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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章

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真実 5



――私は、誰を犠牲にしたりしない。

あの人も。

自分自身も。

テアはそう決めた。

迷いはもうない。

母も、言っていた。

『私は自分を犠牲にしたことなんか一度もないわよ』

テアはずっと、口にしなくても思っていた。

自分がいなければ、母がこんな苦労をすることはなかったと。

けれど母は敏かった。

テアがうじうじと考えていたことはお見通しで、からりと笑っていた。

テアがいるから、今が一番幸せなのだと。

それが百パーセント本当のことだったとは、思っていない。

きっと、テアを恨むことだってあったはずだ。

それでも母はいつでも笑って、テアを愛していると伝えてくれた。

テアの幸せを、願ってくれた。

それも、本当のこと。

その気持ちを、母は大事にしていた。

だからテアは、その願いを叶えたい。

テアを産み、愛してくれた母のために。

テアは、幸せにならなければならないのだ。

――そのために、私はあの男の罠から逃れなければならない。

いかなる手段をもってすれば、それができるだろうか。

テア一人の力でこの窮地を乗り切るのは無理だ。

だが、最も身近な協力者である学院長は現在学院を留守にしている。

いや、仮に学院長が学院にいたとしても、協力を仰ぐことは難しかっただろう。

ハインツはあの日最後にテアに口止めをした。

他の人間に下手に漏らせば、彼は容赦なく情報を流すつもりでいる。

おそらくエッダも同じように脅されていて、あんな風に接触してきたのだろう。

知られないようにしてやったぞと、喧嘩を買うような調子でわざとあんな手を使ったのかもしれない。

いずれにせよ、監視されていることは間違いなかった。

動くにしろ細心の注意を持って行動しなければならない。

何より。

――私は、覚悟を決めなければならない。

誰かを巻きこまねばならないことに対して。

この秘密を、打ち明けなければならないことに対して。






「おうおう、いいねえいいねえ、ショパンかよ」

レッスンが始まるより前からテアがピアノの前に座って集中していると、笑いながらエンジュが練習室に入ってきた。

「勇ましいじゃねーの」

と、彼は練習室の椅子に無造作に腰掛け、そのピアノに耳を傾ける。

止められないのでそれに甘えて、テアは最後まで弾き切る。

「なんか気合い入れることでもあったのかよ?」

終わった直後に聞かれて、いつもながら鋭すぎる人だと思いながら、テアは頷いた。

「はい、少し」

「それは結構。じゃあ今日も気合い入れてレッスン始めるか」

「は、はい……」

それはもう少し気合いを緩めてほしい、とテアは引きつり気味に笑う。

院内コンクールが終わり、今は七月初めに行われる学年末試験の練習に入っている。

それと同時期、少し早い六月末に国際コンクールの一次審査があるので、並行してそちらの練習も進めているところだ。

練習時間はいくらあっても足りないくらいだが、入学してからのテアは常にそうであると言っても過言ではないので、無暗に焦ったりということはなかった。

エンジュとのレッスンの時間はいつも、余計なことを考えている暇がないくらいに、あっと言う間に過ぎていく。

「よし、じゃあ今日はここまでな。お疲れさん」

そしてエンジュのこの台詞が毎日のレッスンに終わりを告げる合図で、テアはいつも夢から覚めたような心地になるのだ。

「今日もありがとうございました」

律儀に挨拶をして、テアは筆記用具と楽譜をバッグに詰め始める。

その間にエンジュは練習室からさっさと出ていくか、窓辺で昼寝を始めるのが常のことだったが、この日彼は何故か床をごろごろと転がり出した。

もう少しで学年末を迎えるくらいの時期なので、それなりにエンジュとの時間を重ねているテアは、それくらいの奇行では驚かずに支度を進めていく。

「あー、もう明日か。めんどくさい、めんどくさい……」

ぶつぶつとぼやくのはひとりごとのようであったが、テアに聞こえるように言っているので、どうやらここは話を聞いていた方がよさそうだ、と彼女は判断して問いかけた。

「何かあるんですか?」

「記者に会う約束がある」

若いながら世界で名を馳せるエンジュのこと、記者を相手にするのはいつものことではないのかとテアは首を傾げる。

その疑問を解消するように、エンジュは続けた。

「お前のことが聞きたいんだってさー」

「え、」

「お前コンクール入賞したのにほとんど露出しなかっただろー? 入賞者として名前が載るくらいでさ。報道陣の欲求不満ときたらおっそろしい圧力を感じるくらいで、お前が駄目ならって俺んとこに取材申し込みが来るわ来るわ」

「それは……、申し訳ありません」

「全くだぜ。といっても、ほとんどは学院長が追っ払ってくれたんだけどな。問題はひとり、しつこくしつこくしつこくしつこくしつっこーく、纏わりついてくるようなやつがいてさー。学院長もとうとう折れて、俺に取材を受けてくるようにってさ」

エンジュはちらりと床下からテアを見上げた。

「そんな顔しなくても、上手くはぐらかしてくるって。学院長からもそうお達しが出てる。でもそれなら最初から会わなきゃいいじゃん。めんどくさい」

頬を膨らませる様子は、年上の男性にふさわしい形容か知らないが、可愛らしい。

ようするに、エンジュはただテアに愚痴りたいだけだったようだ。

「それにあいつ苦手なんだよなー。まくしたてるみたいに自分の話したいこと話しまくるくせに、自分の聞きたいこともしっかり聞いていきやがる」

学院長が了承したということはその記者は本当にしつこかったのだろうが、それだけでなく抜け目ないのかもしれない。

「つうかさー、夏のコンクールはお前、どうすんの? 院内コンクールと同じようには逃げられんぜ」

「……入賞できたら、の話ですから」

「するに決まってんだろ」

師匠の断言が重い。

「……学院長先生には、サイガ先生の仕事の都合で、私もそれについていくので、という言い訳で表彰式を終えたら速攻で逃げなさい、と言われているのですが……」

「ぶっは、マジかよ!」

「もし何か聞かれたら、先生の方針で今はお答えできませんと言えばいいと……」

「何だそれやっぱ俺が矢面に立たされる展開!? 聞いてねーんだけど! 学院長、コンクールへの参加半ば無理矢理ゴリ押ししたの根に持ってんな……」

ゴリ押しだったのか、とテアはそれを今この時初めて知った。

確かに、対応について話をした際、『まだ少し早いと思うんだがな……』と、テアといっしょに苦い顔をしていたが、最後には応援の言葉をくれたので、そんな背景があるとは知らなかったのだ。

「あしながおじさん」は一方、さあ行けと言わんばかり(というか、もっと柔らかい言い方だったが実際に言っていた)の笑顔であったけれども……。

「……ま、実際そんな嘘でもねえか。コンクール終わったらすぐ他国に行って演奏会だからな。夏休みの間はお前を色々連れてって修業させようと思ってたし」

それも初耳である。

が、エンジュが先のことを勝手に決めるのはもう今更なので、テアは何も言わなかった。

それを楽しみに思ったことも、確かであったので。

「あ、これ今後の予定な。見といて、なんか無理そうなところがあったら言え。まあ余程のことがない限り変更してやらねーけどな。改めて考えるのめんどくせーし」

「……」

これもまたいつものことなのでテアはコメントを返さず、エンジュが寄こした予定表を受け取った。

それを見てしまえば、文句など口にできなくなる。

そこには、院内コンクール終了後の、五月から八月までのエンジュの予定がびっしりと書き込まれていた。

こんなに忙しい中でテアのことも見てくれているのだから、文句の一つも言えなくなると言うものだ。

夏休みの予定など全く考えていなかったので、この予定に同行するのに問題はないと考えながらそれをじっと見ていたテアだが、頭の方に書き込みが付け加えられているのに目を留めた。

明日の日付にエンジュの言うとおり記者と会う予定が書かれているのだが、その記者の名前に覚えがあったので、わずかに目を見張る。

――ロルフ・ディボルト。彼か……。

ある冬の夜、遭遇した記者。それだけでなく、院内コンクールの際にも、その顔を見る機会はあった。

彼が、ディルクの記事を含め、多くの音楽家のことを記事にしているのを、テアは何度か読んでいる。

この時――、この記事を書いた人ならば、と思った。

少しだが、ディルクの口からもその名が出たことを覚えている。

油断ならない人物であるが、信用できない相手ではない、と感じていた。

「――」

ふと思いつくことがあり、テアはその内容を自分自身で吟味した。

ハインツへの対抗手段。

彼はメディアを持ち出し、テアの弱みをついてきた。

それに抗うためにメディアを利用するのは、有効な手段と言ってもいいのではないか。

メディアを、というよりロルフ・ディボルトの能力に期待する、とした方が正しいのかもしれないが。

「サイガ先生」

めんどくさいめんどくさい、と唸りながらごろごろ転がっている師に、テアは呼びかけた。

「あん? 何か問題あったか?」

「いえ、夏休みは空いているので、この通りに動けますが……」

と、テアの様子に何かを感じたのか、エンジュは身体を起こした。

「明日、同行しても構いませんか」

エンジュはその言葉に目を丸くする。

次いで彼は、テアを止めるでもなく、笑った。

「なんだよ、やっぱ今後のためにもインタビューの練習しとくのか?」

「多忙な先生をこれ以上煩わせるのは心苦しいですし……。少しくらいなら肩がわりできるかと」

「……良い心掛けだな、さすが俺の弟子。そんじゃ精々、よろしく頼むぜ」

「はい」

テアは笑う。

笑って頷く。

黄金の瞳が不敵に輝き、エンジュはそれを見てさらに目を細めた。

一体彼女に何が起きているのか彼は知らなかったが、かつてないほどに彼女が戦士のように思え、その姿を美しいと感じる。

――ディルクにも見せてやりたいぜ。

思ってエンジュは、残念だったな元弟子、と意地悪く心の中で呟いた。








先日から、親友の様子は少し、妙だった。

ローゼ・フォン・ブランシュはそれに、当然のことながら気付いていた。

特に昨日はそうだ。

日曜日で学院は休みだったが、ローゼが外出から帰ってみれば、今にも倒れそうな顔色で迎えられた。

一体どうしたのかと余程聞きたかったが、ローゼは詮索しなかった。

おそらくこの顔のテアは何も言わない、と分かったからだ。

そして、親友が言わないと心に決めたら絶対にそうすることを知っていた。

そうと分かっていて聞いてしまうことも度々あるが、やはりはぐらかされてしまう。

その代わり、いつもそうだが昨日もたっぷり心配して世話を焼いた。

おせっかいだと言われようが、過剰なくらいでないと親友は他人からの愛情をなかなか分かってくれないのだ。

そんな親友が、まさかこんな言葉を口にしてくれるなんて、ローゼは思ってもみなかった。

『ローゼ、助けてほしいことがあるんです』

夕食から部屋に戻って、すぐ。

親友は――テアは、まっすぐにその瞳をローゼに向けて言った。

昨日とは打って変わったような、力強い眼差しだった。

それに、是以外の答えを返すローゼではない。

彼女が今ここにいる理由は、まさにそのためなのだから。

ローゼが当然と首肯すれば、テアは泣きそうな顔で笑った。

胸が締め付けられるような、笑みだった。

『ローゼ、私はずっと、色んなことを黙ったままでここまできてしまいました……。ごめんなさい。でも、今から全部話します。聞いて、くださいますか?』

無理しなくてもいい、とローゼは言いたかった。

彼女が抱えているもののことを、ずっと聞きたかったのは本当だ。

それでも、無理に話をさせて辛そうな顔を見るよりは、黙ったままでも笑った顔が見たかった。

けれどこの時、テアが望んでいるのはローゼが頷くことだった。

だからローゼは頷いた。

『聞かせて下さい』

そう言った。

そして――。

全てを語り終えた親友は、ローゼの隣で眠っている。

『話、聞かれたら困ります、から』

テアがそう言ったから、並んでベッドに横になったのだ。

『誰にも聞こえないでしょう、この部屋の中には私たちだけなのに』

『念のためですよ』

『……懐かしいですね』

困惑を覚えたが、結局ローゼはそう笑った。

ベッドに並んで寝転べば、小さい声でも十分に相手の声は聞こえる。

ローゼは、語るテアの言葉を聞き漏らすことなく聞いていた。

その内容は、テアが話してくれる前から知っていたこともあったし、全く知らずにいて驚いたこともあった。

確かなことは、それらを全て、テアがずっと抱え込んできたということ。

この親友には脱帽させられる。

それ以上に、切なさを覚える……。

きっと、ずっと泣きたかったのはテアの方だっただろうに、涙を零してしまったのは、ローゼの方だった。

優しい指が、ローゼの涙を拭ってくれた。

今は眠ってしまった親友の髪に、そんな風に触れたかったけれど、せっかく眠っているのを起こしてしまうかもしれないと思えば気が引けて、ローゼはその寝顔を見つめるに止める。

テアがこの距離を許してくれたのはいつだっただろう。

互いに大切な家族だと信じ合えた日。

――きっと、守る。

ローゼは決意を新たにした。

今現在テアを苦しめようとしている相手への怒りと、テアへの思いと使命感が、彼女の瞳に炎を宿す。

――今度こそ、奪われはしない。




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