Rhapsody IV: 秘術のカタストロフィ
――この世界には、表の記録にいっさい載らない存在がいる。
《魔術師》。
適性を持つ人間だけが、長い研鑽の末に辿り着く秘匿された職能。表向きは財団、研究機関、医療NGO。表向きの看板はいくつでもあるが、素性はひとつも晒さない。
彼らに与えられた役割は、”人間の脅威になり得るもの”を静かに取り除いて均衡を保つこと。だが、その均衡は善意ではなく利得で支えられている。
彼らの決定は、地位と報酬が流れる方角に滑っていく。掲げられた善意の旗は、風が止む夜ほどよく翻る。
彼らは〝縦〟より〝横〟を重んじる。符籍より縁、序列より盟約。
数をそろえ、策をめぐらせ、人間的な狡猾さで獲物を囲い込む。術より先に人を使い、救済は狡猾な計算の上にのみ成り立つ。
命令は囁き、記録は血統に継がれ、儀礼は密室で更新される。連絡には伝水鏡――静かな水面に魔力の揺らぎを走らせ、遠くの同胞と意思を重ねる。
彼らにとっての「正しさ」とは、世界が円滑に回り続けること。そして、その玉座に自分たちが座り続けることだ。
――そんな彼らにも、声の温度が一段低くなる名がひとつだけある。
――《封月》。
五百年前、地上に現れた出自不明の“未知”。定義に失敗したまま符号化だけがなされ、この世界にいるはずのないただひとつの異質。
いま、その名が、久しく沈黙していた会議卓に落ちる。
壁面に嵌め込まれた水鏡の水面が、静寂の底から蒼白く震えた。
◆
魔術師のアジト、そのひとつ。石の壁に魔力灯が淡く息づき、長卓の上には幾冊もの記録書が開いたまま放置されている。今ここには普段ならあり得ない人数が集まって、黒の外套が椅子の背を埋めていた。
「一体どうなっているのだっ!!」
卓の端、老練の魔術師が拳で板を鳴らした。怒声の形をしていながら、肌の下で揺れているのは焦りだ。
指の関節が白く浮き、真鍮の環が鈍く響く。
「往古の魔術師様が封印を完遂し、これまで五百年もの間沈黙を続けていた怪物が、突然どこかへ消えただと!? そんなこと、あるはずがない! いや、あってたまるものかっ!!」
重い空気が、ひと呼吸だけ凍った。
記録を捌く監視役が、震えの消えた声で読み上げる。羊皮紙の端が、冷気でわずかに波打つ。
「しかし魔力による観測値は、封印の遺跡に設置されていた封鎖が壊されたことを示しています……つまり、それは『χ』があの場から動いたということを意味します」
部屋中に低い騒めきが起きる。
五百年前に先祖が封印した怪物――それは、未知の異物だ。封印の過去と術理を伝える章句は残っていても、その正体は誰にも分からない。ただ、圧だけが伝承の中で形を保ち続け、恐怖だけが代々の喉の奥に棲みついている。
「一体なぜだ……!? 奴はこの五百年間、一度も動かなかったというのに……」
壁際の伝水鏡が、微かに明滅した。
監視役が目線だけで水面へ合図を送り、次の報告書に指を滑らせる。
「さらに、昨夜の20時頃、観測基準に説明不能の偏差が出ています。これはχが世界に干渉した証左と見て間違いありません」
紙の上の文字が、黒い穴のように沈む。誰も、咳払い一つしない。
ここで誰かが動揺を口にするよりも早く、老練の魔術師が卓の一点を睨み据えたまま、苛立ちを押しつぶすように低く言った。
「我らは誇り高き代行者、今代の魔術師なのだ……この程度の異変なぞ、直ちに収束させてやる」
言葉の端がまだ硬いうちに、壁の伝水鏡がひときわ強く光を叩いた。
伝符の紋が走り、卓上の水鉢にも連動するさざ波が立つ。伝令を受けていた術師が顔色を変え、素早く報告へ転じた。
「……たった今、遺跡に向かっていた同胞から連絡が入りました。遺跡には、何者かが侵入した形跡が残っていたそうです」
長卓の上で羽根の筆が転がり落ち、淡い音を立てる。
「なんだと……!? では、その者が封印を解いたというのか……!?」
焦燥に揺れた問いが、壁に跳ね返る。
しかし、伝令は短く首を振った。
「それは分かりません。しかし、残された痕跡には魔力痕は一切残っていなかったそうです」
――沈黙が流れる。
魔術によらずに、封印が外れる。――その発想自体が、彼らの理解から外れていたからだ。
「……では一体……しかし、ただの人間にあの封印を解けるはずは……」
老練の声に、伝令は報告を続けようと再度口を開く。その声は尚も静かで、しかし、言葉は冷たく鋭い。
「――その者の足跡は、歩幅や地への圧が異様に精密でした。形や残された残滓は確かに人間のものでしたが、人間のものとは思えないほどに無機質で、機械的な跡を残しています」
再び周囲が騒めく。
その時まで沈黙を守っていた長老の魔術師が、椅子の背からゆっくり体を起こした。
白い眉がわずかに動く。
「――あれは奴らであってもそう簡単には解けない代物じゃ。ただの人間に解けるはずもない。そも、奴らにはあれを解放する理由がないであろうしのぉ」
その声は乾いていて、部屋中によく通る。
長卓を挟んで、誰かが唇を噛んだ。
感情を燃やす余地のない冷ややかさが、場をさらに締める。
「……では、その侵入者はなんなのだ!! その者が解いたのでないとすれば、奴が自分で鎖を破壊したとでも……!?
そんなことが可能だというなら、奴はなぜ、五百年もの間、大人しく封印されていたというのだ!」
その問いに、無数の視線が長老の口の形を待つ。
長老は、返答を切り詰めるように首を一度だけ横へ振った。
「……今は、奴が消えた原因や元凶など考えていても仕方なかろう」
理解できないことを考察している時ではない、と。
それは年と経験の功から来る真っ当で冷静な判断ではあるが、その答えに肩を落とす者は少なくなかった。
老練の魔術師が、苛立ちの熱を理屈で固めるかのように続ける。
「奴はこの世界における唯一の『異質』そのものだ!
世界の均衡を保つ役割を担った我々にとって、奴を繋ぎ止めておくことは先祖代々から続く絶対の使命だったというのに……っ!」
「――さよう。しかし、今はχを再び封印するために奴を捕捉することが最優先じゃろう」
「……そうだ。とにかく、まずは奴の所在を……!」
言い終わる前に、扉が激しく跳ね返った。
走り込んできた若い術師が蒼ざめた顔のまま叫ぶ。胸元の伝符が軋んだ声で鳴っている。
「大変です!! 調査に向かっていた同胞の魔力と生命反応が、突然消滅する事態が発生しました!!」
椅子の脚が軋み、何人かが立ち上がりかける。
「な、なんだと……!? 一体、何が起こったと……いや、それより、何人の術師がやられたのだ!?」
「…………反応が消えたのは……調査に向かった術師、全員です……」
――短い悲鳴が、広間のどこかで潰れた。
老練の魔術師は膝から力が抜け、拳で床を一度打った。石が鈍い音を返す。
「な、なんと……っ」
それでも、報告は続く。震えた声で、事実だけが積み上げられていく。
「……反応が消失した同胞たちは、直前の連絡によれば、遺跡の異空間へ続く扉へ向かっていたはずです。その直後に反応が消えたということは……」
「境界の付近に罠が仕掛けられていたというのか……? しかし、我らの同胞が一度に全員やられるなど、あるはずが――」
「――反応が消失したのは、全くの同時でした。
そして、すぐに使い魔を派遣して現場を監視していますが……確かに同胞たちの姿は消えています。
場には、血痕も衝撃痕も、何一つ残っていませんでした」
老練の魔術師が、床に伏したまま声を張った。
長卓の上の紙片が、震えの風でわずかにめくれる。
「あってはならぬっ!!!!」
――十数の「術」が、一瞬で消えた。
血も、焼け跡も、砕けた金属片でさえ残らない。
――そしてその痕跡すらも、世界から抹消されている。
――。
長老が立つ。杖の先が石を打ち、乾いて凪いだ響きが一つ落ちる。
「……問答は、もうよい。問題はただひとつ――《封月》が、世に解き放たれたという事実なのだ」
指令役の魔術師が即座に立ち、短く場を見渡す。呼吸は浅くない。声に合図の鋲を打つ。
「――では、今すぐに各地で捜索を開始しますか?」
後列から若年の魔術師が口を挟む。慎重で、臆病ではない声。
「しかし、それほど大規模な捜索が始まってしまえば、我々の存在の露見も避けられないのでは……?」
老練の魔術師が顔を上げる。
理に寄せた語で、結局は利得の言葉を吐く。
「だが、奴が本格的に動き出したら世界の均衡は一気に崩れかねんのだ……!
そうなれば、これまで守り続けてきた我々の地位と権威が一瞬で失墜してしまう……」
その言葉に、長老は短く頷いた。
そして、決定をするためだけの言葉を置く。
「我らが守るは均衡。そして、犠牲は秤にかけるためにあるのじゃ。……そのための手段は問わん」
さらに、老練の魔術師がすぐさま畳みかける。
その目は恐怖で濁らず、保つべき「秩序」のかたちだけを見ている。
「――そうだ、我々は崇高な使命を背負った正義の体現者なのだ。たかが有象無象の、数百や数千の命なぞ知ったことか!
あらゆる手段を講じ、草の根を分けてでも探し出すのだ!!」
その言葉を聞き届けた指令役が一歩前に出て、手短に命じる。声が広間の隅々まで届く。
「本塔の術師を全招集!監視と観測の体制を強化。全連盟に連絡、χの所在推定を回せ。
観測語は月、符号階梯は最上だ。
捜索中に我々の存在を知った者がいれば、即座に処理を実行せよ」
命が、部署ごとに「働き」へと変わっていく。
「了解。引き続き遺跡付近を監視、世界律の観測を続けます」――監視観測班
「了解。全連盟に一斉通達し、順次捜索の規模を拡大していきます」――捜索班
「了解。全国の処理班へ通達し、いつでも動けるよう体制を整えます」――処理班
椅子が一斉に引かれ、外套の裾が走る。伝水鏡が複数同時に起動し、蒼白い光が壁から壁へ飛ぶ。
魔術師たちの足音が、塔の内側で重層的な鼓動になった。
老練の魔術師は最後に、ひとり残した言葉を卓に置いた。
「必ずや、我々の手で奴を……『χ』を、再び沈黙の檻へと落とす」
焦燥と憂虞が混ざった声だった。だが、そこには固い決意が確かに宿っていた。
壁の水面が、もう一度だけ震えた。場の空気は氷の殻に閉ざされ、空間には沈黙だけが残っていた。




