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2 晩秋の風②

 翌朝。


 身支度を調え、俺は朝食をもらいに食堂へ向かう。

 寝不足気味のせいか軽い吐き気があるが、おそらく朝めしを食ったら治るだろう。

 どうせそんな程度の雑な男なのだ、俺は。

 やや投げやりにそう思いながら廊下を歩いていると、


「タイスン護衛官」


 と声をかけられた。

 軽く緊張しながら振り返る。

 睡蓮宮で俺を『タイスン護衛官』などと呼ぶ者は一人しかいない。


「おはようございます、サルーン護衛官」


 中肉中背の、腰のある見事な白髪を武官らしく短く刈り込んだ眼光鋭い護衛官。

 新たに護衛官として睡蓮宮に来た、この間まで武官たちの訓練教官を務めていらっしゃった方だ。

 護衛官としてはかなり高齢だが、立ち居振る舞いにまったく老いを感じさせない。


 彼はほんの二日ほど前に睡蓮宮へ着任したばかりだが、その隙のない存在感で、良く言えば和やか、悪く言えば緩んでいる睡蓮宮詰めの武官たち(俺も含め)へいい意味での緊張感を与えている。



 例の事件で宮の者に、咎らしい咎は与えられなかった。

 ただ、この件については親兄弟といえども他言を禁じるというきつい誓約をさせられた。

 破ると何が起こるか保証できないとも王から直々に言われ、皆震えあがった。

 まあ、冷静に考えればただ脅されただけだろうが。

 もしかすると王の隠密がここ数年、それとなく我々の周りをうろつく、くらいのことはあるかもしれない。


 そして侍従長のロンさんと護衛官の俺、睡蓮宮の警護の為に詰めている近衛武官たちにむこう三か月間の無給が言い渡された。


 しかし、中央の方から普通に支給される給金を睡蓮宮で雑費として預かり、必要なら宮の財務官に申請すれば使えなくもない、という形だった。

 全額一度に引き出せないし『財務官に申請』しなくてはならない煩しさはあるが、その辺は書類上何とでもなる。

 処分としては有名無実であろう。

 この件を大袈裟にしたくない王の、意図の表れだと言えよう。


 しかし、それとわからぬ形での『処分』はある。

 ロンさんは、近いうちに自分から退職を願い出るという形を取った事実上の懲戒解雇、そして俺には……。


「殿下のご様子は如何でしょうか?」


 静かで丁寧な口調でサルーンは問う。

 無意識のうちに背筋を伸ばし、やや緊張しながら俺は答える。


「お熱は下がられました。先程、スープとすりおろした林檎を少し召し上がられました」


 サルーンは破顔する。

 笑うと目許に優しげな皺が寄り、一気に人懐っこい表情になった。


「そうですか、それは何よりです」


「……ええ」


 返事が一拍、遅れてしまった。サルーンの目が曇る。


「何か……気がかりがおありでしょうか?」


「あ、いえ。気がかりというほどでも」


 我ながら歯切れの悪い返事になった。

 が、気がかりがないと言い切るのは嘘になってしまう。

 俺はデュ・ラクレイノの方々と違って、顔色一つ変えずにしらっと嘘をつける人間ではないのだ、残念ながら。


 サルーンはしかし、それ以上は追及しないで話を変えた。


「殿下のお加減がよろしいようでしたら。今日、ご都合のいい時に時間を作って剣の手合わせを願えませんか?ここ三、四日、まともに鍛錬が出来ませんでしたので、少々身体がなまっていましてね」


「ああ、それはこちらからぜひお願いしたいと思っておりました。なんでしたら今からでも私はかまいません」



 サルーンは昨今の王宮武官たちの間で、半ば伝説の存在でもある。

 先王シラノール陛下の護衛官をずっと務めていて『シラノールの匕首(あいくち)』というふたつ名を持っていた。

 おそらく、見た目は派手ではないが切れ味鋭いおそろしい刃、という意味だろう。


 ふたつ名持ちの護衛官は、その世代の凄腕と相場が決まっている。

 俺が剣を持つ頃には現役を退いていたものの、その名声はおとろえていなかった。

 トルーノことクシュタン護衛官を相手に手こずっている程度の俺など彼の敵ではなかろうが、伝説の男の剣技が直に見られるかと思うとさすがに血が騒ぐ。


 サルーンは、前のめりになった俺の態度に苦笑し、先に朝食を召し上がるべきですよとたしなめた。


「では、小一時間ほど後に裏庭で。それでよろしいでしょうか?」


 きびすを返すサルーンを軽く頭を下げて見送り、思わず大きなため息をつく。


(ああ……やっぱり、気を遣うぜ……)


 しかしこれが俺への『処分』なのだ。


 表向きは、そろそろ大勢を相手の教官を務めるのも体力的にきつくなったと退職を願い出たサルーンへ、では最後のつもりでアイオールの正護衛官の補佐をしてやってくれと王が慰留した、ということになっている。

 彼はいいものを持っている護衛官だが、若輩故戸惑うことも多かろう、しばらくそこを補佐してやってくれと。

 サルーンの仕事はあくまでもタイスンの補佐で、実際の日常の護衛はタイスンがするので体力的には楽になるだろう、とも。

 だから名目上、サルーンは正護衛官の補佐官……俺の部下として着任した。


 しかし俺がどれだけ鈍くても、そんな話を文字通りに受け取るほどめでたくはない。

 要するにサルーンは、頼りない俺のお目付け役という訳だ。

 しかも、俺の部下として配属したところに王の悪意を感じる。

 良いように考えれば、これを機会に護衛官として一回りも二回りも成長しろという王の愛の鞭なのかもしれないが、意地が悪いのは否めない。

 祖父ほどの年配の伝説の護衛官が、俺ごときハナタレの青二才の、部下。……胃が痛くなる。


 おまけにサルーンは古き良き時代の騎士道精神の化身みたいな男だから、余計参る。

 もっと嫌味で偉そうな態度でも取ってくれたら俺も青二才上司として気が楽なのだが、ちゃんと俺を上司として立ててくれる(九割九分九厘、大真面目に)態度なので、身の置き所がないというか申し訳ないというか。

 彼がそばに来ると真面目な話、動悸がしてじわっと汗がにじむ。


 頭を振り、気持ちを変える。ぐだぐだ思っていてもしょうがない。取りあえず、まずは朝めしだ。



 朝めしを終え、アイオールの様子を見に行く。

 昨夜錯乱していた気の毒な俺の主は、上掛けに包まってうとうと眠っていた。

 熱こそ下がったが、心身共にかなり消耗しているのだろう。

 目の下に淡い隈がある。


 今朝目を覚ました時、アイオールは昨夜のことをちゃんと覚えていないようだった。

 疲れた顔をしていたが、特別思いつめた様子でもなかった。

 俺と目が合うと、軽く笑んでおはようと普通に挨拶をしたくらいだ。

 サーティン先生とお袋へ、サルーン護衛官と裏庭で鍛錬していることを告げ、アイオールを起こさないよう気を付けながら、俺はそっと寝室を出た。


 裏庭で素振りをしているうちにサルーンが来た。

 練習用のなまくら剣を持ち、互いに向き合う。


 向き合ったサルーンの表情に、俺はやや戸惑う。

 なんと言うか……彼に緊張感がまったく感じられないのだ。

 散歩中にふと立ち止まり、たまたま俺を見た。そんな風にしか感じられない。隙だらけなように見える。


 しかし、何かが俺をとどめる。

 動こうとする一瞬後に、俺の中の獣の本能みたいな部分がやめろと強く警告する。

 改めて俺は彼を観察した。


 サルーンの身体には余計な力が入っていない。

 しかし、その脱力に近いたたずまいに、隙はないのだ。

 余計な力が一切入っていない身体は、どんな動きであっても柔軟に対処できる。

 どこへ打ち込んでもあっさり躱され、逆に叩きのめされるであろう予想に、俺は身動きが取れなくなった。


「どうなさいました?」


 竦んだように動かない俺へ、やや怪訝そうにサルーンは問う。

 俺は情けなく笑い、答えた。


「いえ、修行が足りませんね。実はサルーン殿に隙がなくて、怖くて打ちかかれないのですよ」


 ほう、と意外そうな声を上げた後、彼は破顔した。


「ではこちらから」


 打ち下ろされた剣を受け、その意外な重みに驚く。

 たたみかけるように続けざまに来る攻撃を、俺はうろたえながら返す。


(何だこれは。太刀筋が、読めない)


 のんびり散歩でもしているようなサルーンの表情。

 どちらから来るか直前まで読めない、動きの素早い剣。


 ハッと気付いた時には胴を打たれていた。

 何が起こったのかよくわからないうちに俺は、あっさり負けていた。

 息が切れ、思わず膝が折れる。


「戦場なら死んでいますよ、タイスン殿」


 静かにサルーンは言う。ほとんど息も乱れていない。

 おそらくサルーンはちっとも本気を出していないだろう。もしサルーンが本気で、そして真剣で向かってきていたとしたら。

 俺はきっと、自分が切られたことさえ知らないまま冥府の神・レクライエーンの御許へと逝ったであろう。


(さすが『シラノールの匕首』)


 ふたつ名持ちの護衛官は格が違う。

 俺は荒い息を調え、サルーンを見上げながら苦笑いする。


「さすがですね、サルーン殿。完敗です。これでも俺……いえ、私は。子供の頃から剣では誰にもひけを取らないつもりだったんですけど……」


 そこでいきなり涙が噴き出してきて、俺は驚いた。


(俺は……)


 本当に……本当に役に立たない護衛官だ。

 剣の腕前だけは、アイオールの護衛官として恥ずかしくないと密かに自負していたけれど、所詮井の中の蛙だった。

 そう思った途端、胸の内で不意に何かがすさまじい勢いで弾けた。


「申し訳……申し訳ありません」


 滂沱と涙を流しながら俺は、ただただ謝っていた。

 いったい何に謝っているのか、自分でもわからなかった。



 サルーンは泣いている俺を静かに見守っていたが、ほっと小さく息をつき、ちょっと失礼しますよと断っていなくなった。

 子供のようにしゃくりあげながら、俺はその場にしゃがみ込んだまま動けずにいた。


 しばらくして戻ってきたサルーンは、お茶の入った大ぶりのカップを二つ載せた盆を手にしていた。

 勧められ、俺は手の甲で乱暴に涙を拭き、頭を下げてカップを受け取る。

 なみなみと満たされた熱いお茶からかすかに湯気が上がっていた。

 蜂蜜と牛乳がたっぷり入ったお茶は、カラカラに渇いた喉に沁みた。


 サルーンは特に何も言わない。

 ただそばに座り、一緒にゆっくりとお茶を飲んだ。

 胃が温まるにつれ、地べたに座り込んだ腰から下がしんしんと冷えてきた。


「さすがに冷えますねえ、冬も近い」


 のんびりとそんなことを言い、サルーンは空のカップを盆に載せる。そして俺を見て、思い出したように言った。


「タイスン殿。さすがにあなたは殿下付きの正護衛官でいらっしゃいますね」


 俺はぼんやりとサルーンを見る。

 柔らかい笑みを目許に浮かべていたが、サルーンの顔も声も真面目だった。


「さっき私は、わざと相手に隙を感じさせるように向き合ったのですよ。私があなたくらいの年頃ならあっさり騙され、不用意に攻撃を仕掛けて瞬くうちにやられていたでしょう。しかしながら、あなたは見極めた。護衛官、いや武人全般に言えることでしょうが、武器を扱う腕前以上に大事なのは、相手を正しく見極める目です。あなたにはそれが備わっていらっしゃる。素晴らしいですね」


「……は?」


 俺は間の抜けた返事をした。

 少し考え、どうやら褒められたらしいのは理解したが、何故そこが褒められたのかそもそも褒められるようなところなのかがよくわからなかった。

 首をひねりつつも俺は、もごもごと礼を言った。


 サルーンはもう一度柔らかく笑むと、ではそろそろ持ち場へ戻りましょうかと言って立ち上がった。



 アイオールの様子を見に行く。寝室の扉をそっと叩くと、どうぞと応えるアイオール自身の声がした。


「やあ。鍛錬は終わったの?乳母(ばあ)やに聞いたんだけど、サルーン護衛官はこの間まで武官たちの指導教官を務めていたんだって?すごい人が来たもんだね、お前、しごかれて参ってるんじゃない?」


 寝台に横たわってはいたが、アイオールは比較的元気そうだ。

 俺がサルーンに絞られてきたとでも思っているのだろう、愉快そうににやにやしている。

 寝台に近付きつつ、俺は口をひん曲げる。


「うるせ。サルーン殿は、いわゆる鬼教官じゃねえよ。もっと……なんてのか、合理的に指導する教官なんだ。慕ってる若手も多い。あの人が来てくれて俺は有り難いと思ってるよ。中にゃ羨ましがる奴もいるくらいだ」


 そばの椅子に座って俺が、お袋たちはと問うと、休憩してもらっているとアイオールは答えた。


 ふとアイオールは真顔になった。

 でも、俺が怪訝に思う一瞬前くらいにふいっと目をそらし、明かり取りの窓を見た。


「綺麗な青空だ。今日は素晴らしい秋晴れなんだね」


 言われて俺も窓を見る。

 澄んだ高い青空。

 確かにすごく綺麗だ。

 アイオールに言われるまでまったく気付かなかったが。


「ラクレイドの秋のレクラは身も心も透き通る……そういえば母上は、秋になるとよくそう仰っていたっけ?」


 珍しくアイオールは母君の思い出話を始めた。


「本当言うと母上の仰る『レクラ』がどういうものなのか、未だによくわからないんだけどね。でも母上が『レクラ』って仰ると、何だか訳もなく優しくてあたたかい、懐かしいような気分になったんだよ。不思議だね」


 遠い話だ、と、急に寂しそうな目になってアイオールはつぶやいた。そして不意に俺へ視線を戻す。


「ねえ、マーノ。お前……あまり罪悪感を持たないでおくれ」


 思いがけない言葉に俺は絶句した。

 やや目を伏せ、ふっと息をつくとアイオールは、考えながら続ける。


「あの事件は……誰が悪い訳でもない。お前も宮の者も、もちろん私もだ。誰が悪いというのなら、これを画策して実行した者たちが悪い。まあ、そういう危うい者たちを結果的に挑発してしまった、私の責任だと言えなくもないけど……でもそれだって理不尽な話だろう?私を含め睡蓮宮の者は皆、この件の被害者だよ」


「アイオール……」


 アイオールはかすかに笑む。

 綺麗で、ひどく儚い笑みだった。


「結果、私がこんな状態だから皆に心配や迷惑をかけてしまっているけど。でも、さすがにいつまでもこのままじゃないさ。この病はきっと、私自身が自分で何とかしなくてはならないんだと思う。もう少し迷惑をかけてしまうだろうけど、待っていてくれないかな?」


「アイオール……」


 馬鹿みたいに俺は、茫然と主の名を呼んだ。

 ついこの間まで弟分だった筈の、可哀相なくらい一足飛びに大人になってしまった二つ年下の主の名を。


 アイオールは再び儚く笑んだ。


「お前、顔色が良くないな、目も赤いし。昨夜、ろくに寝ていないんだろう?控えの間の寝台、さっき侍女たちが新しく整えてくれていた。ちょっとでいいからそこでおやすみよ。お前まで倒れたら私が困るし、乳母やも可哀相だから」


 命令だ。

 逡巡する俺へアイオールは、諧謔をまじえて言う。

 諧謔まじりだが、半分以上本気なのがわかった。


(そんな……疲れた顔をしているのか?)


 思った途端、ずしっと両肩が重くなるような気がした。


「御心のままに、アイオール殿下」


 俺も諧謔まじりに答え、ちょっと笑い合った。



 控えの間へ下がらせてもらい、お仕着せの上着を脱ぐ。

 それだけでずいぶんほっとした。

 寝台に横になり、上掛けに包まる。

 思わず深い息をつく。もうとっくに身体が悲鳴を上げていたのを、そこで俺はようやく自覚する。


(本当に……かなり疲れていたんだ)


 そこまで思ったのは覚えている。

 が、後の記憶はすっぱりと切り落とされたかのようにない。

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