Rhapsody Ⅴ: 双極のハーモニア
『愛』
――それは、定義できない唯一無二で不変の絶対。
計算がなく、見返りを求めず、感情や行動に理由を要さない。
ただ一人にだけ注がれてどこにも戻らない、一心的で無帰的な感情。
だからこそ、それは出会いからの経過に左右されず、初めから完結している。
そんな美しいものを、俺はこれまで信じたことがなかった。
けれど――それは確かに、ここだけに在った。
◆
朝、目が覚めた。
皮膚の上に落ちる温度が夜の名残から少しだけ離れ、窓辺の光が室内の輪郭をやわらかく縁どる。
目を開けると、腕の中で少女がすやすやと静かな寝息を立てていた。胸に預けられた軽さが、布の皺をわずかに引き寄せている。
寝ないと言っていたルナが、子どものように規則的な呼吸で眠っている。
もちろん、その理由は一つしかないだろうし、優朔にはそれが嬉しい。
そっと上体を起こし、小さな頭に手を置く。
指先で前髪の向こうの額をそっと撫でると、柔らかい寝息がわずかに弾んだ。
「……ん」
喉から落ちる小さな音と共に、手のひらにわずかな反応があった。寝心地の良い場所へ身を寄せるみたいに、頭がこちらへ滑ってくる。
「――ふ」
無意識に頬がゆるむ。世界の静けさをまとめて抱きしめたような寝顔は、怪物を自称する存在のそれとは結びつかない。
「……ん……ユウ」
まつげが震え、前髪の奥で目が開く。起き抜けの声が、室内の空気を一段穏やかにした。
「ルナ、おはよう」
眠たげに、ゆっくりとこちらを見る。
「……おは……よう?」
おそらく言葉の意味までは分かっていないのだろう。それでも合わせて返してくる。それが、俺にはどうしようもなく愛おしい。
「ルナ、眠れたんだな」
「……うん……これが、ねむる? ……ふしぎ」
「ああ、俺もこんなによく眠れたのは生まれて初めてだよ」
「……そう、なの?」
声音だけで、ルナの「うれしさ」が伝わってくる。
彼女が声と首を傾ける仕草に、また胸が温かくなる。
「ああ、旅じゃほとんど休まずに移動してたんだ。村でも、人がいるとどうも眠くならなかったからな」
「……もう『むら』はないから、だいじょうぶだよ」
昨日の夜の出来事を、少女はさらりと告げる。胸の温度が、少しだけ上がる。
「ん、ありがとな。ルナ」
もう一度、ルナの髪を梳く。彼女は横になったまま前髪の奥で目を細め、頭をぐっと押し付けてくる。……「撫でる」という行為にも、すっかり馴染んだようだ。
「――それに、この家もルナが創ってくれたしな」
「……うん。わたしと、ユウの家だから……」
「ああ、今日からここで暮らしていくんだ」
「……ん」
ようやく上体を起こしたルナが、そのまま肩へ体重を預けてくる。寝息の名残が、頬に触れて温度を置いていく。
俺と一緒にいて眠れたのなら、食事も取れるんじゃないだろうか。――そんな考えが浮かぶ。出来るのなら、彼女に「食べる」という行為を教えてみたいと思う。
「ルナ、起きれるか? リビングに行こう」
「……ん……」
短い返事のあと、ぽすん、と音を立て、また横になる。そして、こちらを見上げたまま細く白い手を伸ばしてくる。
「……ユウがつれていって」
——いったいなんだ、この可愛い生き物は?
まるで、可愛いの塊に生命が宿っているようだ。
背へ腕を回し、抱き上げる。体重は想像よりもさらに軽い。抱えた瞬間、胸元へ小さく丸まって寄ってくる。
「……♪」
音符みたいな機嫌の気配が、腕の中で確かに弾んだ。
抱いたままリビングへ移動する。ソファに下ろそうとすると、両腕が背中へするりと絡む。腰に回った手が強まって、俺の動きを簡単に封じてくる。
「――あの、ルナさん?」
「……なぁに? ユウ」
真顔のまま首を傾げ、こちらを見上げる。
「えっと。これだと動けなくてですね」
「……なんで、うごくと、はなれるの? ……だめ」
絡めた腕に、きゅっと力がこもる。微かな重力以上に、離さないという意思の重みが伝わる。
「いや、ルナにご飯作って、一緒に食べようと思って……眠れたから、飯も食べられるかもしれないし」
「……」
表情はほとんど変わらない。それでも、視線がほんの少しだけ揺れて考えが通る。名残りの不機嫌が薄まり、やがて腕がほどける。
「……わたしのため?」
「ああ、もちろん。ルナと、俺のため」
「……ユウの?」
「だって、ルナが嬉しいと俺も嬉しいから」
「……ん」
俯いた横顔に、明るさが灯る。そこへ指を通しながら、続ける。
「それじゃ、作ってくる。危ないからここで座って待ってて」
「……あぶない……ふふ。また、おなじこといってる」
遺跡での一件だ。指摘されて少し恥ずかしくなったが、本心なのだから仕方がない。
彼女がどれほど強いとしても、それは心配しない理由にはならないからだ。
キッチンに入る。冷蔵庫を開くと、冷気と一緒に整った秩序があふれていた。
「――おお」
水、乳、野菜、果物、肉、調味料。必要なものが必要な数で、静かに在る。ルナが創った家は、外観だけでなく因果の内側まで機能している。彼女の力は、やはり『結果』だけを置く。
「さて、何を作ろうか」
ルナがどんな味を好むか、予想はできない。けれど、俺が作ったものなら何でも喜ぶ、という妙な確信があった。
火の音が響く。油が小さく跳ね、刻む包丁の拍が一定になる。湯気が立ち、香りが時間差で部屋を満たす。皿に色が乗るたび、ここでの暮らしが現実味を増す。
「――よし、こんなもんか」
並んだ皿を眺めて息を整える。思った以上に時間は過ぎたが、これだけあれば一つくらい彼女の心に触れるだろう。
「ルナ、できたよ」
振り向けば、ソファでこちらを見守っていた視線がぱっと灯る。
「……ほんと? はやくきて」
「ん、けど皿が多いからちょっと時間かかるかも」
「……わたしがもっていく」
声と同時に、すべての皿がふわりと浮く。重さの計算など介在していない。皿は互いに距離を保ち、崩れも揺れもせずに長机へ滑っていった。
――シチューに、オムライスに、焼き魚に、おにぎり。
――ホットケーキ、フルーツサンド、団子、わらび餅。
ルナの喜ぶ顔を想像していたら、つい甘味まで手が伸びていたらしい。
「……すごい、ぜんぶつくってくれたの?」
「ああ。ルナが食べれるものがあればいいけど」
「……ぜんぶたべる」
おにぎりが、意思だけで彼女の前へ移動する。初めて何かを口にする少女は、それを躊躇なく頬張った。
もぐ、もぐ、と。咀嚼の律動が頬に微かな影をつくり、喉が“ごくん”と通る。
――表情が、じわりと明るんでいく。こちらを見る、前髪の向こうの目が瞬く。
「……!」
何かを言おうとして、言葉に迷う。その仕草が前の「食べ物」のときと重なる。
彼女の内側で感覚と語彙が結びつくまでに、一拍が置かれる。
「……おい、しい」
自分の感情に当てはまる言葉を見つけた瞬間、それをまっすぐと伝えてくる。胸の内側で、何かがほどける。
「そっか。よかった」
「……ユウも、たべる?」
「そうしようかな。じゃあ座ろうか」
椅子に腰を下ろした瞬間、ルナが不満の気配を纏って口を開く。
「……やっともどってきたのに、またはなれるの?」
――これはおそらく、料理の待ち時間への不満というよりも、「離れる」という行為そのものへの不満だ。
もしかすると、さっきの「はやく」も、料理ではなく俺に対してだったのかもしれない。
「――よし」
呟いた直後に短く息を置くと、彼女の身体をひょい、と抱え上げた。
そのまま、膝の上へ引き寄せる。
「……わっ」
驚きの声が軽く跳ねる。
収まるように――ついでに、位置も横向きに整えたあと、膝の上へ下ろす。
ルナは膝の上で、小さく俯く。
「……ユウ?」
そう呟いたルナの声は、いつもより小さく感じた。
よく見ると、耳も少し赤くなってるような気がする。
「どうだ? これで離れられないだろ」
俺の意図が伝わる。けれど、それとこれとは別のようで、耳の赤みは引かない。
「……うん」
頷く仕草のまま、自分の身体の置き場を理解した少女が、俺の襟元をきゅっとつまむ。
「さて、食べようか」
膝上のルナの口へ、料理を運ぶ。食器の触れ合う音は控えめで、代わりに胸の鼓動だけが際立つ。
互いの胸の奥で鳴る拍が、食器の小さな音を上書きしていく。
味は確かに舌に乗るのに、感覚の中心は別のところにあった。
世界の雑音が薄れ、二つの鼓動だけが並び、少しずつ同じ速さを選ぶ――そんなふうに、昼の手前の時間が過ぎていった。
◇
食後、ソファに座っているのは一人だった。もう一人はその上に座っているから、厳密な数え方は不明だ。
膝の上はすっかりとお気に召したようで、もう一時間ほどこの姿勢のままだった。
ルナは恐ろしく軽いが、それでも同じ体勢が続くと、さすがに足が痺れてしまった。
「ごめん、ちょっとだけ膝を休ませてくれないか?あとでまた乗っていいから」
「……」
空気が「とても不満」とでもいうような気配を帯びるが、ルナは渋々降りた。……そしてすぐに隣に寄り、肩へ頭を預けてくる。
「――ふふ」
笑みが漏れる。近い側の手を握ると、きゅっと握り返され、視線が上がる。
「……あれ、して」
――「あれ」が何かは、言うまでもない。
繋いでいない方の手で、白紗のような髪へ触れる。梳く。
重さも抵抗もほとんど感じないそれは、指の間を静かにすり抜けていく。
「……ん……ユウのて、あったかい」
「――ルナの髪は、冷たくてさらさらだな」
指の間をすり抜ける感触は、ただ撫でているだけなのに心を落ち着ける。
重さも抵抗もないそれは、まるで形だけを留めた水のようで――撫でるうち、頬の線まで指先が降りていた。
触れたところから、肌の温度が遅れて伝わる。
「……ん」
前髪の奥で気持ちよさそうに目を細めて、頬を擦り付けてくる。
猫を可愛いと思ったことは一度もないのに――「猫みたいで可愛い」と。何故だか、そう思った。
「……ユウ、もうひざだいじょうぶ?」
うっかり「大丈夫」と答えかけて、思い直す。
これはきっと、「のっていいか」という意味だ。
「おいで」
言い終えるより先に、体が身軽に膝へ戻ってくる。
今度は抱え直して、膝の間にすっぽりと収めてみる。
一瞬不思議そうな反応をするが、背中を預けさせると、さっきよりも満足そうに呼吸が深くなった。
――温かな静寂が部屋の厚みを一段増やした頃、ふと口が動く。
「明日、デートに行こうか」
「……でーと?」
「うん。デートっていうのは、親しい関係の男女が一緒に出掛けることだな」
「……うん、でーといく」
細い指が、服の裾をつまむ。
「良かった。ここで断られてたらさすがにショックだったよ」
「……ことわる? ……どうして??」
本気で分からない、という顔。
この少女の中には、最初からその選択肢が存在しないのだろう。
「……そうだな、俺が悪かったよ。変なことを言った」
「……うん。へんな、ユウ」
くすくす、と小さく笑う声。温度は一定のまま、その響きは柔らかい。
「……ふふ。行こうな、デート」
「……たのしみ」
――ふと、外に出るならやっておくべきことがあると思い出す。
俺には理解出来ないことだが、ルナの口ぶりからして、彼女は在るだけで人に恐れられる『存在』だ。
そして、彼女の意識次第で周囲の「変化」は容易に鈍る。人間でないことが誰かに悟られれば、面倒は避けられない。せっかくの約束を、濁らせたくはない。
「ルナ。明日のデートのために、一緒に練習しなきゃいけないことがあるんだけど、いいか?」
「……うん。なぁに?」
「街に出たら人間がたくさんいるんだ。だから、ルナが人間じゃないってバレないようにしないといけない」
「……それは、けしちゃ、だめなの?」
その純粋な問いに、少し考える。
――合理的な発想だ。
特に咎める理由もない。あったのなら、昨日の時点で止めている。
今回だって、動機の矢印が俺のためか二人のためかの違いしかない。
――けれど。
「……そうだな。今回は、ダメだ」
ルナの首が傾ぐのを見届けて、続ける。
「デートっていうのは、一緒に店に入ったりすることも含めるらしい。
だから、人間ごと消したりするとデートですることが減っちゃうかもしれないんだ」
「……へっちゃう? それは、だめ」
即答が返ってくる。ルナの目的が、俺たち二人の「でーと」にまっすぐ向いているのが分かる。
「ん。だから、ルナに人間のフリをしてもらわなきゃいけないんだ」
「……わかった。どうすれば、いい?」
「まず、周囲への影響は全部抑えることだな」
「……わからないけど、やってみる」
気配が、きゅ、と結ばれる。彼女の周りを取り巻く「沈黙」の質が、わずかに変わった気がした。俺には彼女への恐れなどないから、細部までは分からない。
「俺には分からないけど……元々、今はほとんど影響が出てなかったしな。きっとルナならできてるさ」
「……ん。ほかにも、ある?」
「あとは、容姿と言葉だな。見た目は――後ろの髪くらいか」
「……これ?」
首をひょいと後ろへ動かし、自分の後ろ髪に触れる。法則から外れ独立して揺れる、その人間目線の「違和感」。
「んー……広がってるくらいならそこまで違和感ないだろうけど。動くとさすがに気づかれるかもな」
「……わかった、でーと、するときはうごかないようにする」
よし、と頭を撫でて続ける。
「言葉の方は……喋る機会はないかもしれないけど、一応。
人間の言葉とか人間は言わないこととか、最低限は覚えておいた方がいいな」
「……にんげんのふり……わたしに、できる?」
「大丈夫、俺が教えるよ。俺は、『人間のフリ』が得意だからな」
――自分で言って、可笑しくなる。人間なのに、人間のフリ。
けれど、それは異常に見えて、俺には自然なことだ。
模倣の蓄積は、このためにあったのかもしれないとさえ思う。
「……うん。おしえて」
俺の言葉を形のまま信じるルナは、体を傾けながら、そう微笑んだ。
◆
――窓の外で、午前が静かに薄まっていく。
「練習」は、静かな儀式のように進んだ。
壁の時計は一秒ずつ針を進め、静寂は一定を保ち、窓辺の白いカーテンは空調のわずかな呼気にだけ揺れる。
ルナの周囲に生まれる沈黙は薄まり、髪は必要なときだけ重力を受け、言葉は最小限で正確に落ち着く。
家の内側は、彼らが暮らすことを前提に造られた無機質の美しさに満ちていた。
手触りのいい静けさの中で、落ちる影の輪郭は不自然なほど整っている。
約束へ向けた練習の中でも、繋いだ手は離れない。
窓から差し込む光が床に長く伸び、二人の影だけが並んで揺れていた。
反復は飽和とは無縁だった。彼女が「人間の速さ」に歩幅を合わせるたび、世界の歯車が余計な音を立てずに噛み合っていく。
言葉の練習では、彼女は意味だけを選び、無駄な飾りを捨てた。挨拶、返事、短い感嘆。どれも必要最小限で、嘘の混じらない音になる。
視線の置き方、立ち位置の取り方、扉を通る順番。些細な手順をひとつずつ共有するたび、部屋の空気の密度がやわらいでいく。
指の温度は一定で、掌の線に沿って鼓動だけが速さを変える。
時間は窓の外で長さを変え、部屋の中ではただ積層していく。光は傾き、影は少しずつ細く長くなる。
明日は外で、今日覚えた全てを使って「デート」をする。
それでも今は、この家の静けさの中で、ただ約束の形を確かめる。
世界の雑音は二人に届かず――繋いだ手のぬくもりだけが、静かに満ちていた。




