●エピローグ 季節の訪れ
一週間後、私は東京に遊びに来た希海を連れ映画館に向かっていた。雨貝家をあとにするとき、希海と約束したのだ。相続の手続きは石崎弁護士の取り計らいですべて完結したけれど、なんだか酷く慌ただしい日々だった。
希海と待ち合わせ場所に向かうと文庫本を片手にベンチに座って時間を潰していた夜見月を見つけた。ただ本を読んでいるだけなのに、彼の周りだけ静寂のオーラが漂い、周りの雑踏からは隔絶されている。長身で彼の足がすらりとしているせいか、足を組んでいるだけで様になっていた。
「お待たせしました、ボディーガードさん」
「いや、約束の七分前だし、ちょうど良い頃合いだ」
「こんにちは、お兄ちゃん」
「やあ、希海ちゃん。よく来たね。今日はお母さんと一緒に来たのかい?」
私には少し冷ややかな態度を取る夜見月が、希海には明るい笑顔で応対する。
「んーん、タクシーだよ」
「なに? おい、陽奈」
急に目が鋭くなり私を睨み付けてくる。
「いえ、心配しないでください、夜見月さん。ハイヤーなんですよ。雨貝ヘルシーフーズの社員さんが、自由に使って良いと言ってくださったので」
「それは経営者の社用のためだろう」
「いいえ、私用でもいいそうですよ」
話を聞いたときは一生使う事はないだろうと思っていたが、そのときに希海の母親から電話があったのだ。
「そうか、君は一夜にして億万長者になったわけだ。大学に通う必要があるのかな?」
「ええ、それはありますよ。だって今はもう学費分以外は全額寄付してしまいましたから」
石崎弁護士に相談し、雨貝グループの資産が生み出す利益はすべて薬害の被害者に寄付する手続きを取ってもらった。会社をそのまま売りに出す方法も考えたが、それだと新たな所有者がどういう方針を採るかわからない。適度な利益と適正な品質、そして嘘偽りのない宣伝広告。これを方針としている。外部監査役として達美伯母さんに紹介していただいた人物を送り込んでいるので、私が管理するよりもずっと安心だ。いずれは、少し財務会計などを学んで自分で目を光らせようとは思っているけれど。
「全額? 愚かだね。君がそうするかもしれないと思ってはいたが……きっと将来、あの時に少しでも残していればと思うに違いないよ。金はいくらあっても腐らない」
夜見月は軽く肩をすくめたが、私の行動は予想していたようで特に驚かなかった。被害者救済は彼自身も望んでいたことだ。
「ええ、でも、今の私はそこまでのお金を必要としていません。世の中がほんの少しでも良くなるのなら……安い買い物じゃないでしょうか。アレも買いたいコレも買いたいと言っていたら、結局、切りがありません。『所有の少ない人ではなく、渇望の多い人が、貧しいのです』とも言いますし」
「ローマの哲学者、セネカの言葉だね。確かに気の持ちようでお金への欲望はコントロールもできる。君の願いはわからなくもない。だけど、はっきり言って非論理的な考え方だ」
「ええ、そうです。だって、これは私自身の心、私の気持ちがそうさせているのですから、数式のように誰が解いても同じ答えになるわけじゃないでしょう?」
非合理でままならぬもの、それが私の心。だけど、それが人なのだ。
「その通りだ。ああ、君の心理は面白い観察対象になりうるかもしれない」
「知ってますか、夜見月さん。それって世間一般では『ストーカー』って言うんですよ?」
「ふふっ、お兄ちゃんはストーカー!」
「何をバカな」
彼は少し不機嫌になったようで口を閉じてそっぽを向いてしまった。
私はちょっとだけ彼に仕返しができたようで、希海ちゃんとニッコリと微笑み合い、晴れた空を見上げながら歩いた。広がる空には、たくさんの雲が並んでいる。
私にも、ようやく春の季節が訪れ、何かが始まろうとしていた。
―― 完 ――
おしまいです。
皆さんの真犯人の推理、当たりましたかね?
良い意味で予想を裏切れていたら成功ですね。




