終わりに~早春の風の中で
アイオールの満十五歳の誕生日も近付いてきた、とある暖かな日。
クリスティーナ・アーナン女史はクリークスへお帰りになった。
内々で誕生日祝いをするのでアーナン先生もぜひにと、何度かアイオールは誘ったが、お気持ちは嬉しいのですがと恐縮しながら先生は断っていた。
「実は世話になっている甥の息子がこの春、飛び級で中等部に進級する予定なんですが。博物学が少しばかり弱いのが悩みなのです。出来れば新学期までに戻って勉強をみてやってくれと、こちらへ来る前から甥に頼まれていまして」
甥の自慢の息子で、かなり期待をかけている子なのですよ、と、恐縮しながらも嬉しそうなアーナン先生だった。
「飛び級で中等部って、その子幾つですか?」
俺が訊くと、今年の夏で十歳だと言われて目をむく。
アーナン先生の甥御さんはクリークスで役人をしているらしいが、そういう家の子が通う学校の中等部は普通、十二、三歳くらいからの筈だ。
まだ十歳にもなっていない子が通うなんて信じられない。
そりゃあ、親も期待をかけるだろう。
「末っ子長男、という子で。姉たちが家でさらっている初等部の勉強をそばで見ていて覚えてしまったようです。たしかに聡い子ですけど、要するに負けず嫌いだったのでしょうね。まずは、お姉さんたちに馬鹿にされたくない一心で、あの子は勉強を頑張ってきたようですよ」
なんとなく誰かさんを思い出すような話ではないか。
「それに、わたくしの役目は終わった、そうも思いますから」
背筋を伸ばしてさわやかに彼女は言う。
ああ、この人は本当にいつもいつも、潔癖なくらい引き際が鮮やかだ、と、鈍い痛みと共に俺は思った。
馬車に荷が詰まれる。
街道を使っても、クリークスまで馬車で五日から八日、というところだろうか。
「遠路お気をつけて。機会があれば私もクリークスへ参ります」
別れの挨拶に来たアーナン先生の手を取り、アイオールは軽く涙ぐむ。
「先生にはどれほど感謝してもし足りない思いです。いただいた言葉を胸に、顔を上げて歩いてゆこうと思っています」
「わたくしは何もしていませんよ」
アーナン先生はほほ笑む。
「もし、わたくしから何かを得たとお考えになられるのなら。それはきっと、あなた様の命がご自身でつかみ取られた何か……でしょう」
少し何かを考えるように、彼女は軽く目を伏せた。
「そうですね、わたくしは産婆、もしかすると生まれようとする赤子の手助けくらいは、出来たかもしれませんね。でも、生まれて生きるのは結局赤子自身の命の力です。おっしゃる通り、顔を上げてあなた様の道を歩んで下さいませ」
笑みを深め、彼女は頭を下げた。
「長々とお世話になりました、アイオール・デュ・ラクレイノ殿下。あなた様のご健康とご多幸、今後ますますのご活躍をお祈りいたします」
ラクレイアーンの光と共にありますように。
紋切りの別れの言葉で締めくくり、彼女はきびすを返した。
「ラクレイアーンの光と共にありますように!」
彼女の背中にアイオールは、叫ぶように挨拶を返した。
睡蓮宮の主だった従者たちが見送る中、アーナン先生は旅立つ。
馬車に乗り込む直前、彼女は一度こちらを向き、深々と一礼した。
「お世話になりました、皆さん。どうぞ、ラクレイアーンの光と共にありますように」
「ラクレイアーンの光と共にありますように!」
気付くと俺は誰よりも早く、誰よりも大きな声で挨拶を返していた。
遠ざかる馬車を、皆で長く見送っていた。
やがて完全に見えなくなり、蹄の音や車輪の軋みも聞こえなくなった。
ようやく我々はきびすを返し、仕事に戻るべく歩き始めた。
暖かな陽射しの中を、白いものが飛んでいる。
何気なく目で追うと、風に崩された気の早いタンポポの綿毛があった。
(そういえば……)
サルーンに突っかかっていった時、裏庭に生えていたタンポポをずいぶん踏みにじってしまった。
今は素知らぬ顔で咲いているからすっかり忘れ切っていたが、罪もないタンポポたちに、思えば可哀相なことをした。
ちょっと感傷的になっているのだろうか?
普段思いもしないことを思い、俺は立ち止まる。
片膝を突く形でしゃがみ込み、そっとタンポポの綿毛に触れる。
「……アイオール・デュ・ラクレイノ殿下」
知らず知らずのうちのつぶやきがもれる。
「私マイノール・タイスンは王命により、あなたの護衛官を務めさせていただくこととなりました。以後私はあなたに従い、日に影にあなたをお守りすることをここに誓います」
二歳の頃。
こんなにちびなんだから、面倒見てやらなきゃしょうがないよな、と思った。
四歳の頃。
マーノマーノとひよこみたいに付きまとうあいつが、うとましくも可愛かった。
九歳の頃。
母君の死を受け入れられずに茫然としているあいつが危なっかしくて、これからは俺がそばで見守らなくては、と強く思った。
そして今。
俺は、新しく積み木の城を積み直しているあいつのそばで、俺自身の積み木の城を積もうとしている。
面倒を見るのでも見守るのでもなく、近くで、共に。
そしてそれ以外、俺にやりたいことはない。
ない、のだ。
「……愛の告白かよ」
自嘲気味のつぶやきに答える、トルーノの笑い声。
『忠誠の誓いなんて、愛の告白みたいなモンさ』
「タイスン殿?」
いつまでもうずくまっている俺を訝しく思ったのだろう、サルーンが引き返してきた。
「どうかなさいましたか?ご気分が悪くなられた、とか?」
俺は笑みを作り、実直そうなサルーンの目を見上げる。
かつて『最低』と嘲られながらもこつこつと務め続け、とうとう『最高』の名声を勝ち取り、己れのふたつ名の意味を塗り替えた男。
密かに俺を、買い被りに近いほど認めてくれている男。
現役ながら伝説の護衛官にして……俺の師匠。
笑みを深め、俺は立ち上がる。
「いえ、何でもありません」
早春の暖かな風が、俺の前髪を柔らかくゆさぶった。
『護衛官 マイノール・タイスンの誓い』、完結しました。
最後までお付き合いいただきましてありがとうございます。
剣は出てくるけど魔法はない、今流行り?の転生もチートもない、実に地味でどこかしらゆがんだお話でありましたが、楽しんでいただけたでしょうか?
よろしければ今後もお付き合いいただけましたら幸甚でございます。
ありがとうございました。




