決着 12
月と入れかわるように、太陽が昇る。
寝台の上、レティーツィア第三皇妃は、時を経ても変わらぬ美貌を、いつものように冷ややかな表情で固めていた。
そんなレティーツィアに近付いた彼女の侍女は、いつものように主の支度を始める。
レティーツィアが不機嫌であるのは常のことだが、昨日の今日で全く変わった様子を見せないとは、と侍女は軽い驚きの気持ちを持った。
白髪の混ざる黒髪の侍女はもう何十年もこの主に仕えていて、主のことならば何でも知っているように感じていたが、まだこんな風に驚かされることもあるのか、と思う。
宮殿に離宮に、賊が侵入してきたのは昨日のこと。
その際賊はレティーツィアにも手を伸ばそうとし、そこを兵たちに取り押さえられた。
レティーツィアには結果として怪我も何もなかったが、怯えを見せるのは当然のところ、彼女は平然としていた。
今も、昨日のことなどなかったかのように、いつもと変わらぬ態度である。
「あちらからの連絡はまだなの?」
「はい」
まるで責めるような問いかけに、淡々と侍女は返す。
返答に間を空けすぎたり、気に障るようなことを口にすれば、レティーツィアは容赦なく相手を打ち据えるのだ。
彼女の場合癇癪を起こして喚いたりということはないが、ただただ冷たい眼差しで、それをやってのける。
何度もその眼差しを見てきた侍女は、レティーツィアの意に沿う返答を身につけていた。
「昨日のことがあるから仕方ないとは分かっているけれど、今日中に全て終わらせなさい」
「御意」
寛容なふりを見せて、高飛車な言い方だ。
こういうところは、本当に、変わりがない。
赤味がかった鳶色の髪を梳りながら、侍女はそんなことを、思う。
その美貌も、二十を過ぎた息子がいるとは信じられない若さを保っているように見えるが、彼女の精神こそ全く変わりないように、侍女には感じられた。
四大貴族に生まれついたレティーツィア。
そのような教育を受けてきた、ということもあってか、彼女は自尊心が高く、何においても一番上の存在でなければ気が済まなかった。
だから彼女は皇妃となり、さらにその上の存在となろうとした。
国の女性の中で、最も尊ばれる存在。
国母に。
何十年も、彼女はその望みを抱いて生きている。
高みを目指すことを諦めない女性と形容すれば聞こえはいいだろう。
けれど、この主の「変わらない」姿は。
成長がない、ということではないだろうかと、侍女は心の中でそう、考えていた。
長年使えてきた主であるが――、そうであるからこそ、冷淡にも、侍女はレティーツィアを評する。
外見は美しく、磨くことを怠ってはいないし、知識教養もある。人を惹きつけ、動かせる力も持っている。
だがレティーツィアは、彼女よりずっと下の存在と彼女が考えている侍女が明白に分かることを、分からないのだ。
強い欲を野心を持ち、才覚と権力を持って生まれてしまった、哀れで愚かな主。
彼女はその野心を満たすことを何よりも優先し過ぎた。
自分の欲望のために、他人を利用し、他人を傷つけ。
それがゆえに、失ってしまったものに、気付いてもいない。
そして今も、彼女は続けている。
邪魔なものを全て排除して、罪もない者たちを大勢犠牲にして、彼女は手に入れようとしている。
それが、どんなに罪の深いことか、レティーツィアは知ろうともしないのだ。
だが、そんな主を諌めることもできない自分が、最も醜く卑小な存在であると、侍女は自嘲していた。
けれど、彼女に逆らい彼女を止めることなど、どうすればできたというのだろう。
その瞬間に主から死を与えられると分かっていて。
侍女である彼女にできたことは、主の命令を拒む自分の心を殺し、誰よりも従順となって、彼女の側で同じように変わらない毎日を過ごしていくことだけだった。
このまま変わらぬ日々が過ぎていくのだろうかと、侍女はしばしば自問する。
レティーツィアの支度を終え、彼女の前を辞した侍女は、城門へ向かう道の途中で、またその問いを繰り返した。
このまま、事がレティーツィアの思い通りに進むのならば、もしかしたら彼女がその欲を満たす瞬間も来るのかもしれないと。
けれど、事がレティーツィアの思い通りに進めば、逆にその時こそ彼女は本当に見限られるのかもしれない――。
その時、自分は、どうなるのだろうか。
ふと、行く道の先に影が落ち、侍女は顔を上げた。
目前に、皇帝の側近と近衛兵が立っている。
俯いて歩いていた彼女は、彼らがいつの間に自分に近付いてきたのか全く気付かなかったこともあって、虚を突かれて立ち尽くした。
皇帝であれば礼を失した態度だったかもしれないが、第三皇妃の側仕えである彼女にもそれなりの地位というものがある。
相手も咎める様子はなく、穏やかに切り出した。
「第三皇妃殿下のお使いですか」
「はい。あの……」
「お急ぎかとは存じますが、陛下の命です。申し訳ないが、ついてきていただきたい」
言葉は穏やかであったが、否とは言えない雰囲気だった。
侍女はまともに頷く間もなく、その雰囲気に圧倒されるように側近の後に続く。
変わるのかもしれない、と思った。
変わらないと思っていた日々が。
彼女が。
自分が。
変われるのかもしれない。
思い通りにならない毎日が、憂鬱で憂鬱で仕方がなかった。
――けれど、きっと、もう少しで、
レティーツィアはペンを置き、したためた手紙を丁寧に折り畳んだ。
ここを去ってしまった息子――ディルクへと向けて書き記したものを。
彼が戻ってくることを、レティーツィアは欠片も疑っていなかった。
息子は、皇族に生まれたという責任感が強すぎたのだ、と彼女は思っている。
実際にそういう面が大きかったのは、彼女の思い込みに寄らず確かなことだ。
それ故に、彼はきっと戻ってくる。
結局のところ、息子は責任を放棄したのだ。真面目な彼がそれに耐え得るだろうか。
否。
そうであるならば、彼が責任感に押し潰されず、皇族としての務めを果たせるようにする。
それが母親としての自分の務めであると、レティーツィアは考えていた。
まずはそれを邪魔するものを、消さなければ。
他の皇子たちがいるから、対立とそれによる混乱を避けて、彼はここを去った。
それならば、彼らを排除してしまえばいい。
一時は騒ぎになるだろうが、すぐにそれも治まるだろう。
皇子が一人になれば、取り得る選択肢は一つしかないのだから。
そうすればレティーツィアは、息子に何よりのものを与えてやれる。
皇子に生まれたものとして、手に入れるべきそれを。
玉座を、彼に。
そのために、他にも不必要なものは整理し、彼がここに戻った時のための準備を進めなくてはならない。
レティーツィアは現在、そのために惜しみなく彼女の持つ頭と力を使っていた。
時間はあまり、残されていない。
早く早くと焦りつつも、レティーツィアはこれまで慎重に慎重を重ねて動いてきた。
だが皇帝が退位の意向を示すのが、彼女の想定よりずっと早く。
皇太子ディートリヒが即位してしまえば、今以上に手が出しづらくなってしまう。
ここに来て、これまで以上に早急に動かねばと、レティーツィアは焦っていた。
早く、早く。
邪魔なものは全て消し去って。
必要なものを、ここに、取り返さなくては。
焦燥感に、日々胸が焼かれる思いだった。
だから、だろうか。
あまりそういうことを考えることが少ないレティーツィアだったが、その時その姿を目にして、彼女は現を夢と勘違いしそうになった。
しばらく誰も近付かないように言い置いていたのに、部屋のドアがノックされて。
感情のない声で返事をして、ドアが開けば、そこに。
ずっと会うことのなかった、成長した息子が、ディルクが、立っていた。
「母上、お久しぶりです」
立ち上がり、目を見開いて固まったレティーツィアに、静かにディルクは近付いた。
「お無沙汰してしまい、申し訳ございませんでした」
「ディルク……」
喘ぐようにレティーツィアは呼ぶと、夢ではないと確信して、息子に駆け寄った。
「ああ、ディルク! 戻って来てくれたのね! こんなに……、立派になって、」
感激に声を詰まらせる母に、ディルクは優しく微笑んだ。
「けれど、こんなに突然戻ってくるなんて。連絡しておいてくれれば、迎えの準備をさせたのに」
「申し訳ありません。昨日母上が賊に襲われたと聞いて、急いで駆け付けたのです。……お怒りになられるかもしれませんが、隠し通路を使い、許可を得ず来てしまいました。どうか、お許しください」
「まあ、そんな……」
「お怪我はなかったのですね。無理をしては……」
「相変わらず優しい子ね。大丈夫よ」
レティーツィアは今までの氷のような表情を捨て去り、極上の笑みを浮かべた。
昨日のことも彼女の苛立ちの理由であったが、今となっては感謝してもいいとさえ思う。
賊のことがなければ、昨日のうちに「あちら」の処理を進めておくことができたのに、それができなかったのだ。
自分の身に危険が迫ったことよりも、そのことでレティーツィアは苛々としていた。
あんな下賤な者がこの自分に触れられるものか――、という驕りがあったことも、あるけれども。
「座りなさい。何か、飲み物を用意させましょう」
「いえ、無事も確認できましたし、今はあまり長居できません。不法侵入が他の者に知られては、母上の迷惑に」
「そう、ね……。でもまたすぐに戻って来てくれるわね、ディルク」
その言葉に、ディルクは首を縦に振った。
「そのために、準備を進めてくださっているのでしょう?」
「ええ、もちろん!」
「学院で、あの男にも聞きました。私のために、母上が尽力してくださったことを……」
「あの、男?」
何故か、レティーツィアはその時背筋に寒気を覚えた。
ディルクは微笑んだまま、続ける。
「私のために、母上が学院においてくれた男です。テア・ベーレンスのこと、母上が関わってくださったのでしょう。昨日の騒ぎでまだ報告が来ていませんか? 接触する機会があったので、話をしたんです。それで、上手く連絡が取れない、城で何か起きたのかもしれない、と聞き……。心配になってここに来て、賊の侵入を知ったのです」
「そう……だったの」
許した者以外には決して話さないように徹底させたつもりだったが、口を開いたのか。
相手がディルクだったから良いが、とレティーツィアは心中で男への呪詛の言葉を吐き出した。
だが、あの男が話したということは、実行の段階で何かしら起きたのかもしれない。
早急に詳細を知らなければと、レティーツィアは考えた。
だが、ディルクの言葉からすると、計画はひとまず成功したようだ。
そう考えて、先ほど覚えた悪寒も忘れ、レティーツィアは笑みを深めた。
「母上からお手紙をいただき、心を痛めておりましたが、昨日のような場でもお側にいられず、申し訳ありません。ここから出ておいて簡単に戻るとも言えず、学院でも色々やり残したことがあって、なかなかお返事も出せませんでした。彼女のことも、気掛かりの一つで……。ですがまさか、彼女があのような、」
「ディルク……」
「ですから、母上には感謝しているのです。全て母上が、俺のためにしてくださったのですね」
「そんな、当たり前でしょう、ディルク。私はあなたの母親なのですもの。あの平民はそう、あなたにはあまりにも似つかわしくなかった。ふさわしいようにしてあげなければならないと思ったの。あの娘のことだけじゃない、ディルク、あなたのためならどんなことでもするわ。これまでもそのために手を尽くしてきたし、これからもそう。だって、あなたは未来の皇帝となる者なのですもの!」
立派に成長した息子を、うっとりと母親は見上げた。
端正な顔立ちを、均整のとれた体つきを、理想の皇帝の姿と賛辞する。
だがディルクは、母親の言葉に顔を歪めると、すっと身体を引いた。
それを合図にしたかのように、無遠慮に部屋のドアが開く。
さらには、部屋に繋がっていた隠し通路が開いた。
そこから部屋に侵入を果たしたのは、皇帝やその側近、ルーデンドルフ家当主、そして近衛兵たち。
突然のことに、何が起きているのかと、茫然と目を見開いたレティーツィアの前で、ディルクは口を開いた。
「――母上。そう呼ばせていただくのは、これで最後です」
「ディルク、何を、これは……!?」
「事は明白だろう、レティーツィア」
どこか憐れむように、けれど厳しく皇帝は告げる。
「昨日、シューレ音楽学院で一人の女生徒が重傷を負った。彼女を襲った男にそれを命じたのがお前だと、今自分で口にしただろう。例え皇妃であっても許されることではない。しかも、皇太子暗殺の疑いも浮上した。ここにレティーツィア第三皇妃を――いや、元皇妃を拘束する。連れていけ」
「何を仰います、陛下……! 無礼な、お前たちごときが私に触れるなど……! ディルク、ディルク……!」
レティーツィアは抗おうとしたが、屈強な男たちに叶うわけもない。
どういうことだと、レティーツィアは皇帝を、ディルクを見つめた。
それが分からぬほど彼女は愚かではなかったが、心が理解を拒んでいた。
どうして、どうして、どうしてと、同じ言葉を何度も繰り返す。
そんなレティーツィアを、ディルクは庇うこともせず、ただ見つめていた。
「……レティーツィア様、もうお会いすることもないでしょう。こんなお別れになってしまったことは残念ですが、どうか、お元気で」
告げるディルクの顔には、微笑みの欠片もなかった。
それにレティーツィアは、人生で二度目の絶望を覚える。
一度目は、ディルクが城を去った時だった。
そして二度目の今度こそ、彼女は本当に息子を失ったのだ。
だが、それすらもおそらくレティーツィアには理解できていなかった。
「ディルク……!」
ただ、絶望の声だけを響かせて、彼女は舞台から消えていったのだ。
「なんということだ……」
近衛たちがレティーツィアを連れて行った後、残されたルーデンドルフ家当主は真っ青な顔で呟いた。
「まさか、本当に、レティーツィアが……」
これまで彼は、レティーツィアの外面にずっと騙されてきたのだ。
皇帝に臭わされることがあっても、決して彼女がそんなことをするなどとは考えられなかった。
潔白であると信じていたのに、無邪気にも彼女はディルクを次の皇帝にと……。
「安心しろ、表沙汰にはしない。だが、今後も一層国のために務めよ」
「……陛下のご慈悲に、感謝いたします……」
「今日は休め。レティーツィアのことについては、後日使いをやる」
「はっ」
恭しく礼をしたものの、部屋から出て行くその足取りはどこか危うい。
そんなルーデンドルフ家当主に付き添うように、皇帝の側近も部屋から出て行った。
皇帝と二人きりの空間で、ディルクはそっと溜め息を吐く。
一瞬の出来事だった、と。
まだディルクが皇子だった時、ユスティーネがレティーツィアのせいで怪我を負った。
あの時にこうして自白を迫っていれば、あれから後傷つく者たちは出ずに済んだのに。
分かっていたのに、ディルクはずっと、躊躇っていた。
どんな人間でも、レティーツィアは彼の母親で。
どんな形でも、彼を愛してくれていたことに変わりはなくて。
自分という者は、臆病で、ずるい人間なのだと、ディルクは自嘲する。
かけがえのない者を傷つけてようやく、踏み切ることができるなんて。
何よりこの策は、犠牲になった者がいなければ使えない。
ディルクは、テアが怪我を負わされたことを、利用したのだ。
愛する人間を利用して、産みの母親を陥れた。
ディルクはこのことで、自分を許すことはないだろう。
「……よくやった、ディルク」
痛苦を耐えるようなディルクに、皇帝は重々しくそう告げた。
ディルクは苦い表情になるのを堪えながら、皇帝を見返す。
皇帝はきっと、ディルクの葛藤も苦痛も分かっている。
分かっていて、こう言うのだ。
「……ありがとう、ございます。私の処罰は、どうなりますか」
仕返すように言えば、皇帝は眉を寄せた。
「お前は市井へ下った身だ。入城の許可を得ていないお前がここにいるはずはない。レティーツィアとの繋がりもあの時に断たれていた。従って、ディルク・アイゲンはここにはおらず、彼女の犯行にも関わりはなかった。そうだろう」
皇帝の言葉に、ディルクは表情を照れくささを隠すようなものへと変化させた。
「……ありがとうございます、父上」
もう一度、今度は心から、そう告げる。
何年かぶりに父と呼べば、アウグストはほんのわずか、目を見開いた。
「後のことは、お願いします。――ユスティーネ様と、どうか、いつまでも恙無く」
「……お前はこれから、またテアのところへ行くのか」
「いいえ」
ディルクは首を振った。
「学院へ戻ります。学院祭まで間がないので、練習をしなければ」
「お前、」
呆れたような表情をするアウグストに、ディルクは力強く告げる。
「約束をしたんです。最高の演奏を贈ると、彼女に」




