6「やっと見つけてくれましたね」
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ジェントル澄神が俺に案内させてやって来たのは、屋上に藍色の落書きが為されたアパート――〈マクベス横田〉だった。
建物の中には這入らず敷地内を見て回り、やがて彼が足を止めたのは、駐車場にある花壇の前だった。
「最近に掘られて再び土を被せられた痕があります。ほら、周囲と色が違うでしょう?」
「ああ……本当ですね」
咲き誇っているノースポールやパンジーに半ば隠れているものの、云われてみればそうと分かる。一昨日に沙夜と二人で来たときには気付かなかったが……。
「渦目さんが発見した〈つがいの館〉の盗聴器に似ていますよ。探すものを分かって探さなければ、まず見つけることができない。しかし分かって探せばこのとおりです」
セカンドバッグからビニールの手袋を取り出して両手に嵌めると、その箇所を掘り返し始めるジェントル澄神。間もなくして、銀色の天板が露出した。
土の下に埋められていたそれは、半斗缶だった。
「さながらパンドラの箱でしょうかね。いいですか――開けますよ」
俺と摩訶子が覗き込むなか、固く閉じられていた蓋が取り払われる。
そして中身と、目が合った。
「うっ……」危うく転倒しかけて――後ろに一歩退くことで持ち堪える。
猛烈な臭気が肺まで侵入し、吐き気が一気に喉までこみ上げる。
咄嗟にそれを飲み下すと、不可抗力な涙で視界が滲む。
「これがメデューサ――本物の薊夕希の首です。彼女は既に、殺害されていました」
ジェントル澄神は缶の中を凝視しながら、調子を変えずに告げた。
俺は――駄目だ――脳が凄まじく、理解を拒絶している。
なのに、懇切丁寧な解説が始められてしまう。
「バイオレント紅代と薊夕希は別人。そうと分かって例の暗号を読んでみれば、二人の表記は〈ボク〉と〈薊夕希〉できちんと区別されていると分かりますよ。ご親切に左右それぞれ行まで空けて、真ん中の部分が薊夕希に関する内容です。
『薊夕希は大罪と同じだけ切り分けられたのです。右腕は黄色の強欲。右脚は赤色の憤怒。首は藍色の嫉妬。胸は紫色の色欲。腹は桃色の暴食。左腕は緑色の傲慢。左脚は青色の怠惰』――これは真実そのまま、薊夕希の身体の各部が、どの色で落書きが為されたアパートに隠されているのかを教えていますね。
そして、中でも特に重要なのが此処〈マクベス横田〉だと、次の文章は示しています――『嫉妬の蛇が髪となった首こそメデューサの首です』。なるほど、七つの大罪にはそれぞれ対応する動物がいくつかいまして、嫉妬には蛇が充てられていますからね。ギリシア神話に登場する怪物メデューサの髪が、無数の毒蛇になっているのはご存知でしょう? 紅代は七つの大罪それぞれに対応する色を設定することで、薊夕希の首とメデューサの首とを結んでみせたというわけですよ」
「しかし、」と摩訶子が口を開く。少し顔をしかめてはいるものの、視線は缶の中を直視している。此処に来るまでで、中身には見当がついていたのかも知れない。
「高校の出席記録から、薊夕希が殺されたのは一昨日の下校後となります。殺害だけならともかく、紅代では死体を七つに切り分けて各アパートに隠す時間はなかったでしょう。したがって、その作業は沙夜が請け負った可能性が大きい。沙夜は妹の死を受け入れてまで、紅代に協力していることになります」
「もちろんですよ。書き置きにおける筆跡の問題もありますからね。薊沙夜はすべて承知のうえであり、僕の考えでは、薊夕希を殺したのも彼女です。山野部くんと別れて帰宅したところで、下校して家にいた妹を手に掛けたんですね。ええ、ですから山野部くんが彼女と二人で此処に来たときには、まだ首は隠されていなかった。見つけられなかったのも当然でした」
俺は「そんな……」と呟いていた。沙夜さん……良い人だと思っていたのに……。
何もかもがそうだ……。俺の認識はすべて幻想……砂上の楼閣に過ぎなかった……。
「さて、メドゥーサ退治が済んだことで、次のステージへ進むのを許されたみたいですよ。見てください、これはおそらく電話番号です。やけに縁起が悪い数字の並びですが」
ジェントル澄神が示したのは、蓋の裏側だった。鋭利なもので傷つけたようにして、十桁の番号が刻まれている。彼はポケットから携帯電話を取り出すとその番号をプッシュし、俺に差し出した。
「貴方の仕事でしょう」
皆が聞けるようにスピーカーからプルルルルルと呼び出し音を発しているそれを、俺は渋々と受け取る。通話が開始されたのはその直後であった。
『茶花お兄様……ですか?』
俺は考えるよりも先に――「彩華っ!」――応えていた。それから思考が混乱を爆発させる――彩華は話せないんだぞ? この電話相手は一体――
『茶花お兄様っ……た、助けてくださいっ……。彩華は、捕まってしまいましたっ……ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……』
何と云ったら良いのか分からない。俺の方こそ、声の出し方を忘れてしまったのか。
懐かしい声だ。もう五年も聞いていない、彩華の声が、俺の鼓膜を、震わせている。
『きゃっ――』小さな叫びが響くと――『はい、どうもぉ』――相手が代わった。
「ゆう……いや、紅代……どういうことだ」辛うじて、それだけ云える。「今のは……」
『彩華ちゃんですよぉ。この子ってば悪い子でねぇ、喋れないとか嘘だったんです。えへへ。ちなみにこの番号ですけどぉ、えへへへ、公衆電話の番号ってちょーっと頭を使えば簡単に分かるもんですね。でもどうでしょう、澄神の力を借りないとメドゥーサの首も見つけられないような茶花先輩と摩訶子探偵には、難しいですかぁ?』
「僕を呼び捨てにしますか」とジェントル澄神が割り込んだ。
『うるせぇよ、引っ込んでろボケ。お前の役割は終わりだクソ』
打って変わって直球の暴言を吐く紅代。聞いた主人は苦笑を浮かべる。
『そいつを連れてこないでくださいね。茶花先輩ひとりで来てくださいね。まあ摩訶子探偵ならいてもいいですけど、他に余計なことしたら、こっちには人質がいるってこと忘れないでくださいね』
えへへへへへへ、と神経を逆撫でする笑い声が続く。
『住所は香逗町宮樫一四〇番地の九、香逗町宮樫一四〇番地の九です。一戸建ての空き家がありますんで、玄関からお這入りください。できれば夜になってからが良いんですが、聞かないでしょうねぇ。じゃあ楽しみに待ってます。ほら彩華ちゃん、貴女も何か云っておくことありますか?』『あっ、茶花おにい――』『終了ぉ。ではでは後ほどぉ』
通話が切られた。俺は身体に力が入らなくて、今にも崩れてしまいそうだった。
「何をするつもりなんだ、あいつ……」
怯えか、怒りか。全身の震えが止まらない。吐いた息が真っ白になる寒さなのに、頭が熱く火照って、血が足らないような心地がする。
「例の暗号は空行によって三つの部分に分かれていました」燐寸を擦り、パイプに詰めた葉に火を点けるジェントル澄神。「主たる内容は、第一部がくじら座のパズルについて、第二部がバラバラ死体の隠し場所について、そして第三部がまさにこれから、山野部くんを待ち受けているんでしょうね」
「『ペルセウスはメドゥーサの首を持って、アンドロメダを救いに来るでしょうか。兄と妹が結ばれる聖なる夜に待っています』」
摩訶子が暗唱した。こめかみに人差し指を当てて、真剣な面持ちだ。
「神話の見立てですか。人質である彩華がアンドロメダで、それを襲おうとする紅代がケートス。救いに駆けつける茶花くんはペルセウス」
俺は唇を噛む。血の味がする。つくづく人を食ったような真似ばかり……。
ジェントル澄神がパイプの先で、ひどい腐臭を放ち続ける半斗缶を指し示した。
「メドゥーサの首は持って行きますか? 紅代はそれを望んでいるみたいですが?」
「そんなっ……あり得ません」生首が入った缶を抱えて歩くなど……。
「でしょうね」爽やかに笑う美男の探偵。「では貴方たちは今すぐにでも指定された場所へ向かうと良い。僕はこれから警察へ通報して、薊夕希のバラバラ死体について話します。紅代についてはしばらく黙っておきましょう。そちらは任せますよ」
反応に窮する俺の代わりに、摩訶子が「貴方はそれでいいのですか?」と問う。
「ええ、もちろん。こうして殺人事件への関与が確定した以上、彼女を助手にしていることはできません。敵対すべき犯人でしかない。たしかに見届けられないのは残念ですが、僕が同行して彩華さんに危険が及んではいけませんので」
「分かりました」摩訶子がこちらへ振り向く。「行こうか、茶花くん。彩華を救いたいなら、他に手はなさそうだ」
そう云われてしまえば、俺は頷くしかない。他に手はない――他に手はない――その言葉で無理矢理に、すべての混乱を抑え込み、自らを納得させる。迷うな。迷うな。迷うな。
「行く――行くよ。摩訶子も、ついて来てくれるのか?」
「許可が下りたからね、無論だよ」
凛として述べるその姿に、俺は涙が零れそうになってしまう――が、堪える。俺こそが今、最もしっかりしていなければならない人間じゃないか。弱さを封じ込めるんだ。
「安心するといいですよ」
ジェントル澄神が、彼もまた頼もしい、紳士の余裕を持った態度で首を縦に振った。
「Man proposes, God disposes.――そして紅代にとって、この場合の神はきっと貴方なんです。ペルセウスが海獣を打ち倒したことを思い出してください。ご武運を祈ります」
はじめはどうにも身勝手な男のように見えたけれど、この人も確かな探偵だった。
俺は「ありがとう御座います」と礼を述べ、摩訶子と視線を交わすと、身を翻して歩き出す。歯を食いしばって、拳を強く握って、脚に力を籠めて。
今度こそ、事件に終止符を打つために。




