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封月のルナティック  作者: 創綴世 優
叙詩

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9/12

Rhapsody Ⅴ: 双極のハーモニア

(あい)


 ――それは、定義できない唯一無二で不変の絶対。

 計算がなく、見返りを求めず、感情や行動に理由を要さない。

 ただ一人にだけ注がれてどこにも戻らない、一心的で無帰的な感情(セレナーデ)

 だからこそ、それは出会いからの経過に左右されず、初めから完結している。


 そんな美しいものを、俺はこれまで信じたことがなかった。


 けれど――それは確かに、ここ()()に在った。







 朝、目が覚めた。

 皮膚の上に落ちる温度が夜の名残から少しだけ離れ、窓辺の光が室内の輪郭をやわらかく縁どる。

 目を開けると、腕の中で少女がすやすやと静かな寝息を立てていた。胸に預けられた軽さが、布の(しわ)をわずかに引き寄せている。


 寝ないと言っていたルナが、子どものように規則的な呼吸で眠っている。

 もちろん、その理由は一つしかないだろうし、優朔にはそれが嬉しい。


 そっと上体を起こし、小さな頭に手を置く。

 指先で前髪の向こうの額をそっと撫でると、柔らかい寝息がわずかに弾んだ。


「……ん」


 喉から落ちる小さな音と共に、手のひらにわずかな反応があった。寝心地の良い場所へ身を寄せるみたいに、頭がこちらへ滑ってくる。


「――ふ」


 無意識に頬がゆるむ。世界の静けさをまとめて抱きしめたような寝顔は、怪物を自称する存在(モノ)のそれとは結びつかない。


「……ん……ユウ」


 まつげが震え、前髪の奥で目が開く。起き抜けの声が、室内の空気を一段穏やかにした。


「ルナ、おはよう」


 眠たげに、ゆっくりとこちらを見る。


「……おは……よう?」


 おそらく言葉の意味までは分かっていないのだろう。それでも合わせて返してくる。それが、俺にはどうしようもなく愛おしい。


「ルナ、眠れたんだな」


「……うん……これが、ねむる? ……ふしぎ」


「ああ、俺もこんなによく眠れたのは生まれて初めてだよ」


「……そう、なの?」


 声音だけで、ルナの「うれしさ」が伝わってくる。

 彼女が声と首を傾ける仕草に、また胸が温かくなる。


「ああ、旅じゃほとんど休まずに移動してたんだ。村でも、人がいるとどうも眠くならなかったからな」


「……もう『むら』はないから、だいじょうぶだよ」


 昨日の夜の出来事を、少女はさらりと告げる。胸の温度が、少しだけ上がる。


「ん、ありがとな。ルナ」


 もう一度、ルナの髪を()く。彼女は横になったまま前髪の奥で目を細め、頭をぐっと押し付けてくる。……「撫でる」という行為にも、すっかり馴染んだようだ。


「――それに、この家もルナが創ってくれたしな」


「……うん。わたしと、ユウの家だから……」


「ああ、今日からここで暮らしていくんだ」


「……ん」


 ようやく上体を起こしたルナが、そのまま肩へ体重を預けてくる。寝息の名残が、頬に触れて温度を置いていく。


 俺と一緒にいて眠れたのなら、食事も取れるんじゃないだろうか。――そんな考えが浮かぶ。出来るのなら、彼女に「食べる」という行為を教えてみたいと思う。


「ルナ、起きれるか? リビングに行こう」


「……ん……」


 短い返事のあと、ぽすん、と音を立て、また横になる。そして、こちらを見上げたまま細く白い手を伸ばしてくる。


「……ユウがつれていって」


 ——いったいなんだ、この可愛い生き物は?

 まるで、可愛いの塊に生命(いのち)が宿っているようだ。


 背へ腕を回し、抱き上げる。体重は想像よりもさらに軽い。抱えた瞬間、胸元へ小さく丸まって寄ってくる。


「……♪」


 音符みたいな機嫌の気配が、腕の中で確かに弾んだ。


 抱いたままリビングへ移動する。ソファに下ろそうとすると、両腕が背中へするりと絡む。腰に回った手が強まって、俺の動きを簡単に封じてくる。


「――あの、ルナさん?」


「……なぁに? ユウ」


 真顔のまま首を傾げ、こちらを見上げる。


「えっと。これだと動けなくてですね」


「……なんで、うごくと、はなれるの? ……だめ」


 絡めた腕に、きゅっと力がこもる。微かな重力以上に、離さないという意思の重みが伝わる。


「いや、ルナにご飯作って、一緒に食べようと思って……眠れたから、飯も食べられるかもしれないし」


「……」


 表情はほとんど変わらない。それでも、視線がほんの少しだけ揺れて考えが通る。名残りの不機嫌が薄まり、やがて腕がほどける。


「……わたしのため?」


「ああ、もちろん。ルナと、俺のため」


「……ユウの?」


「だって、ルナが嬉しいと俺も嬉しいから」


「……ん」


 俯いた横顔に、明るさが灯る。そこへ指を通しながら、続ける。


「それじゃ、作ってくる。危ないからここで座って待ってて」


「……あぶない……ふふ。また、おなじこといってる」


 遺跡での一件だ。指摘されて少し恥ずかしくなったが、本心なのだから仕方がない。

 彼女がどれほど強いとしても、それは心配しない理由にはならないからだ。


 キッチンに入る。冷蔵庫を開くと、冷気と一緒に整った秩序があふれていた。


「――おお」


 水、乳、野菜、果物、肉、調味料。必要なものが必要な数で、静かに在る。ルナが創った家は、外観だけでなく因果の内側まで機能している。彼女の力は、やはり『結果』だけを置く。


「さて、何を作ろうか」


 ルナがどんな味を好むか、予想はできない。けれど、俺が作ったものなら何でも喜ぶ、という妙な確信があった。


 火の音が響く。油が小さく跳ね、刻む包丁の(はく)が一定になる。湯気が立ち、香りが時間差で部屋を満たす。皿に色が乗るたび、ここでの暮らしが現実味を増す。


「――よし、こんなもんか」


 並んだ皿を眺めて息を整える。思った以上に時間は過ぎたが、これだけあれば一つくらい彼女の心に触れるだろう。


「ルナ、できたよ」


 振り向けば、ソファでこちらを見守っていた視線がぱっと灯る。


「……ほんと? はやくきて」


「ん、けど皿が多いからちょっと時間かかるかも」


「……わたしがもっていく」


 声と同時に、すべての皿がふわりと浮く。重さの計算など介在していない。皿は互いに距離を保ち、崩れも揺れもせずに長机へ滑っていった。


 ――シチューに、オムライスに、焼き魚に、おにぎり。


 ――ホットケーキ、フルーツサンド、団子、わらび餅。


 ルナの喜ぶ顔を想像していたら、つい甘味まで手が伸びていたらしい。


「……すごい、ぜんぶつくってくれたの?」


「ああ。ルナが食べれるものがあればいいけど」


「……ぜんぶたべる」


 おにぎりが、意思だけで彼女の前へ移動する。初めて何かを口にする少女は、それを躊躇(ちゅうちょ)なく頬張った。

 もぐ、もぐ、と。咀嚼(そしゃく)の律動が頬に微かな影をつくり、喉が“ごくん”と通る。


 ――表情が、じわりと明るんでいく。こちらを見る、前髪の向こうの目が瞬く。


「……!」


 何かを言おうとして、言葉に迷う。その仕草が前の「食べ物」のときと重なる。

 彼女の内側で感覚と語彙が結びつくまでに、一拍が置かれる。


「……おい、しい」


 自分の感情に当てはまる言葉を見つけた瞬間、それをまっすぐと伝えてくる。胸の内側で、何かがほどける。


「そっか。よかった」


「……ユウも、たべる?」


「そうしようかな。じゃあ座ろうか」


 椅子に腰を下ろした瞬間、ルナが不満の気配を(まと)って口を開く。


「……やっともどってきたのに、またはなれるの?」


 ――これはおそらく、料理の待ち時間への不満というよりも、「離れる」という行為そのものへの不満だ。

 もしかすると、さっきの「はやく」も、料理ではなく俺に対してだったのかもしれない。


「――よし」


 呟いた直後に短く息を置くと、彼女の身体をひょい、と抱え上げた。

 そのまま、膝の上へ引き寄せる。


「……わっ」


 驚きの声が軽く跳ねる。

 収まるように――ついでに、位置も横向きに整えたあと、膝の上へ下ろす。


 ルナは膝の上(そこ)で、小さく俯く。


「……ユウ?」


 そう呟いたルナの声は、いつもより小さく感じた。

 よく見ると、耳も少し赤くなってるような気がする。


「どうだ? これで離れられないだろ」


 俺の意図が伝わる。けれど、それとこれとは別のようで、耳の赤みは引かない。


「……うん」


 頷く仕草のまま、自分の身体の置き場を理解した少女が、俺の襟元をきゅっとつまむ。


「さて、食べようか」


 膝上のルナの口へ、料理を運ぶ。食器の触れ合う音は控えめで、代わりに胸の鼓動だけが際立つ。

 互いの胸の奥で鳴る拍が、食器の小さな音を上書きしていく。

 味は確かに舌に乗るのに、感覚の中心は別のところにあった。


 世界の雑音が薄れ、二つの鼓動だけが並び、少しずつ同じ速さを選ぶ――そんなふうに、昼の手前の時間が過ぎていった。







 食後、ソファに座っているのは一人だった。もう一人はその上に座っているから、厳密な数え方は不明だ。

 膝の上はすっかりとお気に召したようで、もう一時間ほどこの姿勢のままだった。


 ルナは恐ろしく軽いが、それでも同じ体勢が続くと、さすがに足が痺れてしまった。


「ごめん、ちょっとだけ膝を休ませてくれないか?あとでまた乗っていいから」


「……」


 空気が「とても不満」とでもいうような気配を帯びるが、ルナは渋々降りた。……そしてすぐに隣に寄り、肩へ頭を預けてくる。


「――ふふ」


 笑みが漏れる。近い側の手を握ると、きゅっと握り返され、視線が上がる。


「……あれ、して」


 ――「あれ」が何かは、言うまでもない。

 繋いでいない方の手で、白紗(はくしゃ)のような髪へ触れる。梳く。

 重さも抵抗もほとんど感じないそれは、指の間を静かにすり抜けていく。


「……ん……ユウのて、あったかい」


「――ルナの髪は、冷たくてさらさらだな」


 指の間をすり抜ける感触は、ただ撫でているだけなのに心を落ち着ける。

 重さも抵抗もないそれは、まるで形だけを留めた水のようで――撫でるうち、頬の線まで指先が降りていた。

 触れたところから、肌の温度が遅れて伝わる。


「……ん」


 前髪の奥で気持ちよさそうに目を細めて、頬を()り付けてくる。

 猫を可愛いと思ったことは一度もないのに――「猫みたいで可愛い」と。何故だか、そう思った。


「……ユウ、もうひざだいじょうぶ?」


 うっかり「大丈夫」と答えかけて、思い直す。

 これはきっと、「のっていいか」という意味だ。


「おいで」


 言い終えるより先に、体が身軽に膝へ戻ってくる。

 今度は抱え直して、膝の間にすっぽりと収めてみる。

 一瞬不思議そうな反応をするが、背中を預けさせると、さっきよりも満足そうに呼吸が深くなった。


 ――温かな静寂が部屋の厚みを一段増やした頃、ふと口が動く。


「明日、デートに行こうか」


「……でーと?」


「うん。デートっていうのは、親しい関係の男女が一緒に出掛けることだな」


「……うん、でーといく」


 細い指が、服の裾をつまむ。


「良かった。ここで断られてたらさすがにショックだったよ」


「……ことわる? ……どうして??」


 本気で分からない、という顔。

 この少女の中には、最初からその選択肢が存在しないのだろう。


「……そうだな、俺が悪かったよ。変なことを言った」


「……うん。へんな、ユウ」


 くすくす、と小さく笑う声。温度は一定のまま、その響きは柔らかい。


「……ふふ。行こうな、デート」


「……たのしみ」


 ――ふと、外に出るならやっておくべきことがあると思い出す。

 俺には理解出来ないことだが、ルナの口ぶりからして、彼女は在るだけで人に恐れられる『存在』だ。


 そして、彼女の意識次第で周囲の「変化」は容易に鈍る。人間でないことが誰かに悟られれば、面倒は避けられない。せっかくの約束を、濁らせたくはない。


「ルナ。明日のデートのために、一緒に練習しなきゃいけないことがあるんだけど、いいか?」


「……うん。なぁに?」


「街に出たら人間がたくさんいるんだ。だから、ルナが人間じゃないってバレないようにしないといけない」


「……それは、けしちゃ、だめなの?」


 その純粋な問いに、少し考える。


 ――合理的な発想だ。

 特に咎める理由もない。あったのなら、昨日の時点で止めている。


 今回だって、動機の矢印が俺のためか二人のためかの違いしかない。

 ――けれど。


「……そうだな。今回は、ダメだ」


 ルナの首が傾ぐのを見届けて、続ける。


「デートっていうのは、一緒に店に入ったりすることも含めるらしい。

 だから、人間ごと消したりするとデートですることが減っちゃうかもしれないんだ」


「……へっちゃう? それは、だめ」


 即答が返ってくる。ルナの目的が、俺たち二人の「でーと」にまっすぐ向いているのが分かる。


「ん。だから、ルナに人間のフリをしてもらわなきゃいけないんだ」


「……わかった。どうすれば、いい?」


「まず、周囲への影響は全部抑えることだな」


「……わからないけど、やってみる」


 気配が、きゅ、と結ばれる。彼女の周りを取り巻く「沈黙」の質が、わずかに変わった気がした。俺には彼女への恐れなどないから、細部までは分からない。


「俺には分からないけど……元々、今はほとんど影響が出てなかったしな。きっとルナならできてるさ」


「……ん。ほかにも、ある?」


「あとは、容姿と言葉だな。見た目は――後ろの髪くらいか」


「……これ?」


 首をひょいと後ろへ動かし、自分の後ろ髪に触れる。法則から外れ独立して揺れる、その人間目線の「違和感」。


「んー……広がってるくらいならそこまで違和感ないだろうけど。動くとさすがに気づかれるかもな」


「……わかった、でーと、するときはうごかないようにする」


 よし、と頭を撫でて続ける。


「言葉の方は……喋る機会はないかもしれないけど、一応。

 人間の言葉とか人間は言わないこととか、最低限は覚えておいた方がいいな」


「……にんげんのふり……わたしに、できる?」


「大丈夫、俺が教えるよ。俺は、『人間のフリ』が得意だからな」


 ――自分で言って、可笑(おか)しくなる。人間なのに、人間のフリ。

 けれど、それは異常に見えて、俺には自然なことだ。

 模倣の蓄積は、このためにあったのかもしれないとさえ思う。


「……うん。おしえて」


 俺の言葉を形のまま信じるルナは、体を傾けながら、そう微笑んだ。

 






 ――窓の外で、午前が静かに薄まっていく。


 「練習」は、静かな儀式のように進んだ。

 壁の時計は一秒ずつ針を進め、静寂は一定を保ち、窓辺の白いカーテンは空調のわずかな呼気にだけ揺れる。

 ルナの周囲に生まれる()()は薄まり、髪は必要なときだけ重力を受け、言葉は最小限で正確に落ち着く。


 家の内側は、彼らが暮らすことを前提に造られた無機質の美しさに満ちていた。

 手触りのいい静けさの中で、落ちる影の輪郭は不自然なほど整っている。


 約束へ向けた練習の中でも、繋いだ手は離れない。

 窓から差し込む光が床に長く伸び、二人の影だけが並んで揺れていた。


 反復は飽和とは無縁だった。彼女が「人間の速さ」に歩幅を合わせるたび、世界の歯車が余計な音を立てずに噛み合っていく。

 言葉の練習では、彼女は意味だけを選び、無駄な飾りを捨てた。挨拶、返事、短い感嘆。どれも必要最小限で、嘘の混じらない音になる。

 視線の置き方、立ち位置の取り方、扉を通る順番。些細な手順をひとつずつ共有するたび、部屋の空気の密度がやわらいでいく。


 指の温度は一定で、掌の線に沿って鼓動だけが速さを変える。


 時間は窓の外で長さを変え、部屋の中ではただ積層(せきそう)していく。光は傾き、影は少しずつ細く長くなる。


 明日は外で、今日覚えた全てを使って「デート」をする。


 それでも今は、この家の静けさの中で、ただ約束の形を確かめる。


 世界の雑音は二人に届かず――繋いだ手のぬくもりだけが、静かに満ちていた。

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― 新着の感想 ―
ユウとルナのやり取りにとてもキュンキュンしながら読み進めてました。とても癒しになる描写で微笑ましいなってなり、2人がいつまでも幸せに楽しく過ごせたらなと思いました。この先も展開がどうなるのかとても楽し…
前回とはガラリと雰囲気が変わり、今回はユウとルナの キュンキュンする甘い展開にこちらまで幸せな気分になりました! ずっと孤独だった2人が、やっと見つけた幸せ お互いを必要としていて思いあっているのがわ…
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