7(2)「エチオピアの海岸にて選択の刻」
紅代の咳払いが聞こえた。続いて「――はい。どうぞぉ、お兄ちゃん――」ごろんごろんと、沙夜の首が転がってきた。俺は後ろに飛び退き、床に尻をついた格好で、紅代を見上げた。返り血で真っ赤に染まってなお、へらへらと、へらへらと、笑い続けている少女。
「どうしてこんなことをするんだよ!」
自分の大声に自分で驚いた。俺は動転している。今にも気が狂いそうだ。
「はぁ?」紅代は爆笑を我慢しているような顔。「決まってるじゃないですか。お兄ちゃんを愛してるんですよ。骨の髄まで愛してるんです。ふへっ、へへへへヘ……」
ゆらゆらと揺れながら笑う彼女だったが、両手をパンと打ち鳴らすと、仕切り直すように「さて、」と云った。血だらけの部屋はもう惨憺たる有様なのに。
「ようやく閑話休題ですよ。アンドロメダ、ケートス、ペルセウス、メドゥーサの首が揃いました。摩訶子探偵は見てるだけなら許可しますけど、くれぐれも口出しはしないでくださいね。貴女は本来なら登場しない第三者なんですから」
彼女は鋏をぷらぷらさせて、〈岩〉に縛られた彩華の真横まで移動する。彩華は依然として顔を伏せているけれど、その身体は小さく震え、スカートは失禁によって濡れていた。
「ほら彩華ちゃん、何か喋ってくださいよ。『助けてください』って、大好きな茶花お兄様に云ってくださいよ。ほらほら、『助けてください』って」
頬を鋏でぺしぺしと叩かれて、彩華はそのとおり声を発する。「助けてください……」
「はい、よくできました。聞きましたかぁ、お兄ちゃん。この子は普通に喋れたんです。嘘ついてたのは小賢しいアピールですよ。私はこんなに弱くて可哀想だから、お兄様は私のことだけ見てーって。お兄ちゃんの良心とか責任感に付け込んで、お顔が台無しになった自分を捨てさせないように必死だったんですよ、このクソ餓鬼は」
それとも――と云って紅代は、彩華の前髪を鋏で持ち上げる。爛れた目元から頬へと涙が伝っていた。隠し続けてきたその相貌……恐怖や羞恥でしわくちゃになった表情……。
「顔を焼いたのも、お兄ちゃんの気を惹くための衝動的な行動だったのかも知れませんねぇ。本当にずるい女。好きな人を独り占めしたくて、同情を引き続けて、自分だけ気持ち良くなってたなんて。お兄ちゃん、こいつの本性を知っても同じように接せられますぅ?」
「もう……やめてくれ」
俺は紅代を仰ぎ見ていた。此処に来るまでに漠然と抱いていた考えのすべては、生ぬるい希望的観測でしかなかった。紅代は憎いのだ。きっと世界そのものが憎くて、その矛先は理不尽に、どこへでも、破滅的なかたちで向けられてしまうのだ。
「貴女は――」と摩訶子が口を開きかけたが、
「喋るなって云っただろうが! 頭に虫湧いてんのかよ!」
罵声によって遮られる。彩華がひくっとしゃくり上げる。圧倒的な暴虐。この空間では誰も彼女に逆らえない。そして支配者は、さぞ愉快そうに俺を見下ろす。
「さあ、選択の時ですよ、お兄ちゃん。貴方はどちらを選びますか?」
…………何の話だ? 俺は呆けてしまって、応えられない。
「ボクはアンドロメダ型神話が嫌いです。お姫様が助けられるのは当然ですか? 怪物が倒されるのは当然ですか? 皆がそう考えてるじゃありませんか。勇者は、怪物のことを少しも気に掛けてくれないんですか? ポセイドンによってつくられ、エチオピア人の王国を崩壊させるために送り込まれたケートス――これは完全な悪者で、文句なしに滅ぼされるべき害悪なんですか? ボクはねぇ、本当に可哀想なのは、本当に救われるべきはこの海獣の方なんだって、そう思うんですよ」
なぜだか、その話し方にふと、メランコリックな気配が感じられた。
彼女は何を訴えようとしている? 意味なんてなくて、言葉で遊んでいるだけか?
「本物の神話を始めましょうよ、お兄ちゃん。今宵は兄と妹が結ばれる聖なる夜。彩華かボクか。貴方はどちらの妹と結ばれたいですか? アンドロメダかケートスか、真に救うべき方を選んでください」
「俺が…………選ぶ?」
「そうです。貴方が選ぶんです。この神話は貴方が主役なんですから」
口元こそ普段どおりに笑っているけれど……目が、笑っていない。まさか彼女は、本当に、真剣なんじゃないのか……はじめて真剣な顔を、見せているんじゃないかと、気付く。
これが、目的だったのか? 俺をこの場に呼び出したときから? あの暗号を残したときから? それとも、ツグミ高校のプラネタリウムで出逢ったときから?
唾を飲み込む。喉がズキリと痛む。声を発するのが恐くて堪らない。
「選んで……どうなるんだ。選ばれなかった方は……」
「知ってるでしょ? ボクらの結末は二つにひとつですよ。助けられて貴方と結ばれるか、石にされて海に沈むかです。何のためのメドゥーサの首だと思ってるんですか」
すぐ傍に転がっている沙夜の生首を意識して、俺はまた硬直する。
「いいですか、お兄ちゃん」
紅代は鋏を捨てた。その刃が真っ直ぐ、床に刺さって突き立った。
「取ってつけたような理由はやめてくださいね。ちゃんと自分の胸に訊いてくださいね。虚栄も嘘も欺瞞も必要ありません。自分の生を生きてくださいね。借り物の台詞で空っぽの気持ちを埋め合わせるのはなしですよ。貴方の本当を見せてくださいね」
どれも、彼女の口からこれまでに聞いた言葉だった。彼女と出逢ってからの約二ヵ月間が、脳内を閃光のように駆け巡る。様々な場所、様々な表情、様々な会話……。
掴みどころがない、本心が分からない彼女にずっと困らされてきたが、しかしそれこそ、本当に大事なことだけは、彼女は最初から一貫して、語り続けていたのか……?
彩華を見る。彼女は嗚咽を洩らしながらも、俺のことを見詰めていた。ひどく震えていて、上の歯と下の歯がガチガチと音を鳴らしている。充血した両目。歎願するような表情。苦しいだろうに、つらいだろうに、見られるのを拒み続けてきた素顔を晒してまで……。
摩訶子を見る。彼女は唇をぎゅっと引き結んで、真っ直ぐ紅代だけを見据えていた。俺の視線には気付いているだろうが、目を合わせようとはしない。彼女は干渉を禁じられているから……。
俺だ。俺なのだ。俺が選択しなければならないのだ。それが役割なのだ。
だが、どちらを選ぶかなんて……決まっているじゃないか…………。
「夕希――」とあえてその名前で呼ぶ。「――お前を選べるはずがないだろ」
こんなことをやっておいて、俺がお前を選ぶかも知れないと、本気で思っていたのか?
迷う以前の問題だ。そもそも設問からしてあり得ない。お前を選ぶ余地がどこにある?
大量殺人犯だぞ? どんな事情があったって、容認できる段階はとうに過ぎている。
正気の沙汰じゃない。完全に破綻を来した思考だ、そんなものは。
「それが貴方の本当なんですか、山野部茶花」
紅代は――その顔から、表情というものが消え去っていた。
「常識とか倫理とかで、くだらない判断をしてるんじゃないでしょうね。云っておきますけど、何も気にしなくていいんですよ。ボクを選べば彩華は死にますし、摩訶子探偵だって殺せるんです。殺さずに見逃すのも可能です。この後のことだって心配ありません。薊沙夜が犯人だっていう偽の証拠を用意してあります。そもそもボクは社会的に存在していません。ボクにも貴方にも嫌疑は掛からないんです」
「それでも――」
「しがらみから解放されるんですよ。貴方を縛る無数の鎖を、ボクだけが断ち切ってあげられるんですよ。そのために全部を整えてあげたんですよ。此処が貴方の分岐点なんですよ。偽物に甘んじるか本物を手に入れるか。誤った選択には取り返しがつかないんですよ」
「それでも――俺がお前を選ぶことはないよ、紅代」
「あっそう。じゃあ一生そうしてろ」
彼女はふらりと背中を向けて、
床に開いた穴へと飛び込んだ。
制止のしようもない、一瞬の出来事だった。
摩訶子が駆け出す。躊躇なく、血の海の中を進んで行く。
俺は遅れて、しかし立ち上がることができず、穴のふちまで這って行く。
覗き込んでみれば、真下に――其処は風呂ではなかったけれど――大きな浴槽が置いてあり、粘り気の強い泥のようなものの中から、手や足だけが外にはみ出て、蠢いていた。
「固まる前のコンクリートだ」摩訶子が云う。「もう間に合わない」
それを聞いた刹那、俺の心の奥で、何かが壊れた気がした。
ほどなくして、手も足も沈みきる。海獣は石になる。神話と同じように……。
呆気ない――幕切れだった。安堵を覚えようにも、まだ認識が追いつかない。
血のにおいが満ちた室内に、彩華のすすり泣く声だけが響いている。
頭が真っ白だった。嵐が過ぎ去り、後には何も残らなかったかのような感慨。
空白の意識で、自分でもわけが分からないまま、彩華の方へ這い寄って行く。鎖を外すために、それがどんなふうに巻かれているのか観察する。事務的な仕事をこなすような、奇妙な心地のみがある。
「お兄様……彩華を選んで、くださったのですね……ありがとう御座います……ありがとう御座います……信じておりました……」
その言葉を聞きながら、俺はゾクリと、身の毛がよだつ思いがした。
俺は本当に、彩華を選んだのか……?
紅代を選ばなかっただけじゃなくて……?
見上げれば、彩華は喜びの涙で火傷痕を濡らしていた。




