王女様の休日
リヒト・アイスヒルクの妹、エレン・フォン・エスタークは兄のことが大好きだ。
四六時中どころか、二四時間常に一緒にいたいと思っている、出来ることならば融合して同一生命体になりたいくらいだった。
「――いや、それは駄目ね。雌雄一体になったら女としての喜びを感じることはできないわ」
心の中で前言撤回すると、二四時間一緒に居たいという願望だけ具現化させる。
まずは明け方、兄が寝泊まりをしている下等生の寮に入り込むと、兄の部屋の鍵穴を開け、忍び込む。超過敏で警戒心の塊である兄であるが、侵入者が妹だと分かると、「またか……」と呟くだけで睡眠を再開させる。
エレンは目一杯、兄の体臭を吸い込みながら二度寝を楽しむ。
小一時間で兄は目覚めるとささっと身だしなみを整える。洗面所で顔を洗い、櫛を数度通すだけ。美男子の中の美男子である兄は髪質もチートなのである。
「絹のようになめらかで、夜空の闇を糸にして紡いだみたい」
うっとりとするエレンであるが、リヒトは気にせずに着替える。異性の前で肌をさらす趣味はないが、妹は異性にカウントしていないので気にしない。ただ、エレンはお嬢様教育を受けているので両手で目隠しをするが。
「兄上様の全裸を見るのは初夜の日――」
と心に決めているからであるが、指の隙間から漏れ出る部分はノーカウント、鍛え抜かれた腹筋と大胸筋を堪能する。
朝から雌伏の光景を見たエレンはとろんとしながら兄に付き従って特待生の寮に戻る。そこで兄の主と合流するのだ。
アリアローゼ・フォン・ラトクルス、この国の第三王女が兄の雇用主であった。エスターク家はラトクルス家の藩屏と称される家柄なので、エレンにとっても主であるが、単純な関係ではなかった。
アリアは主であると同時に恋敵でもあるのだ。アリアは護衛にして家臣であるリヒトのことを確実に気に入っていたし、あるいは愛していると言い換えてもよかった。
そんなわけでその恋敵と毎朝顔を合わせるイベントを好ましく思っていなかったアリアであるが、最近は心境の変化が。
(今日のアリア様の御髪は銀糸のようね)
(このヘアアレンジは真似したいかも)
(目の下に隈が。昨日は寝不足だったのかしら)
などと思うようになっていた。
要は以前あった敵意がなくなっていたのである。剣爛武闘祭デュオの最終日、エレンは嫉妬心からアリアに酷いことをしてしまった。しかし彼女はエレンを責めることなく、姉妹のように接してくれたのだ。その慈悲、寛大さはエレンの氷河のような心を溶かすに充分であった。以来、エレンはアリアに敵意を向けることはなかった。
――のだが、兄の件は別件、将来の妻が誰であるか見せつける。
雌としての本能がそうさせるのだ。
エレンは兄の利き手側に陣取るとそのまま右腕を独占する。左手は鞄があるからこれで誰も腕を組めない。登校中も〝昔話〟に花を咲かせる。
エスタークの城に居た頃は一緒にお風呂に入った。
エスタークの城に居た頃は一緒に夜更かしした。
エスタークの城に居た頃は一緒に同じ林檎をかじった。
このようにアリアが入ってこられない会話に終始すれば兄を独占することができた。兄の性格上、女性の細やかな心の機微など分からないから、見事にエレンの策略が成功する。
朝一から兄の独占に成功すれば、こちらのペース。授業中以外は兄を独占する。休み時間のたびに兄の教室に訪れては抱きつく(ちなみにトイレに行かなくてもいいように水分は取らない)。お昼休みはお弁当を持って中庭に向かう。兄の好みと食欲は知り尽くしているから、お弁当を分けてあげるといえば、簡単に独占することができる。
「はーい、兄上様、タコさんウィンナーですよー。あーんしてくださいー」
「子供ではないのだから『あーん』などするか」
「そんなことを言いながらも口を開けてるではないですか、うふふ」
食いしん坊兄上様が美味しそうにタコさんウィンナーを食べる姿はそのまま絵にして額縁に飾っておきたいほどであった。
ちなみに兄は高級なヴォルクス・ソーセージよりも安い赤いウィンナーを好む。冷えた弁当ではこちらのほうが美味しいのだそうな。
セレブ姫様はそれを知らない。エレンは勝ち誇りながら怒濤のラッシュを掛ける。
「兄上様、勉強が分かりません~」
しなを作ってだだをこねると、兄は勉強を教えてくれる。
学院には満点で合格したので、分からない問題などないが、エレンはアリアと違って道化を演じることもできるのだ。そして兄と一緒にいるためならば嘘もつける。放課後、下等生の寮で勉強を教えて貰う。
吐息が掛かりそうな距離で兄から勉強を教わるのは極楽浄土よりも心地いい空間であった。
女の幸せを目一杯享受すると、そのまま寮で夕食を食べる。
寮長には「たったひとりの兄と一緒に食事が摂りたいのです」と涙を浮かべ、(エレンには兄がもうふたりいる)、調理師のドワーフのセツさんには、「こんな美味しいもの、北部では絶対食べられませんわ」とおべっかを使うことによって取り入る。(実際、とても美味しいけど)
こうして就寝直前まで兄とイチャつくと、そのまま特待生寮に戻る。
ちなみに兄はふたり部屋を独占していたのでエレンが引っ越せる余地があるのだが、兄妹でもそれは無理なのだそうな。
「ここは下等生と一般生の寮、特待生は入寮できません」
ジェシカ・フォン・オクモニック女史はきっぱりと言う。
エレンは後ろ髪を引かれる思いで特待生の寮に戻るが、それを見つめるはアリア。
一日中、リヒトを独占していたように見えるが、それはエレンの中だけのこと、実は〝視界〟の端っこには常にアリアがいた。登下校のときも休み時間のときも昼食のときも、勉強会のときも、である。
奥ゆかしい彼女は兄妹が会話をしているときは置物のように鎮座していたので存在感は希薄だったが、じーっとふたりの兄妹を見つめていた。いつもの笑顔なのだが、いつもの闊達さと軽やかさがない。
その理由はアリア自身把握していなかったが、彼女のメイドにして友人であるマリーは熟知していた。
エレンとアリアローゼを交互に見ると、やれやれ、と吐息を漏らす。
「猪突猛進娘に完全無欠鈍感娘。ふたりを混ぜ合わして半分にすればちょうどいいのに……」
そのような感想を漏らすが、マリーに合成獣を作る才能はない。
ただし恋のキューピッドとしての才能は長けていた。
「ふふふ、見ていなさい妹ちゃん、恋という名の戦場では〝軍師〟がものをいうのよ」
恋のキューピッドとなるべく、マリーは暗躍を始めた。
その夜、お風呂に入り風魔法器具で髪を乾かしているアリアに向かって、マリーは語りかけた。
「アリアローゼ様、今度の日曜日の予定ですが、すべてキャンセルさせて頂きます」
アリアは風魔法器具を化粧台に置くと、え? という顔をした。
「日曜は大事な会合と、教会の炊き出しがあるではないですか、それをキャンセルするなんて。なにか特別な予定でも入ったのですか」
「はい。入りました。戦争が起こるのです」
「な、なんですって!? このラトクルス王国が戦火に包まれるというのですか!?」
ど、どこです、どこが攻めてくるというのです、とマリーに掴みかからんばかりのアリアであるが、彼女はにっこりと言う。
「もっと局地的な戦争です。それに武力をともなわない戦争ですわ」
「そ、そうなの?」
善かった。
ほっと胸をなで下ろすアリア、とても可愛らしい生き物なので抱きしめたくなるが、それは我慢する。本題に入れないからだ。
「日曜日に行われる戦争は女の戦争です」
「女の戦争ですか?」
きょとんとした顔をする。
「はい。対戦国は無数にありますが、目下のところ倒すべきはエレン・フォン・エスターク」
「エレンさんはリヒト様の妹御ではありませんか」
「はい。ゆえに強敵です。合法的に四六時中一緒に居ることが出来るのですから」
「しかし兄妹ですし――」
「甘い! 砂糖の器の上にパンケーキを乗せて練乳とチョコチップをトッピングするくらい甘い!」
びくり、としてしまうアリア。
「いいですか。大昔は血族間で婚姻など当たり前でした」
「それは大昔のことでは……」
「北部では未だ古代の風習が残っています」
「ふたりとも今は王都の住人です」
「マリーがなにを言いたいのかと言えば、そのように消極的な姿勢では恋愛という戦争に勝てないと言うことです。あわよく妹ちゃんが自滅したとしても、どこの馬の骨とも分からない令嬢が現れ、かっさわれるかも」
「はあ……、そうなのですか」
「リヒト様は物件で言えば一〇LDK・三〇〇平米・ウォークインクロゼット・サンルーム・ジェットバス付き、家賃もよく、最高にコスパがいいのですから」
「それは分かります。わたくしはリヒト様の内面をお慕い申し上げているのですから」
「ならば相思相愛になりたいのでしょう」
「……おこがましいです」
「おこがましくなどありません。ええい、面倒です。ともかく、日曜の予定はすべてキャンセルし、リヒト様とデートをしていただきます」
「わたくしがリヒト様と!?」
「そうです」
「しかし、ご迷惑では……」
「そんなわけありません!」
マリーはそのように断言すると歌劇俳優のような動作でアリアの髪に触れる。
「お手入れを欠かさないこの銀糸のような髪はまるで月のような輝き」
さらにくるりと輪舞曲のように回転するとアリアの目を指さす。
「その美しい瞳はサファイアのように蒼く、南洋の海のように澄んでいる」
さらに二枚目俳優のようにアリアの顎に手を触れると、くいっと持ち上げる。
「その桜色の唇は殿方ならば誰しもが奪いたくなるほど魅力的です」
過剰な演出に圧倒されるが、どうやらアリアは異性には魅力的に見えるらしい。
「要はその武器を使ってリヒト様を虜にするのです」
「そのようなこと、わたくしにできるのでしょうか……?」
「できます! させます! 実現させて見せましょうとも」
マリーは最後に華やかにステップを踏み、窓辺に近づき、空を指さす。
「あの沈まぬ太陽に誓ってこの軍師マリーが恋のキューピッドになって見せましょう」
興奮マックスのマリーであるが、アリアは若干冷静だった。
(……今は夜でお月様だけどそこは突っ込まないほうがよさそうね)
そのように纏めると、頼りになるメイド兼軍師兼友人にすべてを委ねることにした。
†
朝、学院に登校すると自身の下駄箱に手紙があることに気がつく。
それ自体、珍しいことではない。
下駄箱に恋文が入っているなど、日常茶飯事だからだ。
俺はいつものように読まずに処理をしようとするが、横にいたメイドが「読まないんかーい!」とハリセンで突っ込んでくる。無論避けるが。
「あんた、さいてー! 女の子の気持ちを踏みにじるなんて」
「最初の内は丁重に読んで対応していたときもあった」
免罪符のように弁明する。
「しかし毎週、三〇通以上の手紙を読まされ、返事をする身にもなってみろ。だから剣爛武闘祭の後夜祭のとき、スピーチしたんだ。今後、あらゆる手紙は破棄すると」
「ああ、たしか言ってたわね」
「それでだいぶ手紙が減ったんだがな。それに手紙を選別して読むか読まないか決めるほうが不誠実だろう」
「むう、たしかに」
「こういうのは一律で対応したほうがいいんだ」
そう言って手紙を纏めて捨てようとするが、マリーは諦めない。
「待って! 全部が恋文とも限らないでしょう」
「恋文じゃなければ果たし状だな、嫉妬も日常茶飯事だ」
「たしかにあんたを逆恨みする男子生徒は多いけど、全部がそうとは限らないでしょう。今日に限ってなにか違いを感じない?」
「違い?」
封筒を確認するが、たしかに違和感を覚えた。
「そういえば恋文にしては落ち着いているし、果たし状にしては猛々しくないな」
「さすがね」
「護衛は細かなことに気がつかねばやっていられないしな」
「他にも気がつくことがあるでしょう?」
「品のある高級な封筒を使っているな。ご丁寧に封蝋までしてある」
「その封蝋に注目しようか」
「ラトクルス王国の紋章だ」
「さすリヒ」
「しかし、この学院は王立学院だ。特別に王家の紋章を使うことが許されている。つまり学院関係者ならば誰でも――」
「ああ、もう御託はいいから開けろ!」
クナイをふたつ取りだし、X斬りをかましてくる。
リヒトは器用にそれを利用し、ペーパーナイフ代わりにすると手紙を見る。親愛なるリヒト様へと始まる手紙の差出人は敬愛するアリアローゼだった。
「アリアからの手紙? 今さら? 四六時中一緒にいるのに?」
そのような疑問を口にしながら差出人を観察すると、彼女は頬を染め上げていた。
「熱があるのか!? ――だからこのような奇行を」
俺はアリアを抱きかかえ、保健室へ連れて行こうとするが、マリーに怒られる。
「ええい! もう、突っ込み疲れたわ! それはアリアローゼ様の恋文よ。あなたへの気持ちを綴ったもので、今度、デートしようってお誘い」
「なんと」
アリアに視線を送るが、彼女は恥ずかしげにうつむいていた。
「しかし、主と家来がデートするなんて聞いたことがない」
「その口ぶりだとアリアローゼ様とデートするのはやぶさかではない、と」
ふむふむ、とマリーは自身の尖り気味の顎に手を添える。そしてわざとらしくぽんと手を打つと、「じゃあ、こうしましょう」と提案してきた。
「古今、主と家来がデートをすることはないけど、主は主でいつかデートをしなければいけない」
「そうだな。王族の責務は子孫を残すことだ」
「家臣であるあなたは王族を補佐する義務がある」
「それも間違っていない」
「じゃあ、練習でデートする義務があるはず」
「なぜそうなる」
「将来、アリアローゼ様が他国の王子様とデートをする機会があるかもしれない。そのとき粗相したら国事に関わるでしょう」
「むう……」
論法としては間違っていないというか、正論だったので反論は難しかった。
「まあ、そう深く考えないで。これは息抜きよ、息抜き。日頃、忙しなく勉強と政治で駆け回っているアリアローゼ様へのサービスだと思って。それに〝義務〟は嫌いかもしれないけど、〝権利〟は好きでしょう。アリアローゼ様を幸せにする権利を行使すると思いなさい」
そのように強引に纏められると、俺は主であるアリアとデートをすることになった。




