Rhapsody Ⅷ: 斥命のカタルシス
……命の重さって、なんだろう。
ふつうは、はかるのかな。数をかぞえて、天秤にのせて、重いとか軽いとかをきめるのかな。
わたしには、そのはかりがない。
命は、あるかないか、それだけ。
うごいているか、とまっているか。
ただ、それだけ。
……でも、ひとつだけ、重いものをしってる。
わたしはそのためだけに在って、そのひとも、わたしのためだけにある。
他のものは、重さがないから、わたしの世界には置かれない。
だから……じゃまをするなら、斥ける。
わたしはただ、わたしにとって間違ったものを、正しい場所にもどすだけ。
それがわたしの、心の解放だから。
◆
深夜、物音で目が覚めた。
瞼を上げると、目の前にはもちろん優朔がいる。
体を寄せようとしたところで――再度、木の扉を叩く乾いた音が割り込んだ。
「……うるさい……」
愛しい存在との眠りを邪魔された事実だけが、不快を淡々と積む。
鳴りやまないノックに、仕方なく上体を起こして、優朔の肩を軽く揺する。けど、優朔は起きなかった。
……そうだ、人間には「疲れ」というものがあるんだった。
眠りに就いて間もないのだから、起きないのは当然だ。
自分は疲れを感じないが、優朔が感じるなら、それを守りたい。
「……」
不機嫌を抱えたままベッドを降りる。
本当は、少しの間でも離れたくない。だが、このままでは優朔が目を覚ましてしまう。
――そして何より、この静かな時間を乱されたくなかった。
「……」
無音で寝室の扉を開け、廊下に出る。夜の家は、木と石の匂いを薄く残している。
階段を一段ずつ下りるたび、板は鳴らない。ノックだけが、家の表面を叩き続けている。
玄関に辿り着き、取っ手を捻って扉を開く。
そこには、数人の人間がいた。こちらを見る目は、警戒の色と、それを緩めようとする色を帯びている。
その中で、最年長らしき男が最初に口を開いた。
「――おっと、お嬢さん。こんな夜分遅くにすまないね」
その声には、少女の警戒を解こうとする打算的な柔らかさが滲んでいた。
それを皮切りに、他の人間も、用意してきた声色で言葉を重ねる。
「ああ、私たちは怪しい者じゃないんだ。ちょっと、ここにあった村と、この家のことを聞きたくてね……」
そのまま、ニンゲンたちの言葉が続いていく。
――長々と喋っているが、要するに彼らは、「ルナが壊した村の関係者」ということらしい。
ここにあった村が消え、住人も消え、その跡地に家が建っている。それは不自然なこと。
だから、調べに来た。それは自然なこと。
――けれどその整合は、ルナにとってどうでもよかった。
問題は、「ならばこのニンゲンたちをどうするか」ということだけ。
――ルナは、かんがえる。
壊すのは容易い。ルナは昨日の出来事で理解していた。人間は往々にして弱く、脆い。
大切な優朔との眠りの時間を邪魔された苛立ちも、今こうして優朔と離れていることへの苦しさもあって、今すぐにこの状況を終わらせたい感情はある。
――でも、本当にそれでいいのか。
だって『でーと』のときに、優朔と約束をした。
「人間のフリ」をする、と。そうすれば、またでーとができる。
――それに、彼との約束は守りたい。
――ニンゲンから、質問が飛んでくる。
「それで、お嬢さんはここにあった村のことを何か知ってるかな?」
「……しらない」
ルナは、目先の感情よりも約束を選んだ。
どうなるかは知らないが、ひとまず「人間のフリ」をして嘘を吐くことにした。
――本来、彼女に「嘘を吐く」という機能はない。
しかし、優朔との約束を守るために、この場では感情を抑え、純であることを置いた。
「……そうかい。けれど、消えた村の跡地にぽつんとこんな立派な家が建ってるんじゃ……
我々も、はいそうですかと引き下がるわけにはいかないんだよ」
言葉と同時に、ニンゲンたちは目配せで合図を交わし、
「少しだけ中を調べさせてもらうよ。何もなければそれでいいんだ」
ヒトリが、ルナの返事を待たずに敷居へ足をかけた。
靴底が木に触れる、その前。
空気が薄くなる。家の内と外の温度が分かれ、線が引かれる。
木目の流れが一瞬だけ逆立ち、廊下の影がこちらへ傾く。
――ルナの中で、何かがはじけた。
おうち。ユウとの、おうち。
ふたりのために作った、しずかで、大切な場所。
そこに、異物が混入してくる。
――たえられない。
かなしくて、いやで、ふかいで。拒絶したくて、たまらない。
――がまんって、なんだろう。
――おさえるって、なんだろう。
――なんで、こんなものに、それをしなくちゃいけないんだろう。
――。
ああ、わかった。
わたしには、さいしょから無理だったんだ。
だってわたしは、人間じゃないから。
フリはできても、それは続かない。
いつか感情が溢れ、抑えられなくなり、爆発する。
我慢できなくなる基準も、価値観も、きっと人間とは違っている。
――だから。
敷居をまたごうとした複数の影は、既に人の輪郭を失っていた。
輪郭からはみだした赤い霧だけが壁と床に散り、残ったのは、ただそれだけ。
――どうやら、今回は、こわし方を間違えたらしい。
「……ユウ、おこるかな」
ぽつりとつぶやいた一言に後悔はない。
そこにはただ、一人の反応を気にする色だけが滲んでいた。
◆
――刻は、まだ零時を過ぎて間もなかった。
優朔はまどろみの縁で、感じた違和感に目を覚ます。
ルナがいない――それだけではない。
耳に残る、複数の物音。何かが、消えた気配。
ルナは無事だ。それだけは感覚で分かる。
そもそも、ルナに危険が迫っていれば、こんな呑気に眠ってはいない。
――しかし、玄関の方角に感じる違和感は、それなりの変化があったことを彼に知らせている。
優朔は上体を起こすと、視線を廊下へ向ける。
確信のおかげで、焦りはない。
立ち上がり、階段へ向かう。
――血の匂い。
それは何かしら問題が起きたということなのだろうが――その匂いは明らかにルナのものではないから、やはり焦りは起きない。
階段を降り切ると、玄関と、そこに立つ少女の様子が目に入る。
――それは、なかなかの惨状だった。
開いた戸と床は、赤い飛沫に染まっていた。
周囲には、それらを吐き出した残骸のようなものが、ほんのわずかに形を留めている。
その中心に立つルナに、汚れは一切付着していない。
――これは、十中八九、ルナがやったのだろう。
「ルナ、大丈夫か?」
優朔は近寄り、しゃがんでルナと目線を合わせる。傷はない。異常もない。
彼女は短く頷いただけで、しばらく黙っていた。ただ、優朔の目を静かに見つめ返す。
しばらくの間そうしていた彼女だったが――やがて、口を開いた。
「……ユウが寝てるときに、にんげんがきたの」
ルナはそのまま、起きたことを素直に語った。
語りながら、血で汚れた場所は静かに浄化され、痕跡は消えていく。
彼女の周りから順に、赤が木の導管へ逆流して、木目は見慣れた色に戻った。
「…………やくそく、やぶっちゃった……ごめんなさい」
――すべての説明が終わったところで、ルナは俯き、静かに謝った。
約束とは、「人間のフリをする」と決めたことだろう。
優朔がそれを決めた理由は、デートのためもあるが、それだけではない。
もし、彼女が人間でないと悟られれば、彼女を狙う輩が現れるかもしれない。
ルナをどうこうできる存在がいるとは思えないが、それでも優朔は、ルナを危険に晒すことだけは避けたかった。
けれど――
「なんで謝るんだ? 俺たちのためにやったんだろ」
優朔は頭を撫でる。声は静かで、内容は揺らがない。
今回のことに、謝罪なんて必要ない。
ルナは約束を守って人間を殺さずにいたのに、無粋を犯したのは人間のほうだ。
「それでも約束を守って我慢しろ」などと言うつもりは、優朔には最初からない。
それでは、何をされても、人間のフリをしたまま抵抗できないということになる。
そんなことになるくらいなら、最初から全員×してくれた方がずっといい。
そして、今回も同じだ。
ルナにとってこの家は、誰にも冒されてはならない大切な場所であり、それは優朔にとっても同じだ。
だからルナがとった行動は、俺たちにとって、絶対に正しい。
正しさは多数決ではなく、守るものの輪郭で決まる。
大切なものを汚されたくないという想いは、純粋で、清廉で、誰も否定することなどできない神聖なものだ。
「……ほんと? おこってないの?」
「ああ、怒ってない、怒るわけないだろ。――俺と、俺たちの家を守ってくれてありがとう」
まっすぐに告げる。
ルナの肩がわずかにゆるみ、次の瞬間、胸に抱きついてくる。
「……ユウ、だいすき」
こんなときでも、その一言だけで、心が熱くなるのを感じる。
「ああ、俺もだ」
優朔はそのまま、少女の体を抱き上げた。腕の中に重さはなく、ただ愛おしさだけが在る。
寝室に向かって、階段を上る。廊下の影が、ふたりの形に沿って伸びた。
腕の中のルナは、静かに頭を寄せてくる。
寝室に辿り着き、ベッドにそっと下ろして隣に座る。いつものように手を握って、寄り添ってから、短く切り出した。
「――今後のことを、決めておかないとな」
本当は、ルナと過ごす時間は、彼女のことだけを考えていたかった。
しかし、昨日のことや、今日残してしまったであろう痕跡を考えれば、今後誰かと衝突する事態は避けられないだろう。
ルナの力を思えば、警察などの公的機関は、警戒に足らない。
そもそも、彼女の力があれば、一般人に対しての認識阻害は容易だろう。
――しかし、問題は昨日の連中のほうだ。
明らかに普通の者とは違う空気を発していたし、優朔でさえ知らない道具を使って、命令の中でも知らない単語を飛び交わせていた。
ルナに危険が及ぶとしたら、可能性があるのはあっちだ。
「……こんご? ……どうすれば、いい?」
「まず、人間のフリをするっていうのはもうナシだな。またデートする時は必要だが……それ以外は、むしろルナに危険が及びかねない」
「……わたしに、きけん?」
ルナは不思議そうに首を傾げる。睫毛が小刻みに影を落とし、前髪の向こうで瞳が微かに揺れる。
「ああ。俺も、ルナがあんな連中に傷を付けられるとは思ってないが……昨日の連中は、そこらにいる人間とはどこか違っていたからな。
――あいつらみたいなのがまた襲ってくるのとしたら、警戒は必要だ」
「……うん、わかった」
「よし。それと……今日みたいに人間と衝突した時、どうするのかも決めておこう」
言葉を聞いて、ルナは静かに頷いた。
それは、優朔の言うことは全て信頼していて、そのまま受け入れる。という、固い意志のようにも見える強い肯定だった。
頷きのあとも、彼女は視線を逃がさない。布団の皺が、ごくわずかに形を変える。
「――できることなら、何もせず穏便に済ませたい。トラブルを起こせば、その分だけ危険も増えるからな。……だけど」
ルナは、優朔の目を見つめたままじっと黙っている。
大事なのはこの先の言葉だと、理解しているのだろう。呼吸が等間隔にそろい、部屋の空気が一枚、静かに澄む。
「もし、それ以外に方法がなかったり……許せないことがあって、我慢できないときは」
一度、言葉を切る。ここからは、きっと世界の運命を変える起因になるだろう。
――けれど、優朔の心はとっくに決まっていた。
一拍置いて、その言葉を告げる。
「全て、ルナの好きなように壊せばいい」
ルナの顔が、わずかに上がる。驚きはなく、ただ、受けた言葉を胸の奥に広げるみたいに。
目の奥の色が、一瞬だけ濃くなる。彼の手を包み込むように、両手で覆って――
「……いいの?」
――静かに、確かめる言葉を返した。
「ああ。その後のことは俺がどうにかする。ルナが俺のことを守ろうとしてくれるように――俺が、ルナを守るから」
小指を立て、差し出す。
デートの前に教えた、『約束』のしるし。
空気がそっと、輪郭を整える。
「…………」
ルナは髪の奥で一度だけ瞬きをして、視線を落とす。
彼の小指に、自分の小指を寄せる。触れる手前で一拍、息を合わせ――きゅっ、と絡ませる。
「やくそく、する。……わたしは、ユウにまもられる」
一瞬の沈黙を置いて、続ける。
「……ユウのことは、わたしがまもる」
絡んだ指の温度が、言葉より先に約束を結ぶ。それは、ただの「約束」ではない。
怪物の少女と交わした、初めての『誓い』だった。
「――ん。それじゃ、そろそろ寝ようか。きっと、明日は早いからな」
優朔がベッドに横たわると、ルナはすぐ、いつものように彼の腕の中に入って小さく収まる。
寝具が二人の重さをそれぞれの位置で受け取り、音を立てずに落ち着いた。
「……ユウ」
「どうした、ルナ」
一瞬の沈黙が流れ、
ルナが小さく口を開いた。
「……ユウのことがすき」
「俺も好きだよ」
互いに心の音を交わす。
少なくとも今、それ以上の言葉は要らなかった。
「……ん。おやすみ、ユウ」
「ああ、おやすみルナ」
◆
外の夜は淡く巡り、家の内側だけが同じ温度で続いていく。
掛け布の皺が静かに整い、二人の呼吸が同じ間隔に収まる。
灯は落ち、天井は暗くならずに輪郭だけを薄める。家全体が、ふたりの存在の周りに薄い膜のような温度を守っている。
優朔が眠りに落ちると、ルナもまた同じ速度でまぶたを閉じた。
だが、彼女の心の中には小さな余韻が揺れていた。今夜のこと。人間が訪れたこと。彼らの無粋さ。すべてが、薄く、鋭く。
彼女は暗闇の中で、自分の指先を数える。
その指の形は、小さく、固く、誓いを握り続ける。
――静謐な時間は正しく積み重なり、ゆっくりと、静かな眠りが二人を覆った。




