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夜の灯火  作者: 隠居 彼方
第10楽章

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真実 14



ああ、帰ってきたんだ、とフリッツは思った。

シューレ音楽学院の校門をくぐり、講義棟へと向かいながら、ここでまた勉強を続けられるんだ、とフリッツは実感する。

あの日曜日から、数日。

たったそれだけの間で、兄が引き起こした事に対する処理はすっかり終わってしまったらしい。

ベルナー家にも既に沙汰が下ったが、処罰はフリッツが驚くほどに軽いものだった。未遂だったことが幸いしたのかもしれない。

領地を没収されることも、爵位を剥奪されることも、当主が死罪になることもなかった。

ただ、領地以外のほとんどの財産を没収されることとなり、当主はしばしの謹慎を命じられた。

中央政治への関わりは断たれ、ベルナー家は以前と同じように落ちぶれたのだ。

そんな中で、自分だけこのまま学院での生活を続けるわけにはいかないだろう、とフリッツは思っていた。

しかし……。

兄の行いを聞き及んでいるだろうに、フリッツを応援したいという人間が彼の元を訪れたのだ。

院内コンクールでのフリッツの演奏にいたく感銘を受け、フリッツの窮状に駆けつけてくれたらしい。

躊躇したが、フリッツに退学の沙汰は結局なかった。

何より、その気持ちが嬉しすぎるほどに嬉しくて、申し出を断れなかった。

もしかしたら、誰かが後ろにいるのかもしれない。それでも、フリッツに音楽を続けさせたいと思ってくれる誰かがいることは確かで。

続けたい、という気持ちにフリッツは素直に従って、学院に戻ってきたのだった。

しかし、彼と同じように登校する生徒たちの視線は厳しい。

ハインツがやろうとした事が事だから、どんなことをしでかしたのかということは公になっていないが、ベルナー家が処罰を受ける行いをしたとは既に広まっているのだろう。

それは分かっていたことだったから、フリッツは胸を張ったまま慣れた道を辿った。

友人たちが、何も見なかったかのように自分を追い越していっても。

――当然だ、兄さんはあんなことをしたんだから……。

彼らの立場だったら、自分もどんな態度をとるか……。

結局、フリッツはあれから兄に会っていないし、気持ちの整理もまだついていない。

どういう風に兄と顔を合わせればいいのかを、フリッツは決めかねていた。

だからこそ、遠巻きにする方の気持ちはよく分かって、責める気持ちはわかない。

ただ、これからの自分の行いで皆に認めてもらうしかないと、フリッツは思い定めていた。

それだけの覚悟を決めて、彼はこれまでの行動をしていたのだ。

むしろこうして同じように学院に通えることが、思っていた以上のことで――。

考えながら、感慨深くフリッツが歩いていると、声を掛けられた。

「おはようございます、フリッツ」

彼の目の前で、エッダが、極上の笑顔を浮かべて立っている。

遠ざけているのか、付き人の姿はない。

人前ではこれまで接触してこなかったエッダのそれに、フリッツは狼狽した。

突然の笑顔への戸惑いと、先日の協力への感謝を伝えたいと思うのと、兄の脅迫の謝罪もしなければと、フリッツは混乱して立ち尽くす。

「え、エッダ? どうしたの?」

最初に出てきた言葉はそんな間の抜けたもので、かすかにエッダの笑顔が引きつった。

「……私が公衆の面前であなたに話しかける意味をよく考えていただきたいですわね。ぶち壊しにするような台詞を吐かないで下さる?」

「えっあっ……、」

台詞が台詞だが笑顔を崩さないエッダに、フリッツは悟って慌てた。

「これから同じ授業でしょう。講義室までご一緒しても?」

「うん、その……ありがとう」

「どういたしまして」

生徒たちの視線に、困惑が混ざり始める。

エッダの影響力を改めて感じるフリッツだった。

「……手紙のことも、ありがとう。ディルクさんに無事に届けてくれて、本当に助かったよ」

「私は大したことはしていませんわ。それより、良い使用人をお持ちですわね。もし馘首になるようだったらうちに引き抜こうかと思っていたのですけれど、どうやらそういうことにはならなかったようで、少し残念です」

本気なのか分からない台詞に、フリッツは乾いた笑いを零すしかない。

その内に彼は表情を暗くして、言った。

「あのさ……エッダ、兄さんは、君にも……」

「その話は結構です。あなた、人のことばかり考えていないでもう少し自分のことを気にしてはいかが?」

その言葉にフリッツはきょとんとする。

「授業だってもう一週間以上も出ていないでしょう。それに、寮暮らしになると聞きましたけれど」

「う、うん……。授業は頑張って取り戻すしかないよね。寮生活は、事情を知ってるディルクさんたちもいるし、何とかなるといいなぁと思うんだけど」

これまで使っていた別荘が取り上げられることになったので、今日からフリッツはここの寮で暮らす予定なのだ。荷物は昼に届くはずで、授業が終わった後に整理しようと思っていた。

あまり問題視している様子のないフリッツに、エッダは頭痛を覚えた気がしてこめかみを押さえる。

「あなた、繊細なのか呑気なのかいまいちよく分かりませんわね……」

心配して声をかけたエッダだが、フリッツは思ったよりもしっかりしているようで、態度には見せないものの彼女は少しほっとしていた。

兄の過ち、軟禁生活、ベルナー家への処罰。

フリッツの身に降りかかったことは、大変の一言で済ませられることではないだろう。

事の顛末を、エッダもおおよそ手に入れていた。

ほとんど情報が外に漏らされることのない件であったが、オイレンベルク家も実は渦中にあって、当主にも一報があったのだ。

ハインツの影響下から逃れ得て、エッダも父に全てを確認していた。

父はテアのことを否定しなかった。

決して他言しないことを条件に、エッダは父から話を聞き、ハインツの話がほぼ事実であったことを知った……。

――私もフリッツも、これからがきっと大変、なのかもしれませんわね……。

二人は講義棟に入っていく。

授業のある講義室が見えてきて、それまで普通の足取りだったフリッツが急に立ち止まった。

「フリッツ?」

「……ごめん」

先ほどまでは普通すぎるほどに普通だったのに。

フリッツは、唇を引き結び、これ以上踏み出すのを躊躇うような、怖がるような、そんな表情でいた。

彼がそんな顔をする心当たりは、一つだ。

エッダはさりげなく、持っていた鞄をフリッツにぶつけてやった。

「いたっ」

恨めしげな顔を向けてくるのに、エッダは澄まし顔で言う。

「さっさと行きなさいな、こんなところで立ち止まっていたらますます変な目で見られますわよ」

「う……。エッダ、」

「ああ、後言っておきますけれど、私、席までご一緒する気はありませんから。あなたはいつもあの方の隣でしょう。休んでいた分のノートも、見せてもらえばいいと思いますわよ。あの方なら、快く見せてくださることでしょう」

「エッダ……、」

「ではお先に」

エッダはドアノブに手をかけた。

しかしそれよりも少し早く。

「エッダ……ありがとう」

フリッツの再びの感謝の言葉が彼女の耳に届く方が、早かった。

「声、かけてきてくれて嬉しかった。これからもその……よろしく」

照れたような声が、すぐ後ろでする。

フリッツの手が、ドアを開けた。

エッダはその厚意に甘えて、ドアをくぐる。

彼女に続いてフリッツも講義室に入り、彼は真っ直ぐに、テアが既に座る後方の席へと向った。

――躊躇う必要なんて、ないでしょうに。

ベルナー家の人間として兄と共に咎めを受けるつもりで、兄を止める覚悟を決めた彼を、誰が責めるだろう。

少なくともテア・ベーレンスがそんな人間でないことは、フリッツの方がよく知っているはずなのに。

エッダは、テアとフリッツが微笑みを交わしているのを見、小さく溜め息を吐いた。

――全く、やっぱり世話の焼ける男ですわね……。








「本当に行くんですか?」

「ローゼ、それ何度目ですか……」

もう目的地の目前であるというのに、それでも何度となく同じことを尋ねてくるローゼに、テアは苦笑いを禁じ得ない。

学院での授業は休みである、日曜日。

先週と先々週も訪れた別荘地に、テアはローゼとやってきていた。

テアの趣が普段と異なるように感じるのは、ずっと髪を後ろでまとめていたのを、今日は解いているからだろう。

「あんな男にもう一度会うなんて……」

「ローゼは表で待っていますか?」

「それじゃ私がついてきた意味がないでしょう!」

「大丈夫ですよ、ちゃんと前回より武装してますから」

「……絆された訳じゃないのには安心しました」

「絆されませんよ、いくらお母さんの思い出話の中の人物でも」

「そうですか?」

「ええ。今日の私はただの伝言者、情も何もありません。……いえ、嘘ですね」

「え?」

「――ささやかな報復をしようと思ってきました」

その別荘の前で、二人は立ち止まる。

ベルナー家の別荘"だった"、その扉の前。

そこでテアは、ですから、と続けた。

「悪意があります」



扉をノックしたが誰も出てこないので、二人は勝手に中に入ることにした。

部屋を覗いてまわり、ようやく寝室でその人を見つける。

「――まさかあなたがまたここに来るとは」

ハインツ・フォン・ベルナーが、そこにいた。

彼はテア達の訪問に本気で驚いたようで、目を見開いてそう告げる。

邸には、他の使用人もおらず、彼一人だけのようだ。

「……勝手に上がらせてもらいました」

「それなら私も許可など得ていない」

ローゼが今にも剣を抜きそうな殺気を纏っているのに、ハインツは平然としている。

平然……、というよりも、彼はまるで死を目前にした老人のごとく、達観したかのように、静かな雰囲気でいるのだった。

「本来ならすぐに領地に戻って謹慎しなければならなかったのだが……。あなたはどうしてここに?」

「ハインツ卿、あなたに会いに」

テアが淡々と答えれば、それに彼はさらに驚きを深くしたようだった。

「それはそれは……。どういう風の吹きまわしです? それに、私がここにいるとどうして分かりました?」

「今日領地に戻る旨は聞いていましたので、ここには最後に立ち寄るかもしれないと考えました。いなければ、それはそれで、この"鳥籠"を少しゆっくり見てみようかと。腹が立ったなら燃やしてやろうかとも思っていましたが」

「それは是非止めてほしい。もうあちらの別荘は残っていないのですよ」

返しながら、ハインツはその寝室の窓から外を眺めた。

応接室といっしょで、ここの窓も大きく、緑が目に飛び込んでくるようだ。

「……カティアにとっては、ここは"鳥籠"か……」

「それだけなら、出て行くのに悩みなどしなかったでしょう」

テアの言葉に、ハインツは彼女に向き直った。

「……それで、あなたの用とは?」

「ピアノのある部屋に行きましょう」

直接的な答えを返さず、テアは踵を返した。

ローゼは影のようにその側に寄り添い、ハインツも抗わずそれに続く。

先ほど邸を見回ったので、案内もなくテアはピアノのある部屋に入った。

「……私にピアノを弾いて下さるとでも?」

「弾くのも、歌うのも、私ではありません。カティアです」

「何を……」

「母があなたのことを話していたのを思い出しました。今日ここに来たのは――だから、です」

それ以上の前置きはなかった。

テアはピアノの前に座り、おもむろに鍵盤に指を置き、そして、歌った。

テアは歌を専門にしてはいない。だから技巧が突出しているわけではない。

けれどずっと母の歌を聞いて、一緒に歌うことも多かった。だから堂々として、澄んだ歌声だった。

ここに入ってきた時からずっとテアは表情を見せていなかったが、今はその目と唇が、柔らかい弧を描いている。

明るい曲調の歌だった。それを、眩く光る太陽を思い出させるように、テアは歌う。

「……カティア……」

その歌声を、ハインツが信じられないようなものを見る目で立ち尽くしながら、聴いていた。

――テア・ベーレンス、のはずだ。

それなのに彼には、ピアノの前に座っているのが、カティアにしか見えなかった。

カティアの顔で、カティアの表情で、カティアの声で、カティアの歌だった。

ずっと、これを、聴きたかった……。

ハインツの頬を、一筋の涙が伝う。

歌はやがて、終わって。

"カティア"が、彼に微笑みかけて、言った。

「『ハインツ坊や、あなたはいつもひとりで頑張って誰にも頼ろうとしないから、それが心配だわ。だけど、立派に伯爵家を引き継いでいるって聞いて、安心しました。無理して体を壊したりしちゃだめよ。なんて、私が言えることじゃないわね。あなたなら自分の身体もしっかり完璧に整えているでしょうから、余計なお世話かしら。立派になったあなたに会いたかったけれど、無理みたい。でも私はいつだって、友だちであるあなたを誇りに思っているから……』」

伝言は、それで終わりだった。




「それでは、お暇します、ハインツ卿。さようなら」

その言葉が、彼に届いたかどうかは分からない。

どちらでも、構わなかった。

彼に会うことは、おそらくもう、ないだろう。

膝をつき項垂れた男を、未練もなく後にして、テアはローゼと共に短い来訪を終えた。

「……あれだけで、良かったんですか? 謝罪でもさせてやればよかったのに」

「謝罪など、私には必要ありません」

謝罪されても、テアに受け取る気はなかった。

彼女は家族に手を出そうとした相手を、簡単に許す気はないのだ。

だからテアは今日、ここに来た。

あの"伝言"はテアの親孝行であり……、断罪でもあったのだ。

「……簡単に楽にさせてあげる気は、ないですから」

テアの囁くような声は、すぐ隣のローゼにも届かず、空気に溶けていった。

馬車を待たせている場所まで、二人は歩く。

「お母さん、ハインツ坊や、なんて言うから……すぐに思い出せなかったんですよね」

ローゼの前では、テアは形式的に「母」と呼ばず「お母さん」と呼んでしまう。

「今のあの男を見てしまえば、『坊や』じゃあ、そうでしょうね」

「陛下のことも、アウグストと呼び捨てだったんですよ……」

「えっ!? あ、でもそれなら私も聞いたことがあるかもしれません、何かちょっと嫌味な感じの印象の人で、」

「そうです」

そこで肯定していいのか、というところで真面目にテアは頷いた。

「だから最初陛下にお会いした時は驚いてしまって……」

「それは驚きますよ……」

親友に全てを打ち明けて、テアはそんなことも言ってしまえるようになったことが、ひどく嬉しかった。

「……まあでも、随分と気に入られていたみたいで、良かったじゃないですか。将来の義父になるかもしれない人ですものね、血の繋がりで言えば」

「……え」

ひどくぽかんとした顔で、テアはローゼを見つめた。

「何て顔してるんです?」

「え、いえ、だって……」

「ああ、そういえばこの話もきちんとしたことがなかったですっけ。――好きなんですよね? ディルクのこと」

ローゼが口にすれば、テアは真っ赤になって言葉を失った。

ものすごく今更なのに、と思いながらローゼはくすりと微笑む。

「ディルクにも隠し事はなしになったんでしょう。告白、しないんですか?」

「こ――、それは、まだ、駄目です」

はっきり肯定の言葉は使わないものの、テアは否定せず真面目な顔になって返した。

「……ちゃんと全てが終わってからでないと……、まだ、何が起こるか分かりません」

真面目すぎると、ローゼは思った。

だが、テアの気持ちは理解できる。

大切だからこそ、慎重にしか、動けないのだろう……。

「……いずれは一緒に、皇帝陛下を"お父さん"にできるといいですよね」

テアの心配を晴らすように、ローゼは悪戯っぽく、笑った。

「話が飛び過ぎですってば、ローゼ!」

もう、とテアは渋面をつくる。

一方で、心臓がとくりと鳴るのを抑えきれはしなかった。

――そんなことを、願っても、いいんだろうか……。

けれどまだ、テアにも逃げ道は必要だった。

――でも、それも、いつまで……。

テアは服の上からそっと、鎖骨の辺りをなぞる。

まだ彼の熱がそこに、残っているような気がして。

眩暈さえ、覚えるようだった。

「あつい……、」

呟いて、テアは頭上に輝く太陽を見上げる。

そのせいだ、とテアは思った。

熱くてたまらないのは、太陽のせいだ。

思いながら、彼女の手は胸元で、まるでその熱を閉じ込めておくかのように握られていた――。




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