仮面の女伯爵 2
本当に、夢かと疑った。起きながらにして白昼夢を見ているのではないかと。
「なんかあのまま会えなくなるのは悲しいかなって思って。で、思わず会いに来ちゃった」
夜会の時に話をしたことで、意識をしてしまったユーロニア家のアルフレッド。
最後に首筋に口づけをされたことには驚いたが、おそらくただの気まぐれの戯れにすぎないだろう。
なぜなら敢えて自分のような仮面持ちの変わった人間なんて相手にせずとも、自分よりも格の上の女領主や若くて綺麗なご令嬢など、アルフレッドならよりどりみどりだろう。彼は誰もが目を奪われる美しい容姿だし、人懐っこい性格のようだし、なによりとても優しいのだから。
領地での仕事を優先した為、結果的にが彼との約束をなくなく反故にしてしまい、もしかしたらもう二度と会うことはないのかもしれないと心の隅っこで悲しく思っていたが、それでいいとも思った。
彼と自分は相容れない存在なのだと、無理やり納得させた。
そんな彼が、まさかまさか自身の領地にいて、なお且つ会いたいと思ってた、なんて台詞を言ってくるのだ。一瞬、己の妄想が具現化したのかと疑ってしまった程だ。
だが、それは現実であった。
尻もちをつくというみっともない醜態を晒したアリアナに駆け寄ってきた彼の息づかいや、美麗な眉を少しだけハの時にして心配そうに見つめる表情に、触れ合った手の平の感触も。
幻にしてはあまりにも現実味がありすぎる。それにそんなに細かなところまで妄想で補えるくらいに、アリアナの想像力は豊かな方ではない。
その上、間違われたとはいえ重労働をさせてしまっていたなんて。しかもそれに腹を立てることも嫌そうな顔をすることもなく、笑って許してくれた。
あの夜封印したはずの彼への気持ちが徐々に膨れ上がっているのが、自分でも分かった。仮面をしていてよかった。確かに今日のような日に仮面を被るのは辛いが、こんな恥ずかしい顔を見られなくて済むのだから。
そんな彼女の心の動揺をよそに、アルフレッドはアリアナを起き上がらせた後も繋いだ手を離さないまま、つぶらな瞳を向けてきた。
「そういえばアリアナ様。嵐が来て今みたいに道が塞がれてるんでしょう? で、ダイスの中心に行くにはここの道か、いったん戻って違う道から行くしか山を越えて前に進む手段がないって言われたんですけど、本当なんですか?」
この手を振りほどいた方がいいのだろうか、いや、でも急に手を離したらこちらが不快に思っているようでアルフレッドに嫌な思いをさせてしまうかもしれない、というか先程からドゴモンを含めた領民達が、何とも言えない表情でこちらに生温かい視線を送ってくるのが気になる……とぐるぐる考えながらも、アリアナは平然を装って答える。
「いや、そんなことはない。そもそもここの瓦礫の山は、向こう側からも並行して片付けを行っている。現に私もここにいる彼らも、向こう側からやってきた」
「どうやって来たんですか?」
アルフレッドは首を傾げながら周囲を見渡す。山の中腹に当たるこの場所は片側は崖になっており、下を覗き込むと急な斜面に木々が覆い茂り、とてもではないが人の移動はできない。反対側もまた、いくつもの木が頂上に向かう緩やかな斜面に乱雑に立っていて、見た感じ道らしきものはない。
「少し骨は折れるが、こちら側の斜面はかろうじて人が歩ける。だからここを通ってこの場所に出た」
アリアナは崖とは反対側を指差す。
目をしっかりと凝らして見ると、木々の間にかろうじて人間が一人歩けそうな獣道らしきものが見える。もっとも、言われなければ普通は気がつかない程だが。
「そっか、あれがそうなんですね……。さすがに馬車は通れそうにないか」
「アルフレッド殿は馬車でここまで?」
密かに彼のここまでの交通手段が気になっていたアリアナ。見たところ馬を繋いである気配はなく、しかし徒歩でここまでくるには期間が短すぎるし無茶もいいところだ。
「あ、そうなんですよ。でもね、聞いて下さいよアリアナ様、御者のおじさんってば酷いんですよ――――」
そう言うと、アルフレッドはここまで来た経緯と、最終的に置いてきぼりにされたことをアリアナに話して聞かせてくれた。
「なるほど…………それは大変だっただろう」
確かに、いくら手持ちがないとはいえこんなところで置き去りにするとは、その御者もなかなかに非道である。その上肉体労働をさせられてさぞかし疲労困憊していることだろう。なのにアルフレッドときたら、疲れを感じさせない無邪気な笑みで、
「でもそのお陰でアリアナ様とこうして早く出会えたんだし、悪いことばかりじゃないですよ」
そして繋いだ手をぎゅっと軽く握ってきた。
正直、彼女の体内を巡る血液は一瞬で沸騰し、全身から湯気を出してその場に倒れてしまいそうな程の破壊力があった。この暑さを吸収してしまう煩わしい仮面を脱いで、熱を少しでも発散させたいとすら思う。
勿論、素顔は絶対に見せられないので現実にはしなかったが。
これ以上鼓動を早めて心臓に急激に負担をかければ、私は本当に死んでしまうかもしれない、だからこの心臓をもう刺激しないでほしい……そう思っていたアリアナだったが、アルフレッドはまだまだ止まらない。握った手をさらに強く握ると、物憂げな表情になってアリアナを上目遣いにじっと見つめてきた。
「あの日、アリアナ様が帰ったって聞いて、僕本当に悲しくて寂しかったんですからね。僕との約束を、使者からの言伝て一つであっさり反故にしちゃうなんて。楽しみにしてたの、僕だけだったのかな、一人で舞い上がってたんじゃないのかな……なんて思ってしまって」
「そそ、それは本当にすまないことをしたと思っているんだ! ただ王都での社交界の時期とこの西側の地区で嵐が襲ってくる時期は毎年かぶっていて、こここ、こ今回のように崖崩れをおこしたり領地内の川が氾濫して領地が大変なことになっている時に私は王都で遊んでいる場合ではなく毎年社交界には参加していなかったがだが、その、このじじ、時期ではないと私の伴侶を見つけに行くタイミングもなく、しかしやはり領地での安全が重要であるからしてそういう訳にはいかなくて、しかししかし今回は天候も安定していたから意を決して伴侶を探しに王都での社交界にでてみたがやっぱり領地に嵐が来たと連絡があっては私は呑気にあそこで油を売っている場合ではなく、そんな、そんな感じで、だから決してアルフレッド殿に会うのを楽しみにしていなかったという訳ではなく本当に私は、いや、そのだから……」
「ア、アリアナ様!? 落ち着いてください!」
途中から自分でも何をいっているのか分からなくなっていた。色々と動揺しているせいでとりあえず思いついた言葉を片っ端から羅列していたら、アルフレッドが慌てて止めに入ってくれた。
「えーと、なんかごめんなさい、アリアナ様。あの日弾んでいた僕の気持ちをないがしろにされたような気持ちになっちゃって、ちょっと意地悪なこと言っちゃいました。分かってますよ、僕と会うことより領地でのお仕事が最優先なのは当たり前ですから。でもね、」
そこで一度言葉を区切ると、アルフレッドは声のトーンを落とし、ふわりと顔をアリアナの仮面の下に隠されている耳の辺りに近付け、脳髄が蕩けそうな程の甘い甘い声で囁いた。
「こんなこと言っちゃうくらい、僕はアリアナ様のこと、好きだってことです。それこそここまで追いかけてきちゃうくらいに」
「!?」
今、彼はなんと言った……?
仮面越しなので、もしかしたら聞き間違いかもしれない。いや、そうに決まっている。
なのにアルフレッドは、耳元にあった顔をアリアナのすぐ正面に持ってくると、仮面がなければ息がかかりそうな程の至近距離で、アリアナを見つめる。
仮面のせいで視界が狭すぎて、もはやアルフレッドのキラキラ宝石のように光る碧の瞳しか見えない。けれど少年のように純粋で煌めいている瞳の奥に、純粋なだけではない黒い何かが揺らめいているのは気のせいだろうか。
可愛らしい顔立ちとは真逆に位置するであろう強烈な色香がアルフレッドから立ち上っていて、本能的に思わずアリアナはごくりと喉を鳴らす。
彼女の心も身体もとうに限界は超えている。わずかでも何かされれば、アリアナは全ての意識を遥か彼方へ飛ばせる自信があった。
もうこれ以上刺激をしないでくれ……しかしそんな彼女の願いも虚しく、アルフレッドはどことなく楽しそうに目を細めると、更に近付いてくる。
「!?!?」
どう考えてもこのままだとぶつかる。仮面越しではあるが、今にも唇と唇が触れてしまいそうで……。
いや、しまいそうではない。
彼はまさに今、勘違いでも何でもなく、意図して唇を近付けて……って、これはまさか―――――――!
もう、駄目だ…………。
その事に気が付いた瞬間、確かにアリアナの頭からは湯気が立ち上った。そして限界を突破した彼女は遂に、意識を手放した。




