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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
偽りの春
10/22

偽りの春 終幕

 ――炎は、すべてを呑み込んだ。


 赤々と燃え上がるその夜、天狐組の本拠と、女郎屋――紅蓮楼は、ことごとく灰と化した。

 黒煙が夜空を焦がし、屋根瓦が落ちる音が、あたかも時代の終焉を告げる鐘のように響いていた。


 翌朝には、瓦礫の山だけが残されていた。

 天狐組は、多くの組員が行方知れずとなり、頭目も、参謀も、柱を失い――もはや組織としての体を成せぬありさま。

 町方の詮議を待たずして、自然と解体の運びとなった。


 その頃――


 焼け落ちた楼の裏手、小さな丘の上にて、お蝶はひとりの娘と再会していた。

 かの娘こそ、あの嵐の晩、薄衣に身を包み震えていた、哀れな猫のような姿であった少女こはるである。


 今やその面差しには、かすかな紅を差したような柔らかな光が宿っていた。

 目尻に宿る翳りは薄れ、年頃の娘らしい艶と健やかさを取り戻している。


 お蝶は、その様子に満足げな眼差しを送り、微かに口角を上げて囁いた。


「お前さんも、どうか達者でね……」


 花街の女とは思えぬほど、人間くさい笑みだった。

 それは、情けをかけた女ではなく、共に修羅場をくぐった女同志の別れにふさわしいものだった。


 こはるは深く頭を下げ、やがて顔を上げると、満面の笑顔を浮かべて言った。


「本当に……ありがとうございました。いつか、お蝶さま。旅の途中に、わたしの村へお寄りくださいませ。母も、村の皆も、きっと心より歓迎いたします」


「それは……嬉しいこったねぇ」


 柔らかな花魁言葉のなかに、微かな情が滲む。

 こはるはもう一度頭を下げると、名残惜しげに振り返りつつ、しかし晴れ晴れとした足取りで坂を下っていった。


 その背を見送るお蝶の眼差しに、一抹の寂しさが浮かぶ――されど、それも束の間。


「……ふっ。さて、次の舞台はどこだろねぇ」


 背後に控える黒子が、静かに頷く。


 このあと、女郎たちは散り散りに運命を歩むこととなる。

 故郷に帰る者。

 新たな里を目指す者。

 行き場も定かでなく、ただ風まかせの者もおろう。


 お蝶もまた、その一人。

 だが、彼女には黒子がいる。

 彼女には仇討ちという道がある。

 それが、たとえ果てしなき旅であろうとも――


 その旅立ちに先立ち、彼女はひとつ、果たすべき後始末が残っていた。


 向かうは、代官屋敷。

 未だ焼け跡の臭いの残る町の一角を抜け、風に裾を揺らしながら、お蝶は進んでゆく。

 黒子は、何も言わず、その一歩後ろをぴたりとついていた。


 陽は高く、空はやけに蒼かった。



 ◇ ◇ ◇



 時は夕暮れ。

 日は西に傾き、朱に染まる光が、かつての栄耀栄華を象徴した代官屋敷を仄かに照らしておる。


 されど、今はその館、人っ子一人寄りつかぬ――まるで魑魅魍魎の棲まう亡者の巣のように、静まり返っていた。

 門は軋み、風が吹くたび、障子がカタカタと鳴る。まさに打ち捨てられた亡者の居城である。


 お蝶は、静かにその門を潜った。

 すぐ後ろには、黒装束の黒子が影のように従う。


 やがて、大きな椋の古木の根元に辿り着く。

 ここが、あの男の悪行の証が眠る場所――そのことを、誰よりもよく知っていたのは、ほかならぬお蝶だった。


「……始めるよ、黒子」


 その一言に、黒子は黙って頷き、用意していた鋤を手に取った。

 ふたりは黙々と、地を掘り返していく。乾いた土は固く締まり、ところどころに根が絡んで手間取るも、やがて――


 ごそり、と音がして、土の下から人の手が覗いた。


 蒼白な指先。爪にはまだ紅が微かに残る。

 そっと土を払いのけると、そこに現れたのは、お千代の変わり果てた顔だった。


 そのかんばせは、かつての憂いと可憐さを残しつつも、血の気ひとつなく、まるで仏のように静かだった。


 お蝶は、無言で目を伏せ、手向けの香の代わりに、そっとその額に指を当てる。


「よう……見つけてやったよ、お千代」


 さらに掘り進めると、そこには無数の骸が現れた。

 白骨化したもの、まだ腐肉を纏うもの、衣の一片を留める者――どれも娘の骸である。


 口を裂かれ、肋を抉られ、臓腑を喰い破られた無残な屍ども。

 これこそが、代官の私欲と淫慾の果てに、生贄となった娘たちの末路であった。


 お千代の体には、そのなかにあって唯一、臓腑を抉られた痕がなかった。


 代官が生き血を啜り、お紺が肝を喰らっていたことまで、お蝶は知る由もなかった。

 最後の犠牲者になったお千代は、お紺が不在であったがために、肝を喰われずに済んだのだろう。


「……血を抜かれ、肝まで啖われるとは……」


 お蝶は低く呟いた。


「人の所業じゃないねぇ。鬼よりも、おぞましい……」


 黒子は何も言わぬ。ただ、黙って穴の底を見つめていた。

 ――その視線は、過去への鎮魂ではなく、未来へ向けられていた。


 やがて、お蝶は腰を上げ、ゆるりと立ち上がる。

 目を細め、遠くを見やると、瓦礫の向こうに夕陽が沈みかけていた。


 凄惨なる墓穴の前にて、

 お蝶と黒子は、しばし沈黙のうちに佇んでいた。


 数多の無念を呑み込んだその土の上、風も声を失い、只々、時だけが静かに流れてゆく。

 黒子は黒子として、音ひとつ立てず、影のごとく地に膝を折った。

 お蝶はそっと掌を合わせ、祈るように目を伏せる。


「……浮かばれておくれよ」


 それは、この世に残る者の願いであり、

 この世に縋る魂への最期の手向けであった。


 やがて、お蝶は手を伸ばし、屍となりしお千代の髪に差されていた、ひと筋の簪をそっと引き抜いた。


 それは紅を基調とした、つつましやかなる細工物で、

 生前の彼女が、どこか誇りと照れを持って髪に挿していたものだった。


「……預からせてもらうよ」


 お蝶はそれを懐にしまうと、まるで胸に遺志を抱くようにそっと手を添えた。

 それは戦に敗れた魂を慰め、形見として胸に刻む、彼女なりの弔いであった。


 やがて、地を踏みしめる音がひとつ。

 静かに立ち上がるお蝶の双眸が、空へと向けられる。


 そこには――


 ひとひら、またひとひらと、花びらが舞っていた。


 見上げれば、大椋の傍らに根を張る一本の桜。

 その枝には、時ならぬ花が咲き誇っていた。


 美しき哉。

 儚き哉。


 だがそれは、人の血肉に養われた呪われし桜。

 あまたの娘たちの怨嗟と涙とを根に吸い上げて。

 この世に似つかわしからぬほど妖しく、枝垂れる桜が紅に染まり、常ならぬ時節に妖艶に華を咲いていた。


 仄暗い地の底にて。

 かつてこの世に生き、声を発し、笑い、涙した女たち。

 ある者は望まず売られ、ある者は抗えず奪われ、いずれも哀しみの名もなき者たちであった。


 その中にあって、お蝶はひときわ綺麗な顔をした骸に目をとめた。

 お千代――

 代官の狂気に最期の犠牲を払った、優しきあの娘。


 この桜が、もはや仇の証でなく、供養の象徴とならんことを――

 それだけを、心の底より願った。


 空は澄み渡り、冬の気配は近いというのに、

 今日もまた、昨日に劣らぬ強き陽射しが地を照らす。


 まるで、この町の空だけが季節を間違えたように。

 まるで、嵐の過ぎ去った町に、春が戻ってきたかのように。


 だが、お蝶は知っている。


 これは――まことの春ではない。

 血で咲き、死で染まった、偽りの春であることを。


 そして、静かに立ち上がる。

 見上げた先に咲くは、血を吸い、恨みを吸い、それでもなお美しき華。


 まるで、誰かの涙が育てたような、儚くも誇らしき命の花。


「……黒子、行こうかい」


 黒子は一礼し、静かに従う。

 ふたりの背を、陽の光が包む。


 ――風が吹いた。

 季節外れの暖かな風。

 桜の花びらが、まるで女たちの声のように宙を舞った。


 お蝶は一歩、また一歩と歩き出す。

 後ろには、黙して従う黒子の影。


 その影が、だんだんと遠ざかっていく。

 誰にも見送られず、誰にも知られず。


 ただ、風と陽光と、舞い散る花びらだけが――

 ふたりの旅路を、静かに見送っていた。


 この町からは、嵐が去った。

 だが、彼女たちの歩く先には、まだ知らぬ闇が息を潜めている。



 ◇ ◇ ◇



終焉詞しゅうえんのことば


命は咲いて、散るものか

それとも

誰ぞに咲かされ、誰ぞに踏みにじられるものか


春は偽り

だが、それでも

ひとときの花は、美しい


泣くことなき者にも、涙は流れ

語らぬ者にも、心はある


罪は土に還り

願いは風に乗る


いずれまた、どこかの世で

桜の下にて、逢えましょう――



  ── 偽りの春 完 ──

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