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探偵・渦目摩訶子は明鏡止水  作者: 凛野冥
【止の章:選択するペルセウス】
38/48

7(1)「意味のある死を死ぬということ」

    7


 紅代がどんな行動に出るかは未知数だと摩訶子は云った。なぜなら本物の薊夕希を殺害していた以上、彼女のアリバイ工作はいずれ崩れるのが確定しており、さらにジェントル澄神を使って俺らを導きさえしたということは、それははじめから暴かれるのを前提とした、いわば時間稼ぎの謎でしかなく、彼女はほとんど捨て身であると考えられるからだと。

 そうまでして整えた舞台で、彼女がやろうとしていることは何だろう?

 アンドロメダを巡る神話の再現? いくら彼女が星座好きとはいえ、それだけのために身を滅ぼそうとするだろうか? 山野部家への復讐? だが復讐すべき最大の対象――自分を捨てた父・山野部木葉は死亡した。下手な真似をしなければ、自分が犯人と割れることなく、事件を終わらせることもできた。共犯者だったかしこの目論見が別だったとしても、この状況は、復讐だけでは説明がつかないように思う。

 ならば彼女は、俺に何を望んでいる?

 探偵助手。セト。ペルセウス。皆が俺に様々な役割を担わせる。しかし俺が満足に全うできたそれは未だ存在しない。俺は俺の役割をどこに見出すべきなのだ?

 数々の疑問は融け合ったり反発し合ったりしながら旋回を続け、ひとつとして解消されない。俺はひたすらもてあそばれる道化。そうして、紅代が指定した空き家に到着してしまう。

 住宅地の中に佇む、少し古ぼけた二階建ての家だった。表札は取り除かれ、窓にはカーテンも掛かっておらず、庭では雑草が生い茂り、おそらく人の気配は絶えて久しい。

 腕時計を見れば、午後二時に差し掛かるところ。晴れていた空がにわかに曇り始め、今にも雨を降らしそうだ。十二月二十四日。〈聖なる夜〉を待ち、息を潜めている世界。

「申し訳ないが、私に挌闘の心得はない。そうならないよう努力するが、いざ力尽くの解決が必要となれば、君を頼りにさせてもらうよ」

「ああ、分かってる。摩訶子を危険な目には遭わせないよ」

 俺だって喧嘩はからきしだけれど、彼女の身にまで何かあったら、もう自分を許せそうにない。俺の無知が、俺の愚鈍が、事件をここまで進行させてしまった面は確かにあると思うのだ。役割が分からずとも、責任の所在くらい感じられる。

 表門を抜けて玄関まで進み、扉を開いた。錠は掛かっていない。紅代はどこかの窓を割るか何かして侵入したのだろうか。家具もない、電気も点いていない、ひやりとした内部。廊下が先へと伸びていて、突き当たりに階段の入口が見える。左右にいくつかある扉は洩れなくカラフルな色――紅代が七つの大罪と対応させたそれらだ――のテープで封じられており、壁には何枚か、案内を書いた画用紙が貼ってあった。

『エチオピアの海岸はあちら』という文字と、すべて階段の方を指す矢印。

 靴を脱ぐ必要はないだろう。また震え出しそうになる脚を強く叩いてから、俺は案内に沿って行く。後ろに摩訶子がついてくれているのが支えだ。わずかにピシ……ピシ……と音が鳴る階段を上がり、二階へ。

 廊下が垂直に横切っていたが、這入るべきはすぐ正面の扉だった。

『エチオピアの海岸はこちら』――高まる緊張感。耳障りな鼓動。

 一度、振り返る。摩訶子と目が合い、頷き合う。覚悟を決めて、俺は扉を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、想像もしなかった珍妙な光景だった。

「ようこそぉ、茶花先輩と摩訶子探偵」

 其処は窓がない、立方体の部屋だった。天井がところどころ剥がされて、露わとなったはりから複数のランプが吊り下がっている。仄かな明かりに満たされた室内。三メートルほど間をおいた正面には、左に紅代が立っており、右には彩華が、固められた巨大な粘土の塊に鎖で縛り付けられていた。二人のさらに奥は、フローリングの床に半径一メートルほどの穴――此処からでは角度的に階下を臨めないけれど、抜けているのは明らかである。

「あ。そうそう、茶花先輩のことは、今こそこう呼ぶべきですねぇ――お兄ちゃん」

 はさみの輪に指を通して、くるんくるんと回している紅代。その気になればすぐにでも隣の彩華を突き刺せるだろう。俺は充分に警戒しつつ――息が詰まりそうだ――部屋に一歩だけ足を踏み入れる。摩訶子も続いて、俺の隣に並ぶ。二対二で対峙する格好となる。

 彩華は、顔を伏せて小さく震えていた。嗚呼……マスクを奪われ、火傷痕が晒されているのだ。きっとそれを見られたくないのだろう。口は塞がれていないものの、言葉を発しようとする様子もない。しかし電話越しのあの声……発声障害は心因性のものだった……脅されて、無理矢理に絞り出したのか?

「お前の目的は、何なんだ」

「え? 見たら分かりません?」きょとんとする紅代。「摩訶子探偵はどうです?」

 問われた摩訶子は「神話の再現でしょう」と短く応えた。

「正解ですぅ。でもお兄ちゃん、メドゥーサの首を持ってませんね?」

 本物の薊夕希の首。一瞬だけ見た。鬼気迫る形相だった。血が抜けきって、ほとんど紫色をしていた。半斗缶の中で腐敗を始めていた。吐き気と、眩暈めまいが、平衡感覚を狂わす。

「……当たり前だろ」

「いけませんねぇ。ボクの犯罪を裏付ける証拠の生首、これすなわち海獣を打倒し得るメドゥーサの首ですのに」

 紅代はへらへら笑うと、不意に――「おーーい!」――呼び掛けた。

 直後、廊下の方から、どこかの扉が開け放たれる音が響く。そしてゴロゴロゴロゴロと音を立てながら、何かがこちらに近づいてくる。振り向けば、其処に現れたのは沙夜だった。大きな家具のようなものを転がしているから何かと思ったが――正体が分かって愕然とする。目を疑う――どうしてこんなものが!

 ギロチンなのだ。おそらくは手製。縦に長い鳥居みたいな形で木の柱が組まれ、縦の二柱に挟まれた上部に妖しく鈍色に輝く刃がある。底部にはキャスターが付いており、本体を斜めに傾けることで移動させられるらしいが――構造なんてどうだっていい。どうして、どうしてこんなものがある。前時代の処刑道具だぞ、これは。

「はいはい、通してねー」

 軽い調子で云いながら、沙夜は俺と摩訶子の間を抜けて、部屋の中までギロチンを引っ張ってくる。「用意しといて正解でしたよぉ」なんて唄っている紅代の左隣まで進むと、ギロチンは縦にされて置かれた。天井まで届きそうな高さだけれど、かの高名な断頭台にしてはミニチュア的なサイズ感か。ああ、馬鹿げている。こんな悪趣味……。

「何をするつもりだ……」畜生。声が震えているじゃないか。

 紅代は「メドゥーサの首を新たに都合するんですよ」と答えて沙夜の背後に回り、持っていた鋏で彼女の髪をジョキジョキと切り始める。「仕方ないでしょ? お兄ちゃんが夕希ちゃんの首を忘れて来ちゃったんですから。駄目ですねぇ本当に」

 聞きたくもない、理解したくもないことを、聞いて理解してしまう。人間の思考力や想像力が恨めしくて堪らない。首に掛からないよう切られていく沙夜の髪――つまりギロチンの刃は沙夜の首を斬り落とすのだ。これから、此処で。俺らの目の前で。

「やめろ馬鹿っ!」足を踏み出したところで――「すとーっぷ!」――紅代は鋏の先を彩華の方へ向ける。俺は喉が干上がって――それ以上は進むことができない。

「えへ」首を傾げて、薄ら笑いを浮かべる紅代。「黙って見ててくださいよ、お兄ちゃん。貴方の偽善のせいで、薊沙夜は死ぬんです。だから偽物は駄目だって云ったじゃありませんか。ボクにはねぇ、通用ねぇ、しないんですよ」

 ぞくぞくぞくと悪寒が駆け抜ける。冷や汗。動悸どうき。焦り。それから――不信。

 本当に……? 本当に、俺が想像したようなことが、行われるのか……?

「なぜですか」

 摩訶子が問い掛けた。彼女は冷静に見える――が、その手が制服のスカートを握り締めている。駄目だ。為すすべがない。摩訶子がいくら優秀でも、相手は話が通じないのだから。

「沙夜さん、貴女がなぜこれらすべてを受け入れているのか、それは貴女の意思なのか、今一度よく考えてください。お願いします」

 そうだ……紅代じゃなくて沙夜に交渉する手があった。摩訶子の云うとおりだ。こんなの絶対におかしい。実の妹をバラバラに解体して、自らも首を切断されようだなんて、それじゃあ完全に紅代の傀儡かいらい……操り人形じゃないか。彼女の意思はどこにあるんだ。

 しかし、沙夜は摩訶子の言葉にわずかも動じない。髪を短く切られ終えると、頭を一度だけ軽く振った。ズボンの後ろポケットからウィスキーの小瓶を手に取って、

「君たちはさー、自分がいつか意味のある死を死ねると思ってる?」

 これまでとまったく変わらない調子で、そう訊ねてきた。

「それが正しいか正しくないかはさておき、生きている意味ってやつを見つけてる人は多いんだよ。でも人間ってのは必ず死ぬからね。そのとき、生きている意味や生きてきた意味は一切が無効化されるんだ。気付いてないのかなーみんな。大事なのは死そのものに意味があるかどうかなんだよ。死と誕生は裏と表だから、産まれてきた意味もまた死の意味によって決まるのね。終わり良ければすべて良いし、終わり悪ければすべて悪い。簡単なことなんだけどなー。あたしはそれに気付いちゃったからさー」

 彼女はそこで小瓶の蓋を開けた。ウィスキーをあおると、話を再開した。

「あたしがミステリを愛してる理由なんだけど、ミステリの被害者って全員が意味のある死を死んでるんだよね。だってその死を巡って謎があって解答があって、ドラマが展開して、作品のテーマや世の真理なんかも織り交ぜられて、幾重いくえにも意味が付与されていくんだもん。君たち、そういう視点でミステリを読んだことある? あれは探偵のものでも犯人のものでもないんだよ。作品自体が、ひとえに被害者のためのひつぎなんだよ。観念的な領域まで飲み込んでさ、それが傑作であればあるほど、無限にして続く意味ある死なの」

 赤らんだ顔。ふところから取り出した煙草に火を点けて、吸い込み吐き出される煙。

「だけど推理小説なんて虚構。絵空事と笑い飛ばされるだけ。現実ではそんな死は望めない――はずだった。それを変えたのが山野部森蔵だよ。山野部森蔵はこの現実の中から推理小説を描き出してくれる。そこでは意味のある死が死なれる。だからあたしは今、幸せなんだ。ミステリの死を死ねる。あたしの死は特権化されて、この作品の中であたしの存在は永続化される。分かってもらえたかな。そういうわけで、頼んだよ、茶花く――」

「おい」紅代が、沙夜を下から覗き込んだ。「いつまで喋ってんだよ」

 沙夜はフッと笑って、煙草をウィスキーの小瓶の中に入れた。それを元のポケットに仕舞うと、ギロチンの後ろに回り込む。首を通すための穴がある板は、片側の接続部を支点として、上半分を開くことができた。

 そうやって半円形の窪みとなった箇所に、沙夜は俯せになって首を乗せる。紅代が板の上半分を閉じて、もう片側の接続部についた金具を留める。これで穴から首を抜くことはできない。紅代は傍らに立ち、垂れている縄を両手で掴む。

 俺は「やめてくれ」と云うばかり。「やめてくれ。頼む」祈るばかり。まだ心のどこかで信じている。そんな酷いことが行われるはずないと。〈夕希〉のいつもの冗談に過ぎないと。摩訶子は黙している。何も云ってくれない。何も云えない、のか? もはや手の打ちようがない、のか?

 沙夜が俺を見上げた。うっとりと満ち足りた表情。静かなる幸福の極みを湛えて。

「頼んだよ、茶花くん。『渦目摩訶子は明鏡止水』を完成させてね。この事件が推理小説となることで、この死は意味のある死になる。あたしがずっと憧れてい――ぅげ!」

 縄が引かれ、刃が落とされた。飛び散る鮮血。だが首の途中で止まってしまい、完全な切断まで至らない。沙夜はまだ生きている。「ぐぇげげエ・エエ・エエエエ」びちゃびちゃと口から惜しげなく吐き出される血。黒目がぐるんと上を向く。浮き出た無数の血管。真っ赤に紅潮した顔面。「エエエエ・げ、ぅぐエエ・エ」全身が激しく痙攣し、ギロチンがガタガタと揺れている。俺は目を逸らせない。指一本動かせない。

「あーもう、さっさと死ねよ面倒くさいな」

 紅代は刃の上に片足を乗せて、体重を掛けた。刃がミシミシと下がり、勢い良く血が噴き出し――その中でついに――ごろん、と――切断された沙夜の首が床に転がった。

 自分の口からどっと酸素が吐き出されて、俺は真下へ俯くと同時、膝をついていた。

 苦しい。息が固形になったかのよう。床を広がる大量の血が、すぐに俺のところまで流れてくる。つい先刻まで人間の体内を巡っていたその温かさが、柔らかいランプの明かりに照らされて、あり得ないくらい美しく映えて、これ以上なく気持ち悪い。吐きそう、吐きそう、頭が熱い、眼球が痛い。

 こんなの嘘だ。こんなの現実なはずがない。こんなの、こんなの、こんなの。

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