第三章二話
ひどい熱気に押しつぶされるようにして目が覚めた。体を起こそうとする。妙に力が入らなかったが、それでもなんとか上半身だけでも起き上がることができた。
「う……ここは」
銀髪の少女……ハリエットはうめき声を上げながら、額に流れる汗を袖で拭いた。周囲は真っ暗で、ぼんやりとしか見えない。しかしそれでもここが小さな部屋で、自分が硬いベッドに寝ていることだけはわかった。
「暑ぅ……」
全身汗まみれになるようなひどい熱帯夜だった。窓も開いていないらしく、高い温度の空気が身体にまとわりつき、ひどく不快だ。湿度がそう高くないのが救いだったが、残念なことに彼女はずいぶんな暑がりだった。
「ドーモ、おはようございます」
その声に、ハリエットは体を震わせた。視界の端で、人影らしきものがうごめいた。目を凝らしてみるとそこには一人の男が壁を背に座っている。
よく見れば、この部屋にいるのはハリエットと彼だけではなかった。即席らしきハンモックには少女が、地面には大小二つのミノムシめいた寝袋が転がっている。
「お、おはよう」
とはいえ、目を覚ましているのは男……大西だけのようだった。他はすやすやと穏やかな寝息を立てている。
「調子はどうです?」
「……問題ないわ」
そこでやっと、ハリエットはこの連中が自分を助けてくれた人たちであることを思い出した。最初にここに連れてこられたときは慣れない空腹で意識がもうろうとしていたし、食事をとった後は疲れからかすぐに眠ってしまった。それからしばらく経って目が覚めたのが今のことだ。
「ごめんなさい。迷惑、かけたみたいで」
「少なくとも僕は迷惑だとは思ってはいませんよ。お気になさらず」
大西はそう言いながら立ち上がり、床に転がったオルトリーヴァの大きな体を避けつつベッドへと歩み寄った。
「お腹、減ってませんか? スープくらいなら作り置きがあります。冷めてますけど」
柔らかにほほ笑む大西。そんな彼を見つつ、ハリエットは少しだけ首を振った。お粥を食べさせてもらったのが昼過ぎ、今はおそらく深夜だろう。ずっと寝ていたとはいえ、確かに空腹感はあった。
「お願いするわ」
「少々お待ちを」
コンロへ向かう。その近くで布の上に伏せてあるいくつかのマグカップを見て一瞬悩んだ後、自分用の物をとって五徳の上の小さな鍋からスープをお玉ですくって入れた。作ってからすでに何時間もたっているため、既に常温になってしまっている。
「どうぞ」
「……ありがとう。でも、一人じゃ飲みにくいわ。貴方もいかが?」
「そうですか? まあ、そう言うなら」
肩をすくめて、コンロ前に戻る。一瞬悩んでから、スフレのカップを借りた。安っぽい、素焼きのものだ。スープを入れ、ハリエットの元に戻る。
大西がカップに口をつけるのを見てから、ハリエットもそれに続く。少しだけ口に含んだソレは、適度に塩のきいた素朴だが美味しいものだった。もう一口飲み、息をつく。
「貴方たちは……冒険者、かしら?」
カップの中身が半分ほどになった頃、ハリエットは椅子に座ってぼんやりとカップを傾けていた大西に聞いた。彼は茫洋とした目つきのまま、ハリエットの方に視線を向ける。
「ええ、そうです」
「そう。……私は……ハリエット。そう呼んで頂戴」
「分かりました。じゃあ僕はオオニシと」
「変な名前」
ハリエットが表情を緩めた。この辺りではまず聞かない響きの名前だ。容姿から見て異邦人だろうと、彼女はあたりをつけた。
「僕は気に入ってますよ。本名よりは」
「あらそう?」
冒険者は脛に傷のある連中も多いことは彼女も知っている。だから特にその言葉を追及するような真似はしなかった。視線を自分のマグカップに向ける。暗闇にぼんやりと浮かび上がる、安物の白磁。
しばらく、どちらも言葉を発することは無かった。時折カップを傾け、時間をかけて飲み干す。
「……てっきり、いろいろ根掘り葉掘り聞かれるものだと思っていたのだけど」
沈黙に耐えかねたか、ハリエットはちらりと大西を見る。彼がそれに反応して身じろぎすると、座っている小さな木椅子が微かに音を立てた。
「聞かれたいんですか?」
「いいえ」
「そうですか。では聞きません」
「随分と紳士的ね」
「興味が無いもので」
随分と突き放したような言葉だが、しかし不思議とその口調には棘は無かった。ハリエットは苦笑する。
「そうなの」
「ええ」
その言葉に嘘は無いと、彼女は不思議と確信していた。彼の目や表情には、たしかに関心らしいものはない。だからといって突き放すわけでもなく、こうして世話も焼いてくれる。不思議な男だと思った。
「とはいっても、何かトラブルを抱えているなら、事前に何が起こる可能性があるかくらいは知っておきたいですけども。妙なことに巻き込まれると困りますから」
「トラブル。トラブル、ね」
一瞬、目を逸らすハリエット。その様子を大西は穏やかな表情で見続けている。
「そんなことになる前に出ていくから、大丈夫よ」
そう言いながらカップをベッドサイドの棚に置き、身体をずらして足を床に付ける。力を籠め、たちあがった。ふらつくが、歩けないわけではない。
「本当にありがとう、助かったわ。お礼はしたいけど……持ち合わせがないの。ごめんなさい」
「そりゃあ、懐が温かいならそうそう街中で行き倒れたりしないでしょう」
「正論ね」
あんまりな言い草に、おもわずハリエットは苦笑した。そして素足のままドアに向かってフラフラと歩き始まる。
「妙な連中にわたくしのことを聞かれたら、正直に答えなさい。そうすれば面倒なことにはならないはずよ。間違っても、変に嘘をついてはいけないわ」
言いたいことだけ言って、彼女はドアノブに手をかける。その瞬間、首元に微かな痛みが走った。驚いて振り向くと、そこにはそこそこ離れた位置にいたはずの大西の姿があった。音も気配もない高速移動。そしてその手には、細い針が握られていた。
「なっ……!」
「そのまま行かせると怒られるかもしれないので……すみませんね。六時間もしないうちに目覚めると思うので、安心してください」
その言葉を最後に、ハリエットの意識はブラックアウトした。
「なんでそういうことをしちゃったんですか」
朝。寝起きそうそう、ヌイは座った目つきで険のある声を出していた。彼女の眼前には床に正座している大西の姿があった。
「はいそうですかと見送ったら、それはそれでヌイが嫌がりそうだなって」
「その通りですが手段を選びなさい、手段を」
ピシリとヌイが指差した先にはベッドの上でひどく不機嫌そうにしているハリエットの姿があった。ちなみに、最初に来ていたボロ着ではなくヌイの寝間着を着ていた。身長はヌイのほうが高いのに、胸元はひどくキツそうだった。
「普通に私たちを起こせば済む話でしょう。気絶なんかさせなくても」
起床そうそう大西から昨晩の話を聞いたヌイは怒髪天を突く勢いで怒った。助けた相手に暴力を振るうとは何事か、ということだ。
どうやら彼は、部屋から出て行こうとしたハリエットを妙な手段を使って眠らせたらしい。その手段については一応、経絡だの経穴だのと詳しい説明がなされたものの、ヌイにはいまいちよくわからない話だった。
「不眠症の人の貴重な睡眠時間を奪うなんて、相当の緊急時でもない限り褒められた行為ではないと思ったから……」
「うっ」
最近はかなり改善傾向とはいえ、ヌイが不眠症気味なのは確かだ。余計なことで起こされれば、確かに彼女も不機嫌になることはある。とはいっても、今回はその”相当の緊急時”にあたると彼女自身は思うのだが。
「こ、後遺症とか……ないでしょうね……? 全身に違和感がある……のですが!?」
夏用の薄いブランケットを抱きしめながら、ハリエット。その肩は若干だが震えていた。そして、いまだに手足には妙な痺れがありまともに歩くことはできなかった。このような症状が一生続いたりすれば、困るどころの話ではない。
「それはもちろん。後数時間位で綺麗に痺れも取れる……と思います。たぶん」
「多分ってなに……」
「自分に試してもいまいちよくわからなかったもので」
「なんて無責任な……」
この世の終わりのような表情で首を振るハリエットだが、内心安心もしていた。背後から襲われた時はもう終わりかと思ったが、この様子ならこれ以上の狼藉はされないだろう。すくなくとも、なにか不埒な思惑があっての凶行ではないとわかっただけでも幸いだ。だからといって許したわけでもないが。
「まーやっちゃったものは仕方ないよ。それはさておきだ」
「し、仕方ないって。う、いや何でもないです」
「そこまでおびえなくてもいいよ。これ以上の危害は加えないと約束する」
こんな調子では会話もままならない。スフレは肩をすくめた。
「で、キミさ。やっぱり妙な事情持ちなワケかい? 出て行こうとしたってことは、やっぱりさあ」
「……ええ。わたくしがここに居れば、きっと迷惑をかけるわ。だから、早く出て行きたい」
「あーそう、うん、有難い限りだ。オオニシィ、せっかくの厚意をむげにするもんじゃないよキミィ」
「次からはちゃんと相談してから闇討するよ」
「緊急時はさておき平時は出来るだけそうするようにしようね!約束だぞ!」
そこまでいって、スフレは改めてハリエットに顔を向けた。その無機質な白い鴉マスクに、おもわずたじろぐ。
「まあ正直に言わせてもらうと、ボクとしちゃあさっさと出て行ってくれると嬉しいんだがね。まいったなあ」
さすがに体の自由がきかない人間をそこらに投げ捨てるわけにはいかない。その程度の良心は彼女とて持ち合わせていた。
「ええと、とりあえず、私の仲間がやったことですから、謝罪をしておきます。ご迷惑とご不自由をかけてしまい、申し訳ありません」
「いいえ……」
そう言った後しばらく考え込むハリエットだったが、やがて顔をふるふると振った。
「私は怒ってない……から、謝る必要なんてないわ」
無償で食事と寝床を提供してもらった恩もある。すくなくとも、ヌイに対しては感謝しこそすれ文句を言うつもりなどさらさらないハリエットだった。それでも素直にそう言えないのは、彼女の性格によるものだろう。
「何にせよ、身体が良くなったらすぐ出ていく。それがお互いの為だから」
「困っていることがあるなら、力になりたいのですが」
「必要ないわ」
強い口調でそいう言い切った後、ハリエットはふっと表情を緩めた。
「そう言ってくれる人だからこそ、迷惑をかけたくないの」




