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3 厳冬の客人⑥

 隣室の気配の変化にはっとする。


 どうやら気付かないうちにうとうとしていたらしい。

 起き上がってガウンを羽織り、扉を開けて主の寝室へ向かう。



 寝台のそばで二人の医師は立ち尽くし、じっとアイオールの様子を見ているようだった。

 アイオールは寝台にうつ伏せに横たわり、苦しそうに短い息を繰り返している。

 敷布を握りしめ、時々低いうめき声をもらす。


「熱が上がったのですか?」


 俺の問いにサーティン先生はうなずく。


「……い、いたい」


 うめき声が言葉になる。


「いたい、痛い。先生、痛いです」


 助けて。痛い。

 半ば朦朧としながらアイオールは繰り返しつぶやく。


「殿下のお怪我は、当然ですがもうすべて治っています」


 暗い声でサーティン先生は、アーナン先生へ言った。


「ですが、お熱が高くなられると必ずと言っていいほど殿下は、痛い痛いとおっしゃるのです。私なりに色々と治療を試みましたが、殿下のお苦しみを和らげることは出来ませんでした」


 深いため息をひとつ。サーティン先生は辛そうに言葉を押し出す。


「もう……どうすればいいのか……私にはわかりません」



 黙ってサーティン先生の言葉に耳を傾けていたアーナン先生は、息子ほどの年頃のまだ若い医師へ痛ましそうに少し笑む。


「サーティン先生。今までお聞きしたお話から察するに、とても丁寧に殿下の治療に当たられていらっしゃるご様子。治療の方法も方針も、決して間違っていらっしゃらない、少なくとも私はそう判断しますよ」


「ですが……」


「ええ。でもこの手の病は癒えるのにどうしても時間がかかりますから。治療者側もかなり辛抱しなくてはいけないので辛いですね。何度も萎えそうになられたでしょう?今までおひとりで、本当によく頑張ってこられましたね」


 静かなねぎらいの言葉に、サーティン先生は感極まって絶句した。


「殿下。アイオールさま」


 アーナン先生は柔らかい声でアイオールに声をかける。


「何処が痛まれるのですか?」


 しかしアイオールは聞こえていないのか、ただ痛い痛いとだけ繰り返す。


「アイオールさま」


 少し強い声でアーナン先生が呼びかけると、アイオールはヒッと小さく息を引き込み、鋭く顔を上げてこちらを見た。

 焦点の定まり切らない菫の瞳がおびえたようにゆらぐ。


「く……来るな、来るなあ!」


 発作だ。

 思わずそばへ寄ろうとした俺を、アーナン先生は驚くほどの強さで制した。


「申し訳ありません、少しだけ待って下さい」


 緊張をはらんだアーナン先生のたたずまいに気圧され、俺は竦んだ。


「アイオールさま。我々はもちろん、不用意に近付いたりしませんよ。ですが、何処が痛まれるのか教えて下さい。でないと治療が……」


「うるさい!うるさい!」


 狂ったようにアイオールは叫ぶ。瞳には混乱の色しかない。

 

 アイオールは今、確実に狂気の中にいる。

 このまま正気を振り切り、永遠に狂気の側へ行ってしまうのではないかという恐怖が突き上がる。

 俺は思わず一歩踏み出す。

 途端にアーナン先生の片腕が鋭く伸び、再び俺を制した。


「もう少し待って下さいな」


 ささやきには有無を言わせぬ強さがあった。俺は再び竦んでしまった。


「アイオールさま。先程も申しましたが、我々は決して不用意に近付きませんし、あなたが嫌だとおっしゃることまで強要も致しません。だから心を落ち着かせて……」


「やかましい、この大嘘つきが!」


 狂気に囚われたアイオールはすさまじい形相で叫ぶ。

 荒れ狂ったように怒っているが、混乱した瞳に深いおびえが透けて見える。


「いたぶるだけいたぶり、臓腑のすべてを食らい尽くすくせに何を言う!私が苦しむのがそんなに楽しいか!嬉しいか!もううんざりだ、いい加減にしろ!いっそ殺せと何度も言っているのに、いつまでもいつまでもお前たちは私を殺さないんだ!」


 がくがくと身を震わせ、アイオールは、俺たちの向こうに悪鬼の幻を見てにらみつける。


「殺せ、殺せ殺してくれ!お願いだから、もう、終わら、せ……」


 ひく、とでもいう音がアイオールの喉からもれた。

 パクパクと苦しそうにあえぎ、喉をかきむしる仕草をしながらどうと寝台の上へ倒れ込む。

 胸元に爪を立てるようにしながら痙攣した次に、唐突に目を閉じて弛緩した。


 医師たちはある程度これを想定していたのだろう、寝台で死体のように力を失くしたアイオールを、迷いのない動作で介抱し始めた。

 やがてアイオールは息を吹き返し、意識も戻った。

 茫然としていたが、こちらの問いかけにもそれなりに応じている。正気を失くした訳ではなさそうだった。


 俺は医師たちの邪魔にならないよう下がり、部屋の隅にある椅子に所在なく座って治療が済むのを待った。


 いや、それは正しくない。


 途轍もなく虚しくて、手伝うどころか立つことすら出来なかったのだ。

 寝台の枕元のランタンの灯りが作る彼等の影を、俺はただ、影絵芝居に見入る子供のように凝視し続けた。



 夜が明けた。

 微熱は残っていたが、アイオールは小康状態を保っていると言えそうだった。


 昨夜の発作以来、ありもしない痛みを訴えて苦しむことも騒ぐこともなく、うとうとながら眠っている様子だった。

 俺の方はあれから医師たちに促されて控えの間の戻ったが、ほとんど眠れなかった。

 アイオールの形相や叫び声が何度もよみがえり、目が冴えて眠るどころではなかった。

 明け方に様子を見に行き、大きな変化もなさそうだったので医師たちに声をかけ、着替えと時計を持って自室へ戻った。


 朝の日課のひとつ、時計のぜんまいを巻いた後に考える。

 医師たちには自室で休むよう勧められていたし、自分としてもさっきまでは、その方がいいかなと思っていた。

 が、あちらでもうお仕着せに着替えてしまった。

 もう一度寝間着なりなんなりに着替えるのも煩わしい。

 それに、下手に横になって休むと時間を忘れて眠り込んでしまいそうな気もする。


(軽く……鍛錬をしてくるか)


 眠気も覚めようし気も変わるだろう。

 練習用の剣を手に、俺は自室を出た。



 裏庭に出て深呼吸。

 冷たい空気が身体を内側から洗うような心地だ。

 もやもやも少し晴れる。


 身体をほぐし、俺は剣を振り始めた。

 いつもならしばらく素振りをしていると雑念が無くなってくるのだが、今朝はどうも駄目だった。


 混乱し切ったアイオールの形相、叫び声が意識から離れない。

 殺せ殺せと繰り返すアイオールの叫び。

 身の内から絞り出すあの叫び声には、耳を覆いたくなる切実な苦しみがあった。


(あいつは……全然立ち直っていないんだ)


 そしてこれからも立ち直れないのかもしれない。


(当然、か……)


 強いて思い出さないようにしてきたあの時のことが、今更ながらまざまざとよみがえる。

 剣を振る手がいつの間にか止まっていた。



 あの時。

 薮の陰で壊れた人形のようにアイオールは倒れていた。

 生臭いような鉄さび臭いような、異様なにおいがむっと鼻を突いた。


 衣類の残片らしい布切れがまとわりついているほっそりとした身体には、目をそらさずにはいられないほどむごい傷がいくつもいくつもあり、腰から下は血と泥のようなもので汚れていた。

 俺は腰に下げていた剣で、震えながら、目隠しや戒めを切っていった。


 アイオールの右腕はあり得ないくらいだらりとしていた。

 さるぐつわを外すと大量のよだれが流れ出た。

 唇に血の気はまったくなかった。

 よだれではなく血を吐いたように、その時俺には感じられた。


 着ていた外套でほぼ全裸のアイオールの身体を包む。

 震えの止まらない腕で、俺は必死にヤツを抱き上げる。

 その刹那、栗の花を思わせるにおいが鋭く立ち上ぼり、この状況のすべてを俺は覚った。

 砕けそうになる膝に力を込め、ただ前へ向かって歩くことだけを考えた。


 あいつを見つけた時は、傷のすさまじさだけに意識がいっていた。

 何故『ほぼ全裸』なのか考えなかった。

 しかしあのにおいをかいだ瞬間、俺は雷に打たれたように暴行のあらましを正しく理解した。


 年齢の割にはお子様のアイオールだ、それなりの性の知識はあるだろうが、同性に対して異性に向けるような欲望や衝動を持つ者のことは、世の中にはそんな者もいるらしい程度の認識でこちら方面の具体的な知識などほとんどなかったはずだ。

 ましてやその欲望や衝動が自分へ向くなど、考えたこともなかっただろう。


 あいつはろくに予備知識もない状態のままだしぬけに襲われ、すさまじい暴力と共に無理矢理経験をさせられたのだ。

 正気など保てなくて当然ではないか。


「タイスン殿」


 声をかけられ、はっと我に返る。

 サルーンだ。


 いつも通りきちんとした隙のない服装で、背筋の伸びた美しい姿勢だった。そのいつも通りのたたずまいに、今朝は妙に気圧された。

 そして気圧された自分に対しどす黒いような怒りが湧いた。


 サルーンはやや顔を曇らせた。


「どうなさいました?気分がすぐれないのですか?顔色が良くないですし、目がかなり充血していますよ」


 『目が充血』にうろたえる。

 別に泣いていないが泣きたい気分だったし、心情的には泣いていた。

 しかしそれを他人に指摘されたくはない。


「ああ、いえ。ちょっと目にゴミが入ってしまいまして」


 わざとらしいのは承知だが、目許を袖口でぬぐう。

 そして改めて彼を見た。


 俺を心配してくれているのはわかる。

 が、その顔が妙に落ち着き払っているように見え、訳もなく腹立たしかった。


「サルーン護衛官」


 ひとつ大きく息をついた後、俺はサルーンへ呼びかける。

 あまり目付きがよろしくないであろう自覚はある。


「お手合わせを願います」



 サルーンは軽く眉を寄せ、何か言いたそうに口を開きかけたが、結局黙った。

 携えてきた練習用の剣の鞘を払い、彼は俺と向き合った。


 打ち合いが始まる。

 俺はとにかく遮二無二に打ちかかっていった。

 当然あっさり躱され、したたかに胴や肩を打たれた。

 が、打たれても打たれても、俺は剣を引かなかった。

 まだまだ、と吠え、無茶苦茶に剣を振り回し続けた。


(殺してやる)


 気が付くと俺は、胸の中で呪詛のようにそうつぶやいていた。


 別にサルーンが憎いのではない。

 ただ、目の前の敵の息の根を止めてやりたい、その凶暴な思いだけが俺の全身を満たしている。


(殺してやる!殺してやる!殺してやる!)


 誰を何を、はない。

 狂った殺意だけがただただ身の内で猛る。

 殺して殺して殺し尽くしたい!全世界を滅ぼしたい!


 鈍く嫌な金属音。

 俺はよろめき、思わずしりもちをついてしまった。ひゅうひゅうと喉が鳴り、ひどく息苦しい。

 サルーンの剣が鮮やかに閃き、俺の剣は手から弾き飛ばされてしまった。


「もうよしましょう。鍛錬でも何でもない」


 さすがにやや弾んだ息でサルーンは言った。

 俺は何度か唾を呑んで息を調え、上目遣いにサルーンをにらんだ。


「荒れていますね、タイスン殿。まるで駄々をこねる幼児ですよ」


 サルーンの言葉に俺は逆上した。

 意味をなさないうなり声を上げ、俺は、このいけ好かないジジイへ飛びかかっていった。


 当然だろうがあっさり躱された。

 むしゃぶりつこうとした腕をひょいとつかまれ、反動を使ってくるっと身体を回転させられた。

 まともに背中から地面へ叩きつけられ、一瞬、呼吸が止まった。


「頭を冷やしましょう、タイスン殿」


 やや持て余したようなサルーンの声音。

 俺はよろめきながら立ち上がり、再び飛びかかっていった。

 いや、自分では飛びかかっていったつもりだが、ふらつきながらむしゃぶりつこうとする俺は、絡んでくる千鳥足の酔っ払いみたいなものだったろうなと後で思った。


 飛びかかる。

 投げられる。

 立ち上がってまた飛びかかる。

 投げられる。

 どのくらい繰り返したかわからない。


 いつしか俺はおうおうと声を上げて泣きながら、必死でサルーンにむしゃぶりつこうとしていた。

 涼しい顔で俺を圧倒するこのジジイへ、ひっかき傷ひとつでいいから一矢報いてやらずには気が済まない、それだけだった。


 ふと気が付くと、俺は冷たい地面にあお向けになっていた。

 さすがにもう指一本動かせない。

 敗北感にひしがれ、唇を噛みしめる。

 情けなさに涙が出て仕方がなかった。


 散々踏みにじられたタンポポの葉の、青臭いにおいが物悲しくただよう。


「無茶をしますね」


 大息をついてサルーンは言った。


「あちこちずいぶん傷めたでしょう。後でかなり疼きますよ、覚悟しておいて下さい。医者を呼んできますからじっとしてて下さいね」


 遠ざかるサルーンの足音を聞きながら、俺はぼんやりと空を見上げる。



 明けたばかりの淡い色の空に、どこまでも白く儚いちぎれ雲が、二、三、浮いていた。


 俺はゆっくりとまぶたを閉じる。


(死にたい……)


 ぽつりとそう思ったのまではなんとなく覚えている。

 後の記憶はない。

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