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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第二部 闇の皇子と緋色の花嫁
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番外編 隠された瞳―2

 食堂からは良い匂いが漂ってきていた。そう言えば今日は朝食抜きだった、そんなことを思い出す。とたん音を立てようとするお腹を押さえると、あたしは人目を忍んで近衛隊の詰め所へと近づいた。朝から昼に移り変わるこの時間帯は、廊下にも人が多いから危ない。

 父の部屋は……確か、入り口から三つ目。

 幸い、先ほどの騒ぎのせいで、皆そちらに気をとられているらしい。〈侍女〉一人を気に掛ける人間は居なかった。

 あたしは、周りを確認しつつ、部屋の中へと滑り込む。父がいないのは分かっていた。――さっき、シリウスと一緒に居るのを見かけたから。


『スピカ!』


 鼓膜にその声が張り付いたようになっていた。いくら頭を振っても取り除くことは出来ない気がした。

 連行されるシュルマをあたしだと思って、縋るような瞳で、まるで血を吐くように叫んでいたシリウス。

 あたしは、その姿を外宮の入り口でじっと我慢して見つめていた。手のひらに爪の形がつくくらいに、拳を握りしめて。

 あたしのドレスを着たシュルマも、振り向いてその顔を見せるわけにもいかず、固まっていた。あの場に居た人間は皆、あの声に凍り付いていたかに見えた。

 答える事の無い〈あたし〉に絶望して立ち尽くすその姿は、あまりに痛々しかった。

 昨日のあの言葉、あれを全部撥ね付けたに等しいのだ。

 本当は……違うのに。

 受け入れてもらえなかったと彼はきっと思うだろう。

 ふとどうしようもなく重苦しい不安が胸をよぎる。


 ――もし、シリウスが諦めちゃったら……。


 可能性が無いわけは無い。

 だって、あれだけ精一杯の言葉を拒絶されたら。あたしだったら、もう諦めてしまいそうだった。

「ああ、どうしよう、あたし――」

 ――それほど自信があるの?

 シェリアの嫌みな声が聞こえた気がした。――自信なんかあるわけないじゃない! あたし、そんなに美人じゃないし、髪だってこんなだし、貴族でもないし、父さんはあれだし、変な力も持ってるし……、とにかくあたしにあるものって言ったら……シリウスが好きだって言う、この気持ちだけ。これだけは負けない自信はある。でもそんな一方的なものが、彼をつなぎ止めることが出来るのかどうか……あたしには分からない。

 急激に恨みたくなる。

 罪を被れと言った陛下、入れ替われと言った父さん。あと彼らの頼みを受け入れた自分を。


 こんなのって理不尽だ。

 彼のため?

 でも、どうしてそこまでしなければいけないの。どうして苦しんでいる彼を助けてはいけないの。彼はそんなことをしなくても、十分皇子に相応しいと思うのに。

 八つ当たりとは分かっていても、あたしは父に文句を言いたくなっていた。



 あたしに昨夜知らされた作戦――それは、あたしとシュルマの入れ替わり。あたしが手を使えないことを父さんが心配して、陛下もそう心配して、シュルマが身代わりになることになっていた。それはすでに決定されたことだった。そんな心配されること自体が不安で、止めてと言ったけれど、無駄だった。シュルマは華麗なナイフさばきを見せてあたしを絶句させた。あたしは知らなかったけれど、宮にいる〈侍女〉は万が一のために訓練されていて、兵ほどではないにしろ十分に戦力を見込んでいるそうで。

 ともかく、あたしは、今朝、扉越しに外に居た兵に向かって打ち合わせ通りに自供した。

 そのあと、突然の事に慌てふためく兵によってグラフィアスが呼ばれ、シュルマはあたしの代わりに牢へと連行されていったのだ。

 グラフィアス――あの妙に親身になってくれた近衛隊の人は、昨日「シリウスから離れる方法」を念入りに教えてくれた。このまま罪を認めれば――と勧めてくれた。だからかしら? 今日自供した時もさほど驚きもせずに、あっさりと受け入れた気がする。

 彼は彼の言葉をあたしが受け入れて、シリウスから離れる覚悟をしたものだと思い込んだようだった。なぜだろう、そう頑に思い込んでいるように見えた。そのおかげで入れ替わりを全く疑わなかったのかもしれない。

 シュルマが身支度をしている間、部屋の前でシリウスがグラフィアスと言い争っているのが微かに聞こえた。

 何を言われたのか……傷ついたようなうめき声が微かに聞こえ、シリウスが絶句しているのが分かった。

 きっと、ある事無い事吹き込んだのだろう。あたしはグラフィアスの口を塞ぎたくなった。



 父はしばらくして戻って来た。その手には昼食と一包みの着替えが抱えられている。

 昼食は当たり前のように二人分。

 あたしがいることは打ち合わせ通りだった。

 父は、部屋の隅から茶器を取り出すと、あたしの前にどんと置く。あたしは父の顔を睨みつつも、それでお茶を入れ、父の前に差し出した。

 まず事件について聞かれると思っていたけれど、あたしの顔があんまりに酷かったのだろう。父の口から出て来た言葉は別のものだった。

「文句がありそうな顔をしているな?」

「当然でしょ。あれじゃ、シリウスがあんまりよ」

 自分の事は棚に上げてあたしは文句を言う。八つ当たりだと分かっていても止まらない。

「どういう心境の変化なんだ? 昨日の朝のあの顔からは想像できないが」

 眉を上げる父。さすがに事情は詳しくは説明できなくって、不貞腐れると、父はすかさず決めつけた。

「さては、昨晩何か言われたか。……まったくお手軽なヤツだ」

「お手軽って……」

 顔が引きつる。やっぱりそう見える?

「痴話喧嘩に周りを巻き込むな。迷惑だ」

 父は不愉快そうに眉をひそめると、そう呟きながら昼食の包みを開く。ふわりと香辛料の香りが漂った。父は揚げた鶏肉をそこから取り出し、口に放り込む。

「痴話げんか? そんなのと一緒にしないで! 昨日は、深刻だったの! でも……誤解だったんだもの!」

 あたしが強い口調で言い返すと、父は心底呆れたようだった。

 うう……確かに先日のあたしの様子を知ってる父さんになら、この変わり様は呆れられても仕方が無いかもしれない。

「お前もなあ……ほんとにアイツのこと分かってるのか? いちいちアイツのする事に傷つくようだったら、本当に止めておいた方がいいぞ? アイツは 基本的に甘ったれなんだ。しかも自分でそう思ってなくて、悪気が無いところがたちが悪い。これからもお前を傷つける事は多いに決まってる」

「父さん!」

 あたしは口の前で人差し指を立て、父を睨む。

 主君に向かって言う言葉ではない。しかも声が大きすぎる! 薄い壁の向こうで誰が聞いてるか分からないというのに。

「お前を嫁にする男なら、俺の息子だろう?」

 躾けるのに文句があるか、と父は続ける。

 あたしは目を丸くする。

 しつけって――文句あるに決まってるでしょ!

「立場ってものがあるでしょう? シリウスは皇子で、あたしも父さんも臣下なんだから」

 あたしがそのことでどれだけ苦しんでると思ってるのかしら。

 思わずため息をつく。

「お前は、それを考え過ぎだ。シリウスもそれは望んでない。確かに人の目があるところでは考える必要もあるだろうが、二人の時までそれじゃあ、アイツも可哀想だ。なんでそれを分からない? だからこんな風にこじれるんだ」

「あたしのせいだって……言うの」

 思ってもみない非難の言葉にあたしは衝撃を受ける。

「ああ。こういうのはどっちが一方的に悪いってもんじゃないだろう。アイツも悪いし、お前も悪い。―― 子供ガキの喧嘩はこれだから」

「ガキ?」

「ああ、子供だ。お前もアイツも。……それじゃあ、もう困るんだとよ」

 複雑そうに呟く父の顔を見ていて、はっとする。

「だから、なの?」

 あたしとシリウスの間にまるでわざともうけられたような溝。その溝は、あたしとシリウスだけを分けていたわけではない。

「そうだろうよ。陛下もそう・・考えられたんだろう」

 父は少し恥じるようにそう言いながら、懐から手紙を取り出す。昨日あたしが受け取った手紙と同じ上質な白い封筒だった。

「父さんも頂いたの?」

「ああ。さっきな。面会手続きに行った時に渡された。散々詫びられて――頼み込まれたよ。あのお覚悟を知れば、もう何も言えなかった。あの方も変わられた。それだけ歳を取ったという事か」

 一瞬酷く切なそうな顔を父がしたような気がしたけれど、瞬きをした後見ると、それは夢のように消えていた。


「で? どうするつもりだ。別にいいんだぞ、このまま逃げても」

「……え?」

 逃げる? 何を今更。

「陛下直々に、『逃げてもよい』って言われているんだ。もうこんなチャンスは無いぞ?」

 父はまっすぐにあたしの顔を見つめていた。

「……」

 あたしは父に覚悟を問われているのだと、気づく。

 これが、最後のチャンス。

 妃となってシリウスの隣に居続けるか、それとも、平凡な幸せを手に入れるか。


 ――母さん。

 ふと母の顔が目に浮かぶ。幼い頃の事だから、はっきりとは覚えていないはずなのに、なぜかくっきりとそれは浮かび上がった。

 あたしは、母の行けなかった道を行こうとしている。きっと待ち受けるのは、今度の事なんて比べ物にならないくらいの厳しい茨の道だろう。あたしは……その道がいくら辛くても選ばざるを得ない。血を流してでも行く事を止められそうにない。


 たとえ一瞬でもいい、

 どうしようもなく幸せだと感じることが出来るなら。

 このときのために生きてるんだって感じられるなら。


「もう、いくら泣き言を言っても、逃げられないぞ? 陛下はだからこそ、このチャンスを下さったんだからな」

 だめ押しのように父は言う。その瞳は、言葉とは裏腹に懇願するかのように揺らめいていた。

 父は、本当は、一緒に逃げて欲しいと……そう思ってるのかもしれない。母のように、平凡でも幸せな家庭を築けと、そう言ってるのかもしれない。父はあたしが泣くところなんてきっともう見たくないのだ。

 それでも、父はあたしの意志を尊重しようとしてくれている。いつだってそうだった。

 だから、あたしは父の前ではもう泣けない。


「あたしは……もうシリウスから逃げない」

 あたしは父の目を見据えてはっきりとそう言った。

 たとえ、この間みたいなことがあったとしても。

 今度こそちゃんとシリウスを信じる。彼から逃げたりしない。


 父はその目を伏せると、大きなため息をついた。

「分かった。……覚えておくぞ、今の言葉? いいな? ――お前は、あいつを選んだんだ」




 午後の強い日差しが少しだけ開いた窓から注ぎ込んできていた。窓辺に居たせいで、あたしの背中はいつの間にかずいぶんと暖まっている。

 あたしは黙々と昼食を食べると、空になった器を見つめ、そして父に尋ねた。

「これから、どうすればいいの?」

 父はすでに食べ終わり、午後の仕事に備えて身支度を始めていた。

「ん? ああ。今夜にでもヴェガ様のところに行ってもらう。シュルマとしてな。さすがにしばらくは大人しく籠ってろ。皇子がお前のぬれぎぬを晴らしてくれるまでは、まだ〈犯人〉なんだからな」

 ――籠ってろ? 意外な言葉に目を剥く。

 じゃあ、〈あれ〉は?

 あたしは父の隣に置いてある濃紺の軍服がずっと気になっていた。じっとそれを見つめて尋ねる。

「じゃあ……それは、何のために用意してるの」

 それを指差す。てっきり、あたし用だと思っていたのだ。

 あたしがうずうずしているのを分かってるのだろうか、父はニヤニヤと笑っていた。そして問いには答えず、壁に向かって呟く。心底面白そうな顔をしていた。

「皇子は、面会に行くらしいぞ、牢の〈お前〉に」

「……」

 あたしは無言でぐしゃりと手元の包み紙を握りしめた。

 じわりと鶏肉の脂が紙から染み出して指に移り、べとりとした感触が手のひらに広がる。

「多分、謝りにいくんだろうな。さっき少し突ついて置いたし。あと、昨日散々心配していたからな、おそらく寝ずの番でもする気なんじゃないか?」

「……」

 父を見る目が険しくなるのが自分でも分かる。

 突いたって―― 一体、何を言ったのよ!

 長年のことで、想像がつくところが嫌だった。父は男には容赦しないし。

「シュルマ相手にいろいろ訴えるんだろう、あの様子じゃ。いい見物だろうな。見れないのが残念だ」

 がははと豪快に笑う父に、あたしは思わずぐしゃぐしゃに握りしめた包み紙を投げつけた。父は軽くそれを受け止めると、あたしを睨む。

「……ったく、素直じゃないな。さっさと下さいって言えよ。その格好じゃ、牢に近づくには目立つからな」

 父はそう言うと、笑った表情のままで、軍服をあたしに向かって放り投げた。


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