4「運命が扉を叩いて始まる朝」
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翌朝、俺がリビングに下りていくと摩訶子はまだソファーで眠っていた。瑞羽や圭太、それが嫌なら俺のベッドを貸しても良かったし、使っていない布団を敷こうかとも提言したのだけれど、彼女は普段からソファーで寝ているとのことだった。そうでないと脳や身体が怠けてしまうらしい。分かるような分からないような……。
彼女は何時頃に就寝したのだろう。俺が風呂から上がって自室へ行くころには、まだ考えたいことがあると云って、ソファーの上でじっとしていた。あのまま遅くまで起きていたのではないか。
ならば、ゆっくりと寝かせてあげよう。昨晩の話ではないけれど、探偵だって同じ人間。時には休息が必要なはずだから。
十時過ぎに目覚めた摩訶子は黙って洗面所へ行ったかと思えば、ほどなくして、例の探偵モードとなって戻ってきた。制服に着替え、背筋が伸び、掻き上げた前髪を白いカチューシャで留めている。こちらの目まで覚めるような美人。口元には自然な微笑み。挙動も口調も澄みきって冴え渡り、しかし――考え事とやらに上手く決着がついたわけではないらしかった。
「依然として爺上は電話に出ない。朝食を摂らせてもらったら家に帰ろうと思う。世話になったね」
「いいや、世話になってるのはむしろ俺だよ」
なにせ朝食まで摩訶子がつくった。とはいえ彼女は料理するのが好きみたいで、調理中の軽快な身のこなしは口笛でも吹きそうなくらいであった。出来上がったのは――これまた微妙に意表を衝いて――山盛りのフライドポテト。それに苺ジャムをつけて食べるのが彼女流のようだった。たしかに美味しいけれども、どことなく胡乱なセンスを感じる。
そろそろ皿の上のフライドポテトがなくなるというころ、インターホンが鳴った。
誰だろうと思ってモニターを見てみると、映っているのは見知らぬ男性。配達員という格好でもないし、何かの勧誘だろうか? もしそうなら断ればいいだけの話だから、とりあえずは『通話/終話』のボタンを押して「はい」と応答する。
男性はカメラに向かって少しだけ身を屈めた。
『山野部茶花くんですか? They are welcome that bring.――私立探偵をしています、ジェントル澄神と申します』
俺は訝しむ。つい最近聞いた名前だ。昨日の沙夜と云い、思わぬ来客が立て続けに……。
「ここで彼が出てくるか」摩訶子が傍らに並んでいた。「とにかく迎えようではないか」
戸惑いを覚えていても、彼女にそう云われれば俺に断る理由はない。少し待っていてもらうようお願いし、俺と摩訶子の二人で玄関まで行って扉を開ける。
昼の陽光と凍えるような外気、その中に立っている見上げんばかりのシルエット。
「あは。貴女もいましたか、渦目さん」
ジェントル澄神は百八十センチは越えているだろう長身で、さらに美形だった。くっきりとした目鼻立ちに爽やかな笑顔。緩いパーマをかけた黒髪は男にしては長めだけれど、むさ苦しい印象とは無縁。英国風のデザインが為された品の良いセーターを着ており、上着は羽織っていなかった。寒くないのだろうか。
「その節はどうも。ベートーヴェンがいなかったなら、かの交響曲第五番は僕が作曲していたかも知れませんね。たしかに運命はこのように扉を叩く。タタタターン」
彼は俺らが応えないうちから、素早く間を抜けて家の中に這入ってきた。靴を脱ぎっぱなしにして――俺が「ちょっと待ってください」と云ってもお構いなし――リビングの中へと進んで行ってしまう。そして室内を簡単に見回すと奥の方へ向かい、パソコンが置いてある机の周辺を何やら物色し始めた。
「どんな用事なのか説明してもらわないと困ります」と訴えても、聞く耳を持ってくれない。だが摩訶子が「何を探しているのですか」と訊ねれば「Seeing is believing.――しばしお待ちを」という短い返答。あまりにも傍若無人。どこがジェントルなんだ。
間もなくして彼は、観葉植物アイビーの鉢の中から目的の物を発見したようで、摘まんだそれを俺らへと掲げて見せた。「盗聴器です」――そう端的に告げられて、俺は口がぽかんと開く。
「さあ紅代、」盗聴器に口を近づけるジェントル澄神。「すぐにお前を見つけますよ。獅子身中の虫、僕が見逃すはずもありません――Heaven's vengeance is slow but sure.」
ハンカチを床に広げて敷き、続いて脇に抱えていたセカンドバッグから小さな鉄製のハンマーを取り出して、ハンカチの上に置いた盗聴器を一撃――破壊する。
その流れのすべてが、あまりにテキパキとしていた。
俺は現在進行形で狐に摘ままれてでもいるかのよう。展開に、ついて行けない。
「スタンドプレーは一旦やめてもらいましょう」
摩訶子は冷静だ。闖入者に翻弄されている気配はなく、同じ探偵として対峙している。
相手は、残骸と化した盗聴器を包んだハンカチとハンマーをバッグに仕舞って頷いた。
「失礼しました。是非とも急がなければならない状況ですのでね。ふむ。僕がやって来た事情を理解していただくには、これをご覧になってもらうのが手っ取り早い」
続いてバッグから取り出されたのは、原稿用紙の束。否が応でも既視感を覚えさせられるそれをこちらへ差し出し、彼はどこか憐れむように笑った。
「『渦目摩訶子は明鏡止水~バラバラにされた海獣~』――僕の家のポストに入っていた小説です。僕は行方知れずの助手・バイオレント紅代を追って此処へ来たんですよ」
この戦慄を、どう云い表せば良いのだろうか。
またしても、事件は終わっていなかったのだ。




