聖夜 16
夕刻――。
マーケットを楽しんだテアたち四人は、ロベルト・ベーレンス楽団の演奏会会場である劇場に足を踏み入れた。
客席が約二千ある大きなホールを持つ劇場には、まだ開場には早い時刻でありながら人がずらりと並んでいる。
「さすが……、人が多いですねぇ」
と、ローゼはやや呆れ顔だ。
「でも……、何だか皆さん楽しそうです」
他の三人と共にいれば問題ないだろうと、一旦怪しい視線のことは保留にして演奏会を楽しむことにしたテアは、周りを見渡しながら呟くように言った。
誰もが、開場を、開演を待っている。ロベルトの楽団の演奏を、待ち焦がれている。
その待つ時間すら期待に輝いているように感じられて、テアは何だか嬉しくなった。
こんなにも多くの人々を引き付け魅了しているロベルト・ベーレンス率いる楽団。
ここに、テアの「あしながおじさん」はいるのだ。
「あしながおじさん」を尊敬するテアが、誇らしく胸躍らせるのも無理からぬことであった。
そんなテアの様子に、腕を握られたままのディルクも何となく微笑ましいような気持ちになる。
劇場に足を踏み入れて、きゅっと少し力の籠ったテアの手のひら。
それは彼女の精神の高揚と、緊張を表していた。
今までに見られなかったようなテアの様子に、ディルクはまた惹きつけられる。
「少し時間より早いが……、そろそろ開場のようだな」
そのライナルトの言葉に、テアの横顔をそっと見守っていたディルクは前方に注目した。
劇場の案内を務める人間が、順番に客を通そうとしているのを認める。
「……いよいよ、か」
「楽しみですね」
テアに見上げられ微笑まれて、ディルクも「ああ」と眩い微笑みで返した。
ディルクも、テアとそう変わらない心持ちで、ロベルト楽団の演奏を心待ちにしていたのだ。
やがて――ロベルト楽団の演奏会は開演の時間を迎えた。
待ち構える聴衆の前に、奏者である楽団員と、合唱隊とが現れ……、最後に、指揮者であるロベルト・ベーレンスがステージに登場する。
その途端、ホールが壊れるのではないか、という危惧を覚えてしまいそうなほど、大きな拍手がホールに響き渡った。
それは、彼――ロベルト・ベーレンスの人気を表すものである。
ロベルト・ベーレンスは今年で四十を迎えるが、後ろに全て撫でつけられた髪は黒々としていて、まだ三十代前半のような若さを感じさせた。その紺青の瞳も印象的な光を宿していて明るい。穏やかな風貌で、ぱっと見た限りではどこにでもいそうな風体なのだが、その自信に満ちた堂々とした様子には、はっとさせられるものがあった。
そのように、聴衆の拍手をその身に受けるロベルト・ベーレンスだが、実はあまり格式ばったことが好きではない。コンサートでのマナーも、そこまで気にしなくてよいのではないか、と思っているところがあった。いつも、最初にステージに登場する時も、「皆さん来てくれてありがとう!」等々、叫びたいくらいなのだ。しかし、慣習と違うことをされると戸惑う聴衆の方が多いだろう――と周りに諭されていて、今回もしぶしぶ通例に従って楽団員たちの方へと身体を向けた。
そして、彼はおもむろに――タクトを振り下ろす。
拍手が鳴り止んだホールで、聴衆の期待に応えるように、音楽が、始まった。
――なんて重厚な……!
テアはびりびりと身体に響いてきた音に息を呑む。
音量は大きいものではなく、むしろ不安を煽るようなごく微量のものであるのに――。
ロベルト・ベーレンスの演奏会、その一曲目は、オネゲルの「クリスマス・カンタータ」。
オネゲルがその死を前に作り上げた彼の最後の作品で、その曲は混迷の時代に神が生まれ、それを讃える……というような流れになっている。
その最初の、どこか恐ろしくも感じられる音楽の世界に、聴衆はいっきに引きこまれていく。
ホールの前方よりの中央の席、演奏を楽しむのに最適な場所に座るテアたち四人も例外ではなく、その音に熱中した。
やがて、神が降臨する場面となり、神々しい旋律が現れる。優しい柔らかい歌声が登場する。
――この音の重なり……。
その心地良さに、全てを委ねてしまいそうだ。
ほとんどの人間が神への信仰を持つこの国で、テアはその唯一神の存在を信じていない。
救いの神がいるのならば……、その神は母を救うべきだった。母は救われるべき人だった。
もし神がいると信じたとしても、母を救わなかった、そんな神を敬うことなどできそうにない。
それなのに、神を讃えるこの曲に、心を揺さぶられるのは、矛盾しているだろうか。
矛盾はしない、とテアは思う。
国の人々が崇める唯一神でなくても、テアにはテアの"神様"がいる。それはたったひとりではなく、それは母であり、かけがえのない友人たちであり、テアを支えてくれるたくさんの人々だ。
温かい人々の顔が脳裏に描かれる。
感動的に響き渡る音色に、テアは目頭を熱くした。
フィナーレへ向かい、曲は最高潮の盛り上がりを見せる。高らかな合唱、壮大なオルガンと管弦、身体をいっぱいに使ってタクトを振る指揮者……。
そして、静かに曲は終幕を迎えるのだ。
テアは肌が粟立つのを感じた。
この曲も、楽団員の能力も、いずれも素晴らしい。その全てをまとめあげ己の音楽の世界をこうして見せつけるロベルト・ベーレンスの手腕はやはり、確かなものだった。
再び、大きな拍手が会場を包む。
テアも、ディルクたちもその中で同じように、熱に浮かされたように手を叩いていた。
「豪華なプレゼントをもらっちゃいましたね――」
演奏会が終わって、ローゼが最初に口にしたのはそんな一言だった。
「クリスマス・カンタータ」が終わり、二曲目、三曲目、アンコール曲、と演奏会はあっと言う間に予定の演目を終え、客席は名残惜しげに席を立つ客たちのためにざわついている。
ローゼの台詞に他の三人は深く同意して、なかなか席を立つことができなかった。
まだ演奏の余韻に浸っていたかったし、演奏会が終わってしまったということを信じたくないような気持ちもあったのだ。
音楽を学ぶ彼らにとって、実りの多い演奏会だった。
その多彩な表現力、完璧な演奏、どれもが。
思い返す度に、思い出の中でさえ圧倒的な音の奔流に飲みこまれそうになる……。
だが、いつまでも居座り続けているわけにもいかない。
そろそろこの重たい腰を上げなければと、四人が思い始めた時だった。
「……テアお嬢さん!」
よく通るテノールの声が、テアの名前を呼んだ。
テアは顔を上げ、右手の方から近付いてきた人影に目を止めて、立ち上がる。
テアにとって見覚えのあるその人物は、気さくに手を振りながらやって来て、テアは微笑みを返していた。
「フューラーさん!」
「ご無沙汰してます。お元気でしたか」
ちょうどテアたちの座る席の後ろが通路になっていたので、その人物はテアの後ろ側までやってくると、背凭れを挟んで、軽く会釈してみせた。
「はい。フューラーさんこそ……」
「俺の方は相変わらずです。今日は、いらしてくださってありがとうございました。あの人、朝からソワソワしてずっと落ち着かなくって、普段緊張なんて全然しないのに、緊張しまくりだったんですよ。お嬢さんのおかげで面白いものが見れました」
にかっと爽やかに笑うその青年は、名をアロイス・フューラーという。
狐色の髪に同じ色の瞳を持つ、やや童顔の持ち主だった。
かっちりとしたスーツを身につけているが、どこか服に着られているような、そんな印象がある。
「……で、そちらのお三方がお嬢さんのご学友さんですか」
「あ……はい。紹介します」
テアは突然現れた人物に驚いている三人に視線で謝意を示し、テアと同じように立ちあがった仲間たちを順番にアロイスに紹介した。
「……それから、こちらがロベルト・ベーレンス楽団のアロイス・フューラーさんです。私の、後見人の方と旧い付き合いで……」
「どうも、今日はわざわざ足を運んでくださって、ありがとうございました。楽団のメンバーと言っても、俺は演奏なんてからきし駄目で、雑用一般を任されてるだけなんですが、よろしくお願いします」
テアが紹介し、本人が請け負った通り、アロイスはロベルト・ベーレンス楽団の一員であり、「あしながおじさん」の付き人でもある。だから、彼はテアのことを知っていて、「お嬢さん」と呼ぶのだ。
「それにしても、噂には聞いていましたが、皆さん衆目が痛いくらいですね」
ずばりとしたその台詞に、ディルクたちは苦笑を零すしかない。
しかし、何故だろう、このアロイスという青年、どこか得体が知れないところがある――とローゼ、ディルク、ライナルトの三者は感じた。ぱっと見は、どこにでもいそうな、人の良さそうな青年だが――隙が、ないのだ。只者ではなさそうだ、と三人はちらりと視線を交わしあった。テアの様子を見る限りでは、そうそう警戒はしなくてよさそうだが、かといって油断できそうにもない。
それにしても、「噂には聞いていた」というが、その噂をした主というのはテアのことなのだろうか、とディルクは首を傾げる。今回の演奏会のチケットに関して、テアは後見人が送ってくれたのだと言った。それならば、やはりテアはロベルト・ベーレンスに縁があるのかと密かにディルクも思っていたのだが、アロイス・フューラーの登場を見る限り、その通りであったようである。ローゼのようにテアから直接、後見人が楽団の一員だと聞いていないディルクはそう納得した。
「……と、あんまり無駄口叩いていると怒られるな……。俺はメッセンジャーを仰せつかってきたんでした。テアお嬢さんに、これを」
言って、アロイスが取り出したのは、小さな白いメッセージカードだった。
「是非今開けてやってください」
「はい……」
「あしながおじさん」からだ、とはテアには言わずとも知れたことだった。
テアはディルクたちに断ると、少し戸惑ったように二つに折られた紙を開き、その中身に目を通す。
やがてその瞳が驚きに見開かれ、アロイスを見上げていた。
「フューラーさん、これは……」
「はい。我が主は、皆さんを楽屋に招待したいと仰せです。貴重な時間を奪ってしまうことになり申し訳ありませんが、是非、立ち寄っていってくださいませんか」
大仰にアロイスは言ってのけた。
その台詞に驚いたのは、ディルクたち三人も同様である。
「楽屋に!?」
「ええ。是非、テアお嬢さんとそのご友人に会いたい、と言っております」
「どなたが…?」
それは分かりやすく推測できることだったが、突然の展開にローゼは確認せずにはいられなかった。
「それはもちろん、先ほどまでステージ上にいた、テアお嬢さんの後見人、保護者である人です。直接自分の口で演奏会に来てくれた礼を言いたいと、わがままを言ってましてね。ただ、さすがに客席に来させては色々と騒がしくなりそうなので……、申し訳ありませんが、皆さんに足を運んでいただきたく」
やれやれと、アロイスは肩を竦めて見せる。
直接的な彼の表現に、ディルクもライナルトもやはり、と思うしかない。テアの後見人は、ロベルト・ベーレンスに関わりが深かったのだと。
「忙しい学生さんを引き止めるものじゃありませんと、一応忠告はさせていただきましたが……」
「いいえ、とんでもない! 楽団の方とお会いできるチャンスなんて、そうそうありませんから、むしろ良い勉強になります」
ローゼは首を振ったが、横にいるテアの顔色を見て息を呑んだ。
テアは、手の中のカードを強く握りしめていた。掴み潰さないように――それでも、強く。その顔色は、薄化粧のため目立たないが、蒼白で。
ステージが良く見えるようにとかけられた眼鏡の奥で、黄金の瞳が非難の色を持って、アロイスを見据えていた。
「……行けません」
そんなテアの様子に、ディルクもライナルトも驚いて見守るしかない。
だがアロイスは穏やかな顔つきのまま、静かに問いかけた。
「何故です?」
「それは――」
テアは詰まった。
アロイスは、全てを知っているはずだった。テアが首を振る理由も、全て分かっているはずだ。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。あなたがた四人が揃っていれば、問題はありません」
その言葉の意味を、的確に把握しえたのは、テアだけだった。
「……でも……!」
「心配のし過ぎは身体に毒ですよ。俺も一応プロですし、あの人も馬鹿じゃない。どうぞ、お任せください。時には、自分に素直に、思うがままに行動してみることも大事です。お嬢さんは、あの人に会いたいですか、それとも、会いたくないですか?」
「あ……」
テアは手のひらの中のカードを見つめた。
アロイスの言葉に、完全に納得したわけではない、けれど。
「……会いたい、です……」
にこっとアロイスは微笑んだ。
「それでは決まり、ですね」
テアはふっと息を吐き、心を定めて顔を上げた。
「……すみません、皆さん、付き合っていただけますか?」
決然と告げたテアに、三人は当然、首肯する。
「それでは皆さん、俺に付いて来て下さい」
アロイスを先頭に、テアが続き、さらに他の三人が続く形で、総勢五人は関係者以外立ち入り禁止となっている廊下へと足を踏み入れた。
この時、謎めいたテアの後見人の顔がいよいよ拝めるのだ、というのがテアとアロイスを除いた三人の共通した思いである。もちろん、ロベルト・ベーレンス楽団の人間と対話できることを歓迎する気持ちも強い。
しかし、何故あんなにもテアは後見人に会うことを拒んだのだろうか。「会いたい」とテアが口にした気持ちは、嘘ではなかった。それならば、拒むことはない。アロイスの言うとおり、最初から素直に頷いていても良かっただろうに……。
毅然と目の前を歩くテアの背中には、一体どのような重みがあるのだろうか。
三人は、それへと思いを馳せずにはいられなかった。
「この階段を下りて、すぐですよ」
階段の前でアロイスは振り向いて、足元に気を付けてください、と注意した。
「……テア、掴まっていろ」
「は、はい……。すみません、ありがとうございます」
ディルクに腕を差し出されて、テアは素直に手を取る。
階段の段が高めだったので、躓いてしまうことが洒落にならない、という判断からであった。
そっと差し出されたテアの指先は、ひんやりとしていて、ディルクは彼女の緊張を知る。
ディルクはそんなテアの足元に気を配りながら、共に階段を下りて行った。
その、最後の一段に足をかけようとした時。
「――テア」
待ちかねていたように、階段を下りて短く続く廊下の、一番奥の部屋のドアが開いた。
はっと、テアは顔を上げる。
そこに立っていたのは、紛れもなく――。
「お……、」
テアはひゅっと一度、外に出ようとした言葉を呑みこんで。
「おじさん……!」
ディルクの腕を放し、思わず、大きく足を踏み出していた。
先ほどまでの逡巡は、今のテアの頭からは消え去っていた。
もうしばらく対面することはないはずだった「あしながおじさん」を目の前にして。
冷静なままでは、いられなかったのだ。
そして、彼女の「あしながおじさん」とても、会うことのままならないテアの姿を目の前に平静ではなく、ただ思いのままに、彼は大きく腕を広げていた。
「テア……!」
後見人と被後見人の絆で結ばれた二人は、温かい抱擁を交わす……。
それに、テアに追い抜かれた形のアロイスは苦笑を浮かべ、ローゼ、ディルク、ライナルトの三人は、瞠目したまま立ち尽くした。
ただ一言、テアの「あしながおじさん」を見つめて彼らはその名を呼ぶ。
「ロベルト・ベーレンス……」
と、そう――。




