師弟 1
タイトル通り、師弟の話です。
ディルクは出てこず、エンジュ中心の話となっております。
エンジュ・サイガは乗り物があまり好きではない。
正確にいえば他人の運転する乗り物が嫌いだ。
だから彼はクンスト国内を移動する時は、例え何時間かかろうとも自家用車を使う。
しかし今回、彼は移動手段に列車を選んだ。
それは彼の、弟子のためである。
世界でも有数のピアニストであるエンジュには、現在弟子がたったひとりだけいる。
テア・ベーレンスという名の、シューレ音楽学院学院生である。
彼女は夏休みに入ったばかりで、その長期の休みを利用して色々と勉強させようというのがエンジュの考えだった。
その一環が、国際コンクールである。
クンストの南の街で行われるその会場へ行くために、彼らは列車に乗った。
コンクールに出場するのはテアだけだ。
前回彼女を車に乗せた時目を回させてしまったので、仕方なくエンジュは列車の利用を妥協したのだった。
いずれにせよ、国際コンクールが終われば国外を転々と移動することになる。
それを車だけで済ませるのは不可能なので、彼は旅の最初だけでも車でという思いを諦めた。
「俺は寝る。着く直前まで起こすなよ」
「はい」
窓際の座席に座って早々、エンジュはそう言って目を閉じた。
隣に座るテアは、ぶっきらぼうな物言いにも嫌な顔も見せず頷く。
師弟の向かいにはアンネリース・トーレスという若い女性が座っていて、落ち着いた静かな眼差しで二人を見つめていた。
女性には珍しく髪を短く整え、ズボンを履く彼女は、凛々しい面差しで硬質な雰囲気だ。
彼女は表向き二人の付き人、ということになっているが、実際には違う。
テアが色々と厄介な事情を抱えていて、命を狙われる危険性があるため、その護衛を務めているのであった。
「クンストの剣」と謳われる騎士の家系、ブランシュ家で腕を磨いてきたアンネリースの実力は確かなものだ。
テアの親友でありブランシュ家の跡取りであるローゼが選んだ人材であるから間違いはないと、テアは彼女を信頼していた。
とはいえ、テアが彼女と顔を合わせたのは片手で数えられるほど。打ち解けているとは言えないが、あまり多弁ではないアンネリースがこの時はエンジュのために口を開かないのを感じ取って、心を和らげた。
だから、アンネリースとの沈黙は、嫌なものではない。
だがテアは見慣れた師の寝顔に、ほんのわずか、気遣わしげな視線を送る。
――先生は、列車がお嫌いなのだ。
だから、きっといつも、こうしてすぐに眠るのだろう。
エンジュと出会って、間もなく一年。
今のテアには、それが何となく察せられた。
「先生、先生。もう着きます」
声をかけられ、肩を揺さぶられ、エンジュは重い瞼を何とか上方へ押しやった。
「……あれ、」
弟子の顔が、やけに近い。
その肩に凭れているのだ、とすぐに悟って、エンジュはがばりとテアから離れた。
「おまっ、大人しくしてねえで、起こせよ!」
「直前まで起こすなと……」
「ディルクにばれたら俺が殺されるんだよ」
「?」
突然ディルクの名が出てきて、テアはきょとんと首を傾げた。
これだからこの鈍感弟子は、とエンジュは呆れる。
ディルク・アイゲンはエンジュの元弟子で、テアのパートナーである(学院の制度的には、夏休みに入って自動的にパートナーは解除になっているが、この表現に間違いはないとエンジュは考える)。
彼らはお互いに想いあっているが、恋人同士という関係ではない。
だが以前、テアと手を繋いだところを誰かに見られ、それがディルクに伝わったことがあった。その際元弟子から殺気を向けられたので、妙な誤解をされてシめられては敵わない、とそれ以来エンジュは気を付けているのである。
テアが現れて分かったことだが、ディルクは結構心が狭い。今のはアウトだ、とエンジュは感じた。
「とにかくディルクには言うなよ。さっさと降りるぞ」
「はい」
不思議そうにしながら、エンジュに続きテアは列車から降りた。
ごく自然に、アンネリースは二人の後についていく。
駅を出れば、強い日差しが三人に降り注いだ。
「こっちだ」
首都ほどではないが、賑わいのある街である。
迷いなく歩いていくエンジュに、辺りを見回しながらテアは続く。
「まずはホテルに荷物を置いて、昼食だ。それから練習」
「練習は、どこで?」
普通のホテルではピアノを置いてあっても貸してはくれないだろう、とテアは問いかける。
「知り合いに頼んである。そいつ、ピアノ教室開いてんだよ」
「ああ、だから先生はこの辺りに詳しいんですね」
「それもあるし、お前が参加するコンクールの会場、よく使うんだよ。お前も多分、馴染みの街のひとつになる」
当然のようにエンジュは言った。
その意味に気づかないテアではなく、唇を結ぶ。
汗を滲ませながら、やがて三人はホテルに辿り着いた。
「シングルの部屋三つでとったんだが、良いよな?」
エンジュが確認したのは、アンネリースに対してである。
護衛である彼女がテアと同室でないことを気にしたのだが、アンネリースは問題ないと頷いた。
「隣室にしていただければ、それで」
「おう」
アンネリースとて同室の方が都合は良いが、テアが他人と一緒では眠れないことを、ローゼから聞かされている。
テアに無理をさせてしまえば本末転倒なので、最初から別室には納得していた。
そうしてエンジュの言葉通り部屋に荷物を置いた後、近くの店で昼食をとって、三人はエンジュの知り合いだという人物の家に到着した。
その人は、自宅で教室を開いているらしい。一般家庭からすればかなり広いと感じられるその敷地に、邸や館と形容する方がふさわしいだろう、シックな建造物があった。庭も丁寧に手入れされているようで、美しい薔薇が見えている。ローゼが見たら喜びそうだ、とテアは考えた。
エンジュは開かれた門をずかずかと躊躇いもなくくぐり、ドアノッカーをけたたましく鳴らす。
しばらくして玄関のドアが開かれ、三人を迎えた人物は顔を明るくして歓迎の意を示した。
「エンジュ! 久しぶり、待っていたよ」
「下の名前で呼ぶなっつってんだろ、てめえ、喧嘩売ってんのか」
にこやかな相手に対して、エンジュのこの不機嫌な返しである。
テアとアンネリースははらはらしたが、相手は慣れているのか気にしない。
「良い名前じゃないか」
「うるせ。女みたいで俺は嫌いなんだ。ったく、このやりとり何度目だよ」
「ははは。それで、君の新しい弟子を紹介してくれるかい」
柔らかな眼差しで、その人はテアを見つめた。
癖のある金髪の、体格の良い男性である。エンジュより一回りは年上であろう。エンジュが童顔なので余計に年が離れて見えるが、おそらく。
その人に、師と出会った時のような既視感を覚え、テアはすぐに思い当った。
エッカルト・クーニッツ。
一線から退いているものの、エンジュ同様有名なピアニストである。
「弟子のテア・ベーレンス」
エンジュは無造作にテアを指した。
「隣は付き人の、アンネリース・トーレス。で、こいつはエッカルト・クーニッツ」
それ以上の説明は面倒臭いらしい。
テアは少し苦笑して、一歩前へ進み出た。
「お会いできて光栄です。この度はお世話になります」
「よろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げたテアの後ろで、アンネリースも武人らしい礼をする。
エッカルトは、そんな二人と順番に握手をした。
「エンジュの弟子は、師に似ずいつもしっかりしているね。学院のコンサートには行けなかったが、評判はよく聞くよ。去年のリサイタル、『クープランの墓』は聴かせてもらった。素晴らしい演奏だったね」
「あ、ありがとうございます……!」
テアは頬を上気させた。
エンジュがそんなテアをじとりとした目で見る。
「……お前、俺との初対面の時より嬉しそうじゃねえか?」
「先生と会った時は驚きのあまり茫然としていたんです。驚き冷めやらぬ内にテストされて、感激を表に出す暇はありませんでした」
テアの反論に、エンジュはつまらなそうにした。
それに、エッカルトは楽しそうな笑い声を上げる。
「さあ、それじゃ紹介も済んだところで中へどうぞ」
エッカルトに促され、三人は玄関に入った。
建物の大きさに比例して、玄関フロアも広い。
鬱陶しいと感じるほどではないが、たくさんの置物が飾られている。
「こいつ、妙なもんが好きなんだよ。それを知ってるファンから色々もらって、家中に配置してんの」
「別に妙じゃないだろう? かわいいと思うんだが」
腑に落ちない、という顔で問いかけられ、テアは曖昧に微笑んだ。
ぬいぐるみなども多いのだが、率直に言って「ぶさいく」に属するものなのではないか、と思えて、師の言を否定できなかった。
「部屋はいつものとこ使っていいのか?」
別にテアを助けようと意図したわけではないだろうが、さっさと練習させろと言うように、エンジュはエッカルトを置いて歩きした。
「ああ、遠慮なく使ってくれ。案内はいらないな。わたしは飲み物を持ってくるよ。暑いし、何か冷たいものを」
「そう気ぃ遣うな。部屋だけ貸してくれりゃあいい」
振り返りもしないエンジュにエッカルトは肩を竦めたが、それでも飲み物を取りに行ってくれた。
テアたちはエッカルトに小さく頭を下げて、奥の部屋へ向かうエンジュを追う。
エンジュは知り合い、と言ったが、遠慮のなさすぎる様子から、気の置けない間柄なのだろうな、とテアは思った。
――先生はいつもマイペースですけれど……。
「テア様」
そうしてエンジュに付いていくテアの横、アンネリースが耳打ちしてきた。
「はい?」
ブランシュ家の使用人には様付けで呼ばれるものの、いまだにその呼称に慣れない、と思いながらテアはアンネリースを見やる。
「不勉強で申し訳ありません。先ほどの方は、有名なピアニストなのですか」
さすがに本人の前では聞けなかったのだろう。
言葉通り申し訳なさそうな顔のアンネリースに、テアは微笑んだ。
彼女はこれまで音楽とは縁のない生活を送ってきたはずであるから、知らなくて当然なのだ。
エンジュも紹介らしい紹介をしなかったし、むしろ気付かなかったことをテアは申し訳なく感じた。
「エッカルトさんは、何年か前から演奏活動はされていないようですが、世界的に評価の高いピアニストです。私も演奏を聴かせていただいたことはないのですが、かなり独特な解釈をすることで有名ですね。それに、どんな難曲でも弾きこなすと聞きます。手もすごく大きかったですよね」
「ああ……」
「後で何か弾いてもらえば」
家人に失礼のないようにと小声で話していたが、エンジュには聞こえていたらしい。
足を止めて、彼はそう言った。
「お願いしていいんでしょうか?」
「喜ぶと思うぞ。他にも色々聞いてみろよ」
はい、とテアは頷く。
もしかすると、エッカルトから学ぶこともあるだろうという考えもあって、エンジュはここを選んだのかもしれない、と察した。
「部屋はここだ」
立ち止まった真横のドアを、エンジュは開けた。
最奥のその部屋も、広い。
グランドピアノが堂々と置かれていて、テアは目を輝かせる。
部屋のあちこちにはやはり不思議な趣味のインテリアがあるが、この時の彼女の目には映っていなかった。
「とりあえず、指動かせ」
そうエンジュが言うまでもなく、テアはピアノの前に座る。
エンジュは苦笑して、部屋の隅に置かれた椅子をずるずると引きずり、アンネリースが途中でそれに手を貸して、ピアノの側に椅子を並べた。
アンネリースは立ったままでいたかったが、エンジュに落ち着かないからと座らされる。
ローゼのフルートを耳にしたことこそあるものの、これまで直に演奏を聴く機会のなかったアンネリースは、テアの指が紡ぎだす音を、まるで魔法のようだと思った。
「……彼女は本当に楽しそうに弾くね」
少しして、トレーに飲み物を乗せたエッカルトがやってくると、そう目を細めた。
背の高い三つのグラスには搾りたてのオレンジジュースが注がれていて、アンネリースは恐縮する。
「嫌いではないかな」
「はい。ありがとうございます」
一番に受け取ったエンジュは、何だかんだと早速グラスを半分ほど空にしている。
彼が甘いもの好きなことを知っているエッカルトはそれに笑って、テアの分はチェストの上に置いた。
「そうだエッカルト、今日はあいついないんだよな」
「ああ、彼なら今日は午前中で帰ったよ。以前から予定があったらしい。君に一番に挨拶したかったみたいだけど」
「いらん」
「明日会えるのを楽しみにしてるって」
「いらん……」
げんなりしたようにエンジュは背凭れに凭れた。
「弟子に彼の熱狂的なファンがいるんだ」
疑問符を浮かべるアンネリースに、エッカルトは説明してくれる。
「サイガ先生のファンで、クーニッツ氏の弟子、なのですか」
「エンジュが振って、ここに来たんだ」
失礼な質問になるかとアンネリースは危惧したが、エッカルトは気を悪くした風もなく笑顔のまま言った。
「面白い子だよ」
明日顔を合わせることになるのなら、少し気を付けておいた方がいいかとアンネリースは考えた。
エンジュのファンで振られたというならば、テアを妬んで妙な行動を起こしてくるかもしれない、と警戒したのである。
「テア」
その彼のことは考えたくないのか、振り払うようにエンジュはパンパンと手のひらを鳴らした。
「ちったあ気が済んだだろ。先にエッカルトの演奏聴くぞ」
「ん?」
テアは手を止め、エッカルトは不思議そうな顔になった。
「エンジュ?」
「何回も呼んでんじゃねえ、サイガだ。テアがお前の音を聴いてみたいんだとよ。後にしたらタイミングを逃すかもしれねえからな」
「それは嬉しい」
「あ、えっと、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんだとも。リクエストはあるかい」
テアは立ち上がり、エッカルトに席を譲った。
「お前の好きな曲を弾け」
エンジュの言葉に、エッカルトはふむ、と考える仕草を見せ、すぐに鍵盤に指を落とした。
テアはエンジュの横で、その音を聴く。
――わ……、
テアは息を呑んだ。
ブラームスの六つの小品の五番、「ロマンス」。
慈しむような眼差しで、エッカルトはそれを奏でる。
――私には、こんな表現はできない。
確かに独特ではある。だが、耳を離せない。
さすがだ、とテアは感嘆した。
余韻まで味わって、三人は大きな拍手を送る。
「調子は良いみたいだな」
「私はピアノのことは分かりませんが、素敵でした」
「はい……。とても幸せな気持ちになるような演奏でした」
「いやあ」
賛辞には慣れているだろうに、エッカルトは少年のように照れた。
「貴重な演奏を聴かせていただき、ありがとうございます」
「いやいや。その代わりと言ってはなんだけど、しばらく練習を聴いていてもいいかな」
「え……、はい、私は」
「構わん。貸主だからな」
テアの視線に答えて、エンジュはそう言った。
「そんじゃ、レッスンにすっか。明日までしかねえから、みっちりやるぞ」
「はい」
コンクールは明後日だ。
再びテアはピアノの前に座り、エンジュは立ち上がってその後ろについた。
空いた椅子に、エッカルトは足を組んで腰かける。
――まさか、エンジュのこの姿を、もう一度見られるとはね。
師弟の姿にエッカルトは目を細め、内心でひとりごちた。
エンジュはもう二度と弟子をとらないだろうと、彼は思っていた。
そのエンジュが弟子をとるとは一体どういう心境の変化だと、少し心配していたのだが、一年前のリサイタルと、今このテアの音を聞いていれば、分かるような気がした。
――エンジュと彼女は、似ている。
似ているけれど、おそらく、テアの方が。
――真っ直ぐ目をそらさず前を向いている、という感じだ。
だからかな、とエッカルトは思う。
古い友人が生き生きとしているのが見られて、彼は嬉しかった。
エンジュの前に現れてくれたテアに、感謝した。
その日遅くまでテアたちのレッスンは続き、エッカルトの好意でクーニッツ夫人の手料理まで三人は馳走になって、彼の家を辞した。
夕食の際にエッカルトから色々な話を聞けたテアは機嫌良く、ホテルへの帰り際ついぽろりと零す。
「クーニッツさんは先生のご友人とは思えないほど良い人ですね」
「どういう意味だそりゃ」
エンジュはテアを睨んだが、嘆息して同意した。
「まあ、良い奴なのは認める。ピアノも大したもんだ。あれはマジに、真似できねえ」
「確かに」
「ま、真似したいわけじゃないけどな」
その気持ちも分かってしまって、テアは苦笑した。
エッカルトの表現力は素晴らしく、誰にもあの音は出せないと確信できるが、学び取るには個性的すぎるのである。
「クーニッツさんは、教え手としては……」
「それがあいつ、教えるの上手いんだぜ。あんな音なのに。さっきも説明上手かっただろ」
「そうでした」
失礼だったか、とテアは口元を抑えた。
「明日は、何かお土産を持っていきましょうか」
「別にそんな気ぃ遣わんでいいぞ、あいつ相手に」
「先生はそれでいいかもしれませんが、二日も部屋を借りるのに、今日も何も持っていきませんでしたし。ホテルに何か、良さそうなものが売っていないでしょうか」
テアが問いかけたのは、アンネリースに対してである。
「そうですね……」
女性二人が土産について話し出し、エンジュは歩きながら夜空を見上げた。
先ほどエッカルトが、「彼女という弟子を持てて良かったね」と安心したような微笑で告げたのを思い返す。
エンジュにだけ聞こえるように言われたそれに、「うっせ」と邪険に返してしまったのではあるが。
ふ、と同行者に気付かれないようにエンジュは溜め息を吐き、土産を買うなら金を出してやるか、と決めた。
いつの間にか、ホテルは目の前になっていた。
もう結構な時間だったこともあり、エッカルトへの土産は明日購入することにして、三人はそれぞれの部屋に入った。
「あー、ねみい」
ざっとシャワーを浴びた後、ベッドに近づきながらエンジュは欠伸をする。
髪はまだ濡れているが、面倒臭いのでそのままベッドに入ってしまった。
「明かり……、めんどくせえ……」
完全に寝る体制になってしまってからそれに思い当たるが、睡魔に抗えない。
まあいいか、とエンジュは眠りに落ち――そうになって、はっと瞼を開けた。
エンジュは不機嫌な面持ちになって、ドアの方へ目をやる。
狭いシングルルームのドアはすぐそこだ。
そのドアが、控えめに叩かれていた。
「誰だ……」
地を這うような低い声で、彼は嫌々ベッドから離れる。
「申し訳ありません」
ドアの外からは、かなり抑えた声がした。
アンネリースだ。
エンジュは眉間に皺を寄せた凶悪な顔で、ドアを開いた。
「なんだ」
「至急、ご相談したいことが」
アンネリースは別れる前と同じ、かっちりとした恰好だった。
これまで多くの猛者と対峙してきた彼女は不機嫌なエンジュに対しても怯むことなく、声を潜めたまま続ける。
「部屋に入れていただいても構いませんか」
「なんだそれ、夜這いか」
「それならもっと違うやり方をします」
生真面目にアンネリースは返した。
「テア様には聞かれない方がよいかと考えまして」
エンジュは怪訝な表情を隠さなかった。
アンネリースを部屋に入れ、ドアを閉める。
彼女は部屋の奥へは入ろうとせず、ドアをすぐ後ろに告げた。
「実は、テア様を狙った刺客が現れました」
「はあ!?」と声を出しそうになり、エンジュは自分の口を塞ぐ。
今の一言で眠気は吹っ飛んで行ってしまった。
「学院離れて早速かよ。どこのどいつだ?」
「尋問はまだですが、どうも素人ですね。私の部屋に拘束してあります」
「はあ……、で、どうすんだ?」
「それをお伺いしようかと」
「俺にかよ!?」
エンジュは仰天した。
彼はこうした事態には、それこそ素人である。
どうしてテアではなく彼の元にアンネリースがやってきたのか、訳が分からない。
「このような場合はテア様に指示を仰げとローゼ様には言われております。最終的にはブランシュ家に引き渡すことになると思いますが……、私が勝手にそれをするわけには参りません。テア様にご報告して判断を仰いで構わないかを、サイガ先生に聞いておきたいのです」
「ふん?」
「テア様にはコンクールが控えています。私は音楽にはとんと詳しくありませんが、その妨げになりはしないかと愚考した次第です」
真摯なアンネリースの言葉に、エンジュは黙った。
「……あいつなら大丈夫、と言いたいところだが、音に影響が出るかもしれん、な。誰がどういう目的で送ってきたのかにもよる。今から吐かせられるか?」
「難しくないと思います」
「それじゃ立ち会う。相手が話した内容によってテアも叩き起こす。どうだ?」
「はい。そのように」
静かな表情をあまり崩さないアンネリースだが、口元をわずかに綻ばせた。
「お休みのところを、申し訳ありません。ありがたく存じます」
「いや……、こっちこそ、サンキュな。着替えるから、少し待ってくれ」
「はい」
ドアの外にアンネリースを待たせ、エンジュはすぐに着替えを済ませる。
濡れた髪は見られる程度に撫で付けて、部屋を出た。
エンジュとアンネリースの部屋は、テアの部屋を挟んでいる。
壁一枚隔てているし、テアも疲れているだろうから大丈夫だと思うが、それでも敏感な彼女が起き出してこないよう、気を遣ってエンジュとアンネリースは移動した。
アンネリースの部屋に入り、エンジュは眉を顰める。
エンジュの部屋と全く変わらないその一室に、大きく異なるものが一点。
椅子にぐるぐる巻きにされ、猿轡を噛まされた女が、憎々しげな眼差しでエンジュたちを睨みつけていた。
刺客と聞いて男だとばかり思い込んでいたエンジュは、意外の念を抱く。
「……なんか、びっみょーうに、テアに似てねえか?」
「やはり、そう思われますか」
ひそひそと、その当人に聞こえないよう、二人は会話する。
それに、椅子に縛り付けた女はますます目付きを悪くした。
彼女はエンジュが指摘したように、テアと似通った容貌の持ち主である。
肩まで伸ばされた髪は青味がかっていて、瞳の色も淡い。
年はいくつか上、といったところか。それでもまだ若い。
狙いが狙いだからか、その身に纏う衣類は黒一色だ。
――こりゃこれだけで黒幕は一択に絞られてねえか?
エンジュは思い、だからこそアンネリースはテアへの報告を躊躇わずにはいられなかったのか、と考えた。
「とにかく、話を聞いてみます」
「おう」
二人はゆっくりと拘束された女に近付いた。
女は警戒を露わにする。
エンジュはアンネリースの斜め後ろで、女騎士の手腕を見守ることにした。
「猿轡を外してやる。大声を出したらまた痛い目を見るぞ。こちらに容赦する理由はない。大人しくしていろ」
アンネリースは威圧的に女を見下ろし、低い声で高圧的に告げた。
淡々とした口調が、どんな残酷なことでも躊躇わずやってのけそうで、恐ろしい。
女は顔を強張らせたが、エンジュも恐怖を覚え、一歩後ろに下がった。
「何故我が主を狙った。吐け」
アンネリースはこれみよがしにナイフを見せつけ、エンジュはもう一歩後ろに下がる。
「一体誰の差し金だ。お前のような未熟者を向かわせるとは、さぞかし暗愚な輩なのだろうな」
怯えた表情を晒していた女だが、その挑発にキッとアンネリースを睨んだ。
――分かりやすすぎだろ……。
エンジュは少し呆れて、女を観察する。
まさかこの分かりやすさが演技ということはないだろう、先ほどから考えていることが丸分かりで、アンネリースが「素人」と形容した理由が分かりすぎるほどに分かった。
女の体つきも、貧相なものだ。女らしさがない、という意味ではなく、鍛えられた筋肉がまるでない、という意味で。
アンネリースはしばらく脅しをかけていたが、女は予想よりも強情に口を開かない。
彼女は早いうちに諦めて、質問の仕方を変えることにした。
本当に痛い目を見せてもいいのだが、エンジュの前でやるのは躊躇われるし、女が声を出したらテアに気付かれてしまう。
「……質問を変えよう。ディルク・アイゲンを知っているな?」
なるほど、とエンジュは思い、女の反応を注視した。
当然知っている、という顔だ。その上で、呼び捨てにしたアンネリースを不敬と責める目をしている。
――やっぱりディルクは関係ねえか。
テアを狙う理由がそれなら、この女はもっと違う表情をする。
アンネリースの判断もそうで、すぐに質問は次に移った。
「では、エンジュ・サイガは?」
おう、とエンジュは息を呑んだ。
女はエンジュを知っているようだが、ここにいるのが本人とは気付いていないようである。どうしてその質問なのか、訝っているようだ。
部屋に入った瞬間から、女の顔色が欠片も変わらなかったことでエンジュは原因が自分でないということはほぼ確信していたが、やはりそうだったらしい。
それに、安堵した。
そもそも、有名なピアニストが師であるだけで命を狙われていたら、これまで数多くの人間が殺されていることになる。
殺しまで企むには、エンジュは動機には弱いのだ。
「では、」
ほっとするエンジュを後ろに、アンネリースはズバリとそれを口にする。
「お前を寄越したのは、オイレンベルク家だな」
「っ、違う!」
反応は劇的だった。
初めて口を開いた女は蒼ざめ、否定してしまってからはっと口を噤む。
あーあ、とエンジュはその反応に、いっそ哀れになった。
「――なるほど、よく分かった」
アンネリースは薄らと笑みを浮かべる。
エンジュが正面から見ていたら、あと二、三歩後ずさっていたかもしれない笑みだった。
もちろん、意識してそういう表情をしたのだ。
「オイレンベルク家に事の次第を問いたださなければならないようだ。ブランシュ家に報告し、世間にも事の是非を問わなければな。証人としてお前のことは生かしてやるから安心しろ」
「ち、違うって言ってるでしょう!」
女は声を荒げ、アンネリースにナイフを向けられた。
喉に突き付けられた冷たい感触に、女は息を呑む。
「大声を出すな、と忠告してやっただろう」
そのナイフよりも冷たい声で、アンネリースは告げた。
隣の部屋のテアが起き出してくる気配のないことに安堵して、ナイフを引く。
ここからが本題だ、と彼女が振り返れば、思ったより遠い位置にエンジュはいて、少し戸惑う。
だが彼が続けるようにと頷いたので、彼女はもう一度女に向き直った。
「どう違う? それならば正しい雇い主を吐いてみろ」
「や……雇い主なんて、いないわ」
女は俯き、声をわずかに震わせながらも答える。
「わたしが勝手にやったのよ」
「何故だ」
「そんなの決まってる。憎いからよ」
きっぱりと口にした女は、ぎらついた目を見せた。
「わたしが大切に思うお方は、あの女のせいで苦しんでいたわ。そして、亡くなってしまったの。だから殺しに来たのよ」
語るに落ちる、というやつだな、とエンジュは冷めた目で女を眺める。
「……アンネ、結論は出た」
「はい」
エンジュはこれ以上女の側にいたくないと、踵を返した。
アンネリースが再び猿轡を取り出し、女は慌てた様子で言う。
「ちょっと……、どうするつもりなの!? オイレンベルク家は関係ないって、分かったんでしょうね!? わたしはどうなっても構わないけど、」
「当然、どうなってもよいのだろう。我々から大切な人を奪おうとしたのだから」
はっ、と女はますます蒼ざめた。
大人しくなった女にもう一度猿轡をして、アンネリースはエンジュの後を追い、彼の部屋に入る。
「マジに心臓に悪かった」
ベッドに腰掛けたエンジュはぼやいて、アンネリースに告げた。
「テアに言うのは、コンクール後にしろ」
「分かりました。ブランシュ家へは報告を送っておきます」
「ああ。ただあの女、しばらくはお前の部屋に置いておくしかないが、いいか?」
「はい、むしろその方が安心です。小物の一人や二人いても休むのに問題はありませんし」
「頼もしいねえ」
エンジュは先ほどの光景を思い出し、乾いた笑いを浮かべた。
「……あの女、オイレンベルクの女傑に近しかったんだな」
「おそらく」
オイレンベルクの女傑、とエンジュが言うのは、オイレンベルク家当主の母親である人である。
故人となったばかりの人だが、彼女がテアの祖母であり、家の名誉のためにテアの命を狙っていたと、エンジュが知ったのは数ヶ月前のことだ。
アンネリースも、護衛を引き受けた際に聞かされている。
テアを疎んじていた人物は亡くなったのに、その意思を引き継ぐ人間が現れるとは……。
「勝手にやってきたのは本当みたいだが、仲間が現れたりはしねえよな」
「断言はできませんが、あの様子ですと単独犯でしょう。仲間がいるならばもう少しうまくやれそうなものです。……同じような単純な人物が集まっていれば、その限りではありませんが。念のため、応援を呼びましょうか?」
「や、大丈夫そうならできればこのままがいい」
エンジュは首を振る。
これからのことはすべて三人という前提で準備をしてあるから、同行者が増えるとその方が色々と面倒だった。
「とにかく明後日まで、こっちはコンクールに集中させてもらう。それ以外のことは任せた」
「はい、お任せください」
そう胸を張るアンネリースは、本当に頼もしい。
思って、エンジュは笑った。
「そんじゃ今度こそお休み」
「はい。先生も、ゆっくり休まれてください」
アンネリースは微笑みを返して部屋へ戻っていく。
その背を見送って、エンジュは一つ、溜め息を吐いた。
いつでもどこでも、何時間でも寝られるのが彼の常であるはずなのに、ベッドに横たわっても眠れる気がちっともしないのだった。




