偽りの春 終幕
――炎は、すべてを呑み込んだ。
赤々と燃え上がるその夜、天狐組の本拠と、女郎屋――紅蓮楼は、ことごとく灰と化した。
黒煙が夜空を焦がし、屋根瓦が落ちる音が、あたかも時代の終焉を告げる鐘のように響いていた。
翌朝には、瓦礫の山だけが残されていた。
天狐組は、多くの組員が行方知れずとなり、頭目も、参謀も、柱を失い――もはや組織としての体を成せぬありさま。
町方の詮議を待たずして、自然と解体の運びとなった。
その頃――
焼け落ちた楼の裏手、小さな丘の上にて、お蝶はひとりの娘と再会していた。
かの娘こそ、あの嵐の晩、薄衣に身を包み震えていた、哀れな猫のような姿であった少女こはるである。
今やその面差しには、かすかな紅を差したような柔らかな光が宿っていた。
目尻に宿る翳りは薄れ、年頃の娘らしい艶と健やかさを取り戻している。
お蝶は、その様子に満足げな眼差しを送り、微かに口角を上げて囁いた。
「お前さんも、どうか達者でね……」
花街の女とは思えぬほど、人間くさい笑みだった。
それは、情けをかけた女ではなく、共に修羅場をくぐった女同志の別れにふさわしいものだった。
こはるは深く頭を下げ、やがて顔を上げると、満面の笑顔を浮かべて言った。
「本当に……ありがとうございました。いつか、お蝶さま。旅の途中に、わたしの村へお寄りくださいませ。母も、村の皆も、きっと心より歓迎いたします」
「それは……嬉しいこったねぇ」
柔らかな花魁言葉のなかに、微かな情が滲む。
こはるはもう一度頭を下げると、名残惜しげに振り返りつつ、しかし晴れ晴れとした足取りで坂を下っていった。
その背を見送るお蝶の眼差しに、一抹の寂しさが浮かぶ――されど、それも束の間。
「……ふっ。さて、次の舞台はどこだろねぇ」
背後に控える黒子が、静かに頷く。
このあと、女郎たちは散り散りに運命を歩むこととなる。
故郷に帰る者。
新たな里を目指す者。
行き場も定かでなく、ただ風まかせの者もおろう。
お蝶もまた、その一人。
だが、彼女には黒子がいる。
彼女には仇討ちという道がある。
それが、たとえ果てしなき旅であろうとも――
その旅立ちに先立ち、彼女はひとつ、果たすべき後始末が残っていた。
向かうは、代官屋敷。
未だ焼け跡の臭いの残る町の一角を抜け、風に裾を揺らしながら、お蝶は進んでゆく。
黒子は、何も言わず、その一歩後ろをぴたりとついていた。
陽は高く、空はやけに蒼かった。
◇ ◇ ◇
時は夕暮れ。
日は西に傾き、朱に染まる光が、かつての栄耀栄華を象徴した代官屋敷を仄かに照らしておる。
されど、今はその館、人っ子一人寄りつかぬ――まるで魑魅魍魎の棲まう亡者の巣のように、静まり返っていた。
門は軋み、風が吹くたび、障子がカタカタと鳴る。まさに打ち捨てられた亡者の居城である。
お蝶は、静かにその門を潜った。
すぐ後ろには、黒装束の黒子が影のように従う。
やがて、大きな椋の古木の根元に辿り着く。
ここが、あの男の悪行の証が眠る場所――そのことを、誰よりもよく知っていたのは、ほかならぬお蝶だった。
「……始めるよ、黒子」
その一言に、黒子は黙って頷き、用意していた鋤を手に取った。
ふたりは黙々と、地を掘り返していく。乾いた土は固く締まり、ところどころに根が絡んで手間取るも、やがて――
ごそり、と音がして、土の下から人の手が覗いた。
蒼白な指先。爪にはまだ紅が微かに残る。
そっと土を払いのけると、そこに現れたのは、お千代の変わり果てた顔だった。
その貌は、かつての憂いと可憐さを残しつつも、血の気ひとつなく、まるで仏のように静かだった。
お蝶は、無言で目を伏せ、手向けの香の代わりに、そっとその額に指を当てる。
「よう……見つけてやったよ、お千代」
さらに掘り進めると、そこには無数の骸が現れた。
白骨化したもの、まだ腐肉を纏うもの、衣の一片を留める者――どれも娘の骸である。
口を裂かれ、肋を抉られ、臓腑を喰い破られた無残な屍ども。
これこそが、代官の私欲と淫慾の果てに、生贄となった娘たちの末路であった。
お千代の体には、そのなかにあって唯一、臓腑を抉られた痕がなかった。
代官が生き血を啜り、お紺が肝を喰らっていたことまで、お蝶は知る由もなかった。
最後の犠牲者になったお千代は、お紺が不在であったがために、肝を喰われずに済んだのだろう。
「……血を抜かれ、肝まで啖われるとは……」
お蝶は低く呟いた。
「人の所業じゃないねぇ。鬼よりも、おぞましい……」
黒子は何も言わぬ。ただ、黙って穴の底を見つめていた。
――その視線は、過去への鎮魂ではなく、未来へ向けられていた。
やがて、お蝶は腰を上げ、ゆるりと立ち上がる。
目を細め、遠くを見やると、瓦礫の向こうに夕陽が沈みかけていた。
凄惨なる墓穴の前にて、
お蝶と黒子は、しばし沈黙のうちに佇んでいた。
数多の無念を呑み込んだその土の上、風も声を失い、只々、時だけが静かに流れてゆく。
黒子は黒子として、音ひとつ立てず、影のごとく地に膝を折った。
お蝶はそっと掌を合わせ、祈るように目を伏せる。
「……浮かばれておくれよ」
それは、この世に残る者の願いであり、
この世に縋る魂への最期の手向けであった。
やがて、お蝶は手を伸ばし、屍となりしお千代の髪に差されていた、ひと筋の簪をそっと引き抜いた。
それは紅を基調とした、つつましやかなる細工物で、
生前の彼女が、どこか誇りと照れを持って髪に挿していたものだった。
「……預からせてもらうよ」
お蝶はそれを懐にしまうと、まるで胸に遺志を抱くようにそっと手を添えた。
それは戦に敗れた魂を慰め、形見として胸に刻む、彼女なりの弔いであった。
やがて、地を踏みしめる音がひとつ。
静かに立ち上がるお蝶の双眸が、空へと向けられる。
そこには――
ひとひら、またひとひらと、花びらが舞っていた。
見上げれば、大椋の傍らに根を張る一本の桜。
その枝には、時ならぬ花が咲き誇っていた。
美しき哉。
儚き哉。
だがそれは、人の血肉に養われた呪われし桜。
あまたの娘たちの怨嗟と涙とを根に吸い上げて。
この世に似つかわしからぬほど妖しく、枝垂れる桜が紅に染まり、常ならぬ時節に妖艶に華を咲いていた。
仄暗い地の底にて。
かつてこの世に生き、声を発し、笑い、涙した女たち。
ある者は望まず売られ、ある者は抗えず奪われ、いずれも哀しみの名もなき者たちであった。
その中にあって、お蝶はひときわ綺麗な顔をした骸に目をとめた。
お千代――
代官の狂気に最期の犠牲を払った、優しきあの娘。
この桜が、もはや仇の証でなく、供養の象徴とならんことを――
それだけを、心の底より願った。
空は澄み渡り、冬の気配は近いというのに、
今日もまた、昨日に劣らぬ強き陽射しが地を照らす。
まるで、この町の空だけが季節を間違えたように。
まるで、嵐の過ぎ去った町に、春が戻ってきたかのように。
だが、お蝶は知っている。
これは――真の春ではない。
血で咲き、死で染まった、偽りの春であることを。
そして、静かに立ち上がる。
見上げた先に咲くは、血を吸い、恨みを吸い、それでもなお美しき華。
まるで、誰かの涙が育てたような、儚くも誇らしき命の花。
「……黒子、行こうかい」
黒子は一礼し、静かに従う。
ふたりの背を、陽の光が包む。
――風が吹いた。
季節外れの暖かな風。
桜の花びらが、まるで女たちの声のように宙を舞った。
お蝶は一歩、また一歩と歩き出す。
後ろには、黙して従う黒子の影。
その影が、だんだんと遠ざかっていく。
誰にも見送られず、誰にも知られず。
ただ、風と陽光と、舞い散る花びらだけが――
ふたりの旅路を、静かに見送っていた。
この町からは、嵐が去った。
だが、彼女たちの歩く先には、まだ知らぬ闇が息を潜めている。
◇ ◇ ◇
◆ 終焉詞◆
命は咲いて、散るものか
それとも
誰ぞに咲かされ、誰ぞに踏みにじられるものか
春は偽り
だが、それでも
ひとときの花は、美しい
泣くことなき者にも、涙は流れ
語らぬ者にも、心はある
罪は土に還り
願いは風に乗る
いずれまた、どこかの世で
桜の下にて、逢えましょう――
── 偽りの春 完 ──




