侯爵家のアルフレッド 7
「汚い手でアリアナ様の顔に触れないで下さい! この野良犬めっ!!」
突然背後から、周囲の空気を震えさせる程の大きな声が降ってきた。あまりの大きさにアルフレッドは顔を歪めながら仮面から手を離し、自身の耳を塞ぐ羽目になってしまった。
振り返ると、そこには肩を上下に大きく動かし息をしている、まだ幼さの残る少女が仁王立ちで立っていた。アルフレッドよりも年下に見えるその少女は噛みつかんばかりの表情で彼を睨みつけているが、残念ながらあどけない顔立ちでは全く怖さを感じず、迫力も台無しである。
「……せめて血統書つきの犬って言ってほしいな」
「でも犬の部分は認めるんですね」
「自分で言うのもなんだけど、否定はできないから。ところで……君は誰?」
黒曜石を思わせる大きくて勝気に見える瞳と漆黒の闇夜を落としこんだような色合いの髪を持った知り合いは、彼にはいない。
すると少女は変わらぬむっとした顔のまま、不機嫌な声色で自己紹介をする。
「アリアナ様の従者のランファと申します、ユーロニア家のアルフレッド様」
「僕のこと知ってるの?」
ランファの物言いは、自身より上の立場である人間への態度には到底思えない不遜なものだ。しかし特に気にしないのか、アルフレッドはそのことに関しては何も触れず、代わりに違うことを口にする。
するとランファはふんと鼻を鳴らし、
「顔だけしか取り柄のない侯爵家のぼんぼん息子、甘え上手で女ったらしのアルフレッド様。……あの夜、アリアナ様が夜会でお会いしたあなた様の名前をぽろりと漏らされたので、調べてみたんです。そうしたらあなた様の評判や噂はどれも最低のものばっかりでした! 財産ほしさで犬みたいに尻尾を振りながら愛想を振りまいて、うちのご主人様に目を付けて近付くつもりだったんでしょう!? 領地での都合のせいでせっかく悪い虫から離せたって一安心してたのに、まさかここまで追いかけてくるなんて……。その上アリアナ様の仮面を無断で外そうとするなんて最低です!!」
「…………それはその、本当にごめんなさい。でもせめて仮面を外してあげた方が、息苦しくないんじゃないかなって思ったから」
「言い訳はなんとでも言えますもんね、本当の理由はどうであれ!」
アルフレッドの薄っぺらい建前は、ランファの前ではあっさり蹴り飛ばされてしまった。彼女は再び鼻を鳴らすと、アルフレッドを押しのけるように馬車の中のアリアナを覗きこむ。
「ドゴモンから聞きました。アリアナ様がさっき倒れたって。……仮面を外すのは私がします。私はこのお方の素顔を知っている、数少ない人間ですから。ただでさえアリアナ様には色々あって、本当はそんなことないのにご自身のお顔に並々ならぬ劣等感を抱いておられるのに、それを助長しかねないような余計なことはしないで下さいっ!」
そうまくしたてると、アルフレッドを拒絶するように扉を乱暴に閉めた。ご丁寧にガチャガチャと鍵までしっかりかけて。
「びっくりしたなあ、いきなりランファ様ってば走って行くんだから……あ、アルフレッド様、さっきアリアナ様の従者のお方がこっちにきませんでしたかい?」
「おかえりなさいドゴモンさん。うん、今馬車の中でアリアナ様の介抱をしているよ」
いつの間に戻ってきていたドゴモンに顔を向けてアルフレッドがそう答えると、
「そうですか。いやしかし、アルフレッド様の名前を出した途端、血相変えて飛び出して行かれたもんでね。何事かと思いましたよ」
なるほど、よほどアリアナと接触されるのが気に食わなかったらしい。
初対面にもかかわらず、随分と嫌われたものだ。ランファの様子からして相当にアリアナのことを慕っているのは伝わってきた。そんな大事な主人に自分のようなあまり評判のよろしくない男が近付いているとなれば、先程の言動も当然だろう。
実際、彼女の言葉は真実だったのだから。
それにしても、『犬』とは、非常に的を得ている喩えだと自分でも思うアルフレッド。勿論それが褒め言葉ではないことは分かっているが、あまりに言い得て妙な表現に、怒るよりむしろ感心してしまった。
少し前ならば、気ままにふらふら遊び回るアルフレッドは猫のようだっただろうが(事実、家族からは猫だと言われていた)、自身を養ってくれるかもしれないご主人様候補に会いにこここまで来るなんて、忠実な犬そのものだ。
「ねえ、ドゴモンさん。僕って犬っぽいと思う?」
試しに後ろに控える巨人の男に尋ねてみれば、
「そう……ですね、アルフレッド様は人懐っこい雰囲気をお持ちですし、なんか見た目もこう、ふわふわっとしているんで、動物に例えるなら犬っぽい気はしますね」
「そっか。……ちなみなドゴモンさんは熊みたいだよね。身体とか顔とかの感じだと」
「よく女房にも言われますよ。森でうろうろしてたら猟師に熊と間違われて撃たれるんじゃないかってね。ったく、そういう女房も、昔こそ細くてべっぴんさんだったが、今じゃ俺と変わらない熊みたいな体型してるくせによ」
「へぇ、ドゴモンさんって既婚者だったんだね」
「へい。子供も五人おります。アルフレッド様のところは何人兄弟なんですかい?」
「僕のところは四人だよ。ちなみに僕が一番下」
「あ、分かります分かります。そんな感じがしますね」
そんなとりとめもないない会話をしていると、解錠音がした。そしてゆっくりと馬車の扉が開く。
「…………アリアナ様が、目を覚まされました。おそらく軽い熱中症です。大事はありませんが、念の為今日は帰ります」
ランファの硬い声に続いて、くぐもった声のアリアナが声を上げる。
「ドゴモン、すまないが午後の作業はよろしく頼んだ」
声は確かに先程よりも小さいものだが、無理をしている風でもない。ランファの言うように、本当に念の為の休養なのだろう。
「へい、勿論です領主様。このドゴモンが責任を持って明日までにはきっちり道を開通させておきます」
「ありがとう。ところで、アルフレッド殿はこの後何か予定はあったりするのか?」
続いてアリアナはアルフレッドに声をかける。
彼女は気絶する直前に持っていた戸惑いや動揺をまるで感じさせず、平然としていた。もう少しあの時の動揺を引きずると思っていたのだが。予想が外れたアルフレッドは意外だなと驚きながらも、
「いえ、全く。アリアナ様に会いに行くのが僕の予定でしたし、それも達成されてしまったので特に今後のことは考えていなかったです」
「なら私と一緒に屋敷に来ないか? ついでに、せっかく来たんだ。よかったら領地を案内させてくれ」
その瞬間、ランファの目がくわっと眼球がこぼれんばかりに見開かれる。そんなランファの顔を直視してしまった男二人は、彼女から発せられる憤怒と嫌悪感をもろに浴びてしまったが、やはり可愛らしいランファであるからして迫力はない。
ただ、アルフレッドのことが物凄く嫌だというのは伝わってきた。
まあ、伝わってきたところで、アルフレッドに身を引くという選択肢はないのだが。
「いいんですか? すごく嬉しいです! ありがとうございます、アリアナ様!」
満面の笑みで感謝の言葉を述べるアルフレッド。喜びの心の奥底には、将来自分のものになるかもしれない領地を見られるのが嬉しい、という下卑た想いも当然あるのだが、さっきまでとは違いそれだけではない『何か』があった。それは、アリアナの仮面を剥ぎ取りたいと思ったさっきの自分が抱えていた感情と同種のものだったのだが。
浅ましくも黒い本心と、アリアナをもっと知りたいという純粋で真っ白な欲求と。
二つを胸の内に宿したアルフレッドは、少しだけ複雑な笑いになってしまったことに、自分では気が付かなかった。




