Rhapsody I: 旅人のレクイエム
――世界には、いったいどれだけ美しいものがあるだろうか?
世界を、人間を、誰よりも知っているはずのその男は、美しいものを何一つ知らない。
いや、正確には違う。知らないではなくないのだ。
遍く世界を知り、それでもなお探求のみを続けていても、この世界で彼にとって美しいものはただの一つも存在しなかったから。
◆
久遠優朔は、一人世界を旅していた。
朝の光が差し込む森の小道を、無言で歩く。ただ歩くだけで、それ以外に意味はない。どこかを目指しているわけでもなければ、旅そのものを楽しんでいるわけでもない。
ただ、かつて生まれた村を出た時から、ずっとそうしてきた。
ただ、ひたすらに、目の前に続く道を歩き続けているだけ。
「……俺の人生も、大概くだらないな」
ひとりごとのように呟いた声に、感情はこもっていない。それは優しく低い声だったが、その響きには人間らしい温度がない。発した声は、まるで機械が発する無機質な音のように、ただ空気に溶けては消えるだけだった。
その無機質さは声だけに留まらず、彼の整った顔立ちさえも温度を欠いている。瞳は光を映しても、感情を一切宿さない。
風が一度、前髪を払う。
新月のような――藍を孕んだ黒色の髪は、光だけをわずかに拒んでいる。
彼の歩みは止まらない。――道が途切れても、草木をかき分け、川を渡り、崖があれば乗り越え、無感情に突き進む。
生きることに執着があるわけでもなければ、死を恐れているわけでもない。止まる理由がないから歩く。ただ、それだけ。
まるで、そこに存在しないのと同じかのように、彼はただ、世界を旅している。
薄く砂を被った、色褪せた外套から、歩くたび、乾いた粒が落ちる。
それとは対照的に、その歩みには一切の揺れがなかった。重心が微動だにせず、あるのはただ地を踏みしめ続ける異様な静けさだけ。
今、彼の足が踏みしめているのは――神話と遺跡の香りが残る、西方の歴史深き古の国、その大地。
ここに辿り着いたことさえ世界を歩き続けた結果のうちの一つであり、また、過程の一つでしかない。
そしてこれらには――彼の本質的な部分であり、彼を彼たらしめている価値観が大きく関わっていた。
優朔という人間は、人間という生き物に対して一切の関心も興味もない。
――〝無関心〟。それは即ち、虚無だ。
人間社会において「無関心」は他人を遠ざけるために使われる言葉でもあるが、それは本来の意味を大きく外れている。本当に無関心ならば、遠ざける必要すらない。
無関心という言葉には、「好き」はもちろん、「嫌い」も含まれていない。とにかく、対象に関して虚無であることを指す。
――もしも、この世の全てを好きにも嫌いにもなれない虚無の存在がいるとしたら。
それはどれだけ、他人の目から怪しく空虚な物に映るのだろうか。
彼の無関心が向かう先は、両親を含め、誰ひとりとして例外はなかった。息づいたそのときから、彼の目には全てが虚しく映った。人間の行動も、言葉も、感情も、その在り方全てが。
自己の利益のために他者を欺き、嘲り、傷つける。妬み、嫉み、争う。他者を助けるときですら、見返りを求めるのだから救えない。偽善、欺瞞、疑心。人間はどこまでも醜く、世の中はそんな醜悪で溢れている。
そんなものが人間達の「普通」であるというのなら、そんなものには関わる価値すらない。関心を持つ意味すらない。負の感情を抱くことすら、無駄で無意味なことだ――と、彼は知っている。
――優朔が生まれた村は、まるで〝風が吹いていない〟と錯覚するような、閉鎖的な場所だった。どこまでも平らな大地が広がっているのに、なぜか空気だけが濁っている。悪意だけが、澱んでいる。
彼がその村を出たのは、わずか「八歳」の時だった。それから今日に至るまでの十年、旅に出たことを後悔したことは一度もない。
かつて村で、「名前についた「朔」は読めない、だから意味がない名前だ」と揶揄われたことがあったが――理由はそれ一つで十分だった。
元々他人に対して感情が希薄な彼にとっては、悪意も、人の醜さも、何もかもがただ無機質な「判断材料」で――彼が人間に失望し、無関心になるまでにそう時間は要らなかった。
彼の行動も、表情も、言葉も。
全ては〝人間とは何か〟という知識に従って作られた模倣であり――怒りも悲しみも、今の自分を作った故郷に対する憎しみさえも。
――あくまで、それを知っているから〝演じている〟だけだ。
例え、拷問されてあらゆる苦痛を与えられようが、あるいは殺されようが、感覚としての苦しみを感じるだけであり、彼は「苦痛」や「死」という結果にさえ無関心であり続ける。無関心な人間との間で起きた事象にも、関心が湧かないからだ。
傷もトラウマも、希望も、何もない。心にあるのはただ、空洞。
その空洞を抱えたまま、彼はただ歩き続ける。
――彼は、自分を人間だと思えたことがなかった。
自分が人間だと、誰よりも自覚しているのに。
「そういえば、いつか村にいた誰かが、俺にこんなことを言ってたな」
その言葉をかけたのが自分の親であることすら覚えていない彼を。この世でそんな彼だけを、忠実に表す言葉があるとしたら。
――それはまさに、
「『人間のフリをした人間』」
――となるだろう。
◆
だからこそ、出会いは必然だったのかもしれない。
この世界のどこにも存在しないと識っているものを、誰よりも求めていたから。
誰かに何かを求めたことなど、一度もない。
ただ、もし――この退屈な世界に、ほんのひとつでも「美しいもの」が存在するなら。
それは、きっと、誰にも定義できないような『例外』だ。
一度も動かなかった心が、その時初めて揺らされるのだとしたら。
その感情は、きっと――。
――月が満ち、
夜が静かに世界を覆い始めたとき。
森の奥にある、崩れた遺跡に辿り着いた。
足を止めずに歩く。崩れた踏み石の磨耗、折れた柱の割れ目、風の通り道に溜まる砂の線。それらを一瞥だけして進む。
〝危険かもしれない〟という想定は、彼の中では無意味だった。知っていても、進むだけだから。
観測し、判断し、結果に関わらず踏み込む。それが旅という行為――すなわち彼の人生であり、彼にとっては息をするのと同様のことだった。
――歩き続けた先。
周囲には、一見なんの変哲もない、風化した柱と欠けたアーチの連なり。
ただ、その奥には――一つだけ、場違いな物が残っていた。
それは〝石の扉〟。
表面には複雑な封紋が深く刻まれ、その上から御札が隙間なく貼られている。
満ちた月が廃墟を洗い、扉の縁が薄く光を返す。
遺跡は外へ開かれているのに、ソレだけは「外」に繋がっていない。
〝境界〟という言葉だけが、優朔の中で静かに形を保つ。
――それでも、旅の年月と無関心が、次の一歩を疑わせない。
――。
――それは、石扉を押した瞬間だった。
――空気が変わっていくのを、肌で感じる。
――風が止み、音が消え去る。世界が呼吸を止め、「静止」だけが残る。
隙間から流れる空気が肌を撫で、異質な物の存在を――思考よりも先に、身体が感じる。
――頭の内側で、言葉だけが反響した。
「…………だぁれ?」
――それは、この世のものとは思えないくらい、白く澄んでいて。
――同時に、底知れない『何か』が混ざっている。
――甘く、どこか残酷で、美しく、どこか狂気的で。
例えるならそう――月の光のような。
――少女の、声だった。




