな手助けしてもしょうがないよね」
「そんな。気にしないで。だって、みんなもエルナンドに目をつけられたら困るし」
「それは、そう、だけど……でも……」
ルチア以外にも狼狽えている様子の同級生たちに、レネアはそっと笑顔を向ける。
「本当に大丈夫。ほら、今だって、自分で歩いて保健室行けるくらいだし、大したことないんだよ」
そう言って立ちあがろうとしたところで、演習室の入り口に人影が現れた。
保健医のロディリアスと、担架を持った生徒数人だ。
レネアは思わず声を張った。
「先生、そんな、あの、お、大袈裟です! 担架は大丈夫です!」
なんだかすごく大事になってしまった。
早いところ、問題ないことを証明しないとならない。
急いで、足に力を込める。
が、レネアの身体は、意思に反して立ち上がることはなかった。
「あ、あれ?」
どうやら、腰が抜けてしまっているらしい。
何度か立ちあがろうと試みるも、レネアの身体は言うことを聞かなかった。
「あ。ご、ごめんなさい。やっぱり、担架、要ります」
「ええ、そうだと思ったわ。ショックを受けて当然ですもの」
ロディリアスは患部を確かめつつ、優しく宥めるような声で囁いた。
担架ほど大袈裟じゃなくて良いのだけど。
でも、来てしまったものは仕方ない。
あはは、と照れと誤魔化しの混じった笑いを上げながら、レネアはふと思う。
そういえば、エルナンドはどうして騒がないんだろう。
いつもなら、喧しく弁明してそうなのに。
そう思って目をやる。
アンディは、真っ青な顔でその場に立ち尽くしていた。
* * *
「やっぱり難しいわね……早くしないと痕が残っちゃいそう……」
カーテンに覆われたベッドの上。
端に座るレネアの前で、処置を続けるロディリアスは心底困ったように呟いた。
保健医である彼女は、治癒魔法を得意としている。
【浄化】もそうだが、人体に干渉する魔法はとにかく扱いが難しい。
生来持ち合わせる魔素と反応してしまって、発現が複雑なものになるからだ。
そこを乗り越えて適切な治療が出来るからこそ、ロディリアスは医療資格を得て保健医の立場を得ている訳だが。
長年謎の不調を抱えるレネアの治療は、彼女にとっては特に難易度の高いものであるようだった。
丁寧な処置の合間に、心底申し訳なさそうな声が挟まる。
「私の治癒魔法は……根本的には本人の変換機構由来で働きかけるものなの。痛みを引かせることはできたみたいだけど……このままじゃ痕が残っちゃうわ。
レネアさんには別に最適な方法があるかと思って、今頼りになる先生を呼んでるから……不安だと思うけど、心配しないでね」
「大丈夫です、充分なくらいです。あの、その『頼りになる先生』って一体、」
誰だろう。
まさか、軍医をやっている旦那さんをわざわざ呼んでくれてたりするのだろうか。
それは流石に申し訳ない。
足元がおぼつかないような、ふわふわした思考でそんなことを考える。
その時、
「ロディリアス先生! エルナンドさんの治療を優先してくださる!?」
カーテンの向こうから、ドリエルチェの怒鳴り声が聞こえてきた。
どうやらすっかり調子を取り戻したらしい。
一瞬、美貌の保健医は恐ろしい形相を浮かべる。
レネアは思わず、やや仰け反った。
美人の怒り顔は恐ろしい。
「女の子の怪我を甘く見てるんだわ、心に乙女を住まわせていない御人はこれだから……!」
這うような囁き声が吐き捨てられる。
忌々しげに目を細めたロディリアスは、そこでハッとしたように顔を上げた。
カーテンの隙間から、後ろの扉を見やる。
レネアも釣られて同じように視線をやり、そして、その鈍色の目を驚きに瞬かせた。
開いた扉から姿を現したのは、なんと、ヴァルターだった。
「ああっ! ヴァルター先生! いらしてくださったのね、怪我をした生徒は彼女ですの。先生のお力をお貸しくださいな」
「ええ、勿論です」
「お願い致しますわ。私はあの鬼婆に、いえ、副学園長に呼び付けられているので失礼します」
ロディリアスは、何やら憤慨した様子でカーテンの向こうへと消えた。
どうやら、エルナンドは保健室の別室に居るらしい。
顔を合わせないように、という配慮は、レネアではなくエルナンドへのものだろう。
知らず、諦観を持った笑みが浮かんでしまう。
気持ちのままに沈みかけたレネアは、そこで対面に座るヴァルターに意識を引き上げられた。
「せ、先生……」
顔を合わせるのは、授業を除けば実に三週間ぶりだった。
散々避けてしまった。
たかが、ラトリナ・エスカペルテと一緒にいたというだけで。
でも、だって。
人気のない教室で二人きりで。
挙げ句の果てに、あの勝気なラトリナが顔を赤くして逃げ出したのだ。
レネアは知っている。
緋龍の件以来、ヴァルターは密かに女子生徒から人気が出ていることを。
鋭さのある相貌も、神秘的な黄金色の瞳も、年に似合わず落ち着き払った態度も、なんなら少しばかり好戦的なところも、結構恰好良いよね、なんて言われている。
レネアからすれば、『結構』なんて言葉で表せるものではないのだが。
動揺と後悔に声を震わせるレネアに、ヴァルターは端的に尋ねた。
「腕はどっちだ?」
「あ、み、右です……」
「傷を見るから、ちょっと触るぞ」
「は、はい」
答えてすぐ、ヴァルターの手がレネアを腕を持ち上げる。
レネアは何故か、彼の手から目が離せなかった。
「痛むか?」
「い、いえ。ロディリアス先生が鎮痛の魔法を使ってくれたので」
「感覚には作用するけど回復速度は上がんないってことだな。また厄介だな……」
患部を見つめるヴァルターは、言うや否や、連続して幾つかの魔述式を展開した。
反応を観察するように、黄金色の瞳が細めれらる。
レネアは、そこでふと、彼の肩に乗る白兎に視線をやった。
「先生、あの。もしかして……私の魔素を、使ってます……?」
「自己治癒に作用するならその方が早そうだったからな。アンタ、安定性と生成量が史上最高に難ありなだけで、魔法が使えない訳じゃないだろ」
「それは、まあ、はい」
「ロディリアス先生とはちょっと相性悪かったんだな。保健医が魔法魔術の二人体制なら良かったかもしれないが、治癒まで出来る魔術師もそう居ないし……そもそも、アンタの体質だと難しいか」
ヴァルターは、あれこれと悩んでいる様子で試している。
彼自身は納得がいっていないようだったが、確かにレネアの傷は先ほどより良くなっていた。
どうしてレネア自身より、ヴァルターの方がよほど上手く魔素を扱えるのだろう。
やはり、こういうところが天才との違いなのか。
羨望と尊敬と、あとちょっとの嫉妬を混ぜて見つめてしまう。
レネアの顔を見やったヴァルターが、何事か言おうとしたその時。
別室から再度金切り声が響いた。
「わたくしがかのエルナンド家の御子息に瑕疵を加えるとでも言うつもりですか!? なんて言い掛かりを!」
壁も抜けるような勢いだ。
ドリエルチェにとっては、怪我をしたのがレネアだと言う点は、微塵も目に入っていないようだった。
ヴァルターが、冷め切った視線を隣の部屋へと投げる。
「……そういや、これはエルナンドが?」
「え、ええ。……多分」
「多分? 悪いな、とにかくすぐに来てくれって呼ばれたから、詳しい事情はまだ知らなくて」
「そうなんですか? ええと、ですね……」
レネアは、ざっと授業で起こったことを説明した。
対面で魔述式を発現する実習だったこと。
エルナンドとペアと組んだこと。
その場で火を起こすだけの魔法が、何故かレネアに襲い掛かったこと。
火傷の処置を同級生がしてくれたこと。
それは、どうにも他人事のような語り口だった。
レネア本人は、まるで意識していなかったが。
聴き終えたヴァルターは、そっと目を細めた。
「そりゃ、大変だったな。あんだけ長く教師やってんのにまともに監督も出来ねえとは……あいつ何なら出来るんだよ」
「え、お、お布施とか……」
「…………結構言うね?」
唇の端を持ち上げるヴァルターに、レネアは誤魔化すように目を逸らし、ぎこちなく笑った。
つい。普段の恨みが。
「悪いんだが、今日明日で綺麗さっぱり治すのはやっぱり難しい。まあ……一週間かな。朝と晩にでも二回かければ、痕が残る前に治し切れると思う」
「本当ですか? 良かった、リディが心配してたから……」
心の底から安堵の息を吐いたレネアは、そこでヴァルターが自分を見つめていることに気づいた。
何処か、探るような瞳と視線が合う。
「……先生?」
「ああ、いや。授業前──は忙しいか、昼休みと放課後、研究室に来てくれ。ロディリアス先生にも話を通しておくから」
「分かりました。よろしくお願いします」
すみません、と付け足そうとしたレネアは、そこで思い直したように、「ありがとうございます」と微笑んだ。




