34*悪魔の大罪
アディスが回帰したのは、ラゼの遺体が国に戻って来て葬儀が行われた時から数えて三ヶ月前。
時間はあるように思われたが、ラゼが共和国で死んだのはもっと早いことに加え、ウェルラインに許可を得て動き出す頃にはすでに一週間が経過していた。
(ラゼに追いつくまで、最短でも五日はかかる)
元は帝国と呼ばれた、広大な土地を持つ国だ。
北を目指して進む聖女の視察隊に追いつくためには、それくらいかかる。魔法の使用が制限される可能性も配慮すると、正直、五日でも厳しい。
各地点の滞在期間もあるとはいえ、視察隊が数ヶ月かけて進んでいる道を追いかけるのは簡単ではなかった。
毒物の混入の件についても調べながら進むと考えると、もっと時間がいる。
――そして、何より。
ラゼの父親レグスを人に戻す方法を見つけ出すには、猶予などないに等しかった。
「えぇ? 魔物化した人間を元に戻す方法? そんなの浄化魔法でぴゃぴゃっとやれば終わりじゃん?」
今更何を言い出すのかと。
眼鏡の奥で不思議そうな顔をしているのは、「白衣を着た悪魔」こと生物学者のヨル・カートン・ファデリックだ。
異様に物が多いヨルの研究室を訪れていたアディスは、助手のフレイが片付けた机の前に座り、彼女に尋ねる。
「浄化魔法以外で魔物化を治癒する方法が知りたいんです」
もし方法がないのであれば、レグスの浄化を止めさせればいいのは分かっている。
しかし、あの状態の父親とラゼが再会するかもしれないと思うと、一刻でも早く対処法を見つけたかった。
「うーん……。それって、予防薬じゃなくて特効薬がほしいって意味でしょう? そんなのあったら、聖女視察なんてやってないでしょ?」
「分かっています。それでも必要なんです」
「…………ふーん?」
ヨルは腑に落ちない様子で小首をかしげる。
「鎮静剤を作り上げたあなたなら、特効薬を作ることも可能ではありませんか?」
アディスの頑なに特効薬を求める姿勢に、ヨルはしばらくの沈黙のあと眼鏡を押し上げた。
「じゃあさ、逆に聞きたいんだけど。――どうして、あんなに早く魔物化に効く鎮静剤を用意できたと思う?」
意味深な発言に、アディスは眉根を寄せる。
ヨル・カートン・ファデリックは皇国軍に所属する研究者だ。
魔物について聞くならば、彼女以外にはいないと言わせるだけの権威。
研究対象はバルーダに生息しており、そのバルーダには皇国軍人たちが魔石の採取のために派遣されている。
――となれば、答えは簡単だ。
「…………魔物化した軍人たちを対象に、すでに研究は進められていたから……」
「まっ、そういうこと。人間が魔物化するってことは、この前の戦争があるまで公になってなかったけど、ちょっと考えれば誰にだって分かることだよねー」
ヨルはひらりと手のひらを上に向けてみせる。
「――今のところ、キミが望む品はまだないよ。だから、浄化魔法は悲願だったんだ。……まあ、そのせいで聖女が祭り上げられて、教会からすれば特効薬なんてものは邪魔でしかないんだけど!」
彼女はそう続けた。おどけて見せるヨルに、後ろで控えていたフレイは物言いたげな眼差しを送っている。
「そうですか。今はまだ、ないんですね」
やはり、レグスの浄化は何としてでも止めなくては。
アディスの中で、ひとつの決断が下される。
「であれば、必ず完成させてください。何としてでも」
それでもなお、特効薬を諦めないアディスは押しが――否、圧が強った。
一歩も引かないどころか踏み込んでくる様子に、ヨルはぱちぱちまばたきを繰り返す。
「なんか、すんごい執念を感じるんだけどー……」
宰相の息子がいきなりアポイントを取って話がしたいと乗り込んできたかと思えば、ここまで食いかかってくるとはヨルも想定していなかった。
相手はお偉いさんの子息なのだから、自重してくれと前もってフレイに言い聞かされていた彼女は、困った眼差しで助手に助けを求める。
「……その、お話に水を差すようで申し訳ないのですが、なぜアディス様は特効薬をお求めなのでしょうか」
「…………」
おそるおそるといった態度で、フレイが前に出てくる。
アディスの真意を知らない彼らからすれば、何か裏があるのではと疑うのは当然のことだ。
「――フェデリック教授は、オーファン大佐と親しいと聞いています」
「んぇ? うん。まあ、ラゼとはマブダチだけど??」
急な話題の転換にヨルは戸惑いを見せたものの、当然のように答える。
「彼女の父親は、浄化魔法では元に戻らず消えてしまう」
「――――は?」
それまでのらりくらりと喋っていたヨルが一変した。
「一体何を言ってるの? 訳が分からないんだけど」
はっきりと拒絶を露わにする彼女に、アディスは動じない。
「信じていただけなくても結構です。ただ、俺はその未来を見て回帰してきました」
はたから聞けば正気を疑う一言と共に、アディスはウェルラインから与えられた勅許の印をヨルに差し出す。
「……………………本物ですよ。教授」
動かないヨルに変わって内容を確認したフレイは、頬を引き攣らせた。
大婆様と皇上陛下のお達しとあれば、彼の言っていることは事実としてしか認知を許されない。
「俺の見た未来では、ラゼは共和国の北端で封じられていたレグスさんを目の前で失いました。それをきっかけに、明らかに調子も崩した。……無事に、国に帰ってこなかった」
「……………………」
ヨルは閉口していた。
黙り込んで、びくりとも動かない。
研究に夢中になっている時は、とにかく手が動いて止まらないのが彼女の通常運転。
こんな風に固まってしまうことは珍しく、フレイは違和感を覚えた。
「――――そんなはずは……。いや、でも、まさか……そんな……」
ぶつぶつ呟く彼女は、明らかに様子がおかしい。
どこか一点を見つめて思考にもぐってしまったヨルに、アディスとフレイは顔を見合わせた。
雲行きが怪しくなってきたのは、どちらも察知している。
アディスと目が合ったフレイは、彼が何か言う前に自分がなんとかしなければと、ヨルの前にしゃがんで肩を掴んだ。
「教授! しっかりしてください! 教授の大好きなラゼさんの未来がかかってるんで――」
がばりと前を向かせたフレイは、ヨルの目を見て言葉を失った。
「…………教授?」
今まで見たことのない覇気のない目で、彼女は青い顔をしていた。
「――フェデリック教授。あなたは何か、レグスさんついて知っていますね?」
確信をもって、アディスは告げる。
逃さないと言わんばかりの、容赦のなさだった。
彼の眼差しに貫かれたヨルはみるみるうちに苦痛の浮かぶ表情に変わり、両手で頭を抱えて俯く。
「……レグス・ナギ・オーファンは……ラゼのお父さんは、被験体のひとりだった」
乾いた喉から放たれるのは、ずっとラゼにも言えなかった事実。
「彼は特殊だった。被験体の中でも、抜きん出て魔物の割合が高い個体だったから……。特にその再生能力の高さは異常だった。あの力を解明すれば、どんな怪我も治癒魔法なしで治せると当時のわたしは本気で思ってた」
ヨルは淡々と語る。
「鎮静剤の研究も、キミの言う特効薬の研究にも、彼にはかなりお世話になったよ。……でも……」
グッと唇を噛んで、言葉を探す。
アディスは黙って答えを待った。
「……あの日、特効薬を投与したあと。彼は消えてしまった。跡形もなく。……だから、ずっと、彼はわたしが消してしまったのだと。今日までそう思ってたんだ」
ヨルの目は混乱に泳いでいた。
「――後悔したんだ。初めて」
震える声で、彼女は懺悔する。
「その時にはもうラゼは軍人として生きてて、わたしとも知り合いだった。わたしはあこ子に黙って、お父さんのことを実験台にしてたんだよ。あの子が父親を探すために魔物討伐部に志願していたことだって、あの時のわたしは知っていたのに……っ! それなのに、わたしはラゼのお父さんを消してしまった!!」
ぐしゃぐしゃと黒い髪を掻きむしる。
自分の好奇心のためなら、倫理観も欠如するのがヨルだった。
たとえ誰に倫理を説かれようとも、間に受けたことなどなかった。
しかし、あの時。
レグスがバルーダの秘密研究所から消えてしまった時、ヨルは生まれて初めて自分のしたことを後悔した。
ヨルにとってラゼは良き理解者で、尊重するべき大事な友だったということを、彼女はその時やっと認識した。
『もし、ここであなたの身に何かあったら、私は殺してでもあなたの口を封じないといけない』
そう言って自嘲気味に苦笑したラゼが、何年経っても忘れられない。
取り扱っている研究は極秘。ヨルは護衛という見張りなくして外を自由に出歩けなくなった。
ラゼに出会うまで、研究ができればどこに閉じ込められようと構わないと思っていたが、それは違かった。
何度も何度も失敗を繰り返して、狭い研究室の中で塞ぎ込んでいたヨルは、「白衣を着た悪魔」と呼ばれるに相応しいくらいには人間を辞めていた。
しかし、そんなヨルをいとも簡単に外に連れ出して、知らない世界を見せてくれたのが――人間に戻してくれたのが、ラゼだった。
移動魔法で、あっという間に遠くへ連れ出してくれた彼女のだが、もちろん条件はあった。
出かけた先でヨルに何かあれば、ラゼはヨルのことを殺してでも口封じしなければならなかったし、そうなってしまった場合の責任は当然負うことになる。
それでも、ラゼは困ったように笑って、何度も根気よくヨルを外に連れ出した。
海にも、山にも、川にも、森にも。
自然豊かな場所に始まり、色んな街にも連れて行ってくれた。
外出している間に、どんなに突拍子もないことを言い出そうとも、ラゼはヨルを否定することはなかった。
そういう見方もあるかもしれない、だけど一般的な解釈はこうだ、と。
そう言って、ヨルの知見を深めてくれた。
彼女の隣は、すごく居心地がよくて、息がしやすかった。
『――ラゼにだったらいいよ。わたし、ラゼに会ってはじめて、人間に生まれてよかったと思えたんだから』
答えたあと、ラゼはきょとんと目を丸くして――それからまた笑った。
割と本気で答えたことだったので、笑われて不満だったのだが、今度はあまりにも屈託なく笑うラゼに目が釘付けで何も言えなかった。
――ああ、この子のことは悲しませたくないな、と。
そう純粋に思えたのに、思ったはずなのに。
自分がしでかしたことの罪に、じわじわ毎日胸を蝕まれ、それでも彼女から離れたくなくて、ずっと黙ってなかったことにしようとした。
目を背けていた大罪が、今になって――。
「…………でも。キミの言うことが事実なら。……あの時ラゼのお父さんは消えたんじゃなくて、何者かに攫われていたんだ……」
ヨルはどうしようもない気持ちになっていた。
まだ存在していることに安堵してしまった。
そんな権利など自分にないのに、喜んでいる自分がいる。
「一体、誰が……」
「分からない。でも、まだレグス・ナギ・オーファンがいるなら、そういうことだよ」
フレイの問いに、ヨルは呟く。
研究所が狙われるなんて、何度も経験したことがある。
あの時も、きっとまた誰かが技術を盗もうとして、優秀な検体を盗んでいったのだ。――おそらくは、マジェンダ帝国の者が。
「彼は今、どこにいるの」
「共和国の最北部です」
ヨルの懺悔を聞いても、それについては何も触れずにアディスは即答した。
彼にも言いたいことはあったが、第三者である自分が口を挟む気にはならなかった。
「………………」
アディスがヨルに求めるのは、ただひとつ。
レグスを治す特効薬だけだ。
「――また、わたしに彼と向き合う機会を許してくれるのなら。絶対に見つけるよ、元の姿に治す方法を。わたしの人生をかけてでも」
微動だにせずヨルの「答え」を待つアディスに、彼女は覚悟を決めた。
「彼のことはわたしがなんとかする。だから、ここまで連れてきて」
「それだけ聞ければ十分です。俺は、必ず彼とラゼを連れて国に帰る」
アディスは自分に言い聞かせるように明言する。
「…………キミは……」
ラゼのために彼がこの研究室まで来たのだと理解したヨルは、改めてアディスを見つめた。
宰相の息子。貴族のお坊ちゃん。金の卵。
彼をそう表現するのは、間違っていたらしい。
「……いや。なんでもないよ。……わたしが言えたことではないのかもしれないけど。ラゼのこと、よろしくね。大事な人なんだ」
「――はい」
アディスは返事をすると、別れの挨拶をして研究室を後にした。
「……怒ってたね。閣下の息子くん」
レグスのことを話している間、アディスは何も言わなかったが、その手を握りしめていた。
できた拳がいつ飛んできてもおかしくないと思ったほどだったが、その手が自分に向けられることはなかった。
「ちゃんと、ラゼに謝らないと。……たとえ許してもらえなくても」
ヨルの言葉を拾ったフレイは、小さくため息をつく。
「ほんとうにどうしようもないですね。あなたって人は」
「……うん」
「仕方ないから、僕も手伝います。またラゼさんを困らせようものなら、僕が殴ってでも止めますから」
「…………うん。頼りにしてるよ、フレイ」
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