決着 1
朝の清々しい空気を吸いながら走る、この一時がディルクは好きだった。
九月に入った日の、朝。
爽やかな気持ちで、ディルクはいつもの道を、走っている。
柔らかな光を投げてくる太陽が、眩しい。
それでもまだこの時間は涼しく、汗をかいて走るのにちょうどいいくらいの気温だった。
今日という日の朝に昨日までと大きな変わりがあるわけではないが、九月に入ったのだ、ということをディルクは意識した。
新しい一年が始まるのだ。
卒業を控えたこの一年が、一体どんなものになるのか……。
浮かぶのは、明るいことばかりではない。
ディルクは未来のことを思って、奥歯を噛みしめる。
同時に、甘く切ない疼きを胸に抱いた。
シューレ音楽学院入学式が行われるこの日。
明日から始まる授業に間に合うように、今日、テアがここに戻ってくるのだ。
夏休みが始まった時に彼女を見送ったメンバーで、また彼女を迎えに行く予定になっている。
もう少しで会えると思えば尚更、気持ちは逸って。
会いたいと、――ただ、早く会いたいと、ディルクはこの夏何度となく思ったことをまた、繰り返した。
やがてディルクは身体を反転させ、学院へ戻る道を走り出す。
その途中で、ディルクは行く先に人影を認め、ペースを緩めた。
その人影に近付く毎にディルクの眉は顰められ、険しい表情で、彼は立ち止まる。
「……お久しぶりでございます、ディルク殿下」
人形のような無表情で、向かい合う相手は慇懃にそう告げた。
四十代くらいであろうか、黒髪に白髪が混ざる、これといって目立つところのない女性である。
その人の名を、顔を、ディルクは知っている。
そして、その人の肩書きを、ディルクは嫌悪していた。
「何故、ここに」
ディルクの感情をそのまま表したように、言葉は冷たかった。
女は気にした様子もなく、答える。
「我が主より、お手紙をお預かりしています。数年来お手紙になんの返答もなく、主は心を痛めておいでです。此度はお返事を頂戴したく参上いたしました」
「……それだけのためにあなたを使わせたのか、馬鹿馬鹿しい」
「どうぞ、お受け取りください」
「……それは俺宛てではない。受け取る理由はない」
「受け取っていただかなければ困ります」
困った風でもなく女は淡々と告げ、袖で隠された己の腕を晒した。
そこには赤い無残な跡が、幾筋も残されている。
ディルクはそれに顔を強張らせた。
「殿下」
促す言葉に、ディルクは怒りを覚えながらも、差し出された手紙を受け取らないわけにはいかず、手を伸ばす。
「明日、お返事を頂きにまた、こちらに窺います」
その申し出をはねつけてやりたかったが、それも許されないのだろう。
ディルクは深く溜め息を吐き、それを返答ととったように、相手は失礼しますと頭を下げ、その場を去っていく。
軽い手紙が、重く感じて、それを地面に叩きつけたかったが、それができずにディルクはしばし、立ち尽くした。
――今度こそはっきりと決着をつけねばならない、ということか……。
気の重くなるような、一年の始まりだ。
思って、ディルクはまた、走り出す。
空の色も、空気の匂いも、何も変わらないはずなのに、急に呼吸がしづらくなったように感じた。
とても久しぶりの授業に、懐かしささえ覚えた気がして、テアは大げさかとひとり苦笑した。
夏休みが明けて、初めての授業。
講義室には教師の声が響き、その内容に合わせてテアは教科書をめくる。
夏休みは長く、それでいてあっという間だった。
国際コンクールが終われば、エンジュについて各国を回った。
見たことのないもの、知らなかったもの、初めての音。
実りある夏休みだったと、思う。
余計なことを考える暇もないくらい、充実していた。
だが、だからといって友人たちと離れていたことを、寂しいと感じなかったわけではない。
美しいもの、珍しいものを見つければ、それを共に見たいと思った。
ローゼたちと……、ディルクと。
昨日は会えなかったと、テアはその面影を脳裏に描いた。
駅まで迎えに来てくれた友人たち。
その中にディルクの姿は、なかった。
がっかりしたけれど、久々のローゼたちとの再会でそれも吹き飛ばされたように思う。
彼に会いたいという気持ちがなくなったわけではないけれど。
変わらず忙しくしているのだろう、そうテアは思った。
同じ学院にいるのだから、そう遠くない内に会えるはずだ……。
願望混じりに、テアはそう考える。
その一方で、会った時にどんな顔をすればいいのかと、迷うのだ。
長く離れていても、想いは褪せることなくこの胸にあって。
距離を縮めたい思いが、見えてきた希望と共に膨らんできている気がして、自分が許された先を超えてしまうのではないかと、それが怖い。
その結果自身が傷つくことも、また。
そして、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
講義室から教師が去って、テアの隣に座っていたフリッツが大きく伸びをする。
「……あー、なんか、久しぶり、って感じ」
そうですね、とテアは笑った。
「次も授業?」
「ええ。フリッツは?」
「次は一時間空く、かな。……あのさ、テア、」
そう、フリッツが何かを言いかけた時である。
「話中に、ごめん」
見知らぬ男子生徒に声をかけられ、テアとフリッツは目を瞬かせた。
座る二人の後ろに立つ生徒を、二人で見上げる。
テアはフリッツに用なのだろうと思ったが、相手が口にしたのはテアの名前だった。
「テア・ベーレンス、さん。突然だけど、少し話があって……、」
テアは困惑したように眉を下げた。
「あの……、次の授業もありますので、」
「すぐに済む、から……。その、ちょっとだけでも……」
「――分かりました」
緊張した様子の相手に、テアは首を傾げつつ、立ち上がる。
「ではフリッツ、また後で」
「う、うん……」
フリッツは若干青ざめつつそれを見送るしかなく、心の中で後悔の叫びを上げた。
――さ、先を越された……!
あれは絶対にパートナーの申し込みだ、とフリッツは確信していた。
自分自身が今まさにその申し出をしようとしていたところなのだから、確信も持てようというものである。
テアが簡単に見ず知らずの人間相手に頷くとは考えにくいが、このままではまずい、とフリッツは感じた。
テアは院内コンクールに続き、夏休み中の期間に開催された国際コンクールでも入賞を果たしているのだ。しかも去年の首席である。
一年前とは百八十度異なる見方で注目されるのは当然の成り行きで、パートナーの申し込みもきっと多いことだろう、と思ってはいた。
それでも、去年一年ディルクと組んでいたことが何かしらの抑制になるはずだと考えていたのだが、授業初日でこれでは、一体どうなることか……。
フリッツ自身はテアから聞いて、今年度ディルクが誰ともパートナーを組まないと知っているが、それを知らなくても申し込みをしようとは、なかなか自分にはできない真似だ。
と感心するように思って、そんな場合ではない、とフリッツは思いなおした。
――僕も早くテアにパートナーの申し込みを……!
フリッツは決意を新たにした。
だが――。
「まさかこんなことになるとは、思ってもみませんでした……」
肩を落としながら、テアはローゼ手製のサンドイッチを頬張った。
昼休み、ベンチの設置された木の下で、テアはローゼと肩を並べて昼食を取っている。
特に約束を交わしていたわけではなかったのだが、大げさに言えば、テアのピンチを察し、ローゼが駆け付けたのだ。
フリッツの思った通り、最初の授業が終わってからやって来た生徒は、テアにパートナーの申し込みに来たのだった。
それを驚きつつ丁重に断ったテアだったが、授業と授業の間の休み時間の度に誰かが自分に会いに来るのに午前中だけで疲れてしまい、食堂に行くのも憚られて、昼休みが始まってすぐ来てくれたローゼの姿には心からほっとしたものである。
「噂を聞いて……、来て良かったです」
「噂、ですか」
「ええ。ディルクのところにもパートナーの申し込みがあったようで……。その時にディルクがパートナーを組む予定はないからと断ったようなんです。理由は今は秘密、ということですけれど、ディルクが有望なひとを楽団に勧誘したりしていますから、水面下で話は広がっているようですね。それで、あなたがフリーになると知った方たちが、何やら話をしていたので……」
「ああ――」
「ディルクもせめて、テアが新しいパートナーを決めてからそういう話をしてくれればいいのに……」
ぼやくローゼに、そういうわけにもいかないだろうとテアは笑った。
「パートナーの申し出をしてくださった方にも悪いですし、曖昧にしたままでは私もパートナーが組みにくいだろうと考えてくれたのだと思いますよ」
「それはそうかもしれませんけど。……そもそも私は、どうして二人がパートナーを組まないのか、そこから納得していません。別に構わないじゃないですか、いくらディルクが忙しくっても、」
「誠実、なんですよ」
「ヘタレの間違いじゃないですか」
ぼそりとローゼが辛辣に呟いたのは、幸いテアの耳には届かなかったようだった。
平然とした顔で、テアは続ける。
「私も、その方が良いですし」
「えっ」
驚いた顔を向けられ、テアは苦笑した。
「……関係に甘えてしまって、足を引っ張りたくはないですから」
「それは、」
ローゼが眉を顰めた、その時である。
二人は同時にその気配に気づいた。
道の向こうから、少しずつ近付いてくる人影。
ざわりとしたものを胸に感じ――けれどそれはすぐに霧散した。
近付いてくる相手が、テアたちに気付いてふと立ち止まり、顔を明るくした、と思えば早足でやってくる。
見知らぬ相手のその様子に、テアとローゼは目を見合わせた。
一見したところは、どちらかというと地味な印象の女生徒だ。
胡桃色の髪をハーフアップでまとめていて、小走りのためにそれが肩で跳ねている。
地味だが、小柄で可愛らしいという形容詞が似合いそうな様子だった。
「あ、あの……! テア・ベーレンス、さん、ですよね!」
二人の目の前に来た女生徒は、緊張しているように、不必要に肩に力を入れて、口を開いた。
「そうですが、あなたは?」
柔らかな調子で、テアは問う。
「あ、ええっと、すみません。私、新入生で、ピアノ専攻科の、マリナ・フォン・ロッシュと申します。こんな風に突然……、しかも食事中に、申し訳ありません。あの、私、テア・ベーレンスさんの、ファンなんです!」
ファン?、とテアは目を丸くさせた。
その隣でローゼは苦笑を浮かべ、「そんなに緊張しなくても、とって食べたりしませんよ」と、落ち着かない様子でいる新入生を宥める。
「テアのファン……、というと、コンクールで演奏を聴いたのですか」
「は、はい。それも聴かせていただきました。でも、最初は、学院祭の時の演奏で、同じピアニストでもこんなに違うなんてって思って、びっくりして、感動して、それからずっとあなたを目指してきたんです!」
「それは……、ありがとうございます」
他に無難な答えを見出せずに、テアは微笑んだ。
「それで……、その……、」
マリナはうろうろと視線を彷徨わせ、逡巡する様子を見せてから、思い切って告げた。
「あの、良かったら私とパートナーを組んでいただけないでしょうか……!」
話の流れは、当然のようにそちらへ向く。
ローゼは何も言わずにテアを見つめ、テアは目の前の相手を見つめた。
「……ピアノを、聴かせていただけますか」
「え……っ」
それは、今までのパートナー申し込み者にはない返答。
「昼休みが終わるまで、まだ余裕はありますね。良ければ今から、練習室へ行きませんか。……気が進まないのなら、無理にとは申しませんが」
「行きます!」
懐中時計で時刻を確認し、テアは告げた。
急な展開に目の前の新入生は目を白黒させていたが、テアが付け加えたのに半ば勢いで頷く。
「ローゼ、すみませんが、」
「構いませんよ。その代わり、私もついて行きます」
テアはそれに首を振らず、新入生に至っては拒めるわけもない。
ローゼは手早く昼食の残りをバスケットに詰め直し、三人で教員棟へ向かった。
後期も首席をキープしたテアに与えられた練習室を使うつもりで、テアについていくばかりのマリナは不思議そうに首を傾げている。
首席特権の説明をすれば、なるほどと頷き、分かりやすくテアに対する眼差しをさらに輝かせて見せた。
「どうぞ」
テアは慣れた様子で練習室の鍵を開け、マリナをピアノの前に導く。
「何でも好きな曲を一曲、弾いてみてください」
それは一年前、エンジュがテアに告げたものと同じ言葉。
「好きな曲……、ですか」
マリナはテアの言葉を繰り返し、緊張した面持ちで、ピアノの前に座った。
少しの間迷っていたが、やがて、二人の聴き手を前に、彼女は指を鍵盤に落とす。
――リスト……!
マリナの技術は、素晴らしいものだった。
二人は紡がれる音に、息を呑む。
――小柄な割に、手が大きいのか……。想像以上の腕ではある、けれど……。
一瞬、テアが眉根を寄せたのを、ローゼは見逃さなかった。
ローゼは表情を変えないように、演奏に耳を傾ける。
テアもじっと、マリナの演奏を聴いていた。
そして、最後の音が余韻を持って、響く。
テアとローゼの拍手を得て、マリナは照れくさそうに微笑みながら、立ち上がった。
「ありがとうございます」
「素晴らしいですね。難曲を易々と弾いてしまうものです」
「いえ……、まだまだです」
ローゼの言葉に、マリナはふるふると首を横に振り、返答を待つようにテアに視線を向ける。
「ええ、素晴らしい技術ですね。私のパートナーにとは、もったいないくらいかもしれません」
「そんな、」
「本当に私がパートナーでいいとお考えですか? 私はこの学院で色々と特殊です。そうだった、と今では言っていいかもしれませんが。入学したばかりのあなたに、むしろ迷惑をかけてしまう可能性もあります」
「そんなことは……! いえ、それでも構いません。それでも、それでも私は、先輩の音をもっと聴いてみたいし、できることなら一緒に演奏だってできたらって……。こんなの、おこがましいかもしれませんけど……」
一生懸命に言葉にするマリナの様子に、テアは頷いた。
「……分かりました。でしたら今日、最後の授業が終わった後、事務室の前で待ち合わせをしましょう」
「! それは……!」
「パートナーの登録申請に行きましょう。すぐに済むとは思いますが、放課後用事はありますか? 問題があるようでしたら、また明日でも……」
「いいえ! 大丈夫です! むしろ用事があってもこちらの方が優先です! ありがとうございます、これからよろしくお願いします、ベーレンス先輩!」
「テア、で構いませんよ。よろしくお願いします。マリナさん」
差し出したテアの手を、マリナはぎゅっと握った。
まるで祈るように、痛いほどに、強く。
午後一番に初めてのレッスンがあるというマリナを送り出して、練習室に残ったテアは思わず溜め息を吐いていた。
「テア……、」
そんな親友の肩に、ローゼがそっと触れた、その時である。
「――なあ、もしかしてもしかしなくともそこ何か食い物入ってるよな?」
二人しかいないはずの部屋なのに、下の方から声がして、ローゼはぎょっと振り向いた。
そこには、ローゼが床に置いたバスケットをしゃがみこんでじっと見つめるエンジュ・サイガの姿がある。
「サイガ先生……、一体いつの間に」
「ついさっき。なあ、これ、食べてもいいか?」
「ど、どうぞ」
上目遣いに見上げられ、ローゼはぎこちなく頷いた。
「……私に気配を悟らせないなんて……」
「先生は人間というより猫ですから、あんまり気にしない方がいいですよ」
若干落ち込んだローゼに、テアは驚いた風もなく、声をかける。
「私ももう一つだけ、頂いておいていいですか?」
「ええ、食べてください。まだいっぱい余ってますから……」
テアとローゼは椅子に腰かけ、昼食を再開した。
エンジュはひとり床の上に無造作に座り、ご機嫌でローゼのサンドイッチを次から次へ手にしている。
「やっぱりお前、料理上手いな」
「ありがとうございます」
「さっきから腹減っててさー。でもここの食堂行くと俺の場合色々面倒だろ。もてるもんはつらい。助かったぜ。ごちそーさん」
ローゼに向けて、にぱっとエンジュは笑う。
バスケットの中身はほとんどエンジュの腹の中に消えて、あっという間に空になっていた。
「で、テア、お前ほんとにあの新入生パートナーにするつもりかよ」
「はい」
エンジュの唐突さに、夏を挟んでますます慣れてきているテアは、平然と頷いた。
その隣で、ローゼは少し、心臓の鼓動を速めている。
「無駄だと思うが一応言っとく。止めとけ」
「忠告はありがたいですが、止めるつもりはありません」
「あんな気持ち悪い音聴いといて、よくやるぜ」
「……だからこそ、です。なるべく目の届くところに置いておいた方がいいと判断しました」
「ま、一理あるが……。なるべく俺と鉢合わせしないようにしろ。不意打ちであんなの聴かされるのは不愉快だ」
「気をつけます」
お互いに、遠慮もますますなくなっている。
不愉快とは辛辣に過ぎるのではないかとローゼは思ったが、テアがそれを窘めることはなかった。
もしかしたら何か続けようとしていたのかもしれないが、その時ちょうど鐘が鳴って、テアは焦ったようにローゼに視線を移す。
「ローゼ、次の授業は……」
「大丈夫です。今期はこの時間、空いていますから。ですが、レッスンの邪魔にならない内に、行きますね。テア、放課後に私たちも登録申請に行く予定なので、その時にまた」
「はい。本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
ローゼはエンジュにも挨拶し、最後にテアに手を振ってから、練習室を出た。
テアとエンジュはまた、何事かを話している。
真剣な眼差しのテアから目を逸らし、ローゼは廊下を歩き出した。
マリナの顔がその脳裏に浮かび、ローゼは憂鬱そうな溜め息を吐く。
――新学期早々、厄介なことになりそうですね……。
そのまま、ちょうどいいと思いたち、ローゼは学院長室へ足を向けた。
放課後を迎える前にそうするべきだと、考えて。
――気のせい、杞憂なら、いいんですけれど……。




