Rhapsody Ⅶ: 破滅のプレリュード
――露の砂は冷たく、夜の色彩は澄みきっていた。
海から上がる風が、見えない手で砂丘を撫でるたび、無数の粒子が薄く流れて灰にほどける。
黒より深い空には星が溶け、月は遠く、氷果のように冷たく吊られている。
島影は低く、海鳴りは呼吸みたいに一定で、世界の輪郭は余計なものを捨てたまま、ただ静かに息づいていた。
「……お星さま、きれい」
「――ああ、本当に」
風の温度がわずかに変わるのを肌が拾い、潮の匂いには砂鉄の冷たさが混ざる。繋いだ手の脈は落ち着いていて、星は増えもしないし減りもしない。世界は静かに、正しく、二人の速度で進んでいた。
あれから二人は、少し離れた砂丘に寄り道をして、ただ砂の波の中で寄り添って座っていた。
肘が触れ、肩が寄り、繋いだ手の体温だけがこの夜に置かれている。
少女の髪は月白にほどけ、風のない空気の中でも、星の光を受けてかすかに揺れるように見える。
目の前には砂の地平、頭上には光の天蓋。交わす言葉は少なくても、満ちているのが互いへ伝わっていく。
――。
――突如、二人だけの空間に別の空気が混じる。
風の流れが一度だけ、逆向きに撫でつけられるように折れる。
砂の面に圧し殺された音がひとつ落ち、遠くでは、砂が靴に削られる鈍い摩擦が規則で揃えられたみたいに近づいてくる。
夜気の密度の中に、複数の人間の呼気と、命令の抑揚が混ざる。
彼らの視線は、まるで二人を見つけたかのように固定されていた。
ルナは少しだけ首を傾げると、気のない視線をそちらへ流す。
表情らしい表情はないのに、彼女の顔には邪魔をされそうな時だけに生じる微かな不機嫌が混じっていた。
「……ユウ」
「ん?」
「……あれ、わたしたちをみてるよ」
「――ああ」
月の線を背にするようにして、複数の影が砂丘の背から降りてくる。
手の中に浅い器――平たい水盆を掲げ、その水面にかすかな光を走らせていた。
言葉は抑えられているが、足取りは急き立てられている。視線はひとつに固く結ばれ、その影は砂上で輪を作るように展開していった。
優朔とルナは、動かない。あんなものは、二人にとって星を見ることをやめる理由にはならなかった。
「伝水鏡を起こせ。本部に座標を送れ」
「了解」「詰めすぎるな、間合いは保て。正面警戒、魔装を開始せよ」「待機命令。視線の固定は禁じる」
命令と呼応が、短く飛び交う。
――その音と光景には、一切の興味がないのに。優朔の内側に、初めて感じる”負の感情”が芽吹いていた。
膠着の中、輪のうちのひとりが沈黙の膜を破るように前へ出た。その声は乾ききっていて、夜の底に落ちないように硬さで支えている。
「――貴様らに確認したい。数日前、ここから北方の古い遺跡に近づいた者が複数、突如として消えた」
発言のあとに瞼を閉じた男は、一瞬の拍を置き、再び視界を開いて続ける。
「――お前たちが関わったのか?」
その問いに、ルナは小さく首を傾げて優朔と目を見合わせた。
遺跡のことなら当然知っているが――近づいた者の行方など、優朔は知らなかった。
だが、少しの間を置いて沈黙を破ったのは――
他でもない、ルナだった。
「……あぁ、前のおうちのこと……?」
ようやく思い当たったという顔で短く言葉を落として、少女は傾げた首を戻す。
「……それなら、ユウとの思い出をよごしたくないから……あそこに近づいたら、きえるようにしたけど……」
――。
――瞬間。
場の緊張が強まり、水面が震えだした。輪の内側で、誰かの呼吸が詰まる。別の誰かの指が、水の縁を強く握って白くなる。
怒号に近い命令が一つ起こり、それは引き金となって飛び交い始める。
「――警戒しろ、奴の挙動から目を離すな!」
「交戦の可能性は極めて高いぞ、本部へ増援要請を送れ!」
「正面は遮蔽を立て、残りの者は背後から取り囲め!」
――。
――美しいだけだったはずの夜は、騒がしさに塗りつぶされていく。
くだらないものに費やす、くだらない時間。
久しぶりに味わう感覚に、優朔は吐き気を催さずにいられなかった。
彼はひとつだけ息を深く吸うと、内側でそれを落とした。月は変わらず、星は変わらず、繋いだ手の温度も変わらない。
その上で、少女との時間を邪魔をされているという事実だけが、彼の心の中で摩擦を強めていく。
「――で、用件は?」
ここで初めて発した彼の声は、砂よりも乾いていた。
誰かのために柔らげる必要がなくなった声は、先ほどまでとは打って変わった冷たさを滲ませている。
「手短にしろ。お前たちのせいで星が見えないんだよ」
輪の端で、短い苛立ちが跳ねた。正確には、怒気ではない。焦りと恐れの混ざり合いが、怒りに似た形になって出る。
「――ふざけるな!」
「貴様が連れているのは天地を脅かす可能性すらある怪物だぞ! 今すぐに差し出すのだ――!」
「両手を頭の後ろへ組んで跪け。抵抗の素振りを見せれば、その瞬間に――」
――優朔には、そんな妄言を最後まで言わせる理由などなかった。
言葉が終わる前に、優朔は隣の少女へ顔を向けて口を開く。
「――ルナ。もう抑えなくてもいいんじゃないか? こいつら以外、周りに人間もいないし」
「……いいの? ……じゃあ、そうする」
ルナが無表情に頷いた直後――空気の“質”が変わった。
音が消えたわけではない。光が増えたわけでもない。ただ、夜という器が、彼女のための形に戻る。
世界が人間のために廻るための安全装置が外れ、「作られた普通」がふっと消える。
最初に狂ったのは、視線を向けていた者だった。
「うっ……ぐぁぁぁぁぁぁぁ!!!」「……っ、目を――見るな、と言って――あ、がっ――」「ぐぅ、どこを見ればいいのだ――あぁ、大量の砂が、落ちてくる――」
見ていたつもりのものが、視界から意味を失う。輪郭と輪郭のあいだにあるはずの距離が壊れ、近いはずの仲間は嘘のように遠くなり、遠いはずの月が、手の届く高さに落ちてくる。
息を吸うことが手順としてわからなくなり、目を閉じることにさえ届かない。
逸らしていた者には、遅れがあるだけだった。砂を蹴る音が乱れ、印の線が途中で崩れる。水面は深く沈み、光は底を失って形のない暗へと溶けた。
誰かが「見るな」と叫ぶ。別の誰かが「逃げろ」と叫ぶ。
だが、見ないという選択は、もう遅い。見てしまったものは、世界の側を壊す。
「距離を――間合いを、保て……っ」「退け、退けッ、視界を切れ!」「砂が、上から……いや、上は――どっちだ――?」
近づこうとしていた者たちは、一人、二人と砂へ倒れた。遠い方の影たちは、混乱を抱えたまま、後ろへ下がる。
命令は途切れ、砂の上で散り散りになっていく。誰一人としてこちらには届かず、届こうとした者ほど大きく崩れる。
強く恐れ、混乱し、理解を諦め――残った者だけが、海鳴りのほうへ逃げた。砂丘の稜線の向こうに全ての影が消えるまで、時間はそう要らなかった。
心の中に渦巻いていた負の感情が、静かさを取り戻していく。
――音が、戻ると、潮騒は呼吸に帰り、風は砂の表皮だけを優しく撫でる。星は欠けず、満ちもせず、二人の頭上に均等に並ぶ。
ルナは何もしていない。ただ、抑えていた「普通」を外しただけだ。
首を傾げ、前髪の向こうでまばたきをし、繋いだ手を確かめるように指を絡め直す。
横顔は無表情で、しかし、機嫌は少しだけ戻っている。
「――なんだったんだ、あいつらは」
残ったのは、単純な疑問だけ。
「……ユウ、かえろ」
「ああ、そうだな」
――そう。
あんなものは、彼が見てきた「くだらないもの」と、何も変わらなかった。
関心を持つだけ無駄な、数ある雑多のうちの一つだ。
優朔は立ち上がり、砂を払う。ルナは立ち上がる動作すらなく、彼の動きに合わせていつもの高さを揃えるだけだった。
繋いだ手はそのままに、指先を夜と夜の継ぎ目にそっと置く。
砂丘の上には、風と海鳴りだけが残る。
月は高さだけを保っていて、星はいつも通りに遠い。
ルナが手を翳すと、行きと同じ境界が何もない場所に創られていく。
創られた扉は静かにひらき、境界もまた、静かに開かれた。
二人は星明かりの中を通って、調和された世界へと帰っていく。
――世界は何も変わらないふりをしたまま、静かな破滅の予感だけが渦巻いていた。




