Rhapsody Ⅵ: 仮初のパストラーレ
朝の空気は、まだ冷たさの輪郭を保っていた。
寝具の皺、薄く折れたカーテンの影、テーブルに残るコップの輪染み――どれも昨夜の余韻の続きで、今朝の始まりだった。
俺たちは、手を繋いだまま玄関に立つ。汚れなど一切付着しないようだが、ルナは俺に合わせるように、昨日から靴を脱ぐことを覚えた。
「さて、行く場所は決まってるけど、どうやって移動しようか」
「……どこに、いくの?」
「ルナと出会った国だよ。あそこは静かで景観もいいからな」
「……ん……じゃあ、わたしがつなげるよ」
「……繋げる?」
俺の問いに、ルナは空いている方の指先でそっと扉に触れる。音はない。だが蝶番の向こう側で、別の気配が呼吸を変えた。木目の間に、見たことのない深さが開く。
表面は同じ扉なのに、向こう側だけが別物になったことが気配でわかる。
「……これで、いつでも……ユウとわたしが、いきたいところにいける」
驚きという感情は、もう起きなかった。
しかし、今回、ルナはただ扉に触れただけだ。
――ともすれば、この規模の力ならあの「詠唱のような何か」すら要さないということだろうか?
「――ま、いいか。ルナの力がどう在ろうと、ルナはルナだし」
独り言のように呟いて、前髪の上から頭を撫でると、ルナは目には見えない「よろこび」を帯びて身を寄せてくる。
「行こうか」
「……うん」
繋いだまま、息を合わせて扉へ力を込める。
空気だけが向こう側へ滑り、表面と内側の重なりが静かに入れ替わる。境界が一枚めくられるのを確かめて、俺たちは扉を開いた。
◇
――扉を越えた先には、石畳の大通りがゆるやかに広がっていた。
両脇には花で飾られた窓や色鮮やかな屋根を持つ建物が並び、店先には果物や布地が整然と並べられている。
人影はほどよく、人の声と靴音、それに遠くで奏でられる古楽器の音だけが静かに重なっていた。
あるのは雑踏の喧噪ではなく、どこか牧歌的な温かさを含んだ街並み――そんな、異国の商店街だ。
「……ここが、にんげんのまち?」
ルナは首を小さく傾げ、無表情のまま輪郭だけで興味の薄さを示す。前髪の奥で、視線は揺れない。
「ああ。人間が来る店が集まった場所だよ」
「……ふーん」
ルナは興味がなさそうだ。
俺も同じ気持ちだった。だがその露骨さに、わずかに苦笑が混ざる。
「俺たちがここに来たのはあいつらを見物するためじゃないから大丈夫だよ。行こうか」
「……うん。……ユウといっしょだからいく」
互いに、握った手を少しだけ強くして、歩みを進める。歩くたび、石畳の継ぎ目が、規則的に足裏へ積もっていった。
挨拶を投げてくる者もいるが、ルナはちらりと見るだけで音を返さない。
練習の効果は充分だった。怯える人間は現れず、彼女の正体に気づく者はいない。重力は彼女の髪を地上へ落としている。
「よし、これなら大丈夫そうだな。さすがルナだ」
「……えへ。……ちゃんとできてる?」
「ああ、周囲に変化も起きてないし、後ろの髪もちゃんと落ちて人間と同じ挙動になってる。完璧だ」
「……ユウのおしえかた、じょうず」
「ルナのためだからな。――どうだ? 初めての街は」
「……ユウといっしょだから、たのしい」
その言葉の輝きは、景色の価値を一瞬で引き上げた。俺にとっても、ここの”美しさ””はそれだけで成立している。
路地はところどころで幅を失い、張り出した庇と露店の影が道幅をさらに細くする。肩と肩の間を縫うたび、繋いだ手の温度が確かめられる。
ルナはその狭間で、蝶の羽みたいに軽く、華やかな動きで、俺の側へひらりと寄って躱す。すぐに何事もなかったかのように歩幅を揃えて、そのたび、月白の長い髪が俺だけに触れて揺れた。
俺が誰かと当たりそうなときは、もっと早い。絡めた指がきゅっと締まり、もう片方の手が袖口をぐいと引く。そしてその力が、やけに強い。力の強さの話ではなく、引き方とそこに込められた意思が、強い。
引かれた先で俺の腕が彼女の肩に触れ、体温だけが短く移る。
もちろん、自分で避けられるのに、とは思う。けれど、なぜだか悪い気はしなかった。
二つの影は重なって、またすぐに並んだ。
今度は、広場の端で灰色の子猫が鳴いた。人の流れの隙間を縫って、真っ直ぐにこちらへと歩いてくる。
猫はルナに興味があるようで、彼女の足元へ近づく。ルナは視線だけを落として、わずかに首を傾げる。
「……ユウ、これなに?」
「猫だよ。世の中には、人間以外にも色々と生き物がいるんだ」
動物が好きなわけではないが、昔から、人間よりは遥かにマシだった。
動物は、人間に比べれば純粋な存在だ。
「……ふーん」
ルナの興味はそこで途切れたらしい。彼女は手の温度をそのまま保ち、視線を俺に戻す。猫は前髪に隠れた“視線”を一瞬だけ受け止めたように身じろぎし、次の瞬間には俺の足もとへと進路を変えた。
くるりと尾を巻いた猫の体が、俺の足首のあたりに触れようとした瞬間。
――彼女から発せられる空気の温度が半度、下がった。
何かをするわけではない。ただ首を傾げ、じっと、凝視する。
猫は肩の筋肉を震わせ、弧を描くように遠ざかっていった。
「……あれ、きらい」
――これはもしかすると、「やきもち」というやつだろうか。
だとしたら――ああ、やっぱり可愛いとしか言いようがない。
しかし、それならば。
ルナの性質から考えると、よく何もせずに済ませたものだ、とも思った。
「優しいな、嫌いなのに逃がしてあげるなんて」
「……だって、にんげんは簡単に『いのち』をこわさないんでしょ?
……こわしたら、ユウとのやくそくをやぶっちゃうから」
「……そっか。ルナは偉いな」
頭を撫でると、彼女はわずかに頬の温度を上げて続ける。
「……それに、あれはにんげんじゃないんでしょ? ……なら、ユウからすぐはなれたし、いい」
――なるほど。要するに、人間と動物の差異を彼女なりに感じ取ったらしい。
人間だったら、どうしていたのだろう。
歩を進めると、路地角の露店で花が束にされていた。白、薄桃、深い藍。
束ねられた茎に朝の水滴が一つ、まだ残る。
「……きれい」
「そういえば、ルナはあの時花を咲かせて見せてくれたもんな。人間の本で見たのか」
「……うん。
……ユウにきれいなもの、みせたかったから」
二人の会話が静寂の中に積もるなか、風が花の匂いをほどいていく。その甘い香りに、別の〝甘い匂い〟が薄く混ざる。
風が過ぎると花の匂いは遠ざかって、足取りだけが変わらずに続いていた。
◇
太陽は街の白を少し温め、影の角は丸くなる。石畳の目地に光が溜まり、行き交う人の気配は一定の厚みを保ったまま薄まったり濃くなったりを繰り返す。
人間には一切興味を示さない彼女が、歩きながら何かをちらちらと見ていることに気づいた。
視線の先を追うと――向かう先は、ケーキに、パイに、ドーナツ。どれも「甘い食べ物」だ。
――そういえば。昨日、自分が作ったお菓子を、ルナが美味しそうに食べていた光景を思い出す。
もしかすると、それで甘い食べ物に興味を持ったのかもしれない。
「ルナ、気になるなら食べてみるか?」
「…………」
視線に気づかれていたことを知り、恥ずかしいのか少し俯くと、前髪が影を深くする。
「……いいの?」
「ああ。当たり前だろ、デートなんだから」
「……うん。
……ユウがかってくれるなら、たべる」
視線の先を読み取り、俺は通りの先で人の気配が薄い店を選ぶ。古い木の扉、ガラス越しの菓子が規則の良い密度で並ぶ洋菓子店。銅のポット、かすかな壁時計の匂いに、バニラやはちみつの香りが重なる。
「そうだな――よし、あそこの洋菓子店に入ろう。スイーツの種類が多いし、今は他の客もいないみたいだ」
ルナの前髪の奥で、光が静かに跳ねる。
「……ユウ、ありがとう」
胸の下あたりにそっと額を押し当て、軽く抱きついてくる。
人目はどうでもいいが、自分の鼓動の方が相変わらずうるさい。頭を撫でてそっと体を離すと、代わりに手を繋ぎなおす。
店の扉を押すと、鈴の音が短く転がった。
「いらっしゃいませ~」
女の店員がこちらに目を向け、定型文を告げる。
「ルナ、どれがいい?」
「……」
ルナはガラスケースの中を正確な速度で見比べていく。丸いもの、層のあるもの、粉砂糖の雪が積もったもの。教えてはいない名辞が、彼女の中で“見た目”として整理されていく。
この様子からして、どれにも興味があるのだろう。
「何個でも選んでいいんだぞ」
「……ほんと? でも……」
俺にしか聞こえない小ささで、迷いの音が落ちる。
「……ぜんぶにしたら、ユウとのでーとがおわっちゃう」
――なるほど、気にしていたのはそっちか。金でも量でもなく――「時間」の終わりのほうを危惧していたらしい。
「――別に、全部買ったからってデートが終わるわけじゃないけど、それなら一個にしておいて他の店も行くか?」
「……!」
ルナの喜びが、空気の密度を薄くする。
「……うん……それがいい」
店員は、横目にその光景を見やり、微笑を添えて口を開いた。
「注文はお決まりですか?」
「…………」
ルナがこちらを見る。俺の言葉を待っているのだろう。
しかし、俺は手を握る力の強さをほんの少しだけ変えて頷くだけで、言葉は使わない。
これだけでも、ルナにはきっと伝わる。
ルナはゆっくりと前を向き直し、少し考えたあと、指をひとつ、ケースの上へすっと差し出した。
「……これ」
練習したまま、人間のトーンと声色でそう告げる。
店員は笑顔で頷くと、トングで選ばれたパイを紙に包んでいった。
ルナは両手でそれを受け取って、ぺこり、と小さく頭を下げる。
――。
支払いを済ませて店を後にすると、ルナはすぐに俺の方を見つめて何かを訴えてくる。
「よくできたな、偉いぞ」
頭を撫でる。
「……うん。
……ユウにおしえてもらった、から」
「ほら、食べないと冷めちゃうぞ」
「……たべて、いいの?」
「ああ、もちろんだ。ルナのために買ったんだから」
「……うん」
包装紙から顔を出したパイを、ルナは丁寧に一口かじる。小さな口が、規則を守って動く。
飲み込んだあと、少し首を傾げて呟く。
「……おい、しい……?」
その問いは、自分の感覚を探す子どものそれに少し似ている。
おそらく、昨日食べたお菓子と比べて「甘くない」ことを不思議に思っているのだろう。
「もう一口、真ん中のところを食べてみてくれ」
「……? ……わかった」
不思議そうな顔で、言われたとおりにもう一度、かじる。
ぴくり、と少女の背が小さく跳ねた。前髪の下と髪の色に、驚きが走る。
「……おいしい。……とろって、なにかでてきた」
「それはカスタードパイって言って、中に甘いクリームが入ってるお菓子なんだ」
「……かすたーどぱい」
「気に入ったか?」
「……うん。……ユウ、ありがとう」
ルナはパイを口に運びながら、空いている方の肩でこちらに寄る。甘い匂いが肌をかすめ、砂糖の微粒が空気の中で静かにほどける。
いつものように、頭を撫でる。さらさらとした髪が指を流し、掌はその都度、彼女の温度を受け取っていた。
◆
時は正午を少し過ぎた。影は短く、白が強くなる。
いくつかの店で、ルナは甘いものを一つずつ選んだ。どうやら、ルナには満腹という概念もないらしい。
食べる速度と所作も一切乱れない。俺が横で見ている限り、彼女は「美しい食べ方」しか知らないかのようだった。
通りでは、子どもが水撒きのホースで小さな虹を作っていた。微細な水の膜に陽が入り、街路樹の葉に色が散った。
「ルナ、デートはどうだった?」
「……たのしかったし、たくさんうれしかった」
言葉の選び方には一切の嘘がない。
「――そうか。俺もだ、連れてきてよかった」
「……また、つれていってくれる?」
「もちろん。それに、今度は違うところにも行こう」
「……うん」
頬の温度をわずかに染めて、口角がかすかに緩む。
午後の光は、やがて金を帯びて斜めに傾きだす。
「帰ろうか」
「……かえっても、またずっといっしょ?」
「ああ。また一緒にご飯を食べて、一緒に眠ろう」
「……じゃあ、これも、このままだね」
彼女は繋いだ手を見つめ、満足の形をそこに見いだす。
二人の影が石畳の上で重なり、ゆっくりと並んで伸びていく。
――風が一度だけ、後ろから前へ押し返されるように流れた。誰も手を触れていないのに、白壁の高窓の奥で、皿ほどの水面が深く沈み、静かに戻るのが視界の端で揺らめく。
名もない石の室で、淡い光を宿した水面が一枚、息をひそめて波紋を刻んだ。
海風が通り、通りには何もなかったように香りだけが置き去りにされる。
時が静かに重なっていく中で、次の頁へ進む気配だけが、確かなものとして息づいていた。




