8「そして滅びの場所へと走り出した」
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異常な空間から昼間の陽光の下に出ると、戻ってきたと云うより、むしろ世界の見え方が変容してしまったことを殊更に意識させられる。もう、戻れはしないのだろうか……。
塀に凭れる俺と彩華。摩訶子はすぐ近くにあった公衆電話から通報を入れてくれた。これでようやく警察が介入する。事件が明るみになる。兎にも角にも、暗れ塞がれていた時が終わりを告げるのは確かだった。
もちろん、これから控えている面倒事は想像もつかないほどに多い。自分の体験を他人にどう説明したものか、今は俺自身でさえまったく整理がついていなくて、いっそ途方もなく感じられる。
だが、危険は去った。去ったのだ。もう誰も殺されない。秩序はゆっくりとでも回復されていくだろう。時が経てば傷は癒える。そう信じたい。
警察を待つ間、彩華がぽつりぽつりと、自分の身にあったことを話してくれた。
「彩華たちが〈つがいの館〉に着いたのは、摩訶子さんに次いで二番目だったと思います……。お父様とお母様は林基さん達に挨拶してましたけど、彩華だけはかしこさんに頼んで、先に客室へ案内していただきました……。かしこさんが紅茶をくれて、彩華はそれを飲んだのですが、すると強い眠気がして……目を覚ますと、ガレージに入れられた車……かしこさんの車の中にいました。後ろの席です……手足をテープで拘束されて、猿轡を嵌められていました。それに、大事な仮面を取られてしまっていて……」
「一方、館では紅代がその仮面をつけて髪を切って洋服も貴女のものを着て、〈入れ替わり〉を遂げていたわけですね」
摩訶子が頷きながら述べた。
「私は条拝由木胎駅から、母上の車に乗って館へ行きました。その際、例によってトランクには紅代が隠れていたのでしょう。そして母上の手引きでこっそり館に這入ると、貴女が来るまで待機していたのだと思われます」
「ということは、」遅まきながら気付く。「彩華が俺と顔を合わせたのは、今日こそ五年振りなのか?」
「そうで御座います、お兄様……」俯いたまま、首肯する彩華。
つまり館にて俺が彩華だと思って接していた相手は、はじめから紅代だった。〈入れ替わりトリック〉とはそういうものだけれど、いざ実際にやられると、騙されていた側の混乱は只事ではない。何ともむず痒い感じだ。
しかし振り返ってみれば、たしかにあの〈彩華〉は振る舞いが怪しかった……スケッチブックに書かれる内容に何度、ドキリとさせられたことだろう……。
「拘束されたその日は、夜にかしこさんが来て、食事を与えてくれました……それから毛布も。ですが翌日はずっとひとりで……寒くて、お腹が空いて、つらかったです……。その次の日は、夕方になるころだったでしょうか……かしこさんが来て、彩華は彩華の家の車に移されました……かしこさんが車のキーを持っていたんです。後ろの席の、足元にある隙間に押し込まれて……」
「茶花くんを麓まで送るため、車を使うことになったからですね」と摩訶子が補足する。
「たぶんそうです……三十分くらい経って、別の車が発進する音が聞こえましたから……」
「車のキーについても、持ち出すのは容易だったでしょう。そのころには未春も木葉も死んでいました。ところで――話を脱線させてしまい恐縮ですが――貴女は事件についてどのくらい知っているのですか?」
「大体のことなら、紅代さんに教えられました……この家でです。彩華はこの五日間、此処に監禁されていたんです……。車を移されたのと同じ日の夜に、またかしこさんと、それから紅代さんが来て……彩華と紅代さんの二人で、かしこさんの車のトランクに入ることになりました。狭かったです……トランクには藁とかクッションが敷き詰められていて……そのすぐ後に、車が走り出しました……」
「母上が私を麓へ送ったときでしょうね」
「紅代さんに刃物で脅されてましたから……わざと声を出したり、物音を立てたりすることはできなかったんです……。それでも頭や身体が何度もぶつかって、痛かった……呼吸は、紅代さんが酸素ボンベをたくさん持ち込んでいました……。車が停まってから長く待たされて、かしこさんがトランクを開けてくださると、条拝由木胎の駅でした……。かしこさんと紅代さんは郵便局がどうとか話していて……それから私は紅代さんに連れられて、電車に乗って……香逗駅で降りると、そのままこの家まで……」
事件について不透明だった部分が、以上でだいぶ明らかとなった。ただ俺にはひとつ気になる点があったので、これは摩訶子に訊ねてみる。
「彩華も紅代も、俺らと同じ日に館を出ていたんだな。でもその翌日には、本物にせよ偽物にせよ、まだ彩華が館にいたという話じゃなかったか?」
「いいや、それは母上の証言に過ぎなかったよ。すなわち偽証だ。他の者の認識においては、彩華は私による一度目の〈解決編〉以降、部屋にこもりきりだったと云う。姿を確認していなかったと捉えていいだろう」
そうだった……俺はまだまだ頭がこんがらがっている。
そのとき、俺らの前に一台の車が停まった。警察が来たのかと思ったが――違う。普通の自家用車だ。何だろうと思って見ていると――
運転席が開いて、現れたその姿に、反射的に声が洩れた。
「えっ、覇唐――眞一郎?」
写真でしか見たことがなかった――しかも往時よりも随分と痩せ細り、仙人のようだった長い白髪も短く刈られて、顔色も著しく悪かった――にも拘わらず、そうと分かった。
入院しているはずじゃなかったか? 格好は明らかに病衣だ。でも自分で運転して来た――のか? どうして? なぜこんなところに、もはや伝説と化している名探偵が?
「吾輩はこう云うべきらしい。『やっと読んだところまで追いついた』」
木の杖を突きながらこちらに歩み寄ってくる老探偵は、しゃがれた声でそう述べた。
俺の隣では、摩訶子も目を丸くしている。彼女がここまで驚いているのは初めてかも知れない――いや、間違いなく初めてだ。「覇唐――さん?」と云う声にまで動揺が表れているではないか。
覇唐眞一郎は、それらすべてを飲み込むかのように、ゆっくりと首を縦に振った。
「警察を待っておるのだろう? それはいかんよ。今すぐ車に乗ってもらいたい。事によると既に、山野部家は壊滅しているかも知れぬ」
遠くから、サイレンの音が聞こえていた。
【止の章:選択するペルセウス】終。




