3 厳冬の客人⑩
腹が鳴って目が覚めた。
辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
(また眠り込んでいたのか……)
しかし腹が減って目が覚めるなど、俺の身体はずいぶん本調子を取りもどしているじゃないか。
(そうさ。何があろうとなかろうと、時間が来れば腹が減ってきっちり食える。それでこそマイノール・タイスンだ)
傍らの小卓に置きっぱなしにしていたキャラメルの残りに手を伸ばす。
つつみをむいて口に放り込み、力任せに噛む。
ほろ苦い甘みが歯に沁みた。
「ずいぶん暗いですよ、灯りをつけましよう」
夕食を持って来て下さったアーナン先生は言い、自分の灯りの火を部屋のランタンに移した。
室内が急に明るく、心なしかあたたかくなる。
たったそれだけのことでなんだか気持ちまで柔らかくなった。
俺は半身を起こして小卓に散らばるつつみ紙をまとめ、いくつか残ったキャラメルを端に寄せた。
盆に乗っている夕食は、朝の残りらしいふかしたじゃがいもを薄く輪切りにして角皿に並べ、炒めた玉ねぎや鶏のささ身を乗せた上にクリームとチーズをかけて焼いたオーブン焼きだ。
小さな林檎もひとつ添えられている。
香ばしいにおいに、再び腹がぐうと鳴る。
「アーナン先生。俺、本当に内臓が弱っているんですか?昨日と一昨日はまあそうかなあとも思いましたけど、今は普通に腹が減りますよ」
照れ隠しのように早口でどうでもいいことを言うと、フォークを取り上げる。皿の端で焦げたチーズがカリカリしていて旨い。
夕食の後、カモミールがほとんどの香草茶に蜂蜜を落としたものを勧められた。
アイオールがよく飲まされている、薬湯なのかお茶なのか微妙なやつだ。
「キャラメルですか、懐かしいですね」
小卓の隅に寄せられたキャラメルを見て、アーナン先生は言った。
「トルニエールがお見舞いに来たそうですね。あの子は未だにキャラメルが好きなのでしょうか?」
俺は軽く首をかしげた。
「あいつ、キャラメルが好きでしたっけ?」
「おや、忘れましたか?彼が六歳か七歳の頃、セイイール殿下が重い雪花熱で一時危篤状態になられたことがあったでしょう?そんな春宮に小さい子供は置いておけないからと、冬から春の半ばくらいまで、睡蓮宮であの子を預かったことがあったじゃないですか」
ああ……思い出した。
たまに春宮へ行くと会う、トルーノと呼ばれている赤銅色の髪をした子供がある日突然、あちらの侍女に連れられて睡蓮宮に来た。
ヤツは着替えの入った鞄ひとつを持ち、こわばった顔をして俺たちがいた居間の入り口で立ち尽くした。
「いらっしゃい、トルニエール。トルーノと呼んでいいのかしら」
レーンの方に話しかけられ、あいつは堅い表情のままではいと答えた。
手招きされ、おずおずと近付いてきたあいつへ、レーンの方はキャラメルをひとつ渡した。
「おかあさま、僕も」
三つかそこらだったアイオールがねだる。
レーンの方は笑いながらアイオールと俺にもひとつづつ、キャラメルを手渡した。
「みんなで仲良く召し上がれ」
いただきます、と言って俺とアイオールはすぐにキャラメルを口に入れたが、トルーノはキャラメルを持ったまま竦んだようにじっとしていた。
「トルーノも召し上がれ」
レーンの方にもう一度勧められた瞬間、あいつが突然おうおうと泣き出したので俺たちは心底びっくりした。
どうしていいのかわからず途方にくれたが、俺は、あいつがにぎりしめたままのキャラメルを取ってつつみをむき、しゃくりあげているあいつの口へキャラメルを押し込んだ。
「泣くなよ。キャラメル食え、うまいぞ」
泣いている口にいきなりキャラメルを押し込められ、トルーノは目をむいたが、成り行き上半ば仕方なく、もぐもぐと口を動かした。
しばらくして恥ずかしそうにちょっと笑い、うんおいしいねと言った。
「あの冬は大人たちもよくキャラメルを食べましたね。トルーノが喜ぶので、厨の料理人がしょっちゅう作っていましたから」
キャラメルを作っていた料理人の爺さんは五年ほど前に辞めたが、彼は若い頃に大きな菓子屋で修業をしたとかいう話で、透き通った綺麗な飴や、キャラメルなんかを暇を見てはこしらえてくれた。
(だから……見舞いにキャラメルを持ってきたのかな、あいつ)
とぼけたあいつのことだから、おそらく無意識なのだろうが。
香草茶を飲んでいると、早くも寝間着に着替えていたアイオールが訪ねてきた。
ガウンをはおり、足元は相変わらずのうさぎの毛皮の部屋履きだ。
「具合はどうだ?」
アーナン先生に会釈をして椅子に座り、アイオールが訊く。
「ああ。昨日から寝て寝て寝倒してるせいか、ずいぶんいい。痛み自体が楽になってきたよ。食事も旨くなってきたしな」
俺がそう答えると、ほっとしたようにアイオールは笑った。
「そうか……良かった」
そして一瞬目を伏せて逡巡したが、軽く息をついて俺の目を真っ直ぐ見た。
「もちろん、アーナン先生のお許しが必要だけど。調子が良いようなら明日か明後日、私の散歩に付き合ってくれないかな?睡蓮宮の庭をぶらっとする程度の散歩だ。休み中なのに悪いけど、護衛官としてでなく幼馴染の友として付き合ってくれたら嬉しいんだけど」
「散歩程度の軽い運動なら、まったく問題ありませんよ」
アーナン先生はおっしゃった。
「ご本人の体調しだいですけど。そろそろそういう軽い運動なら、むしろした方がいい時期にきてますしねえ」
「俺は別にいいけど」
答えながら俺は、それとなくアイオールの顔をうかがった。
ヤツの顔の表情そのものは静かだったが、心なしか頬の辺りが軽くこわばっているのが気になる。
『護衛官としてでなく幼馴染の友として』などとわざわざ断るのも気になった。
「さすがに退屈になってきたところだし。なんなら明日の午後辺りでどうだ?天気も悪くなさそうな感じだしよ」
あえてのんびりそう答えると、アイオールはちょっと笑った。
「それじゃあ明日の午過ぎ、支度をしてテラスに来ておくれ。待ってるから」
翌日、午。
俺は久しぶりに寝間着以外の服を着た。
サルーンの部屋へ詫びに行った時は着替えるのも一仕事だったが、さすがにあの時に比べれば格段に動きが軽くなっていた。
無造作にひねると思いがけない場所がギクッと痛むし、全身になんとも言えない違和感はあったが、庭を散歩する程度なら問題ないだろう。
部屋着の上にきちんと外套を着て、念の為に襟巻もする。
足元はいつも履いている長靴。
護衛官の仕着せとして支給されたものだが、一番履き慣れているし、風を通さないのであたたかい。
テラスへ行く。
身支度を整えたアイオールがすでにいた。
母や侍女たちが病み上がりの主を過剰に心配したらしく、もこもこに着ぶくれた上に黒貂の毛皮の外套に襟巻まで着せられていた。
正直、やや暑そうだ。
着ぶくれた王子様はベルベットの寝椅子の端に座り、近くの小卓で何やらやっていた。たじろぐほど真剣な顔だ。
(はあ?)
小卓に乗っているのは積み木、俺たちが子供の頃に遊んでいたものだ。
おそらく誰かに言って、わざわざ物置から取って来させたのだろう。
(なんでまた……)
いい年をして真面目な顔で積み木遊びを。大丈夫かこいつ。
「アイオール」
声をかけると、アイオールはこちらへ向き直り、花が咲いたようないい顔で笑った。
「やあ。じゃあ出かけようか。天気はいいし風もなさそうだ、散歩日和だな」
「タイスン殿がご一緒なら安心ですから、私は玄関先でひかえております。ゆっくり楽しんできて下さい、お二人とも」
いつの間にかそばにいたサルーンがそう言う。
いつもの柔らかな笑みが目許にあった。
さすがというか単に俺がぼけているだけなのか、話しかけられるまで気配らしい気配を感じなかったのでぎょっとした。
思わず目を伏せる。
「……はい」
「ありがとう。ちょっと行ってくるよ」
よく晴れていたし風もほとんど無かったが、空気は思いがけないほど冷たかった。
「寒いな」
意外そうにアイオールは言い、思わずのようにぶるっと震える。
「テラスにいた時は着すぎじゃないかって思っていたんだけど、そうでもないみたいだ。やっぱりずっと部屋の中にいちゃあ駄目だね、本当の状態がわからなくなってしまう」
最後はつぶやくように、アイオールはそう言った。
テラスにいた時は、真剣に積み木を積んでる以外は普通だったが、今のアイオールはどことなく沈んでいる、あるいは何かを思いつめている様子だ。
ヤツの隣を歩きながら俺は思う。
しかし何故そうなのかはよくわからない。
まあ、そもそも散歩に誘われたこと自体どこかしら唐突で、俺としては最初から身構えている部分はある。
よくユキシロに乗って歩いた辺りが近付いてきた。
それとなく別の方向へ行こうとした。
「マーノ」
言葉少なく歩いていたアイオールが急に立ち止まった。
俺も立ち止まる。
「訊きたいんだけど。私が……例の事件で倒れていた薮はどれだ?おそらくこの辺の何処かじゃないかって思うんだけど」
絶句している俺へ、アイオールは菫色の瞳を据えてたたみかける。
「護衛官のタイスンは私の心身を慮って教えてくれないだろう。だけど幼馴染で乳兄弟のマーノなら、私が必要だと頼めば答えてくれるだろう?頼む、教えてくれ。あの事件の、お前が知っている限りのことを」
「知って……」
言葉を絞り出した途端、すさまじい怒りが弾けた。
目の前が一瞬赤くなる。
今更なことを言い出す王子をぶん殴りたい衝動に駆られたが、両手をぎゅっと握りこんで何とか抑える。
「知って、どうするんだよ、今更。もういい加減、忘れろよ!お前の父君だって年明けに、罪人たちはそれぞれ相応しい罰を受けたと言っていただろう?そりゃあ、だからって気が済むとは俺も思わないけどよ、もう忘れて前へ進む時期じゃないのか?いつまでこだわってるんだよ、いい加減にしろ!そんなだからいつまで経っても身体がしゃっきりしないんだよっ」
激昂する俺を、アイオールは上目遣いでにらむ。
狂気と紙一重の怒りがその目にはゆらいでいる。
「忘れようとした」
ぼそっと言う。
「忘れようとしている、今までずっと。忘れようとこれでも私なりに色々やってみた。でも駄目なんだ。何をやっていても……セイイール兄さまと談笑している時でさえ。あの日の記憶の断片が、脈絡もなくふっと頭にかすめるんだ。そしたらもう駄目だ、身体が震えて、気付くと全身に冷たい汗がふき出している……」
そこでひとつ、アイオールは大きく息をついた。顔が青い。
「少なくとも私の頭、私の意志は、起こってしまったことは起こってしまったこととして受け入れて前へ進もうとしている。でも私の心は違うらしい。起こったことを受け入れるどころか、思い出すことも嫌がってうずくまっているんだ。無理に立ち上がらせようとすれば悲鳴を上げて逃げ出す。このおびえ切った意気地なしをどうにかしなければ、私は前へ進めないらしい。頼む、マーノ。私の心は、己れをごまかそうとしている。逃げも隠れも出来ないよう、お前の知る限りのあらましを包み隠さず教えてくれ!」
俺はしばらく無言でアイオールを見ていた。
にらみつけていた、が近いかもしれない。
しかしアイオールの目の色は変わらない。
俺はあきらめ、小さく息をついてきびすを返した。
そしてあの日以来、決して近付かなかった一角へと向かう。アイオールも無言でついてくる。
低木をかき分け、目で示す。
アイオールはかすれた声でつぶやくように問う。
「そこに……私は倒れていたのか?」
「……ああ」
「どんな状態だった?」
「どんなって」
言いたくなかったが、言わないとこの王子様は決して納得しないだろう。
俺は出来るだけ感情を押し殺し、淡々と事実を述べる。
「お前はあの日、両腕を縛られ、目隠しをされ、さるぐつわを噛まされて倒れていた。こちらから見て左側が頭、右側が足で、うつ伏せに近い横向きだった。右肩が脱臼していたせいだろう、腕があり得ない方向を向いていた。完全に気を失っていたな、呼びかけたがまったく答えなかった。鞭で打たれたとしか思えない傷跡が身体中にあって、特に背中がひどかった。俺は腰の剣で戒めや目隠しを切り、着ていた外套でお前を包んで睡蓮宮へ連れて帰ったんだ」
「……それから?」
「それからって……後はサーティン先生の仕事だし、俺は、恥ずかしい話だがお前を連れ帰った時点で腑抜けてしまった。玄関先にへたり込んでしばらく動けなかったものだから、その後のことはあまりよくわからない」
そうか、と言い、アイオールは小さくため息をつく。
「じゃあ質問を変える。お前はどうして、私がここにいるってわかったんだい?」
眉根を寄せ、俺は考えながら答える。
「別にお前がここにいるとは思わなかったよ。ただ、この辺りに何とも言えない違和感があって……気になって見てみる気になったんだ」
「違和感?」
不思議そうに聞き返され、俺はますます眉根を寄せた。
「違和感で正しいかどうかは微妙だけど、強いて言うなら違和感としか表現できないな、あの感じは。俺は、駆け出しのペーペーだし、王子の乳兄弟という強力な縁故のお陰もあって護衛官になれた程度の男だけどよ、それでも一応は護衛官として出仕を認められている。人を探す時の心得やコツも、少しは教わった。他の者よりは気配の変化やその場の違和感に敏くて当然だろう。そうでなきゃ、護衛官として給金もらうのも恥ずかしいってもんだ」
ふむ、と少し考えるように目を伏せた後、アイオールは、真っ直ぐ俺の目を見て言った。
「身体中に鞭の傷があったって言ってたね。何故『身体中』にあるってわかったんだい?」
「え?そりゃあ、見たらわかるだろう?」
「私はあの日乗馬服を着ていたはずだ。乗馬服は丈夫に作られている、その上から鞭打たれていたのなら、一目で身体中に傷があるなんてわからないんじゃないのか?」
俺は思わず詰まる。
「私は……服を着ていなかったのか?」
唇をかむ俺へ、アイオールは詰め寄る。
「答えてくれ、マーノ。私はどんな状況で気を失い、倒れていたんだ?記憶がない訳じゃないけれど曖昧で、だから私の心は隙を見つけて逃げるんだよ。お願いだ、お前が見た通りのあの日の私を教えてくれ!」
畜生、そこまで言うなら洗いざらいしゃべってやる。
「お前はあの時……」
俺は一度大きく息をつき、唇をなめる。
「ほぼ全裸、と言ってよかった。ナイフのような鋭利な刃物で服を裂かれ、無理矢理脱がされたという感じだったな。むき出しの背中には一面に鞭の跡がついていて、腰から足にかけて血と泥のようなもので汚れていた。目をそむけたくなるような痛々しい姿で、見たくなくて俺は、ほとんど無意識のうちに外套を脱いでお前を包んで抱き上げたんだ」
「それで?」
挑むような菫の瞳に、さすがに俺は躊躇する。
「それでって……後はさっき言った通りだ」
質問を変えよう、とアイオールはため息と一緒に再び言った。
「ほぼ全裸の状態で鞭打たれ、戒められた上に目隠しとさるぐつわをされて気を失っていた私を見て、お前はどう判断した?」
「どうって……見たまんまだよ」
「見たまんま、とは?」
「見たまんまは見たまんまだよ!もういいだろう、言わなくたってわかるだろうが!」
しかしアイオールは頑なに首を振る。
「言ってくれ。お前の目にどう映った?」
俺の中で何かがブチ切れた。
嗜虐のような被虐のような、快楽めいた異様な感覚が刹那、背筋に這い上った。
「要するにだな」
俺はもう一度唇をなめる。
「お前はあの日、おそらくは金で雇われた、ならず者どもに襲われたのさ。その場を見た訳じゃないからはっきりしたことは言えないけどだな、お前を抱き上げた瞬間、栗の花に似たなんとも言えないにおいがしたんだ。この状況で季節外れの栗の花のにおいだ、これがどういうことか相当鈍い者でもわかろうよ。お前は、ラクレイアーンの申し子と称えられている父君譲りの綺麗な顔をしているし、身体つきも華奢でほっそりしてて中性的な雰囲気だ。人によっちゃ邪まな気持ちをそそるだろうな。お前を襲ったちんぴらどもは、さぞ大喜びでお前の身体を堪能したろうよっ!」
息が切れた。
ぜいぜいと肩を揺らす俺を、凍りついたようにアイオールは見つめる。
しばらく硬直していたが、突然身体をゆらすと膝をつき、激しく嘔吐した。
俺は慌ててアイオールの背をさする。
強烈に酸っぱいにおいのする吐瀉物だった。
胃袋を絞るような勢いで嘔吐し続けていたが、アイオールは不意に、がくっと前のめりになった。
思わずかっとする。
「こらっ、気絶するな!ゲロの中へ頭から突っ込むつもりかよ!てめえが言えってしつこいから俺は言ったんだ、気絶して逃げるんなら最初っから訊くな!」
すんでのところでアイオールは意識を保った。のろのろと顔を上げる。
汗みずくの土気色の顔で、おそろしく目が虚ろだった。
「ああ……すまない。迷惑をかけた」
小さな声で俺に謝り、何度か辛そうに息をついた。




