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第一章二十九話

 中天に輝く太陽が、さんさんと草原を照らしている。人間の背丈ほどもある草が生い茂ったこの場所は、身を隠すにはうってつけだ。大西は身を低くし、草をできるだけ揺らさないようにゆっくりと歩いていた。

 

「しかしきみ、まったくもって突然だな。トロルを殺すなんて簡単に言うけどさ、勝算はあるのかい」


 彼の背中に張り付いたスフレが、ペストマスクの下で苦い顔をしながら言う。半ば強引に、彼女は大西に村の外まで連れ出されていた。当然ながらヌイやシャルロッテにこのことは伝えておらず、見張りをしていた衛兵の青年に「戻らなかったら死んだと思ってほしい」と伝言を頼むだけで、あとは何もしていない。

 

「昨日の魔法を見て考えたんだけど、スフレは時間さえあればトロルを確殺できるだけの魔法が使えるんじゃない?」


「使えるけどさ、術式の展開にだいぶ時間がかかるよ。実戦では致命的な遅さだ」


「それは想定の範囲内だ」


 乗り気ではなさそうなスフレに、大西はあくまで冷静にそう言った。その間も、脚は止めていない。深い草むらをゆっくりと、だが確実に進んでいく。その足取りには一切の迷いがなく、どこか目的の場所があって動いているように見えた。

 

「要するに、相手から発見されずに撃てばいいんだ。狙撃と言うわけだね」


「そりゃあそうだろうけどさ。実戦はそう簡単にはいかないよ」


 大西の背中で、スフレが首を左右に振る。奇襲するにしても、敵の所在が分かっていなければ当然だが上手くはいかない。斥候なり見張りなりに発見されて、逆にひどい目に合うのがせいぜいだ。いくらスフレが一流の魔法使いで、大西が優秀な格闘家であったとしても、平地で大量のオークに囲まれれば死は逃れられない。

 

「オークどもに見つからず、トロルを一方的に視認できる場所まで接近する。そしてその場所からしばらく動かない。それが、ボクの魔法でトロルを片付ける場合の最低条件だ。なんとかなるのかい?」


「おそらくは」


 躊躇なく、大西はそう答えた。おそらくといいつつ、その声音には迷いらしきものは無い。

 

「この草原には、小さな丘があるんだ。さして高いものじゃないけど、この平地なら随分と遠くまで見渡せるはず。とりあえずそこへ向かって、敵の野営地を探すつもりなんだ」


「丘? そんなの、あったっけ」


 首をかしげるスフレ。彼女の記憶にある限り、そんなものは見た覚えがない。無論、スフレは行軍中のほとんどを寝て過ごしているから、見逃している可能性も十分あるが。

 

「あるよ、あっちだ。ここからだと、草が邪魔で見えないけれど」


 前方を顎で指し示しながら、大西が言う。

 この野原に生えている草は、かなり背が高い。これのせいで、開けた場所だというのに見通しはまったく効かないのだ。

 

「僕が連中なら、間違いなくあそこに見張りを置く。とりあえず、手がかりの一つくらいはつかめるんじゃないかと」


「そりゃあね? こんな見晴らしの悪い場所だ。そんな場所があるなら、一方的に相手を発見……」


 そこまで言ったところで、嫌な想像が頭によぎりスフレは小さく顔をしかめた。そう、もし相手が大西の言うように丘に見張りを用意していたとすれば、昨日の昼の時点で自分たちはオークに発見されていたのではないだろうか。そして冒険者四人程度なら、余計なことをされる前にさっさと村を攻めたほうが損害が少なくて済むと考え襲撃を速めても、決して不思議なことではない……。

 

「いや、それは今考えても仕方のない事か」


 あの時は、あれが最善の行動だった。あとからどうこう言っても、どうしようもない。とりあえず今は、やるべきことをやるだけだ。

 

「妙に警戒した動きだな思ったけど、そういうことか」


「うん。見張りが目を向けているであろう、例の道の方向とは真逆から進んでいるから、見つかりにくいとは思うけど……とにかく、見つかったら一巻の終わりだからね。警戒するに越したことはないよ」


 囁くような小さな声で、大西はそう言う。もちろん、その間も足は止めない。出来るだけ草を揺らさないよう丁寧に、足を進めていく。妙に堂に入った、慣れた動きだった。

 

「まったくきみは……。思ったより何倍も頼りになるじゃないか。ボクの目も曇ったものだな」


 首をゆっくりと左右に振りながら、スフレは静かに嘯く。彼女の大西に対する第一印象は、どこにでもいる平凡な男……というものだった。しかしいざ有事となれば、尋常ではないほど頼りになる。この男は一体何者なのか、がぜん興味が湧いてくるスフレだった。

 

「もしかして、前はどこぞの国にでも仕えていたのかい?」


「まさか。旅をしていた頃は、物騒な国も通ったからね。そこでいろいろ、心得を教えてもらったんだ」


「随分と波乱万丈な旅だなぁ」


 呆れたような声音でそう言うスフレ。どうやら観光地を巡るような一般的な旅行とはまったく異なる、とんでもない旅をしていたようだ。

 

「波乱万丈目当てで旅に出たんだ。そりゃあもちろん、多少は何か起きてくれないと」


「まあ、そりゃあそうだろうが」


 大西の肩につかまりながら、スフレは小さく肩をすくめた。わざわざ退屈な思いをしに旅に出るようなヤツはそうそう居ないだろうが、それにしても限度と言うものがある。

 

「そろそろ、静かにした方が良さそうだ。お喋りに夢中になって相手にこっちの位置を掴まれても困るからね……」


「へいへい。せっかくだし、少しばかり眠らせてもらおうか。まだ昨日の疲れが盗れていないんだ。だいぶ無理して起きてたからね……」


 そう言うなり、すぐにスフレは寝息を立てはじめた。おそろしく寝入りが早い。頻繁に寝ている割には寝ぼけた姿をさらしたこともないので、寝つきも寝起きもすこぶる良い方なのだろう。

 もちろん彼女とてここが敵地であることは理解している。しかしたとえスフレが起きていたとしても、大西が奇襲を受けるような事態ならば、彼女とて対応はできないだろう。だったら索敵は大西にまかせ、自分は体力回復に努めたほうが賢明だ……という判断である。短い付き合いではあるが、スフレは既に大西に対してそれほどの信頼を置いていた。

 

「……」


 それから、半時間ほどたった。大西は足を止め、姿勢を低くしながら眼前の小さな丘を見上げている。その視線の先には、背中を向けて立っている二匹のオークの姿があった。

 

(マジか。ドンピシャだな)


 背中でぐっすり寝ていたところを起こされたスフレが、念話(テレパシー)の魔法を使って大西の脳内でそう呟いた。このお椀状に土が盛り上がった小さな丘は、さして高くはないものの周囲が低地の為、確かに大西の言うように見張りにぴったりな場所であった。

 そんな場所だから、当然オークたちも見逃しはしない。自分たちの野営地に近づく不埒なニンゲンをいち早く見つけるべく、見張りを送り込んでいたのだ。

 革製の帽子をかぶったオークと、こん棒を何本も腰みのに下げたガタイのいいオークの二匹が、やる気なさげに草原へと目を向けていた。

 

(僕が帽子をかぶっている方をやる。組みかかるのと同時に、もう一人を始末してほしい)


(わかった、タイミングは任せる)


 音を立てないよう細心の注意を払いながら大西の背中から降り、スフレが杖を構える。すっと、まるで地面の上を滑っているかのような動きで大西が歩き始めた。あちこちに目を向け、周囲を警戒しつつも、あっという間に丘の頂上に立つオークの背後へとたどり着いた。

 

「……」


 大西の腕が、帽子をかぶっているオークの首へと絡みついた。瞬間、枯れ木を折るようなあっけない音と共に、オークの首があらぬ方向を向く。帽子のオークは口から泡を吹いて白目をむき、崩れ落ちる。

 

風刃(ウィンド・スラッシュ)!」


 それと同時に、鈴の転がるような声音で力ある言葉が紡がれた。初夏の暖かな大気を切り裂き、不可視の刃が飛ぶ。マッチョオークは同僚の死に気付く前に、首を落とされて即死した。

 

「南無……」


 周囲の様子を見回してほかの敵がいないことを確認してから、倒れた二匹のオークに向けて大西は合掌し頭を下げた。そして杖の構えをといてこちらに歩み寄ってきたスフレに向けて言う。

 

「素晴らしい援護だ。助かるよ」


「いやいや、そっちもとんでもない手際だ。本職の暗殺者みたいな動きだったぞ」


「少なくとも自分の手で人を殺したのは初めてなんだけどねえ」


 そういって何事もなかったかのように苦笑する大西に、スフレはマスクの下で渋い表情を浮かべた。杖を背負いつつ、大西のすぐ眼前でぴたりと足を止める。

 

「妖魔のボクが言うのもアレだけどね。相手は妖魔のオークだ。人と同じように扱っちゃいけないんだよ。きみは人を殺したんじゃあない」


 苦み走った声音だった。妖魔であるダークエルフとして生まれついた彼女だからこそ、妖魔と人間の断絶はよく理解していた。それにスフレは、妖魔と言っても人に混じって暮らしているため、オークのことを同胞だとはあまり思いたくないということもある。

 

「そうかな? まあ、なんにせよ、せっかく溜めた功徳はこれでオジャンだと思った方が良さそうだけど」


 肩を竦めつつ、大西が腰に下げた袋に目を向けた。

 

「とはいえ、必要な損害だ。来世利益よりは現状の打破を優先したいし」


 そう言ってから、そっと姿勢を低くして、遠くへ目を向ける。今は妙な問答より、相手の野営地を見つける方が先決なのだ。

 周囲は地平線の向こうまで三百六十度草原が続いていた。背の高い草が優しい風に撫でられて、まるで緑色の海のように波打っていた。長閑な光景だ。血生臭い殺し合いよりも昼寝が似合うような、穏やかな陽気。

 

「……見つけた」


 一分ほどの沈黙の後、大西は小さく口を開いた。指差した先は、西南西。スフレが弾かれたような動きでそちらに目をやった。彼女の視力ではゴマ粒のようでいまいちわかり辛いが、確かによく目を凝らしてみれば一つ人影のようなものがあった。どうやら寝そべって休んでいるようだが、それ以上はわからない。

 

「トロルだ。オークと、攫われた人もいるね」


「良く見えるなあ、オイ」


 おそらく自分の見た人影はトロルだろうとあたりをつけつつ、スフレが感嘆の声を上げた。人影は地平線のすぐ近くだ。高所から見下ろす形だから、十キロメートルは離れているだろう。それほど遠くの人間を視認するなど、尋常な視力ではない。

 

「攫われた人って言うと、生きてるとしたら娘さんかい」


 犯して快楽をむさぼることのできない男や子供、老人などはオークは食料にするから、生存者と言えば若い女性の他はないだろう。もっとも、人間よりもずいぶんと狂暴なオークに集団で暴行されて、無事で済む人間などそうそう居ないだろうが。

 

「たぶん、そうだな」


「ううん、できれば助けてやりたいが……」


「トロルを殺して、そのうえで救出を行うのは無理だ。トロルをあきらめて救出を優先すれば、一人くらいは助かるかもしれないけど」


 のほほんとした顔をスフレに向ける大西。その黒い眼はガラス玉のように澄んでいて、スフレには彼が内心どういう風に考えているのか、いまいちわからなかった。

 

「僕としてはこのチャンスを生かすべきだと考える。奇襲のアドバンテージを生かせるのは初回だけだ。二度目以降は間違いなく警戒される。無傷でトロルを殺せるタイミングは今しかないと思う。……スフレの意見は?」


「そうさな、そうだろうな。……クソッ、背に腹は代えられないか。参ったね」


 自分の視力が悪くて助かったと、スフレはひそかに息を吐いた。自分の目で年若い娘が乱暴されている姿を見て、冷静な判断を下せる自信はなかった。感情に流されてトロルを討ち損ねれば、また村で大きな被害が出るだろう。

 

「でもさ、ボクは寝てていまいち聞いてなかったが……きみ、トロルを倒す手があるとかいって、大工の人らに何か作らせてなかったか? あっちじゃだめなのかい」


 それでも、スフレは掠れた声でそう聞いた。トロルを殺せて、なおかつ一人でも被害者を助け出せる手があるのならばそちらの方がいいに決まっているのだ。

 

破城鎚(あれ)は信頼性が低い。次回の襲撃までに完成が間に合うかどうかも不透明だ。トロルの排除は防衛戦の前提条件だから、二つ以上叩く手段が欲しくて発案したけど、本命は暗殺であっちは予備なんだ」


 大西はそう言ってから、もちろん破城鎚側のプランが成功する可能性も十分あるけどと付け加えた。要するに、ローリスクローリターンをとるかハイリスクハイリターンを取るかという選択なのだ。

 もう一度スフレはため息を吐きつつ、邪魔なマスクをはぎ取った。少しだけ汗ばんだミルクチョコレート色の肌が露わになる。その人形めいて端正な顔は、今は苦渋の表情を浮かべていた。

 

「本命ってことは、最初からこうするつもりだったのか」


「最初というか、トロルと戦っているときから、どうやって排除するかずうっと考えていたんだよ。一度撤退させて、見えない場所から一方的に叩くのが一番安全で確実だと思ったんだ」


「確かにそうだがね。まったく……シャルロッテたちに伝えずに出てきたのは、反対されることを避けるためか」


「うん」


 作戦を話して止められたりすれば、大西としてもとても困ってしまう。またしても正攻法であの暴力の化身のような巨人に立ち向かうのは、できれば避けたいのだ。ならば、作戦の決行に必要なスフレだけ連れ出して、何も言わずに実行するべき……というのが最終的な結論だった。

 

「……仕方ない、お膳立てを無駄にするわけにはいかないか。なに、ボクもかつては大魔法使いと呼ばれた女だ。準備さえ整っていれば、あの程度のデクノボーなんか一撃さ。見ていなよ」


 厳しい表情のまま、スフレがトロルたちの方向へ杖を向ける。その先端の宝珠は、今までにない量の光を放っていた。

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