エレンの葛藤
リヒト・アイスヒルクが一番面白いと思っている生徒はアリアローゼ・フォン・ラトクルスであった。
いつも笑顔を絶やさない少女、にこやかに微笑み、微笑を漏らし、花のように笑う。笑顔だけでも百種類くらいあるのではないだろうか。
もしも彼女が老婆になれば笑い皺が出来ることは必定であったが、アリアの騎士であるリヒトはそれをみたいと切望するはずであった。
そのようなことを考えながらマリーはアリアの荷造りをする。
「アリアローゼ様、本当によろしいのですか」
「よろしいのです」
「せめて決勝を終えるのを待って、リヒトを連れていったほうが……」
「それはできません。火急の事態なのです」
火急の事態とは件のロナーク男爵の件だった。
彼から火急の相談がある、との報を受けたのだ。
山間部に所有をする別荘に至急来てくれとのことだった。
「しかし、それは明らかな罠です。不穏な企みが裏にあるはず」
「ロナーク男爵はそのような卑劣漢ではありません」
「ロナーク男爵はそうですが、バルムンクはさにあらず。おそらく、ロナーク男爵の山荘に行けば姫様は捕縛されます」
「…………」
「いえ、今度は捕縛ではなく、即殺されるかも。姫様の政治勢力は小さいが日の出の勢い。バルムンク侯は目の上のたんこぶにおもっているはず」
「ならばこそ今、いかねば。ここでロナーク男爵を見捨てればその小さな政治勢力が瓦解するのが目に見えています」
「……そうなのですが」
なんと卑劣な、と続けるマリー。その気持ちは分かる。
バルムンク侯はアリアの脆弱な立場と最悪の時期をすべて心得ていた。
ロナーク男爵の山荘の周囲を囲み、救援を呼ばせる。
剣爛武闘祭デュオの決勝当日を見計らって。
さすればアリアはマリーと僅かな手勢を従えて救援に行かざるを得ないのだ。
「……リヒト様に真実は告げられない」
告げれば必ず決勝戦を放棄するからだ。
さすればアリアの武威が侮られ、政治的不利になると熟知しているからだ。
それに剣爛武闘祭デュオには彼の妹であるエレンの人生も掛かっていた。
仲麗しいエスターク兄妹の学院生活が浮かぶ。
彼らから安らぎのときを奪う権利をアリアは有していなかった。
「この件、自分で解決しなければ。――例え罠だと分かっていても」
「……分かりました。アリアローゼ様がそのようにおっしゃるのならば、このマリーも腹をくくります」
「ありがとう、マリー」
「いえいえ、マリーの鍛えた忍者メイド数人と、それとアリアローゼ様の騎士を数人招集します」
「心強いです」
「ロナーク家を見張らせていた部下の報告によるとロナークの山荘を囲んでいるのはゴブリンとコボルト、それにトロールが数匹とのこと。固有モンスターがいれば別ですが、我らだけで対処できるはずです」
「そうですね。頑張りましょう」
気合いを見せるポーズをするアリア。
こうしてアリアは決勝当日の早朝、密かに学院を出立した。
その姿を見つめるのは彼女の恋敵であるエレン・フォン・エスターク。
大木に背を預けながら、けなげに運命にあがなう姫様を見つめる。
「リヒト兄上様に――報告はしないほうがいいわよね」
エレンはアリアのことを好いていなかったが、尊敬していないわけではなかった。その細腕でこの国を改革しようとする姿勢に共感すら抱いている。
もしも兄のことを好いていなければアリアのことを実の姉のように好きになっていたかもしれない。
だからエレンはこのことを兄に報告しなかった。
報告すれば決勝戦どころではなくなるのは明白だったからだ。
己の人生のため、兄の主の危機に目をつむったのである。
「――汚い女、地獄に落ちるわね、きっと」
他人ごとのように論評すると、後ろ髪引かれる思いを断ち切りながら、決勝戦の会場に向かった。
決勝戦の会場で兄はきょろきょろと会場を見回していた。
当然だ。いつも最前列で観戦している銀髪の姫君の姿が見えないのだ。
エレンはとっさに嘘をついてしまう。
「――お姫様はやむにやまれぬ事情で遅れています」
兄は不審な顔をしたが、
「護衛のもの十数人に囲まれています。問題ないでしょう」
と言った。
半分事実である。護衛のものは十数人いた。ただし、彼らはその数倍の魔物を討伐しなければならないのだ。
兄にそのことを伝えるわけにはいかなったので、半分だけ真実を織り交ぜたのだが、勘の鋭い兄でも気がつくことはなかった。
「そうか。それは仕方ない」
そのように纏めると兄は決勝戦に向け、剣を振るい始める。
十数分ほど剣を振っていると、決勝戦が遅れるアナウンスが流れる。
機材トラブルとのことだった。
兄は吐息を付きながら嘆くが、それと同時に控え室をノックする存在に気がつく。
兄が腰の神剣ふたつに意識を集中したのは、扉の奥にいるのがただものではないと気がついたからだろう。
それはエレンも感じていた。圧倒的武威を持つ存在が扉の外にいた。
まるで宝剣を構える父のような威圧感だ。
その感想はある意味符合する。
このラトクルス王国で二番目に強い男、あるいは父と並ぶ戦士と称されるバルムンク侯爵がやってきたのだ。
バルムンクの従者がそのことを告げ、入室していいか尋ねる。
一介の学生であるふたりに断る権利はない。
バルムンクは部屋に入ると、見下ろすようにリヒトを見つめる。
「貴殿がテシウスの息子、そして王女の護衛か」
「はい。今はリヒト・アイスヒルクと名乗っています」
大侯爵に皮肉を言ったり、張り合ったりする気概はない。素直に返答する。
「そうか、立派になったものだ。エスタークの城で何度か見かけたぞ」
「覚えておいでだったのですね」
「ああ、酒の席で貴殿の父上から何度も話を聞かされていたからな」
どのような話をしていましたか、と聞くのは野暮というものだろう。それに今、質さなければならないのは来訪の目的だった。
「侯爵閣下、単刀直入に申し上げますが、我が主の政敵であるあなたがなぜ、この場、この時期にここにやってくるのです」
「ほう、気になるか」
「はい」
「神剣を貸し与えた我が娘を倒すほどの実力者の顔を見ておきたかった、では不足かな」
「それは半分真実な気がしますが、半分は嘘かと」
「なぜ、そう思う?」
「そのような理由なら今でなくてもいいかと」
「さすがに勘が鋭いな」
「それにあなたの横には常に殺意をはらませた禿頭の執事が控えています。彼がいないのも気になる」
「観察眼も素晴らしい。そうだ、ハンスに内密で会いたかったから今、この時期を選んだ」
「なるほど。では用件を」
「いいだろう。有り体に言えばそのハンスが忠誠過多でな。おれの邪魔をするものを取り除こうと躍起なのだ」
「いい家臣ではありませんか」
「それは認める。ハンスのような家臣を得られたことは俺の人生の幸せだろう。しかし、それはバルムンク家の当主としてであって、ランセル個人としてはどうか」
「というと」
「おれはいつかおまえと決闘したい。この剣爛武闘祭に勝ち抜いてほしいと思っている」
「無論、そのつもりです」
「しかし、それは難しいと思っている」
失礼な、とはいえないだろう。たしかに決勝の人造人間デュオは強力であった。まだ実力を隠しているようだし、もしかしたら負ける可能性もあった。
そのことを正直に話すと、バルムンクは、「はっは」と笑った。
「冷静に実力を判断できる少年だ。素晴らしいな。しかし、おれの見立てでは君にも十分勝機がある。今現在の君の実力を一〇〇とすると、人造人間どもの実力は一二〇だ」
「それくらいならば立ち回り次第というわけですか」
「あるいは君の力が〝覚醒〟するか、だ」
「覚醒……」
「そうだ。善悪の彼岸によって君は神剣ふたつを同時に扱えるようになった。しかし、君の実力はそんなものではない。さらなる覚醒を目指せるはず」
「俺にそのような力があるのですか」
「あるさ。ただしそれは銀色の姫君にしか果たせない」
「アリアが?」
「そうだ。あの無属性魔法の申し子はおまえをさらなる高みに連れて行くはず。しかし、惜しむらくは――」
バルムンクはそこで吐息を漏らすとこう続ける。
「アリアローゼは現在、我が執事ハンスの姦計に引っかかり、ロナーク家の山荘に向かっている。物理的に君を覚醒させることが出来ない」
「な、アリアが!?」
「そうだ」
すぐに駆け出そうとするリヒト、しかし、涙ぐむ妹の姿が視界に入ると動きが止まる。この試合、姫様だけでなく、妹の未来も掛かっていた。今、試合を放棄すればふたりの少女の未来が大きく変わるのだ。
「なんて狡猾な」
「おれもそう思うよ。君にはふたつの選択肢が与えられている。ひとつはこのまま試合を続け、人造人間と戦う道、もうひとつは試合を放棄し、主を救う道だ」
バルムンクはそのように説明すると、そのまま背を向ける。
最後に、
「君がどのような選択肢をとるか、興味深いものだ」
と纏めるが、どちらを選んでも近くおれと剣を交えることになるだろう、と予言めいた言葉を残していった。
リヒトは拳を握りしめながら懊悩するが、結局はひとつしか答えは浮かばなかった。控え室においてあった外套に手を伸ばしたのだ。
それを着込んでロナーク男爵の山荘に向かう――ことはなく、外套を切り刺した。
「これは未練を断ち切るための儀式だ」
そのように言い放つと、リヒトは宣言する。
「一〇分だ。一〇分で人造人間を斬り捨てる。それでそのままアリアを救いに行く。さすればアリアとエレンの未来を切り開きつつ、すべて丸く収まるはず」
その言葉にはたしかな気迫と信念が宿っていた。
それに主を信じる気持ちも。
アリアローゼは無能な娘ではない。勝算ありとひとり、ロナーク男爵の救援に向かったのだ。簡単に返り討ちにあうとは思えなかった。
彼女の意気込みと意気込みを汲むのが王女の騎士の勤めと思っているのだ。
そのような兄の姿を見ていると、エレンは気恥ずかしくなる。
「自分はなんと愚かなのだろう」
そしてなんと浅ましいのだろうか。
「リヒト兄上様の力を、心を信じることが出来なかった」
これでは妻どころか、妹失格であった。
兄の恋人になる資格も、微笑んで貰う資格もない。
そのように思ってしまった。
ただ、エレンは兄の花嫁になることを諦めたわけではなかった。
兄の横に並ぶことを諦めたわけではなかった。
たしかに今の自分は矮小で、お姫様と比べるまでもない。
しかし、人間は成長するもの、変わるもの。
失態は行動によって取り返せばいい。
失敗は成功の糧とすればいい。
そう思ったエレンは、兄上に深々と頭を下げ、兄に告げる。
「リヒト兄上様、決勝戦、私は不在としますが、よろしいでしょうか」
リヒトはそれだけで妹がなにをしたいか察した。
彼女はひとり、王女の救援に行くつもりだった。
特待生十傑の候補の妹が参戦すれば、アリア生存の可能性は高まるに違いなかった。
それに妹の瞳の輝きが変わっていた。
兄しか映っていなかった瞳になにやら別のものが映り始めたような気がするのだ。
そこに慈愛の色を見たリヒトはゆっくりとうなずく。
「行け。姫様、いや、この国の未来を頼む」
エレンは嬉しそうに微笑みながら、控え室の扉を開け放った。




