Rhapsody II: 封月のレクイエム ─前奏─
※本話は、小説家になろう上での可読性を考慮し【前後編】に分割しています。
本来は一続きの物語として執筆されたものです。ご了承ください。
――瞬間、世界が揺れた気がした。
風が止み、音が消え、空気が沈黙を纏った。
どこかから響いた、月のように透明な鈴の音。
それは静寂の中で、まるで世界を揺らすように響いていた。
それは、ただの静寂とは違う。
まるで周囲の世界が、息を止めているような――。
目の前にあるのは、崩れた遺跡の奥に、不自然に残された石扉。
折れた柱、欠けたアーチ。風化した石の連なりに、そこだけが異様な新しさを滲ませている。
遠目にはただそれだけに見えた遺跡には、一つだけ、大きな違和感があった。
その石扉には、表面の封紋の上から、古びて仰々しい御札がびっしりと貼られていた。
そのほとんどが風化し、文字は判別できない。古びた紙片からは、乾いた墨と土の匂いがしている。
ただ、それが、〝何か〟をここに閉じ込めようとしていたことだけは――分かるような、気がする。
まるで、世界がこの空間を切り離そうとしていた――とでも言うように。
◇
――足を一歩、石扉の向こうへと踏み入れる。
足音を一度だけ鳴らし、同じ音量で踏み直す。
無機質に鳴った石の擦れる音だけが、夜の静寂へと溶け込んでいった。
扉の内は異様に澄んだ空気に満ちていて、虫どころか砂埃一粒すら存在しない。
まるで、この空間だけが時間から切り離されていたかのように。
風も、音も、「変化」と呼べる全てが、ここにはない。異常な空間に、あらゆる違和感。
それでも、いつもと同じように、ただ歩みを進める。
――扉の先、遺跡の延長に見える、月明かりだけが差し込む空間。
そこには、柱に鎖で繋がれ、御札で目隠しをされた少女が――ただ、違和感なく存在していた。
不自然なほど白く、なめらかな肌。
月の光を溶かしたような月白の髪は、風もないのに、どこか揺れているように見えた。
その風貌は、人の姿をしていながら、どこか人間離れしていた。
異常なまでに整った容姿は、まるで月の中に溶けた幻のようで、
あまりに少女らしく、作られた人形のような可憐さを帯びていて――人間らしさをまるで感じさせなかった。
体の後ろで縛られた手、鎖に繋がれた足は、少女が「ここに封じられている」事実を何よりも雄弁に物語っていた。
――そして、何よりの違和感。
少女の視界は、白く古びた御札に、確かに遮られているはずなのに。
こちらを「視て」いるような、奇妙な感覚と確信。
少女から感じるのは、純白の異質で。
そこに在たのは、無垢なる異物だった。
既に音が消えていた世界から、また音が消えたような、あまりに静かな時間が流れていく。
意識よりも先に、心臓が一度だけ、確かに鳴った。
俺は、生まれて初めて――
――なにかを、美しいと思った。
吸い寄せられるように、近づいていく。
少女はゆっくりと首を傾げると、確かにこちらを視て、再び俺に名を尋ねた。
「……あなたは、だぁれ?」
◇
風も、音も、すべてが止まったように感じる世界の中で、少女の淡く澄んだ声だけが耳に落ちた。
空間は月明かりに照らされているのに、光の粒立ちだけが遅れて届く。静けさは、彼女の声を中心にして僅かな波紋を広げていた。
白く古びた紙片が、少女の目のあたりに巻かれている。扉に貼られていた御札とは、材の肌理も匂いも違っている。
一拍置いてから、優朔は指先でそれに触れた。
紙は抵抗らしい抵抗もなく、意思を失った欠片としてするりと剥がれ落ちていった。
何かの術が解けたような気配はない。
ただ、少女の目元が、月明かりに晒される。
――少女の瞳は、長く垂れた前髪に隠されていて見えなかった。
なのに、今度は隠れているはずの眼で見られているような――そんな、さっきまでとはまた違う感覚に陥っていく。
「……はずして、よかったの?」
無機質な声が、静かに上がる。見上げた少女は、わずかに首を傾げていた。
問いの意図が掴めず、優朔は彼女を見返す。
「え?」
――もしかして、外してはいけない理由があったのだろうか?
優朔がそんなことを考えていると、
「……わたしのこと、こわくないの?」
少女は、首を傾げたまま、不思議そうに問いを重ねてくる。
同じ声色、同じ無機質な口調。けれど、今回は僅かに温度を感じる。
優朔は首を横に振って答える。
「怖くはない、けど。どうして?」
「…………」
少女は体を傾ける。鎖がわずかに鳴り、空気の圧が微細に揺れる。優朔の様子を、彼女は興味深そうに眺めていた。
――確かに、目の前の少女がなにか普通と違うことを、「理解」はしている。
この空間も、度々感じる奇妙な感覚も、幼い少女が鎖で縛られた光景も、この場に在る全てが彼女の異質さを体現しているからだ。
しかし――その事実が、優朔に恐怖やそれに近い感情を与えることはなかった。
ふと、まだ少女の最初の問いに答えていなかったことを思い出す。
「――あ、ごめん。まだ名乗ってなかったな。俺は優朔だよ。久遠優朔。ずっと世界を旅してるんだ」
「……ユウ?」
転がすように柔らかく、名を呼ぶ。
その表情はほとんど変わらないのに、優朔には何故だか少しだけ嬉しそうに見えた。
「……どうして、おふだ……とって、くれたの?」
少女の問いに、優朔は少しだけ考える。その行動をしたときの彼は、体が勝手に動いていたからだ。
――けれど、その答えは彼の中ですぐに見つかった。
「そうしないと、君とちゃんと話せないと思って」
答えを聞いた少女がまた首を傾げ、小さく口を開くと、
「……ユウ、ふしぎ」
髪の奥に隠れた瞳に優朔を映して、そう呟いた。
「あ、そうだ。君の名前は?」
「……わたしの、なまえ?」
首を傾げたまま、一拍の沈黙が置かれる。
「……ないよ」
「……そっか」
それはどこまでも単調で、事務的な事実の開示に近い。どうやら少女にとって、それは些事なことらしい。
「君は、人間じゃないんだよな」
「……うん。わたしは怪物だよ。ただの、怪物」
彼女が答えると同時に、背後で縛られた手の鎖がじゃらりと音を立てる。
「……ここに五百年封印されてる、怪物」
――五百年。それは人間にとって、途方もない年月だ。
きっと、告げられた事実に虚飾はないのだろう。
――それでも、恐怖はなかった。
優朔の中では、恐怖という感情に結び付く像が、目の前の少女から一向に立ち上がってこない。
「怪物、か。――なら、人を殺したことはあるか?」
少女は迷わず、まっすぐに答える。
「……ない。ヒトになにかしたことも、ないよ。わたしはただ、ずっとここにいただけ」
「それは、封印されてたから?」
「……ううん。こんなの、いつでもはずせるよ」
足に繋がれた鎖をちらりと見ると、少女は無関心にそう話した。
そして彼女は空間の外――世界の方を向いた。
「……ぜんぶ、興味なかっただけ」
「興味がない」。
――発せられたその言葉に、心臓が一度、明確に鳴った。
「――そっか。じゃあ同じだ」
少女の髪が揺れる。
「……おなじ? ユウも、興味ないの?」
「ああ、人間には興味がない。――それでずっと、旅してたくらいだからな」
「……旅人さん、なの? ……なにを、さがしてるの?」
「曖昧な言い方だけど、人じゃないもの……だったかな」
――。
「いや、違うな。人じゃなかったらいいってわけじゃないんだ。なんていうか、人間みたいに汚くない、純粋な存在を……」
言い終わってから、何故か、弁解のように付け加える。
事実を言ったとはいえ、優朔自身ですら自分がこんな言い訳のような言い回しをするとは思っていなかった。
何故、俺は今――この少女に誤解されたくないと思ったのだろうか。
自分の心に聞いたところで、すぐには答えが出なかった。
そんな彼に、少女は短く問いかける。
「……じゃあ、わたし?」
直球の問いが飛んでくる。
「――うん、そうなるかも」
答えると、少女はわずかに俯く。口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
「……ユウは、わたしに興味があるの?」
「ある。――むしろ、興味しかない」
その問いにも、優朔は即答した。何かに興味を持ったことなど無かったはずの彼だが、この答えには迷いが無かった。
「……うれしい。なにが、しりたい? わたしのこと、なんでもはなしてあげる」
――少女の髪の一部が、一瞬だけ、月白のような白から淡い黄に転んだように見えた。目の錯覚、なのだろうか。
「五百年ここにいたって言っていたけど……食べ物は?」
「……たべもの? ……なに、それ?」
「え、食べ物……知らないのか?」
「……まって」
隔絶された空間の中で、時間だけが微かに軋む。
「……わたし、おなかすかない」
唐突に、彼女から疑問の答えだけが置かれる。今少女が何をしたのか――優朔には、全く分からなかった。
小さく息を整え、次の質問をする。
「じゃあ、睡眠は?」
今度の質問には、さっきより短い間で返答が返ってくる。
「……ねむくも、ならない」
「――じゃあ、本当に……五百年間ここに立ってただけ?」
「……うん。そうだよ」
そこに言葉以上の情報はない。ただ、それだけが彼女の真実だった。
――優朔は改めて、少女をじっと見つめてみる。
彼女は、「?」という顔で少しだけ俯く。髪がまた一瞬、淡い桃色に揺れた。
まさかとは思うが――これは恥ずかしがってる、のだろうか?
「……本当に女の子にしか見えないな」
そんな独り言が、息と共に漏れ出る。
「……ユウは、わたしが女の子にみえるの?」
少女は驚いた様子だ。
「見える。――え、違うのか?」
少女が小さくうなずく。
「……わたしは、わたしだよ」
今度も、ただ事実を伝えてくる。だが、今回はさっきとは何か違うような気がした。
さっきまでと変わらない声色に、どこか喜びの感情が滲んでいるように感じる。
「でも、五百年生きてるのに――とても、そんな風には見えないな」
「……成長、しない。からだ、ちいさいの」
少女は、自分の体を見下しながらそう告げた。
「……なるほど」
人間と違う部分が次々に見つかっていく中、優朔は素直に感心する。
――この十年間、彼はずっと「そんな存在」を探してきた。
しかし、いざそれを目の当たりにしたとき、こんなにも興味を惹かれるとは想像もしていなかった。
――いや、この少女だからこそ。
優朔はこんなにも、目が離せないのだろうか。
そんな彼の様子を見て、少女はまた首を傾げる。
「……ほんとに、こわくないの?」
確認するように、少女は再度問う。
「ああ、まったく」
今度も即答する。
「……ふふ、ふしぎ」
鎖が小さく鳴る。
少女の顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「……あなたは……特別、なんだね」
――特別。それは、決して軽い言葉ではなかった。
「俺が特別って、どうして?」
「……ほかの人は、わたしをこわがるから」
「……怖がる?」
問いを返す。ここまで彼女を知ってみて尚、彼には彼女の何が「怖い」のか分からなかった。
「……うん。わたしをここに封印したニンゲンは、みんなこわがってた」
彼女の声色と表情からして、それ自体に頓着はない。
優朔がこの言葉をどう受け取るのかだけを――ただ、じっと見ている。
「ふーん……」
話を聞いて、理解はする。人間とはそんなものだと、彼はずっと観て識ってきたから。
でも、それに共感だけはしない。
――少女はまた、優朔のことを見ている。
……少し考えて、優朔は口を開いた。
「――近くに行ってもいいか?」
優朔の言葉に、少女は表情は変えないまま、どこか驚いたような反応を見せる。
「……うん」
――そして、どこか不安そうに頷いた。
優朔が歩きだしても、彼女の視線は彼の顔に固定されている。
――気づけば、手を伸ばすだけで触れられる距離。
目の前に来てなお、優朔には彼女が「怪物」には見えない。
「……」
静かに真っ直ぐ優朔の顔を見上げる少女の表情は、少女が彼に「怖がられること」だけを恐れているのだと教えてくれている。
表情は、最初からほとんど変化していないはずなのに――なぜだか彼は、最初よりも彼女の変化が分かるようになっていた。
そして、優朔にはそれが、妙に嬉しかった。
「……よし」
ゆっくりと、手を上げる。
「?」
彼の意図が分からないのか、少女は上がった手を不思議そうに見つめている。
――彼女の頭の上に手を置き、そっと撫でる。
雪を梳いた糸のような、繊細な手触り。温度はゼロに近いのに、不思議と冷たくない。
髪を撫でられた少女は、抵抗はせず、ただ静かに口を開いた。
「……ユウ?」
その声音に重なるように、髪がかすかに桃色を差した。
「ごめん、嫌だったかな」
……少女はすぐに、小さく首を振る。
「……ううん。ユウなら、いいよ」
彼女が小さく傾ぐと、髪はまた一瞬、淡い黄に転んで見えた。
「……ユウは、やさしいんだね」
十分に撫でたあと、優朔はゆっくりと手を下ろす。
そして、改めて思ったことを少女に伝えるために口を開いて、
「やっぱり、どこが怖いのかさっぱりだ」
と、彼女に向かって微笑んだ。
少女の不安を無くしてあげたい、という気持ちが無かったわけではない。
けれど、これは――ここに来た時から変わりようのない、彼の本心だった。
「……そう、なの?」
「ああ。むしろ――怪物らしいところを、もっと見てみたい。というか君のことが知りたい。
もし良かったら、分かりやすい形で見せてくれたりするか?」
言い終えてすぐに、少女に繋がれた鎖のことを思い出し、目線を送る。
「――あぁ、それじゃできないよな……」
「…………」
一瞬の間を置いたあと、
「……できる、けど」
少女が、答える。――その声には、今までにない明らかなためらいが滲んでいた。
「…………でもわたし、ほんとにきけんだよ」
声は一定のまま。髪が一瞬、灰色に沈む。
やはり、怪物の部分を見せるのは不安らしい。
正直、少し残念には感じていた。それくらいに優朔は、この少女のことを知りたいと思っている。
けど、それ以上に――少女が落ち込む顔を見たくない、とも思った。
「うん、ダメなら仕方ないな。ありがとう」
零れた独白に、少女は小さく首を振った。
「…………だめ、じゃない。……ためしてみる?」
「――え、いいのか?」
少女は小さく頷くと、優朔の方を見て――何かを、呟いた。
次の瞬間、優朔の足元の重力が、ふわっと消えた。
「――!」
――体が、宙に浮いた。
そこに至る過程など一切なく、ただ「浮いている」ような、不思議な感覚。
――だが、不思議と地面に落ちる可能性は浮かばなかった。
「……だいじょうぶ?」
「ああ、大丈夫。けど、これは本当に凄い力だな……」
少女は首を傾げると、ゆっくりと優朔を地面に下ろし、少し考えてから口を開いた。
「……もっと、派手なのとか……みたい……?」
「ああ、見せてほしいよ」
聞かれた瞬間に答える。
一瞬のあと、少女の背後の方で、巨大な炎の柱が立ち上がった。
空気は動かない。炎だけが、世界から切り離されたように、音もなく揺れる。
「――おお」
視線が吸い寄せられる。心の底から、少女の力を凄いと思った。
「……ユウは、わたしのほんとの姿を見ても……こわがらないんだね」
「むしろ、もっと知りたくなったよ」
「……ふふ、やっぱりユウはふしぎ」
少女はまた、体を少しだけ傾ぐ。
◇
――外は暗く、月だけが薄く世界を照らしている。
時間の外れたようなこの空間にも、日常はやってくる。
腹は空いているし、風呂にも入っていない。どれだけこの時間が惜しくても、今日は宿に戻らなければならなった。
「今日はそろそろ帰らないと」
「……そっか」
少女の髪の端が一瞬、青に冷える。
青に沈む色を見て、自分の胸の奥がざわつくのを僅かに感じる――が、理由は分からなかった。
わずかに俯いていた少女は顔を上げ、
「……また、あえる?」
――不安と、期待が入り混じった声をあげた。
「必ず来る」
優朔はまた、迷いなく答える。
「……ん、まってる」
今度ははっきりと、少女の口角が上がった。
優朔の心臓の鼓動は、手に負えないほどうるさくなっていた。
「いや。やっぱり明日来るよ」
熱に押されるみたいに、言葉が先に出る。
「……あした? あした、またきてくれるの?」
少女の髪が、今までで一番長い時間やわらかい黄を帯びるのを――優朔はその目で確かに捉えた。
「ああ、約束する」
「…………やく、そく」
……少女の「嬉しさ」が、空気の密度をわずかに軽くする。
そんな中で、優朔はひとつだけ心配になったことを口に出す。
「――それと。もし俺が来るまでに誰かが来ても、危ないから信用しないでほしい。必ず、追い返してくれ」
そのときの彼女の表情は、人の言葉で言えば「きょとん」という感じだった。
しばらくの沈黙があったあと、彼女は口角を上げ、くすりと笑った。
「……だいじょうぶ、だよ? わたしは、今までだって……だれともはなさないようにしてきたから」
桃と黄が混ざった薄い橙が、少女の髪に灯る。
「……そうなのか? ――じゃあ、どうして俺は?」
優朔が問うと、少女はまっすぐに彼を見る。前髪の奥で、確かな視線が通る。
「……ユウの魂が、きれいだったから」
――言葉は、ただそれだけだった。
けれど、それは明確に彼女の真実を灯していて。
優朔は、自分の鼓動がまた高鳴るのを確かに感じた。
「そっか。なら、いらない心配だったかな」
「……でも、やっぱりユウはふしぎ。わたしは、おそろしい怪物なのに。きけんなことなんてない、のに。
……ユウのいまの言葉、とってもうれしかった」
――その「うれしい」という言葉に、抗えず笑ってしまう。
少女はそれを観察するように見つめて、少し考える素振りを見せてから、また体を横に傾けた。
「……わたしの、なまえ。
……ユウが、つけてくれる?」
――。
――五百年、何もせず、誰とも関わらなかった存在がいま、優朔ひとりに名を求める。
その意味と重みが、空気の粒子にまで沈んでいく。
――驚きはあった。けれど、迷いはなかった。
胸の鼓動が、名を産むための拍に変わる。
――俺は、彼女を見つめて。
「ルナ」
〝ルナ〟と、そう呼んだ。
――不思議と、優朔の頭にはそれ以外の名が浮かばなかった。
月の淡い光が、少女の髪に落ちる。
「…………ルナ」
……たったいま生まれた〝名〟を、少女は噛みしめるようにつぶやく。
「……うん、わたしはルナ。これからはずっと、ルナ」
互いの沈黙が、肯定として満ちる。
高鳴る鼓動の中で、時間が止まったような――不思議な感覚。
「それじゃ、行くよ。またな、ルナ」
少女は、小さく首を振ってこう続けた。
「……またな、じゃなくて……またあした、だよ?」
「――ああ。また、明日だ」
――扉の外、世界は動き出す。
風が鳴る。砂埃が低く巻き、崩れた石の匂いが鼻をかすめる。
世界の音は戻ったのに、彼だけが少し遅れていた。
同じ遺跡の列柱、同じ月明かり。けれど、さっきまでの静止はもうどこにもない。
胸の中だけが、一拍遅れて動き出す。
――彼女に触れた指先が、まだ現実の側を信じさせなかった。




