3 厳冬の客人①
すっかり寒くなった。
もうすぐ新年だ。
今日は元『学友』の少年たちが、睡蓮宮へ遊びに来ている。
「殿下~」
くるくると波打つ淡い金色の髪の少年が、青灰色の瞳をやや涙目にしながら恨めしそうにアイオールへ呼びかける。
セルヴァン公国公子・シュルツだ。
セルヴァン公国は西方にある小さな国で、百五十年ばかり前にラクレイドへ臣従した。
三代前、国主がラクレイドの王女を妃に迎えて公爵位を賜った(らしい。講習で教わった)。
この国の公子を七歳から成人するまでの十年間ラクレイドで預かり、教育を受けさせるのが臣従したころからの慣習である。
要するに人質だろうが、百年前ならともかく、昨今の公子はラクレイド王家の遠縁にあたり、完全に客分であろう。
「意地悪ですよ~この駒の動き。それに『将軍』が単身で敵陣へ切り込んでくるなんて、定跡無視じゃないですか?」
「定跡無視とまでは言えないだろうけど、まあ普通はあんまりやらないかもしれないね。でもこのくらいの奇手は想定しなきゃいけないよ、シュルツ」
理不尽そうなシュルツへ苦笑い含みにアイオールが答えると、そばで見ていたグラノールがあきれたように口をはさむ。
「だから申し上げたでしょう、シュルツさま。アイオールさまと平手で指すのは無謀だって。セイイール殿下と変わらないくらい、アイオールさまはお強いんですから」
シュルツは唇を尖らせる。
「だって。駒落としなんて、手加減してもらっているみたいじゃないですか」
「平手で指しても手加減してもらってるんですよ、我々は。殿下方が本気で指したら、我々の腕なら十手かそこらで壊滅ですってば」
いやさすがに十手じゃ無理だな、十…四、十五手くらいはかかるかな、と、アイオールが真顔で言うものだからシュルツは絶句する。
彼らは将棋に興じているのだ。
俺はこういう辛気臭い遊びの面白さがよくわからないが、坊ちゃま方には愛好者が多い。
それでも、とびぬけて愛好していてとびぬけて強いセイイール殿下、その兄君に食らいついてじりじりと強くなっていったアイオールは、彼らの世代では別格だろうが。
シュルツはまだぶつぶつ言っている。
「アイオール殿下はどうして、こんなに何もかもそつなく出来るんですか?そりゃあ僕が生まれつき愚図なんでしょうけど、ホント何をやっても殿下には敵わないんですから、いじけたくなりますよ~」
アイオールでかまわないよ、と言った後、あきれたようにアイオールは涙目の公子をたしなめる。
「何を言ってるんだよ。私は君より年上なんだよ、シュルツ。君にいろいろ負けていたら、私の方がいじけてしまうじゃないか」
でも~とぐちぐち言っている公子へ、皆から笑顔が向けられる。
公子は真面目に腹を立てているのだろうが、負けず嫌いで天真爛漫な彼は、皆の愛玩物のような存在らしい。
アイオールがこっそりため息をつき、安楽椅子の背に寄り掛かった。
疲れてきたのだろう。
適当な口実を作り、そろそろお坊ちゃま方にお引き取りいただこう。
俺がそう思った時、失礼しますとサーティン先生が入ってきた。
「殿下、お薬の時間ですが」
「えー、もうそんな時間かい?」
情けなさそうなアイオールの声。
少年たちはようやく、王子が病み上がりなのを思い出す。
「そろそろおいとまします、アイオールさま。ご病気が治りきっていらっしゃらないのに、うるさくしてごめんなさい」
シュルツがばつの悪そうな顔で言う。
アイオールはかぶりを振る。
「いや。すまないのは私の方だよ。せっかく来てくれたのにゆっくりしてもらえなくて、すごく残念だ。軽い風邪なのにしつこくくすぶってて、なんだかすっきりしないんだよね。落馬して以来、どうも体調が戻らなくて」
苦笑いをするアイオールへ、少年たちは口々に、お大事にとかまた来ますとか言って辞した。
お客様をお送りして、と主に言われたので、坊ちゃま方を見送る為に俺は彼らの後ろについて廊下を行く。
「すまない、タイスン。手洗いは何処だったかな?」
しんがりにいたグラノールに急に声をかけられた。
グラノールは友人たちへ、先に行ってくれと声をかけ、足を止める。
「そちらを少し行った先から出てすぐですが、ご案内いたします」
俺が言うと、グラノールは頷いた。
外へ出たところで、グラノールはややためらい、それでも口を開く。
「手洗いは口実だ。タイスンにちょっと訊きたいんだけど」
振り返る俺に、グラノールは鳶色の瞳を真っ直ぐ俺へ向ける。
「尤も、訊いても答えてくれるとは端から思っていないよ。でもあえて訊く。……アイオールさまは二ヶ月ほど前に落馬をなさったそうだけど、本当にあの方は落馬をなさっただけなのか?」
「落馬をなさっただけですよ」
俺は出来るだけ感情を抑え、答えた。
グラノールは苦笑したが、それ以上は食い下がってこなかった。
「では。これは噂話のひとつとして聞き流してくれ」
ふいと目をそらし、やや早口に彼は言った。
「二週間ほど前、リュクサレイノ家の六男・クレイールさまが不幸な事故で亡くなられた」
ぎく、と俺の全身が反射的にこわばった。
「鴨猟が解禁された日だ。猟に出かけたクレイールさまは、森の奥を根城にしていたらしい野犬の群れに襲われ、かみ殺された。たまたまその近くにいた、何やら良からぬ取引の為にこそこそ集まっていたごろつきも数人、巻き添えになったそうだ」
俺は黙ってグラノールを見つめた。
「それはひどい有様だったそうだよ。野犬たちはすぐに、警備隊の者が総出で追って捕まえ、処分したそうだけど。……恐ろしい話だね。私は正直に言ってクレイールさまが嫌いだったけど、この事故はお気の毒だとやっぱり思う。これほどの神罰を受ける罪深いことを、おそらくあの方はしたんだろうけど……それでもやっぱり、私はお気の毒だと思ってしまう。神意は正しいと知っていてもね」
「ええ。その通りですね」
静かな声で淡々と答える俺へ、グラノールは探るような目を向ける。
「本当に君もそう思うのかい?タイスン」
俺は笑みを作る。なんとでも取れる笑みだろうなと内心思う。
「ええ。私も正直あの方のことを、決して好きだとは申せません。でも、それとこれとは話が別なのではありませんか?願わくばクレイールさまが、レクライエーンの御前に心静かにお立ちになられるよう、祈ります」
俺の紋切りの悔やみの言葉に、グラノールは複雑な感じに頬をゆがめた。
坊ちゃま方を見送り、俺は心の中でつぶやく。
(この話は、アイオールがもう少し落ち着くまで黙っているか……)
『生まれてきたことを後悔するがいい』
あの日の王のつぶやきを不意に思い出し、背筋がぞっと冷えた。
『神意』が動いたのだ、九割九分九厘。
だが野犬に食い殺されるなど、想像以上に残酷な形だ。
鴨猟で命を落とすのなら、誤って矢で射られるとか湖でおぼれるとか、いくらでも方法はあるのに。
ラクレイドでは古来から、狼もしくは犬に食い殺されるのは、神意へ背いた罰だとされている。
狼はラクレイド王家の象徴だ。
王家の紋章の、意匠でもある。
ラクレイド王家の始祖は遥かな昔、ラクレイアーンの化身である黄金の毛皮の狼・神狼と契った乙女から生まれたとされている。
初代ラクレイド王が統一に向けた戦いを始めた時、自らの子孫を守るべく神狼は神山ラクレイの峰より降り立ち、王に寄り添って共に戦った、とも。
昔ほどではないものの、狼に食い殺されるのは神意に背いた罰だとされ、疎まれる。
より格の落ちる犬に食い殺される場合は、狼が自身で食い殺すことすら疎んでいる穢れた罪人として、特に貴族階級以上の者にとってはこの上ない不名誉な死に方とされる。
(そこまで……)
そこまで、あなたは許せなかったのですか?
クレイール・デュ・リュクサレイノが『落馬事件』の黒幕であろうことは、王家の方々、そしてアイオールに近しい幾らかの者にとって暗黙の了解だ。
明確な証拠は、少なくとも俺は知らないが、なくもないと思われる。でなければここまで強烈な『神意』は働くまい。
クレイールを八つ裂きにしてやりたいと、俺は内心思っていた。
少なくとも足腰立たなくなるくらいはあの男をぶんなぐってやりたい、と。
仮に、もしあいつと顔を突き合わせたとしたら、何をするか俺自身わからない、とも。
思っていた、本気で。だけど、思っていたのと現実にそうするのとでは、天と地ほどの開きがある。
小さくなってゆく坊ちゃま方の後姿を見ながら、俺は無意識で深呼吸をした。
冷え切った冬の空気が、肺を鋭く刺すような心地がした。




