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忠節の執事

 十傑にスカウトをされながらも日々、勉学にいそしみ、アリアの護衛にも精を出す。ある意味、俺の日常を充実していたが、その姿を影から見つめるものがいる。彼は使い魔である鷹に俺を監視させていたようだ。

 ただし彼自身は魔術師ではない。ただの執事である。

 禿頭(とくとう)にぴったりと身体にフィットした執事服。そのたたずまいは華麗にして涼やかで執事になるために生まれてきたかのような男であった。

 事実、彼はこのラトクルス王国でも一番の執事であった。

 とある王家に近しい公爵家の当主が彼を気に入り、金貨一〇〇〇枚でスカウトを試みたが、彼は僅かばかりも逡巡することなく断ったという。

 彼の主であるランセル・フォン・バルムンクにはその三倍の額の移籍金が用意されたというが、彼は一笑にふしただけだった。

 そのような逸話がある二人ゆえ、その絆は荒縄よりも太く、なにものにも断ち切ることは出来ない。それは周知の事実であり、本人も自覚していることだった。

 執事のハンスは主と出会ったときのことを思い出す。

 あれはまだハンスが若かりし頃だった。当時のハンスはラトクルス王国山間部の貧しい貧農の五男坊で、ろくに勉強することもできず、兄たちからも虐げられていた。このまま村に留まっても冷や飯を食わされ続け、馬鹿にされる人生が待っている。

 そう思ったハンスは生まれ故郷を飛び出すと、新天地を求め旅だった。

 初めて見た村以外の大きな街、当時のハンスは興奮し、高揚したことを覚えている。

 しかしなんの縁故も教養もない貧農の五男坊が街で食べていくのは不可能であった。職人や大工たちは組合(ギルド)を結成し、既得権益を作り上げていたし、当時は不況で、低賃金の日雇い人夫の仕事すら取り合いの状態であった。

 ハンスは酒場でうだつの上がらない〝同類たち〟を見つめると、未来の自分を想起し、心底厭になり、盗賊になることにした。街から街に渡る隊商を襲う計画を話していた荒くれどもに近づいたのだ。

「人殺し以外ならばなんでもやる。だからおれを仲間に入れてくれ」

 悲壮な決意と成り上がりたいという熱意を感じ取ってくれたのだろう。彼らは快くハンスを迎え入れてくれた。

 こうして盗賊となったハンスであるが、当初から人殺しと婦女子を辱めることだけはしなかった。生まれつき倫理観が高かったわけではない。ラトクルス王国の法律で殺人と婦女暴行は死刑になる可能性があったからだ。無学ではあったが、そういった計算は長けていた。金銭を奪うことに躊躇はなかったが、死刑になるのはまっぴらだった。

 ただ仲間たちは違った。彼らも食うに困って盗賊になった輩であるが、生まれつき品性を備えていなかったのだろう。命乞いをする商人を殺し、旅芸人の娘を辱めた。彼らはそれを悔いるどころか参加しないハンスをあざ笑い、小馬鹿にする有様だった。

 いつか報いを受けるぞ、心の中でそう思ったが、口にはしなかった。ハンスのような存在は盗賊団では少数派だったのである。ただ、その〝報い〟をハンス自らが実行する羽目になるとは夢にも思っていなかったが。

 王都と山間部を繋ぐ街道を荒らし回っていた盗賊団、王都の治安維持騎士団や護民官たちの目も厳しくなってくる。そうなれば稼ぐ場所を変えるしかない。盗賊団の頭目はそのように言うと新入りに地図を持たせた。そして彼に向かってダーツを投げる。

 一撃目は彼の右腕に刺さった。新入りは文句を言うことなく歯を食いしばる。この盗賊団では頭目の権力は神にも等しいのだ。

 頭目は下卑た笑い声を漏らしながら、「すまない、すまない」と二発目のダーツが地図に刺さる。ダーツが示したのはバルムンク地方であった。

 頭目は豪快に言い放つ。

「おお、豊穣の地バルムンクではないか。大儲けができそうだ」

 彼の腹心も追従する。

「先代のバルムンク侯爵は病床に伏せており、代理で年若い長子が統治しているそうです」

「耳が早いな」

 さすが、だと褒め称えると頭目は言った。

「これは天佑だ。我ら義勇盗賊団に恵みを与えてくださる神の取り計らいに違いない。我々はバルムンク地方に移動するぞ」

 盗賊団のものたちも付近での稼ぎの限界を感じていたし、治安維持騎士団が間近に迫っているという情報も得ていたので誰ひとり反対するものはいなかった。ただ、ハンスだけは言い知れぬ不安を感じていたが。

(……バルムンク候の長子は年若いながら英邁と聞く。治安維持騎士団よりも厄介なのでは)

 そう思ったが口にすることなく、頭目たちについていった。それ以外の選択肢はなかったのである。

 バルムンク地方での稼ぎは当初の見積もりの二倍ほどであった。それだけバルムンクの地が豊かだということだろう。盗賊たちは大喜びし、高揚した。

「こうなれば隊商を襲うなどというちまちましたことはやっていられない。村ごと襲うぞ」

 ある日、頭目がそのように宣言した。――それが彼らの命運を分けた。

 盗賊団は小さな村に狙いを定めると、深夜、四方から村を襲撃し、略奪の限りを尽くした。女子供はもちろん、犬猫にさえ容赦のない無慈悲さにハンスは目を背けた。

(――もういやだ。盗賊団などやっていられるか)

 ハンスは心の底からそのように思うようになっていた。頭目に恩情を掛けられ、盗賊団が稼いだ金で飯を食っているのにもかかわらず、だ。しかし、その僅かばかりの羞恥心と高潔さがハンスの命を救った。

 頭目が妊婦の腹を割き、愉悦を浮かべていると、周囲に忽然と明かりがともった。村の上空に巨大な蛍が現れたのだ。

 無論、それは本物の蛍ではなく、魔術師が作り上げた《照明》の魔法であった。

 そして四方から聞こえる馬の鳴き声。

 盗賊の誰かが言った。

「あれはバルムンク家の紋章!」

 生き残った村人たちは天に感謝をした。自分たちの領主の来訪を心の底から歓迎した。

 ただ、盗賊たちは驕っていた。今までの成功体験が彼らに慢心を与えていたのだろう。正規の騎士団に周囲を包囲されているのにもかかわらず、逃げることよりも彼らとの戦闘を望んだ。

「騎士の武具となれば目玉が飛び出る額になるぞ。領主を人質にすれば身代金もたんまりだ」

 頭目はそのように手下たちを鼓舞したが、バルムンク家の騎士たちはあっという間に盗賊団を取り囲み、駆逐していく。見事な槍裁きで盗賊の胸を貫き、剣で首を刎ねた。

 元々、食いっぱぐれた農民の集まり、士気とは無縁の連中なので、逃げ惑い始めるが、蟻一匹逃さぬほど完璧に包囲されており、逃亡は不可能だった。

 盗賊のひとりは叫ぶ。

「バルムンク家の若造は無能じゃなかったのか!」

「聞いていた話とは違う!」

 暗に頭目の判断ミスをなじるものもいたが、そのものは即刻、頭目に首を刎ねられた。

「うるせえッ! 文句を言う暇があったら戦え!」

 頭目は叱咤するが、彼は聖者の徳で盗賊たちの心を掴んでいたわけではなかった。ひとたび劣勢に立たされば日頃の言動が響く、盗賊たちは誰ひとり懸命に戦うことはなかった。いや、それどころ、「もうやっていられるか!」と誰かが叫び、剣を捨てると、雪崩を打ったかのように降伏し始める。

 騎士団が現れてから一〇分ほどの出来事であった。

 バルムンクの騎士たちは盗賊を捕縛すると、彼らの主がやってくるのを待つ。先頭に立ち誰よりも盗賊を斬り殺した男、次期バルムンク家の当主ランセルを待った。

 立派な駿馬に乗ったバルムンクは返り血で真っ赤に染まっていたが、汗ひとつかいていない涼やかな表情をしていた。その武力もだが、胆力も並外れたものがある。ハンスは一目で彼の実力を認識した。そしてその高潔で冷血な心も。

 バルムンクは捕縛した盗賊の顔をひとりひとり見つめると、

「こいつとこいつは死刑」

 と、指を差し、その場で裁判を始めた。

 盗賊は縛り首、通常、全員が死刑のはずであるが、バルムンクは「人殺し」に手を染めていないものに慈悲を掛けたのである。結果、雑用係の少年と歯が抜け落ちた老人だけは死刑を免れた。彼らはバルムンクに感謝を捧げ、地に頭をこすりつける。

 バルムンクはそれを無視すると最後にハンスの顔を見つめる。

 雑用係の少年と老人は見るからに善人であり、人を殺す能力にも欠けていたが、ハンスは違った。すさんだ顔をしていたし、なによりも人を殺す能力に長けていた。盗賊団で一番の剣の使い手だったのだ。

(……おれの命運もここまでか。まあいい、どのみち糞のような人生だった)

 目を瞑り、過去と向き合うが、意外な言葉を若きバルムンクは言い放った。

「――このものは死刑にあたわず」

 騎士たちは平然とその言葉を受け取り、俺の縄を解く。 

 その言葉に一番動揺したのはハンス自身だった。

 思わず叫んでしまう。

「なぜだ!? なぜ、俺を死刑にしない?」

「おまえは人を斬ったことがないだろう。ならば死刑にすることは出来ない」

「たしかにそうだが、なぜ見ただけで分かる」

「面構えを見れば殺人者か否か分かる。快楽のために人を殺す人間は例外なく醜い」

 バルムンクは盗賊たちを見つめると「反吐が出る」と言い放った。

「……ありがとう……ございます……」

 ハンスは若きバルムンク侯爵の度量と見識に深く感銘を覚え、頭を下げたが、バルムンクはハンスが思ったような人物ではなかった。

 バルムンクは盗賊たちの罪状を読み上げると、即刻裁判の上、死刑を言い渡す。そしてその実行をハンスに委ねた。

「なッ!? お、おれに仲間を殺せというのですか」

「そうだ。おまえ自身は人々を殺していなくてもこいつらは違う。こいつらは罰として命を捧げ、おまえの罪はこいつらの血で洗い流せ」

「…………」

 ハンスが無言でいると、バルムンクは従者に剣を持ってこさせる。それをハンスの足下に投げ落とすと、

「やれ」

 と言った。

 畜生とはいえ先日まで同じ釜の飯食った仲間、「はい、そうですか」と斬り捨てることはできない。逡巡しているとバルムンクは言葉の代わりにもう一本の剣を投げ捨てた。ハンスの仲間に渡したのだ。そしてこう言った。

「生き残ったほうを無罪にしよう。もしも神がおまえを許すのならばこの男に打ち勝てるだろう」

 その言葉を聞いたかつての仲間はなんの遠慮をするでもなく、ハンスに斬りかかってきた。

 やつは同じ時期に盗賊団に加入し、同じ苦労を共にしてきた仲間だった。

 友ともいうべき男が斬りかかってきたとき、ハンスの中でなにかが切れた。

 ハンスは躊躇することなくかつての友を斬り殺す。ハンスの顔が鮮血で染まる。そのときハンスは知った。無辜の民の血も、悪党の血も、友の血も、そしておそらく自分の血さえも同じ色だということに。

 ハンスは恍惚の表情をする。

 人の命の軽重、人生の哲学、あらゆることが天啓のように降り注いできたのだ。

 その後、ハンスはかつての仲間たちを全員処刑すると、改めてランセル・フォン・バルムンクの前に跪き、彼の臣下になれるように願った。

 ランセルは僅かに逡巡することなく、同意すると翌日、ハンスのために皺ひとつない服を用意した。

 執事服だ。

 貧農の五男にして盗賊崩れであるハンスが、由緒あるバルムンク家の執事に抜擢されたのだ。

 バルムンク家の使用人たちは騒然とするが、時期当主であるランセルの決断に間違いがなかったことをすぐに知ることになる。

 無学で無教養だったハンスは、一年掛けてあらゆる礼節と教養を身につけると、ラトクルス王国一の執事であると誰しもが認める存在となる。そしてハンスは終生、ランセルに忠誠を尽くし、その覇業を支えることとなる。

 盗賊のときは人を殺すことのなかったハンスであるが、執事となったランセルは、主のためならばその手を血で汚すことも厭わなくなっていた。


 

 リヒト・アイスヒルクがいる限り、アリアローゼを誘拐するのは不可能、それはリヒト自身が自負することであったし、バルムンク家の忠実な執事ハンスも理解することであった。

 学院の生徒に魔の力を与えても、老木と呼ばれる暗殺者集団を用意しても、究極生物兵器を用いてもアリアローゼに指一本触れることができなかったのだ。

 それ以外に大小様々な方法を通じて誘拐や暗殺を試みたが、その都度、失敗していた。ハンスはそのたびに確信を深めた。

「最強の下等生(レッサー)の異名は伊達ではない」

 と。

 ハンス自身、学はないが頭は回るほうで、いつまでも同じ失敗を繰り返すことはなかった。

 ハンスは学院教師に金品を渡すと、「課外授業」でもしてみれば、と〝提案〟する。バルムンク家の執事の意向は当主の意向と勘違いをした教師は揉み手でその提案を受け入れた。

 ちなみにこの作戦はハンスの独断であるが、末端の手ごまがそのようなことを知る必要はなかった。彼らはただ黙っていうことを聞けばいいのだ。それ以上のことは期待していなかった。

「――主のためには主の望まぬ事もする。仮にそれによって不興を買っても本望だ」

 そのように独語すると主のため、最後の一押しをする。


 その日の午後、俺は学院の外でアリアローゼが誘拐された、という報告を受けた。

 マリーが息を切らしながらそう言い放ったのである。

 その報告を聞いたとき、「まさか」という言葉よりも「やはり」という成分のほうが強かった。

 その日の朝、プログラムに記載されていなかった課外授業があると教師に宣告されたときから厭な予感はしていたのである。

 課外授業自体珍しくないが、男子と女子が隔離されることは想定外であったのだ。

 俺はアリアローゼの騎士、常にそばに寄り添い護衛をしている。学院もそれを知っていたし、許可も得ていた。ゆえに離れ離れになるような授業は拒否できる、と約束をかわしていたのだ。

 いわく王立学院の男子は男らしく山で柴刈り、女は女らしく川で洗濯、という趣旨らしいが、そんな課外授業に意味があるとは思えなかった。

 しかし、その課外授業には意味があったのだ。

 俺と姫様を分断するという意味だ。

 それに見事にはまってしまったのは浅慮というしかない。

 ただ、言い訳をさせてもらえれば、俺は最初拒否をした。アリアローゼから離れることはできない。単位がもらえなくてもいいからさぼらせてもらう、と教師に言い放った。

 しかし、なにかと教師陣にも目をつけられている俺、アリアは俺の立場を思いはばかって「たまには女子同士で親睦を深めとうございます」と別々の授業を受けましょう、と提案した。

 主の言葉は絶対であったし、油断もしていた。この数ヶ月、姫様を襲うよからぬものもいなかったのだ。それに「マリーにまかせんしゃい」と力こぶを作る彼女の勧めもあって別行動に踏み切ってしまった、という経緯があった。

 それが不覚となったわけであるが、致命傷となったわけではなかった。

 誘拐者である悪漢どもはこう言い放ったからだ。

「安心しな。姫様には指一本触れない。それどころか指定した場所に〝ひとり〟でくれば姫様を帰してやる」

 と置き手紙を置いていったのだ。

 分かりやすい罠ではあるが、アリアローゼを拐かされたままにしていくわけにはいかない

 それにバルムンクは悪であるが、 卑劣ではない。その言葉は信じるに値する。

 そう思った俺は彼らの指示に従うことにする。

 両腰の聖剣と魔剣をマリーに預ける。

 彼らの置き手紙には、〝神剣〟はたずさえずにやってこいとのことだった。マリーもそのことは知っていたので神妙に受け取る。

「……ごめん。マリーのミスで」

「気にするな。神剣などなくてもなんとかなる」

 聖剣ティルフィングが『ワタシたちを〝など〟扱いするな』とおかんむりであるが、グラムは冷静に『武運を祈る』と言った。

 亜空間に置いてあるエッケザックスもマリーに預けると、俺はひとり、指定された場所に向かった。


 バルムンクが指定してきたのは王都郊外にある平原であった。

 平原ならばこちらは伏兵を連れてくることができないと分かっているからだろう。兵法の心得もあるようだ。ただし、向こうの戦力も丸わかりであるが。

 敵の数は三〇名ほど、野盗崩れや傭兵のように見える。正規軍は導入しなかったようだ。

 それはそうか、一国の姫様を正規軍を使って拐かしたとあれば、侯爵といえどもただでは済まない。そのような感想を漏らしながらやつらの前に堂々と現れる。

「ひとりできたようだな」

 禿頭の執事は感情をこめずにそのような台詞を漏らす。

「置き手紙に指示されていたからな」

「手紙の言葉を信じたのか」

「おまえたちだと分かったからな。おまえたちは悪ではあるが、卑劣ではない」

「ひとりで来てくれた上に、我々の理念を理解してくれて有り難い」

「理解はしているが、納得はしてないがね。でも、神剣は置いてきた」

「丸腰ではないようだな」

 腰に吊るされた凡庸な剣を見せる。

「それはいい。置き手紙にも剣を持ってこいと書いておいた」

「普通は丸腰でこいと指定するものだが」

「私は栄誉あるバルムンク家の執事だ。武器を持たないものを斬れない」

「なるほど、狙いは姫様ではなく、俺か」

「姫様が天に召される時期は慎重に決めねばならぬ。今、姫様を暗殺すれば姫様を支持する貴族どもが騒ごう。それに国王とて実の娘が殺されれば黙っていられない。愛していなくても面子はあるからな」

「理性があって助かるよ」

「だがおまえは話は別だ。将来、姫を暗殺するにしても王位継承権を剥奪するにしても、おまえは邪魔だ。必ず我らの前に立ちはだかる」

「もしもおまえたちが姫様を殺したら、生涯を掛けて復讐してやるよ」

「そうだろうな。私もランセル様が殺されれば同じ気持ちなる」

「異なる目的の主を持つもの同士、やり合うしかないということか」

 腰の剣に手を伸ばす。ハンスも同時に同じ行動をする。すると彼の引き連れていた悪漢どもも同様に剣に手を伸ばす。

「――多勢に無勢に卑怯、とはいわないでおこうか。兵法としては当然だ。ただ、姫様の安否だけは確認させてほしいのだが」

 ハンスも悪党ではないので部下に姫様を連れてこさせる。猿ぐつわをされ、荒縄で縛られていた。

「おいたわしい姿だが、無事でなによりです」

「むむー!」

 と、なにか叫んでいるが、姫様のことだから「わたくしのことは放って逃げてくださいまし」とでも言っているのだろう。

 その優しい気持ちは有り難いが、主を見捨てるなど有り得なかった。なにせ俺は彼女にアイスヒルクの姓を貰った男、アリアローゼに絶対の忠節を尽くす騎士なのだから。

 もはや血を見る以外有り得ない、そう思った俺は数打ちの剣を抜き放ち、奔る。

 先手必勝、先の先、数が多い以上、後手に回れば不利であった。

 まずは手近にいた悪漢ひとりを袈裟斬りする。一応、致命傷を避けたが、それで戦闘不能になったはずだ。次いで真横にいた怯んだ男を斬る。

 素早い行動に怯む悪漢どもだが、さすがはバルムンク家が雇ったものたち、恐慌状態にはならなかった。

 すぐに体勢を立て直すと、次々と斬り掛かってくる。しかも組織的に。

 そうなれば最強不敗の神剣使いとて苦戦は必須だった。そもそも今の俺は〝神剣〟使いですらないが。数打ちの並の剣では最強の剣士の一角程度の実力しかなかった。


 なのでアスタールの法則を守る。


 アスタールの法則とは彼の書いた戦術書が由来の言葉で、要約すれば兵力差は二倍までならば覆せるというものであった。

 二倍までならば戦い方や地形次第で相手を圧倒できるのである。

 エスタークの城に籠もっていたときに書庫で漁った知識、

 剣術の師匠である〝ローニン〟と呼ばれる東方の剣士の言葉を思い出す。

「敵兵を狭隘な地形に誘い込め」

 広いところで戦えば敵兵に囲まれる。人間の目が前ふたつにしかない以上、後方からの攻撃に弱かった。それはローニン流と呼ばれる剣術を極めた俺でも同じだ。空気の動き、殺気、経験である程度後方からの攻撃にも耐えられるが、それには限度があった。

 なので狭い地形を探すが、ここは平原、そうそう都合良く――、あった。

 草原のど真ん中に双子のようにそびえ立つ巨木を見つけると、その間に入り込んだ。このふたつの木々を利用し、敵を背後に回らせないように戦う。

 最大でも同時に三人、さらに鍔迫り合いにならないような立ち回りをしながら悪漢どもを倒していくと、執事のハンスは「ほう」と感心した。

「神剣がなければただの剣士かと思っていたが」

「剣に関してはいささか自信があってね」

 一族への劣等感、父への憧憬と葛藤、それらは俺を強くした。

 毎日のように剣を振り、修行をしていた。

 東方からやってきた〝ローニン〟なる剣士に頭を下げ、剣術の極意をならった。

 敗北と負傷覚悟で、父に勝負を挑んだこともある。

 傍から見れば苦行としかいえないような修行をしていたのは、〝強くなる〟ためであった。一族中から疎まれ、阻害され、命さえ狙われていた自分を守るためであった。

 そんな自分を愛し、庇ってくれる妹を守るためであった。

 自分以外の人のために自己を犠牲にできるお姫様に忠節を尽くすためであった。

 強くなったのではない、強くならざるを得なかった俺の剣術は〝今〟生きる。

 神剣ではない普通の剣、それに三〇倍以上の敵兵を前にしても一切怯むことはなかった。それどころか砂時計の砂粒が落ちるたびに敵兵は少なくなっていく。

 当初の半数以下になったとき、執事服の男は言った。

「私も。――いや、俺も参加せざるを得ないか」

 そう言うと彼は執事服のネクタイを取り、上半身をはだけさせる。

「…………」

 しばし彼の上半身に見とれてしまったのは、その胸板が分厚かったからだ。もしもジェシカ女史が見れば妄想を膨らませてやまないであろうが、こちらとしては苦戦を想像してしまう。

 やつの分厚い胸板には無数の傷があった。刀傷に矢傷、銃弾の痕、鞭の腫れ痕もあった。それは彼が過酷な環境に置かれていた証であろう。

 そしてその環境を生き抜いた証。

 それは彼が強敵である証であった。

 事実、彼は懐から湾曲した小剣をふたつ出す。それはグルカ・ナイフと呼ばれるものであった。グルカ族という蛮族が好んで使うナイフだ。勇猛果敢なグルカ族は逆湾曲のナイフを使って多くの戦場を血で染め上げてきた。

「……珍しい武器だ。エスタークの城でも見たことがない」

 逆湾曲のナイフは形状こそ思春期の少年の心を逸らせるが、刃を向けられる側に立てばそのような気持ち消し飛ぶ。

 ハンスは右手のグルカ・ナイフを通常の握りで持ち、左のグルカ・ナイフを逆手で持った。

 そのような奇異な持ち方をするということは二刀流に自信がある証拠だった。

 一刀流では苦戦するかもしれない、そのように思ったが、その感想はぴたりと当たる。

 ハンスは残像が残るほどの速度で俺の懐に入り込むと、左手のグルカ・ナイフで切り上げを行い、右手のグルカ・ナイフで突きを入れてきた。その流麗な動きは舞踏を連想させる。あるいは踊らせれば俺より遙かに器用に踊れるのかもしれない。

 舞うような連撃、それらをなんとか剣でいなしながら反撃の機会をうかがうが、その機会はなかなか訪れなかった。それどころか執事は傭兵たちと連携し、確実に俺を追い詰めてくる。

 グルカ・ナイフの一部が俺の頬をかすめる。

 皮膚が数ミリ避け、そこから血液がこぼれ落ちる。もしも毒物を塗られていたらアウトであるが、彼は毒使いではないようだ。

「斬撃を入れられるのは久しぶりだ。あんた、強いな」

「これくらいできなければバルムンク家の執事は務まらない」

「誇らしくいうが、バルムンク家ってのは婦女子を人質にとって交渉を迫るような家風なんだろう」

「……これはランセル様に内密で行っている」

「特別あんたに恨まれることをしたつもりはないが」

「おまえは危険な存在なんだよ。あるいは姫様以上に」

「えらく評価されているな」

「主の覇道を阻むものはすべて排除する」

「おまえたちが覇道を歩むならば、こちらは王道だ。女王の威徳を持って民を救う」

「ぬかせ」

「剣なら今のところ最大で三本まで抜ける」

 皮肉で返すと同時に鋭い二連撃がくる。

 紅茶を入れるのも人を殺すのも得意そうである。このままでは俺はこの男に殺されるだろう。なにせ今は神剣の使用が封じられているのだ。その上で俺と同等クラスの剣士と、それなりの傭兵に包囲されてしまえば、勝ち目はなかった。

(――せめて神剣さえ使えれば)

 そのように思ったが、それは愚痴でもなければ妄想でもなかった。

 俺は神剣を使うための布石を打つ。

 俺は彼との約束を守り、神剣をこの場には持ち込まなかった。

 真義のためではなく、姫様の無事を確保するためだ。しかし、姫様の安全を完全に確保したあとならば神剣を手にしてもなんの問題もないはずであった。

 俺は鋭い二連撃を回避し続けると、タイミングを見計らい言った。

「お前たち、よそ見をしていていいのか…?」

「どういう意味だ?」

「いや、おまえたちには審美眼がないと思ってない。高貴なものと市井のものの区別がつかないようだ」

 その言葉にピクリと反応するハンス、なにか悪い予感を覚えたようだ。

 どうやら彼は俺が最初に倒した一般生(エコノミー)の魔人について心当たりがあるのかもしれない。あのとき、魔人はアリアローゼではない生徒をかどわかした。

彼は部下に、

「王女の猿ぐつわを取れ!」

 と命令する。

 部下は慌ててその命令に従うが、暗がりで顔の確認は難しかった。そのタイミングで、マリーは現れ、〝王女〟を見せる。そこにいたのはアリアローゼその人であった。

「っく、どっちが本物だ」

 ハンスは明らかに戸惑っていた。それはそうだろう。正直、この距離だと俺にも分からない。それほどまでにマリーの化粧技術は高いのだ。

 ちなみにマリーが連れてきたのは〝偽物〟 だ。以前、アリアローゼに間違えられてさらわれた実績がある少女をここに連れてきたのだ。彼女はふたつ返事で協力してくれた。

「わたしの命は王女様とあなたに救われたのです。今、ご恩返しするとき」

 なんの武力も持たない娘がこのような場所に現れるのはさぞ恐かっただろうが、彼女は凜と偽物を演じてくれた。

 そのまま捕虜交換してもいいとまで言ってくれたが、そのようなことはしない。彼女は相手を惑わす役割を担っているだけで、危険な目に遭わせるつもりはなかった。

 俺はマリーが持ってきたエッケザックスを受け取ると、それを大上段に構えた。それを見て察しのいい執事は苦虫を噛みつぶす。

「こちらのほうが偽ものということか」

「そうだ」

「しかし、影武者とは考えたな。しかし、優しい王女は影武者の死を望むまい」

 そう言うと執事は後方に跳躍し、〝本物〟の姫様の首にグルカ・ナイフを添える。

「神剣を使うのならば首を掻き切る」

 冷静冷徹を装う。

「どうぞ、それが影武者の定めだ。その代わりその娘の赤い鮮血が見えた瞬間、おまえごとぶった斬る」

「…………」

「…………」

 互いに冷静と情熱の狭間のような視線が交差する。

 虚実(フェイク)か真実か、計算しているようだ。

 執事は俺が主の命を損なうようなことなどできないと確信している。つまりこの娘は偽物。道連れにしてまで殺す価値はないと判断してくれるか……。


 それは賭け――ではなかった。俺は確信していた。


 バルムンク家の執事は冷酷ではあるが、下劣ではない。主の名誉をなによりも大切に思っているはず。自暴自棄になって娘を殺して自殺するようなタイプには思えなかった。

 俺が平静をよそうことさえできれば、彼は諦め、矛を収めるはず。

 問題なのは俺が最後まで平静をよそえるかであった。

 本物の主の喉元にナイフを突き立てられて感情を抑えられるかであった。

 結果からいえば感情は抑えられた。

 しかし、汗腺まで制御できなかった。

 俺の額から汗が流れ、右頬を流れる。それを見ればどんなに鈍感な男でも俺の言葉がはったりであると分かるだろう。

 自律神経を抑えられなかったことを後悔するが、ここでふたつの幸運が重なる。

 角度の関係でやつは俺の右頬を見られなかったこと、そしてその汗を別の人物が見ていたことだった。

 その人物は俺の汗とはったりを指摘することなく、大地を揺るがすような声量で言い放った。


「おまえの負けだ、ハンス。知恵でも勇気でもな」


「ラ、ランセル様!? なぜこのような場所に」

「ハンスか、控えよ。おまえの忠義はなによりも有り難いが、過ぎれば俺を覇王ではなく、魔王とする。六番目の魔王として歴史に名を残すのは御免こうむりたい」

 その声にハンスは一際萎縮する。

 この誇り高き執事をここまで制することができる人物はこの世界にひとりしかない。それは彼の主人であるランセル・フォン・バルムンク侯爵だ。

 彼は戦場の指揮官のような声量でハンスに矛を収めるように諭す。彼は即座にそれを実行する。

 ほっと一息つく俺であるが、バルムンク候に感謝はしない。

 俺の〝はったり〟を見抜いた上での助力であったが、元々は彼の忠誠心過多の部下が引き起こした騒動であった。こちらとしては現状回帰して貰ったに過ぎない。

 いや、姫様がまだこちらの手にない以上、礼を言う筋合いは――、と思っているとランセルは姫様を引き渡すように命令した。その数秒後、縄を切り放たれたアリアが俺の腕の中に飛び込んでくる。

「リヒト様!」

 子鹿のように震えるアリア。気丈に振る舞っていた彼女だが、子供のように泣きじゃくっている。それはそうか。先ほどまで鋭利な刃物を首に突きつけられ、死さえ覚悟していたのだ。彼女は未来の女王であるが、それと同時に一五歳の少女でしかない。

「すまない。俺が油断をしたせいで」

「リヒト様はなにも悪くはありません。わたくしはいつも足手まとい。でも、リヒト様は必ず護ってくれます」

「今後もそうありたいものだ」

 俺はできるだけ力強く、そして優しく彼女を抱きしめると、この世のあらゆる厄災から彼女を守ると改めて誓った。

その時間を邪魔することなく見守るランセル、それだけ見ていれば悪意は一切ないが、彼はアリアの仇敵にして俺の宿敵、このままなにもなく終わるとは思えなかった。 

 それを証拠に姫様を抱擁から解き放った瞬間、彼はこのような提案をする。

「おれの部下が迷惑を掛けた。この非礼はこの場で謝罪をさせてもらう」

 そのように言うとランセルは頭を下げた。

 どのような戦場に立っても敵兵に臆することがなかった男が、国王以外、頭を下げたことがないと比喩された誇り高き武人が頭を下げたのだ。その瞬間、ハンスの涙腺は緩み、

「申し訳ありません」

 と土下座をし、謝罪をする。その謝意は俺にはなく、バルムンクに向いていたが。

 このままではそのまま〝ハラキリ〟でもされそうな勢いだったので、「気にするな」と予防線を張っておく。この男は敵ではあるが、卑怯者ではない。ここで散らすには惜しい使い手だった。俺は甘ちゃんなのかもしれないが、姫様も同様に甘い。俺の言葉に賛同してくれた。


 これでめでたしめでたし、姫様を寮に連れて帰り、夕食を取らせ、お風呂に入れて一件落着――というわけにはいかなった。

「これで我が部下の不始末は落着だな。だが、俺が部下に怒りを覚えているのは時節をわきまえなかったことだ」

「つまりそのときがくればまたこのようなことを起こす、と」

「ああ、そうだ。今は反バルムンクの機運が醸成されつつあるとき、彼らを刺激できない」

「しかし、やつらを一掃する策を思いついたときは容赦なく襲い掛かるということか」

「そうだ」

「正直だな」

「己を偽ったことなど一度もない」

 覇者にはそのようなもの必要ない、という裂帛の気迫を感じさせる返答だった。

「だからこの場でも己を偽る気などない。おまえとハンスの戦いを見て血がたぎってしまった。このたぎりを開放させてくれ」

「妻や愛人に頼んだらどうかな」

「このたぎりは男でしか、いや、おまえでしか抑えられない」

 ジェシカ女史が聞けば鼻血を流すだろう言葉であるが、ふたりのうち片方は本気の言葉のようだ。彼はふたり分、決闘したい気持ちを持っている。つまり、俺に拒否権はないようだ。

「いいだろう」

 そう言うと、マリーに預けてあった神剣ふたつを受け取る。

『お、久々の出番』

『旧主と剣を交えることになろうとは……』  

 聖剣ティルフィングと魔剣グラムはそのように感想を漏らすと、戦闘態勢に入った。

 俺はちらりとバルムンクの剣を見る。

 やつの腰にも同じような輝きを持つ剣があった。

「……あれが噂の神剣バルムンクか」

 バルムンク家の当主には歴代、その家名と同じ神剣が受け継がれていると聞いた。

 能力の詳細は知らないが、俺のような貴族まがいの小せがれでも知っていると言うことは相当名のある神剣に違いない。

(単体ではティルやグラムを上回っているかもしれない)

 心の中でそのようにつぶやくと魔剣グラムが首肯する。

『我が主が我を簡単に手放したのは、名剣を持っているから、ということもあるが、それ以上に神剣バルムンクが強力だからだ』

 冷静に自身の評価を口にする。

『神剣バルムンクは王家に伝わるエクスカリバーに比肩する数少ない剣、その能力は単体で聖と魔を兼ねる』

「つまり単体でティルとグラムと同等ってことか」

 その表にティルは怒りを表に出さない。

『…………』 

 それどころか珍しく脂汗をかいているようにも見える。

 それくらいバルムンクに威圧感を覚えているのだろう。

 ラトクルス王国最強の騎士である父テシウスと唯一比肩する騎士と言われているバルムンク、そして父さえ持っていない神剣を所有している。最強の父を超える強さを持っているのでは、という評もあるほどの男だ。正直、俺でも戦慄を感じている。

「……前回、父上と対峙したときは自身の成長を確認できた」

 ほんの僅かだが父に近づくことができたのだ。

 父と同等クラスの相手、本来ならば手も足も出ないはずであるが、勝機はあった。俺には新たな力が加わっていたからだ。

 地面に刺していたエッケザックスを手に取る。

『お、三刀流、やる気だね』

「ああ、いきなり最強の力を使うしかない」

 物言わぬエッケザックスを両手持ちすると念動力によって左右にティルとグラムを従わせる。

 この世界で唯一、三本同時に剣を操ることができるのが、俺ことリヒト・アイスヒルクであった。その力を十全に使えば、バルムンク候とて苦戦は必須のはずであった。

 それだけを頼りに決闘を開始する。

 決闘の合図はバルムンクが行った。彼は真剣の鞘を投げ捨てる。それが地面に落ちた瞬間、俺の神剣エッケザックスと神剣バルムンクが交差する。

 魔力を帯びた武器特有の火花が散る。神剣のそれは花火のように艶やかで美しかったが、堪能する暇はない。気がつけば二撃目が右耳のすぐ横に迫っていた。バルムンクは神剣を神速で繰り出せるようだ。

「やるな、小僧。エスタークの城で見た頃ははな垂れだったが」

「北部であまり長いこと鼻を垂れていると、凍えてもげてしまうんだ」

 ぶおん、と神剣が鼻先に迫る。

「たしかにおまえはテシウスの息子だ。おれの息子とはまるで違う」

「最大限の褒め言葉、有り難い」

 刹那のタイミング、薄紙一枚で回避をすると俺も反撃する。多少無理な体勢でも攻撃を加えなければ勝機がないと思ったのだ。この神速の剣戟を回避し続ける自信がなかったのである。前向きな言い方をすれば短期決戦に勝機を見いだす、ということになるだろうが、後ろ向きに言えばバルムンクの圧に耐えきる自信がなかったのだ。

 最良というか、唯一の選択肢であったが、腰の引けた一撃がバルムンクに届くわけがない。難なくかわされると先ほど以上の重い一撃が飛んでくる。

 受け切れた理由は単純にエッケザックスのポテンシャルのおかげであった。かつてバルムンク家の宝物庫にあった大剣は頑丈さと受動防御能力が半端なかった。最強候補の神剣の攻撃すら弾き飛ばす。

 道具に命を救われた形になったが、師匠の言葉いわく、

「道具も実力のうち」

 なので気にしない。素晴らしい道具は持ち手を選ぶもの。そして良い持ち主は道具を維持管理する術を知っており、そのポテンシャルを最大限に活かすのだ。

 週に一度は砥石と打ち粉を欠かさない俺、大剣は最高の切れ味と防御力を発揮してくれる。大剣の腹でバルムンクの攻撃を防御すると、そのまま大剣を宙に投げ、両脇の神剣ふたつを抜く。

 やつの剣が一本で聖剣と魔剣の効果を兼ねる以上、こちらは二本同時に使って対等であった。

 聖なるオーラと魔のオーラが交差しながら火花が散る。

 二本同時の斬撃を受けたバルムンクはにやりと笑う。

「神剣を二本同時に使いこなすというのは本当だったようだな」

「ああ、姫様のおかげで特殊体質になれた」

「〝善悪の彼岸〟か。腐竜の書によればその真理に到達できたものはおまえを含め、四人しかいなかったそうだ」

「へえ、そいつらはどうなったんだ」

「四人中三人が発狂して死んだ。ひとりは町中で首をかききり、ひとりは腹を切り裂き臓物を取り出し、もうひとりは死ぬまで柱に頭を打ち付けたそうな」

「素晴らしい未来図だな。たしかに聖と魔を同時に操るというのは難しい」

 聖なる力は清らかな心でなければ御することはできないし、魔の力は力強い意思が必要だった。相反する感情を同時に制御しなければいけない。

 ティルいわく、

『今のリヒトは清純派ビッチみたいなものだね』

 という。

 しかしグラムは矛盾しないとも言う。

『古代、巫女は春を鬻ぐ役割を果たしていたこともある。聖女と売春婦は兼ねることができるのだ』

『ま、そいうこと。僕たち神剣のポテンシャルを最大限に引き出すのは持ち手次第ってこと。聖と魔、どっちの力も引き出して』

 ティルがそのように纏めると、俺の中から相反する力が湧き出る。

 鍔迫り合いをしていたバルムンクの眉が上がる。

「ほう、なんという力だ。清々しさと荒々しさが同居した一撃、見事だ」

「ああ、だがあなたも大したものだ。なんだその剣の凄まじさは」

 バルムンク本人の技量もあるだろうが、その神剣自体、無類の力を発揮している。

 達人の一撃はその挙動が、宮廷画家が描いたような線のように美しく、炭鉱労働夫のツルハシのように荒々しい。剛と柔を併せ持ったその力は父の剣とよく似ていた。

「冷静に分析させてもらうと、父上より一段劣る腕前だ。しかし、それを神剣が補ってくれている」

 その評にバルムンクは怒ることはなかった。

「そうだな。おまえの父、テシウスはランセル王国最強の騎士だ。しかし、不運なことに神剣には選ばれなかった」

「だから己を磨き、剣聖となった」

「ああ、今、戦っても負ける自信がある」

「弱気な」

「武力だけが評価軸じゃないさ。知力、統率力、政治力、魅力というステータスもある」

「それらは上だと?」

「そうだと自負しているよ。ゆえにおまえの小賢しい策は看破している」

 すると僅かに動き、天から振ってきたエッケザックスを避ける。

「っち、小賢しい策は効かないか」

「このような三流の策で勝敗を付けようとは思っていないだろう」

「もちろん、それは確認だよ。それが落ちてくるまでに勝敗が付かなかったら、この勝負、〝千日手(ワン・サウザンド・ウォーズ)〟になるだろうと見立てていた」

「たしかに実力は伯仲している。このままでは永遠に戦い続けるだろう」

「となれば若い肉体を持つ俺が有利なだな」

「なあにまだまだ若いものに負けないさ」

 壮年のバルムンクは不敵に笑う。彼の胸板は厚く、闘志は揺るぎない。先ほど剣を交えたときの圧はトロールのようであった。彼の年齢的下降曲線と俺の上昇曲線はまだ交わっていないようだ。

 だが時間を掛けたくないのも事実であったので、俺は聖剣と魔剣を鞘に収める。

 それを見て戦闘放棄とみなさないバルムンク候、彼も同様に神剣を鞘に収める。

「抜刀術も嫌いではない」

「それは助かる。抜刀術は決闘の華」

「ああ、無粋な観客はそれが分からないが」

 先日の剣爛武闘祭も抜刀術で終えた試合がいくつかあった。そういう試合こそ参考になると一挙手一投足見逃さぬようにしていたが、観客の中には刹那で決まる勝負に味気なさを覚えるものもいた。祭りなのだからもっと大立ち回りを見せろということなのだろう。

 しかし、達人同士の試合は一瞬で終わることが多い。薄皮一枚の差で勝敗が定まることも多々あるのだ。今回もその例に含まれることになるだろう。

 俺もバルムンク候も一瞬で勝負を付ける気であった。どちらも必勝必敗の抜刀術を放つ覚悟を固める。

 バルムンクは長身をかがめ、獲物を狙う猛虎のような構えを取る。

 俺は地にたたずむ臥竜のような構えを取る。バルムンクよりもさらに低い軌道から抜刀術を放つのだ。

 それを見ていた執事のハンスは、

「笑止」

 と笑う。

「どこがおかしいのよ」

 反論してくれたのはメイドのマリーだった。

「剣も拳も上段から繰り出すほうが速度も威力も高い。そんな常識も知らぬような構えだ」

「……うぐ、たしかに」

 事実、先日のヴィンセントとの決闘は上段を取ることによって勝利を収めたのだ。兵は高きと尊ぶ、兵法の基本中の基本であった。

「で、でも、リヒトのことだからきっと考えがあるのよ」

 マリーは苦し紛れにいうが、その主はたしかな信念を持ってその意見に同意する。

「リヒト様は最強不敗の神剣使い。絶対に敗れることはありません。この戦いでも奇跡を見せてくれるはず」

 それに、とアリアは続ける。

「侯爵が戦うことで主としての姿を見せるのであれば、私は信じることでリヒト様の主としての姿を見せるまで」

 その揺るぎない信頼感が俺を包み込む。彼女の言葉、彼女の存在は俺に何倍も力を与えてくれるのだ。俺は彼女に奇跡を見せるため、魔剣グラムに手を添える。

「ほお、二刀同時はさすがにないか」

「ああ、威力はともかく、速度が大幅に下がるからな」

「そうだ。俺が人間である以上、威力よりも速度が大事だ」

「届かなければどのように強力な一撃も意味はない」

「しかし、一刀での抜刀術は俺に分があるぞ。個人の能力、剣単体での能力、すべて俺が上回っている」

「知っている。だから秘策を用意してある」

「秘策が好きな小僧だ」

「常に感じながら考えろ。師匠にそう習った」

 かつてエスタークの城に滞在していた剣士の言葉を復唱する。彼はローニン流剣術を受け継いだという変わった伊達男で、異世界の剣神に剣術を習ったという大ほら吹きであった。しかし、その腕前は最強といってよく、剣士としての腕前は父テシウスに匹敵する。いや、馬を用いない勝負であれば上回っている可能性さえあった。

 また教え好きの教え上手であり、エスタークの城に滞在していた折は、俺や妹、城の使用人子、身分性別関係なく、懇切丁寧に剣術を教えてくれた。

「リヒト、剣術はエンジョイ・アンド・パッションだ」

 が、彼の口癖でもあった。

 鍔広帽に偉そうな髭、とても強そうには見えない伊達男だったが、彼の繰り出す剣技は芸術的でさえあった。彼の繰り出す剣を習得することができれば、父に近づけるかもしれない。父に振り向いて貰えるかもしれない。そう思った俺は死に物狂いで彼の剣を真似た。

 そして剣匠ソードマスターローニンに一番近づいた弟子、という称号を得る。

 別れ際、彼にこんな言葉を貰う。

「やがて君は北部一の剣士と呼ばれるようになるよ」

 と――。

 そのときは世辞だと思っていたが、今ならば自信を持って言える。

「今の俺は北部で二番目に強い」

 と。そしてこの世界で俺よりも強いのは父親しかいない、と。

 テシウス・フォン・エスタークを超えたと宣言することはできないが、自分の上にはもはや父しかいないと胸を張ることはできた。

 エスタークの城を出てから俺はそれほどの急成長することができたのだ。

 その大言壮語を証明すべく、秘剣を放つ、父への憧れと葛藤、不思議な師匠との絆、強敵たちとの戦いの経験値、それらがすべて複合したオリジナル剣技、

 

「聖魔二段式流水階段斬り(ホーリー・デーモン・カスケード・スラッシュ)!!」


 の名を叫ぶ。

 必殺技のセンスが師匠寄りなのはローニン流の証、そして最初の相棒ティルの影響も色濃かった。抜刀術の〝一段目〟は魔剣グラムの飛燕のような抜刀術を必要とするから、必然的に彼女と相談する時間があるのだ。ネーミングに興味がない俺は全面的に彼らの影響を受けると、必殺技を完成させる。

 一段目の攻撃、魔剣グラムの飛燕のような抜刀術、これは相手に当てるつもりはゼロであった。これは攻撃に見せかけた防御なのだ。バルムンクの神速の剣をかわすには、こちらも神速の動きをするしかなかった。グラムを使った抜刀術によって前進しながら紙一重でバルムンクの剣をかわす。ほんの刹那のタイミングでもずれれば俺の首は飛び跳ねていただろうが、そうはならない。剃刀の上で綱渡りをするような感覚でバルムンクの刀身を避けると、下段から大ぶりに振り上げた勢いを利用する。


 二段式流水階段、それは水が流れ落ちる噴水階段――。


 その流麗にして美しい姿は貴婦人のように美しく、その動きは戦闘にも応用できる。階段を流れる流水を血液に変えることもできるのだ。

 グラムの振り上げ抜刀術によってバルムンクの攻撃を回避しながら、回転斬りに移行する。その回転斬りもグラムの斬撃を強化するために使うのではない。反対側に差している聖剣のポテンシャルを上げるために使うのだ。

 魔剣グラムは技の剣、その黒い刀身は細く、しなやかでこれほど抜刀術に適した剣はない。ただそれゆえに力強さに欠けるというのは本人も認めるところだった。

『技のグラム、力のティル』

 とは彼の弁である。

 ただ、一方、ティルは力強い剛剣なのだが、その分繊細さと細やかな動きが劣る。本人の才覚が色濃く反映されているというか、大雑把でざっくばらんな性能なのだ。

 ゆえに彼女では最速の抜刀術は繰り出せない。

 

 ――単体では。


 だから俺はグラムの抜刀術を利用する。回転斬りの勢いを利用する。

 敵の攻撃を避けながら回転斬りを行うという行動には理由があったのだ。

『傍から見てたらクレイジー過ぎるけどね』

 とは二段目の流水に乗るかのように抜刀するティル本人の言葉だった。

「師匠いわく、達人同士の勝負はよりいかれているほうが勝つ」

『キチ○イ・ゲーだね』

「ああ、神速の速度で飛び交う剣線をくぐり抜けながら、剣を放つなど常人にできようはがない」

 そのように断言しながら流水階段の二段目を解き放った。

 その一撃は控えめに言って、〝神〟が放ったかのようであった。


 

  

 神撃の剣閃が目の前に広がる。

 若き神剣使いが放った一撃、一段目の抜刀と回避を融合さえた一撃から繋げた連撃、それは見事しか言い様がなかったが、予測不可能というわけではなかった。

 ランセルは最初から一撃目は囮であると知っていた。

 この少年ならばそのような小細工を弄すると容易に想像できたのだ。年長者として、最強候の剣士の一角として、正面からその一撃を受け止めた上で返す。

 それが当初のランセルの思惑であったが、それはできなかった。

 少年が放った一撃が想像の遙か上をいっていたからだ。

「……初めて見たときよりも遙かに成長している」

 男子、三日合わずんば刮目してみよ、と言う言葉があるがこの少年は一日ごとに、いや、一呼吸ごとに成長しているように見える。

 身の回りで起きたことをすべて教師として吸収していく。

 少年は爆発的成長エクスプロウシブグロウスのまっただ中にいるのだ。

(……もうじき抜かれるな)

 ランセルは確信を持ってそう言い放つが、そのときはまだ来ていなかった。神速を超えた超神速の抜刀術の二段目、ランセルはそれを神剣バルムンクを持って受ける。

 その一撃は重く、手首がネジ回り、剣を離しそうになってしまう。もしも手放していればそのまま首ごと刎ねられる一撃であった。

 少年の剣に殺意がある証拠だ。彼はこのラトクルス王国の重臣にして世界有数の個性を容赦なく殺そうとしたのだ。

 決戦による死は罪ではないが、ランセルを殺す覚悟を持てる人間はこの世界でも一握りであった。あるいは怪我をさせて決着させるなどという器用なことができないほど逼迫しているだけかもしれないが。

 どちらにしろ気に入った。

 ゆえにランセルはこの少年を生かすことにする。

 神剣で神剣をいなすとランセルは剣を捨て、腰をかがめる。力の籠もった一撃を繰り出す。


 正拳突き。


 東方の空手の型のひとつだが、あらゆる武術で使われる基本的な型である。

 それをリヒトの腹めがけ繰り出すと、やつはそれを防御するが、勢いは殺せない。

 数十メートルほど吹き飛ぶ。途中あった木々をなぎ倒し、大地にめり込むとやっと止った。

 そのままぴくりともしない。

 気を絶ったのだろう。つまりランセルの勝利だ。

 しかし、ランセルは〝勝利を盗まない〟そのままきびすを返す。追い打ちを掛けるようなことをしないという意思宣言であった。

 主人の性格を熟知している執事は黙ってそれに付き従う。

 粉塵でまみれた主の衣服をただしながら、ハンスは主に尋ねる。

「最強不敗の異名はまだまだランセル様のものですな」

 王立学院に通っていた当時、ランセルもまた同じ呼称で呼ばれていたことを喚起する言葉であるが、ランセルは笑って否定した。

「いや、俺は在学中にあの少年の父に敗れている」

 テシウスと決闘をし、敗れた日のことを思い出す。

 あのときは互いに未熟であったが、あの決闘に敗れたとき、己が井の中の蛙だったことを知った。そして時が流れて今度は逆にその息子に敗北を教えたわけだ。

「いや、本当にそうかな……」

 独語する。

「聖魔二段式流水階段斬りと言ったか、見事な技だ」

 己の手のひらを見る。青紫色に変色していた。骨が砕けているのだろう。

 ――技量と速度では常にリヒトを凌駕できた。

 だが、最後の最後で放たれた一撃の攻撃力はリヒトが上回っていた。

 あのまま斬り合いを続けていたらバルムンクが負けていた可能性も充分あった。

「末恐ろしい少年だ。あるいはこれからおれが教化すべき世界の指導者にはあのような少年こそが相応しいのではないだろうか」

 そのような感想を抱いてしまうほどにリヒトの剣術は完成されていたのだ。

 もしも自分が死んだあとは彼に――、

 忠実な執事にそのような言葉を託そうかと思ったが止めた。

 ランセルの血統上の息子たちは凡百ともいいがたいような愚物であった。バルムンク家などはいくらでもくれてやることはできたが、崇高な〝理想〟を遺すことは不可能だと思っていた。

「リヒトならば。テシウスの末息子ならばおれの理想を共有できるだろうか……」

 ランセルは日が沈み、真っ暗になった夜空につぶやいた。

 忠実な執事はもちろん、剣聖テシウスやリヒト本人にさえ答えは求めていないことは明白であったが、ふと夜空に尋ねてみたかったのだ。

 無論、自然の一部である暗闇が答えなど用意してくれるわけがなかった。

「……ふ、詮無いことだな」

 少年に拳を砕かれたことよりも、弱気になってしまったことを悔やむ。

 これから世界を改革し、人々を導こうとする人間がなにを、と思ったのだ。ランセルは先ほどの場所で〝狸寝入り〟をしている少年の顔を振り払うと、そのまま用意された馬車まで戻った。


 ランセルの正拳突きにより意識を絶たれたリヒト、しかし、それも数秒のことだった。即座に戦闘を再開し、相手を討ち果たすとは豪語しないが、あのまま戦闘を続けることもできた。しかし、そうしなかった。

 それには理由がある。ランセル自身の力が万全ではなかったこと。

 老齢――ではないが、ランセル自身、十全に能力を発揮していないように思われたのだ。

 病気かなにか理由があるのか、そこまでは分からないが、彼の実力はあのようなものではないはずだ。そして十全の力を発揮していないものとあの場で決着を付けるのは惜しい気がしたのだ。

 それに俺はアリアローゼ・フォン・ラトクルスの護衛。

 最高の好敵手との決闘でたぎっていたが、俺が第一に優先しなければいけないのは剣士としての探究心ではなく、アリアの身の安全であった。

 あのまま死闘を繰り広げれば勝敗が定まっても五体満足にはいられないだろう。

 ゆえに剣士としての誇りは捨て、狸寝入りをしていたわけであるが、それを見て当の王女様は心配で堪らないようだ。

 マリーの制止を振り払って俺に近づいてくる。

「リヒト様ッ!!」

 いつも向日葵のような笑顔を称えた少女であったが、このときばかりは彼岸花のような悲しみをたずさえていた。

 俺のことを心から心配してくれているのだろう。それはとても幸せなことだった。

「人が幸せになるにはふたつのことが必要なのよ」

 死んだ母の言葉が脳内に響き渡る。

「それは人に必要とされること。人を必要とすること。リヒト、誰かを愛する人間になりなさい。誰かに愛される人間になりなさい」

 それが母親の口癖であった。

 母自身、死のその瞬間まで俺を愛し、愛されてくれた。

 以来、そのような存在は妹以外、存在しなかった。

 血を分けない人間で初めて愛を知覚することができたのが、アリアであった。俺は彼女を心配から解放するため、震える足を鼓舞し、立ち上がる。

 生まれたての子鹿のように震えながら、彼女が胸に飛び込むのを待ったが、それが〝命取り〟になった。彼女の吐息を感じられる瞬間、彼女の芳香が鼻孔をかすめた瞬間、空気を切り裂くような音が耳に届く。


 ヒュン!


 闇夜の大気を切り裂きながら放物線を描くのは、一筋の矢であった。

 それは王女の心臓をめがけ、まっすぐに飛んでくる。

 軌道、勢いを計算する限り、一〇〇メートル以上、離れた場所から放たれたことは明白であったが、今は射手を特定しているときではない。

 俺はとっさに右手に握っていたティルフィングを使って矢を切り払う。選択肢はそれしかなかったが、みっつの誤算が重なった。


 ひとつ、先ほどのバルムンク線によって俺の体力が激減していたこと。

 ふたつ、利き手に持っていたのが重みのあるティルフィングだったこと。

 みっつ、矢を放った射手が予想以上の達人だったこと。


 ほんの刹那、わずかな剣を出すタイミングが遅れてしまった。

 そのツケはこの世で最も大切なもので支払われることになる。

 ティルはかろうじて矢の腹に触れることに成功したが、矢を打ち落とすことはできなかった。矢の軌道はわずかにずれただけでアリアをかすめる。

「アリアっ!!」

 矢が突き刺さらなかったのは不幸中の幸い、唯一の救いであったが、この世界でもっとも美しいものに傷ができたことには変わりなかった。

 己の無力さ、弱さを唾棄したくなるが、そんな俺に姫様はにこりと微笑む。


「また命を救って貰いました。この恩は七度生まれ変わっても返せませんね」


 そのようなことはない、その笑顔に救われてきたのはこちらだ、そのように言い聞かせたかったが、矢の第二射がくるのは容易に想像ができた。姫様に覆い被さりながら大木の側に向かう。そこで第二射を警戒したが、ついぞ二射目がやってくることはなかった。

 クナイを握りしめ、周辺を血眼になって捜索しているマリーの様子を見るが、不審者や敵対者がいそうな気配はなかった。

「単発的な攻撃だったのか?」

 バルムンク派の攻撃という可能性はないだろう。バルムンクは武人だ。このようなだまし討ちはしない。ならば狩人の誤射だろうか。いや、それもないだろう。ここはなにもない平原で、狩人が生計を立てられるほどに獣はいなかった。

「それにあの一撃、明らかに殺意が込められていた」

 木と矢と鉄の鏃だけで殺意を確認できるものではないが、斜角と狙った部位からは殺意は断定できる。あの矢、確実にアリアの心臓をめがけていた。アリアは普通の人間で、心臓に矢が刺されば死ぬのだ。

「誰が姫様の命を狙った? バルムンク以外にも姫様の死を望むものなんて――」

 いるわけがない、とは続けられない。

 アリアの性格は〝控えめ〟に言って聖女のように清らかで、天使のように無垢であった。他人から恨まれることは皆無であろう。しかし、彼女はこの国の第三王女、その立場を疎ましく思うものはいくらでもいる。

 王位争いをしているアリアの血統上の兄や姉たち、アリアの政治的求心力を恐れる守旧派たち、あるいは学院に通う貴族の子弟連中たち。アリアの美しさを妬み、中には横恋慕や逆恨みをしているものたちもいるはずであった。

「……冷静に考えると敵だらけだな」

 苦笑を漏らすが、姫様もにこやかに、

「敵に囲まれた人生です」

 と、苦笑いを漏らした。

 そしてそのまま両膝を大地に突く。

「アリア!?」

 彼女の名を叫びながら崩れ落ちる彼女を抱きかかえる。

 一体なにが!? 冷静にアリアを観察するが、彼女の身体には異変がない。矢が突き刺さってはいない。僅かばかりに流血はしているが。

 しかし、彼女の目は虚ろで、焦点を失いかけていた。

「……リ……ヒト……さま……」

 やっとの思いで言い終えると、彼女は目の焦点を失い、俺の腕の中で意識を失う。その段階でやっと気がつく、先ほど彼女の身体に矢がかすったことを。無礼を承知で彼女の衣服の一部を破り捨てると、傷跡を確認した。

 蒼い蜘蛛のような模様が浮かび上がっていた。

「……これはいったい」

 薬学の知識にも詳しい俺であるが、脳内のどこを探してもその模様に心当たりはなかった。

 己の浅学さを嘆くが、無為無策ではいられない。

 アリアをお姫さまのように抱きかかえると、急いで彼女を学院の医務室へと連れて行った。

 マリーは顔面を蒼白にさせながらも、俺の背中を守ってくれた。

 途中、追撃や奇襲の類いは一切なかったが、だからといって心が穏やかになることはない。姫様の無事が確認されるまで油断することは許されないのだ。

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